漢詩地理名


漢詩に現れる地名、山河名など地理に関する紹介をします。
いろいろなサイトからコピペしています。
貴重な情報ありがとうございます。


漢詩地理名索引





渭水(いすい)



(えつ)



会稽(かいけい)

漢口(かんこう)
漢江(かんこう) 漢水(かんすい)

邯鄲(かんたん) 趙の都

漢中(かんちゅう)



鞏県(きょうけん) 洛陽近辺



荊州(けいしゅう)



(ご)



酒泉(しゅせん)

(しょく)

紹興(しょうこう)

襄陽(じょうよう)

終南山(しゅうなんざん)

秦嶺山脈(しんれいさんみゃく)



(せい)

西湖(せいこ)
中国浙江省杭州市にある湖。 西湖の自然の島である孤山、西湖を分ける堤の蘇堤・白堤・楊公堤、 人工の島である小瀛洲・湖心亭・阮公?、分けられた湖の外湖・西里湖・北里湖・南湖・岳湖、これらをまとめて形状を 「一山、三堤、三島、五湖」と称される。2006年に、中国の国家AAAAA級旅行景区に指定される。 2004年発行の第五版人民元1元札裏面の図案として、西湖の三潭印月が採用されている。 名称からして都市や山の西にある湖ということで、中国に数ある西湖であるが、単に「西湖」と言えば、 この杭州の西湖を指す。2011年6月の第35回世界遺産委員会で世界遺産(文化遺産)として登録された。
西湖にまつわる伝承は多い。白居易の詩「銭塘江春行」で「緑楊陰裏白沙堤」とうたわれた白堤、 蘇軾の造営によるという蘇堤など、西湖十景と呼ばれる観光資源が豊富である。
中でも有名な伝承は中国四大美人の一人、西施入水にまつわるもので、この故事により西湖の名称が定着したというものである。 しかし、呉越の時代にはまだ西湖は淡水化しておらず、漢代でもなお西湖とは呼ばれていなかったことから、 この伝承は後代のものであろう。




蒼梧(そうご)
六 哭晁卿衡 晁卿衡を哭す (独創古代5 古 田 武 彦)
最後に、わたしにとって最近の大きな発見、楽しい発見を報告したい。「晁卿衡を哭す」という題の詩です。晁衡というのは、阿倍仲麻呂の中国名です。卿というのは、お公家さんの尊称です。晁が姓で、衡が名になる。
阿倍仲麻呂は、長安で自ら主人公となって送別の宴を行い、 日本に帰ろうとした。ところが船が沈没して死んでしまった。ところが、これは幸いなことに誤報だった。ですが、その誤報が長安に伝えられた。そのときに有名な李白が、阿倍仲麻呂の哀悼の詩をつくっている。
なかなか阿倍仲麻呂という人は中国人にとって外国人でありながら、中国の有名な詩人から非常に信頼され愛されたようですね。王維もそうですが。いちおう同じ役所で、阿倍仲麻呂は上官で王維は下役にあり、そういう関係があるから王維は当然といえば当然と言えないこともない。けれども李白は官僚になったことはないし、その官僚と無関係な李白が阿倍仲麻呂を哀悼する詩を作ったということは、阿倍仲麻呂という人はよほど優れた人間的魅力を持っていたのだろう。その詩が残っています。

「精選高等漢文」
李白
哭晁卿衡 晁卿衡を哭す
日本晁卿帝都辞 日本の晁卿帝都を辞し
        にほんの ちょうけい ていとを じし
征帆一片蓬壷遶 征帆一片、蓬壷を遶る
        せいはんいっぺん ほうこを めぐる
明月不帰碧海沈 明月帰らず碧海に沈み
        めいげつ かえらず へきかいに しずみ
白雲愁色満蒼梧 白雲愁色、蒼梧に満つ
        はくうん しゅうしょく そうごに みつ

短い詩ですね。通念の意味を言いますと、
日本の晁卿・・・日本からやってきた晁衡(阿部仲麻呂)は、彼は帝都長安を去って行った。小さな帆柱の船に乗って
蓬壷を遶る・・・蓬莱島のまわりを船でめぐって帰っていった。「蓬壷」というのは、日本のことを言っています。中国で日本列島にあると言われているのが「蓬莱島・山」。また「方壷」というものがあって、その上に島があるような、そういう表現がある。『山海経』『准南子』などにある、そういう日本にまつわる二つの言葉を合わせまして、「蓬壷」という言葉を造って使っている。
ところが、
明月帰らず・・・月というのは、東から出て西に沈んで、また次の日、東から出る。ですが、このばあい阿部仲麻呂のことを月にたとえている。もう阿部仲麻呂は日本に帰ることはできなかった。
碧海に沈む・・・そして青い海の底に沈んでいった。そして太平洋の一角と言いましょうか、東シナ海に沈んでしまった。
白雲愁色蒼梧に満つ・・・問題は最後の四番目の句である「蒼梧」です。白雲愁色はわかりやすい。

問題はこの「蒼梧」の理解です。「蒼梧」については、ほぼ全ての注釈書は、「蒼梧」については、中国の東海岸のなかに二つある。その一つは上海・南京あたりの北にひとつある。もう一方は中国南東方の海岸。この場合は、中国南東方の海岸沿いにある「蒼梧山」を指す。たぶん会稽山あたり近くをいうのでしょう。そこの沖合で沈んだ。李白はそのような誤報を得て、この詩を作った。この詩の「蒼梧」は、船の沈んだ「蒼梧山」の近辺。ここで死んでしまったと李白は誤報を得た。そのように解釈する詩なんです。わたしが見たところの範囲では、ほとんどすべての注釈書はそのように書かれてある。
ようするにこの詩は、大した詩とは見なされていない。その証拠に、さきほどの『唐詩選』にも入っていない。李白の詩はこのなかに三十三編入っていますが、この詩は入っていない。また『青木正児全集』にも入っていない。青木正児さんは李白の権威ですが、戦前に東北大学教授をしておられた。この方の李白研究は非常に優秀なもので、この中に李白の詩が百八十二編がおさめられていて、優れた注釈を加えておられる。青木正児さんが、この二百近くの詩を選んでいても、その中にも入っていない。ここに入れるほどの詩ではない。もちろん日本との関係を述べるときには、時に引用されていますが、それほど大きな評価を受けているわけではない。
しかしわたしが思いますのに、これは生意気ながら、おおきな誤解があるのではないか。
それはわたしどもが知っている「蒼梧」は一つだけ。知ってきた「蒼梧」は、洞庭湖の西南方面にある「蒼梧」。中国創立の英雄尭、舜、禹の、二番目の舜が亡くなった「蒼梧」である。かれは都西安をでて南蛮の地へ、おもむこうとした。教化か征服か分かりませんが。揚子江中流の洞庭湖、あそこから、さらに南に行こうとして、広東との間ぐらいにある「蒼梧の野」で没した。

諸橋大漢和辞典の「蒼梧」
「一名、九疑。」からはじまる部分
ロ一名、九疑。湖南省寧遠縣の東南。
 舜が南巡して蒼梧の野の崩じたのは此處

これは有名な話である。『四書五経』のなかの『尚書』に書かれてある有名な話である。「蒼梧」といえば、わたしはすぐ舜の死んだその場所を思い浮べる。それ以外に、中国の東海岸に「蒼梧」があるということは諸橋大漢和辞典を引けば出てくるが、しかし「蒼梧」を辞書で引いて知るだけであって、ぜんぜんわたしが知らない「蒼梧」です。もう一つ広東の西北に行きますと、「蒼梧県」という県名が地名にある。しかし、そこにあるだけであって、そこで何があったかという話はない。それに山の中である。

ふたたび諸橋大漢和辞典からの引用
「蒼梧」は県名としては廣西省安平縣の東。

地名として、有名というか安定しているのがここ。香港の西北部になる。他に郡名とかありまして、山名というのがあって、

イ、江蘇省潅雲縣の東北、一名、雲臺山
とあって、数行うしろに
 〔・・・江南淮安府海州〕鬱州山、州東北十九里、・・・「俗傳、自蒼梧飛来也」。
 (蒼梧山が二カ所ある。)

私は考えますに「蒼梧」は蒼い桐という意味です。蒼い桐の木が生え茂っていれば「蒼梧山」になる。また蒼い桐が多かったら「蒼梧県」「蒼梧郡」になる。蒼梧という地名は、いくつもあっても不思議な名前じゃない。ですから、わたしは洞庭湖の西側の広東との間ぐらいにある「蒼梧」しか知らなかった。
ここから先は、わたしは遠慮なく言わせてもらうと、長安のインテリも、わたしと同じではないか。彼らは古典を勉強しなければ科挙の試験に通りませんから、舜が「蒼梧の野」に死んだ。そういうことはとうぜん知っている。しかし中国の東海岸に「蒼梧山」が二つある。そういうことを知っているのは、よほど地理に関心のある人は知っているでしょうが、一般の人は知らない。又広東の西側にある蒼梧郡蒼梧県は知っているでしょうが、まさか山の中で阿倍仲麻呂の船が沈んだと思うはずがない。
ですから李白の詩を読んだ場合、長安のインテリが「蒼梧」と言われて、まず思い浮かべるのは「舜の死んだ蒼梧」であるとわたしは思う。また、そのことを李白は知っていると思う。つまり自分が「蒼梧」という言葉を使ったら、読者である長安のインテリがどこの地域の「蒼梧」を思い浮かべるか、李白は知って作っている。その「蒼梧」は、さきほど言いましたように「舜が死んだ蒼梧」である。
それでなぜ仲麻呂の死に、大陸の真ん中の「蒼梧」が出てくるのか。
なぜ李白が持ち出したのか。
李白は、舜と阿部仲麻呂との間に、同じ人間の運命を観た。どんな運命か?。

舜は都を離れて、南蛮へ旅立った。目的は分かりませんが。行きぱなっしのはずがない。とうぜん目的を遂げて都へ帰ってくるつもりで出発した。ところが志なかばにして「蒼梧の野」に落ちた。同じく阿部仲麻呂も、日本から長安にやってきて第二の故郷のように過ごした。そして日本へ帰ろうとした。とうぜん、海で死のうとして旅だったはずはない。中国の文物、進んだ思想、新しい情報を故郷へ、もたらすべく日本へ帰ろうとした。ところが志なかばにして、むなしく海に沈んだ。それに「碧海に沈み」と書いてあるように、沈んだ場所をちゃんと書いてある。この詩には、海の真ん中で沈んだと書いてある。それをもう一回、だれも知らない「蒼梧(山)」の近くで沈んだと言い直す必要がどこにある。
それと始めの「蓬壷を遶る」は、明らかに『山海経』『准南子』などの中国の古典の言葉です。日常の地名用語ではない。それから始まっている。であるならば、あとに出てくる「蒼梧」も、四書五経の『尚書』にでてくる有名な舜の「蒼梧」ですよと言っている。そういう前触れとして「蓬壷」をおいている。実際に沈んだのは「碧海」で、沈んだに決まっている。ですからここは明白に、舜の運命を述べている。
男子こころざしを立てて・・・女子でも変わりはありませんが・・・志なかばにして没した人間の無念。しかし志を立てて、不退転でおもむく人間が素晴らしい。途中で没したのは残念かもしれないが、人間の名誉ではないか。そういう詩だった。
そうすると、これはすばらしい詩だと思う。
なぜかというと、いま人間のと言いましたが。具体的に言えば、あいての舜は天子。聖天子。中国の天子にも、いろいろの人物が居て、ぼんくらの天子もなかには居たと思う。しかし舜は、天子中の天子。実際は分からないが、「尭、舜、禹」の二番目の天子。イメージとしては天子中の天子。もう一方の仲麻呂は臣下。先ほど上級官僚になったと言いましたが、しょせん臣下。しかし李白は、天子と臣下をイコールで結んでいる。
志なかばにして没した人間の無念さにおいて、なんの変るところがあろうかと李白は言いたい。
さらにもう一つ。舜は、中国人の中の中国人。しかし実証的には本当の舜はどんな人物か分かりません。調べたら周辺の異蛮からきた人かも知れない。譲っても本当のことは分からない。しかし、たてまえでは中国人の認識では中華の代表。かたや仲麻呂は蛮族の代表というか、東夷のひとり。それを李白は、中華と蛮族をイコールで結んでいる。そんな差異がなんだ。志なかばにして没するくやしさにおいて、なんの変りがあろうか。李白はそう言いたかった。
それだけではなくて、片方は、時間帯がちがう。舜の時代は紀元前三千五百年。これも中華思想に逆撫でするようだが、舜の時代は半年・六カ月が一年と考える二倍年暦の可能性が十分ある。どこまでが二倍年暦か検討する必要がある。それで、とにかく紀元前二千年とする。仲麻呂は八世紀。時代がぜんぜんちがう。その時間的落差三千年。
これも李白らしいですね。三千年の差がなんだ。余りに大風呂敷を広げすぎて、すべて成功しているか調べてみないと分からないが。あまり調子よく書いて弱点になっているかも知れませんが。とにかくここでは白髪三千丈ならぬ、三千年は一瞬である。そういう立場に立つ。
さらにもうひとつ。片方舜は、大陸の、ど真ん中。中華の洞庭湖で没す。片方仲麻呂は、海のど真ん中、碧海に没す。大陸と太平洋を舞台に同じ悲劇が繰り返された。これだけ壮大なスケールで人間の死を謳った詩があるでしょうか。
さらに言いまして、人間観は素晴らしいですね。天子と臣下という身分の違い、中国人と東夷の違い。これだけの雄大な時間的、空間的なスケールの差、そういうものを敢然と無視。敢然と無視して、二人は同じ人間であると言っている。そういう同じ人間だと言い切る人間観は素晴らしい。私は中国のこんな凄い詩を見たことがない。 李白の詩の中のピカイチの詩だと思う。
私は青春時代熱心にゲーテとの詩を熱心に読んだことがあるが、これだけのスケールで人間観を歌った詩は記憶にない。ヨーロッパのゲーテとかの詩にもない。この詩が李白最高の詩なら、これはまさに人類最高の詩ということが言える。
わたしの理解にまちがいがなければ、最高の詩を発見した喜びをお伝えしたい。
この問題では念押しというか、李白の詩で別にもうひとつ、「蒼梧」がでてくる詩がある。「瀛海(えいかい)」という詩である。李白は中国の西の端、蜀の出身の詩人らしいことが知られている。蜀の中のやや東寄りの山(巫山の高峯)ですが、そこの山に登ってつくった詩がある。瀛(えい)は大海のことですが、どんな川も最後は大海・太平洋にそそいでいる。河は海にそそぐに決まっている。・・・その次に「雲を望んで、蒼梧を知り」という一節がある。東のほうに雲ぐらいは立ちのぼっていますが、李白はその雲を、蒼梧から立ちのぼる、そういう表現。これは明らかに舜の死んだ場所の「蒼梧」。洞庭湖の西南側にある。その「蒼梧」から、雲は立ちのぼる。実証的に調べた訳ではないが、そう見なしている。あきらかに、この詩の注釈でも舜の死んだ場所の「蒼梧」となっている。一方ですべての河は大海に達し、他方で舜の死んだその場所からは雲は立ちのぼっている。そこになにか舜のこころざしが白雲の形になって、わたしに伝わってくるようだ。そのような詩を創っている。
このような例から見ても、李白にとっては「白雲愁色、蒼梧に満つ」の用法は、舜の死んだ場所としての「蒼梧」をおもい浮かべるという長安のインテリにとっての定番であった。


泰山(たいざん)

大巴山脈(たいはさんみゃく)



(ちょう) 都は邯鄲

長安(ちょうあん)



南山(なんざん)



馬嵬(ばかい)



武昌(ぶしょう)


武漢三鎮(ぶかんさんちん)



茅山(ぼうざん)
中国,江蘇省南西部,太湖と長江(揚子江)の間の平地に突出する丘陵群。大茅峰(330m),?髻山(あけいざん)(410m)などが 南北に並び,南は天目山脈につらなる。巳(し)の字のようにくねくねとつらなる山容から句曲山(こうきよくさん), また巳山と呼ばれ,山の北西の県を句容(こうよう)という。古くからの伝承を多くもち,秦の始皇帝が会稽山に登った 帰りにここに立ち寄ったという。また漢代に茅盈(ぼうえい)とその2人の弟がここで道術を得て仙人となったので,茅山, 三茅山とも呼ばれる。



洛陽(らくよう)



(ろ)

廬山(ろざん)
廬山という名前は「廬」から来ています。廬とは豪華ではない、簡単な建物のことを指します。
周のはじめに(違う時代という話もあります)匡俗という人がいました。この人は廬山で仙人修行をしていました。優れた人物であったため、周の皇帝が何度も山を出て、国を 治める仕事を手伝ってほしいと伝えたのですが、彼はその度に山の奥に入っていってしまい、いつしかどこにいるのかわからなくなってしまいました。仙人になったのだろうと、 当時の人は思ったそうです。その匡俗が廬をつくって住んでいたので、廬山と呼ばれたそうです。またその人の名をとって匡山とか匡廬などとも呼ばれていたそうです。
他にもいろいろな話が伝わっていますが、どれも仙人修行をしていた人の廬がここにあったから、というものばかりです。
宋の時代、国を開いた人の名が趙匡胤だったので、匡の字を使うことを慎み、匡山などという呼び名は廃れていったようです。






トップ
ページ
漢詩
鑑賞会A
定例会
日時場所
講義録 漢詩書庫 漢詩地図 漢詩用語 漢詩歴史
漢詩人物 検討室 漢詩
百人一首
入会の
ご案内
ご意見
お問合せ
リンク
Last modified 2014/10/12 First updated 2014/04/28