第4回講義


峨眉山月歌 唐 李白

漢詩を楽しむ30頁、漢詩鑑賞辞典187頁、岩波唐詩選下39頁

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2014.04.24 録音

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 峨眉山月歌  李白

峨眉山月半輪秋

影入平羌江水流

夜発清溪向三峡

思君不見下渝州


 峨眉山月がびさんげつうた   李白りはく

峨眉山月がびさんげつ 半輪はんりんあき

かげは 平羌江水へいきょうこうすいってなが

よる 清溪せいけいはっして三峡さんきょうかう

きみおもえどもえず 渝州ゆしゅうくだ


字句解釈

峨眉山    成都南西の山、高さ3099m。普賢菩薩を祀る一大仏教聖地。北方から見ると眉のように見えるという。 峨眉山写真 峨、蛾、娥、いずれも美人の眉に用いられれる。

半輪     半月。15日が満月で半月は7,8日の月。

影      川に射す月の光。

平羌江水    成都南部の川。別名青衣江。峨眉山の北を流れ、大渡河に注ぐ。大渡河は岷江びんこう(長江)に合流する。

清溪    宿場の名。大渡河と岷江の合流点から下流へ少し下がったところにある。

三峡    峡谷の名。瞿塘くとう峡、、西陵峡。 三峡写真

君     月のこと。峡谷であるために直接には月は見えない。或は友人、知人、思い人。

渝州    現在の重慶。隋の時代に渝州と名付けられた。

     

詩の鑑賞

李白は5歳のころから清蓮郷に育ち、若年にして成都において已に司馬相如に比す天才を認められた。 幼いころから多くの詩をつくったであろうが、今残っているいる詩の中でこの詩が最も若年のころの作である。
開元12年(724)、24歳の秋いよいよ成都を離れ波乱の人生行路を歩み始めることとなった。この詩はその時の作で、 大いなる希望と一抹の不安が漂う青年期の代表作であり、また、李白一生の中でも最も優れた傑作中の傑作 とされている。
詩の中に多くの固有名詞、峨眉山、平羌江、清溪、三峡、渝州、が上手に読み込まれている。峨、眉、平、羌、清、渝など 詩の内容にふさわしい文字が使われている。







早発白帝城  唐 李 白

漢詩を楽しむ32頁、漢詩鑑賞辞典189頁、岩波唐詩選下49頁


 早発白帝城  李 白

朝辞白帝彩雲間

千里江陵一日還

両岸猿声啼不住

軽舟已過万重山


 つと白帝城はくていじょうはつす  李白りはく

あしたす 白帝はくてい 彩雲さいうんかん

千里せんり江陵こうりょう 一日いちじつにしてかえ

両岸りょうがん猿声えんせい いてまざるに

軽舟けいしゅう すでぐ 万重ばんちょうやま 


字句解釈

早  朝早く。李白が白帝城から三峡を下った機会は、李白の人生中に2回あった。一度は25歳で初めて長江を下った時、 もう一度は59歳、安禄山の乱に際して蜀に流罪となり、途中許されて再度長江を下ることになった時である。
いずれの時にこの詩が出来たかについては説が分かれるが、詩の雰囲気に若さが見られることから講者は前者25歳説 を採りたい。

白帝城  四川省奉節県瞿塘くとう峡の入り口にある。漢末に公孫述が築いたとりで。 公孫述は五行説により、土徳に対して金(白)徳をとり、白帝と称した。(陰陽五行説)木火土金水、春南 西北、青赤黄白黒、青龍朱 雀白虎玄武  白帝廟写真

辞  1.ことば 2.ことわる 3.いとまごいする 4.礼をいう 5.とく(説)6.つげる(告) 7.せめる(責)  8.韻文体の一種 ここでは3.いとまごいする。

彩雲  朝焼けの雲。彩霞。

江陵  楚の国の都,郢(えい)。荊州。江陵は唐代の地名。

千里一日還  千里(500km)を一日で行くのは無理がある。白髪三千丈と同様、急流による船の速い表現。実際は3日はかかるという。 「還る」が59歳説の一つの根拠となっているが、素直に舟が帰ってきたと見てよい。

猿声  猿の鳴き声。日本の猿と違ってこのあたりの猿は悲しげに啼くという。悲しい「断腸」の故事もある。

軽舟  足の速い舟。

万重山  幾重にも重なった山々。


詩の鑑賞

この詩は、色彩感(白帝の白、彩雲の赤の対照)、躍動感(千里一日還、猿声啼不住)に溢れ、 千と一、軽と重の語句の対照が巧妙である。李白の傑作中の傑作である。







秋下荊門 李 白

岩波唐詩選下51頁

作詩の時期について諸説あるが、本詩は李白25歳長江を下った時の作として、ここに載せる。


 秋下荊門 李 白

霜落荊門江樹空

布帆無恙挂秋風

此行不為鱸魚膾

自愛名山入剡中


 あき 荊門けいもんくだる  李白りはく

しも荊門けいもんおちて 江樹こうじゅむな

布帆ふはん つつがく 秋風しゅうふう

こう 鱸魚ろぎょかいためならず

みずか名山めいざんあいして 剡中せんちゅう


字句解釈

荊門  江陵の西。長江に荊門山が荊の国を区切る門のようになっている。

江樹空  河岸の木が落葉して葉っぱがない。 布帆  舟の帆。

無恙  無事である。晋の顧愷之が破冢で難破したとき「行人安穏布帆無恙」と書した故事による。

挂  ほをかける

鱸魚  スズキと訓ずるが、ハゼに似た大魚。カジカ説もあり。

膾  なます。さしみのようなもの。鱸魚膾 晋の張翰が秋風が吹くと郷里の名物の菰菜蓴菜(じゅんさい)の あつものと鱸魚の膾の味を思い出して官位を捨てて郷里に帰ったという故事がある。張翰伝「人生貴得適意  何為卑婢官数千里外以要名爵」と言って都を去ったが、後戦乱が起こり命拾いをした。それで時人は「張翰見機」と 言ったという故事。

剡中   紹興の東を流れる曹娥江の上流、会稽の近く。この付近に名山が多い。六朝の詩人、謝霊雲に 「瞑投剡中宿 明登天姥山」の句文選にあり、李白は知っていたであろう。


詩の鑑賞

李白は、自分の今回の行を張翰の鱸魚膾のようなものではなく、謝霊雲はじめ多くの大詩人のように名山を愛し、詩を愛する 為であると詠っている。







聞王昌齢左遷竜標尉遥有此寄  唐 李 白

岩波唐詩選下43頁


 聞王昌齢左遷竜標尉
遥有此寄 李 白

楊花落盡子規啼

聞道竜標過五溪

我寄愁心與明月

隋風直到夜郎西

    

 王昌齢おうしょうれい竜標りゅうひょうじょうく
左遷させんく
せらるるをき、はるかに

楊花ようか つく子規しき

聞道きくならく 竜標りゅうひょう 五溪ごけいぐと

われ 愁心しゅうしんせて 明月めいげつあた

かぜしたがって ただちにいた夜郎やろう西にし


字句解釈  

王昌齢  王昌齢は詩は上手であってが仕事熱心ではなかった。ためにしばしば左遷された。

竜標尉  竜標の尉、尉は役名。

楊花  ねこやなぎ。晩春のころ花が綿毛となって飛ぶ。

子規  ホトトギス 別名が多い。杜宇、杜鵑、杜魂、杜魄、蜀魂、蜀魄、不如帰、
日本では初夏の爽やかなイメージがあるが、漢詩では悲しみの表現である。

五溪  洞庭湖の西南端にある。

夜郎  湖南省沅陵のあたり。


詩の鑑賞

この詩ではホトトギスで悲しみを表現している。竜標、五溪、夜郎は、当時は僻遠の流刑地であったが、 現在は大橋が出来、工業団地のある都会となっているようだ。




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Last modified 2015/08/10 First updated 2014/04/28