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字句解釈 |
嶺南 嶺南は洞庭湖南方の左遷の地。 遠近 (漢)「遠い」と「近い」の両方に使われるがここでは「遠い」嶺南の意。 楓葉 (漢)楓樹 秋に紅葉する。日本の「かえで」とは異なる。 峴首 山名 峴首山。襄陽にある。漢詩によく出る名山。 羊公 人名。羊公が峴山で酒宴して楽しんだ故事がある。 長沙 地名。賈誼が長沙に流罪になった故事がある。 賈誼 人名。 土毛 土地の産物。産物が土地から毛のように生ずるため。 縞紵 縞、紵はともに絹の織物。「ちぢみ」と「あさきぬ」。春秋左氏伝に呉と呈の人が意気投合し互いに縞の帯と紵の衣を交換したとの故事がある。深い友情の意がある。 槎頭 槎は「いかだ」で漢水にいかだを浮かべて魚を採った。 鯿 鯿は魚名。鮒に似た平たい大型の魚。青白色、美味。 沈痾 ながわずらい。 魑魅 魑魅魍魎(ちみもうりょう)。いろいろな化け物。 筆硯 「ふで」と「すずり」。 衾裯 衾はどてら、かいまき。裯はその一重のもの。 鬥牛 北斗七星。 |
詩の鑑賞 |
孟浩然は若い時から病気がちであった。見た来たわけでも、記録にもないが、多分、糖尿病であって、晩年は前立腺も患っていたようだ。 そこへ王昌齢が訪ねてきて、喜びのあまり、一緒に飲み明かしたようである。そのためもあって持病の できものが悪化し命を縮めることになった。 この詩は、故事が豊富に、上手に盛り込まれていおり、死期の近い孟浩然が心血を注いだ一代の傑作である。 死の直前の絶筆ではないだろうか。 |
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字句解釈 |
峴潭 潭は淵。襄陽にある峴山の麓の漢水の淵。峴山は襄陽南方の名山。 石潭 石の岸からなる淵。 隈隩 隈、隩ともに曲がっているところ。 沙岸 砂岸。 夤縁 よじのぼる。 槎頭鯿 前出 騁金錯 金錯は 飾った刀。美しい包丁でさばいた。 纖手 細い美人の手。 膾紅鮮 なますが赤く鮮やかである。 陸内史 陸は人名。内史は役名。 蓴羹 蓴羹鱸膾(じゅんこうろかい)。御馳走の代名詞。江南のじゅんさいのあつものや、南京辺のろぎょのなます。 何足傳 蓴羹は問題にならない、鯿のほうがずっと良い。 |
詩の鑑賞 |
この詩からは、孟浩然が峴山で槎頭鯿を釣ったり、酒宴を催したりして楽しんだ様子が見える。 |
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字句解釈 |
解悶 憂さ晴らし。 耆舊 年寄り。 無新語 新しいよい詩がない。(今の年寄りはどうしたんだ?) 漫釣 ただぼんやりと釣るだけで。 縮頸 頸の短い。 |
詩の鑑賞 |
杜甫が孟浩然の死後、襄陽の地からよい詩が出ないのを嘆きつつ孟浩然を偲んでいる。 この詩は杜甫が貴池にいた時の作で、杜甫の詩が最高の境地に達した頃の作品です。 |
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字句解釈 |
秋浦 地名。九江と南京の中間の貴池のあたり。李白54,5歳のころの滞在地。 白髪三千丈 1丈は10尺。1尺は唐代は22.5cm。 3000丈は6000m。後宮3000人、食客3000人など、とにかく多い、驚きの表現。 緣愁 うれいによって(原因)。因縁。 日本語のよるには、依る(いらいする、よりかかる)、寄る、因る、拠る、撚る、 倚る(よりかかる)、由る、選る、憑る、などいろいろある。それぞれ使い方がある。 明鏡 美しい、明るい鏡。よく写る鏡。張九齢の用例あり。関連詩1参照 |
詩の鑑賞 |
孟浩然に遅れること12年、杜甫に先立つこと11年に生まれた大詩人。杜甫の詩聖に対し詩仙と称される。 李白酒一斗詩100編。溢れるように傑作が出来た。 この詩は李白晩年の作。李白が秋浦を訪れた機会は 、安禄山の乱の前後、54、55歳と58歳の二度ある。 この詩のできた時期については説が分かれる。 白髪三千丈 ああーー老いたなーーーー。深い嘆き。 この詩はこの一句に尽きる。 この詩は、日本人なら知らない人のいない千古の絶唱である。 |
作者紹介 |
李 白(701-762) 盛唐 四川省、綿陽、青蓮郷出身。裕福な商人の家に、西域で生まれ、5歳から25歳まで この地及び成都にいた。 生年701、12年前、孟浩然、10年後、杜甫が生まれ、絶句、律詩等の形式が整備され唐詩の最盛期を迎えた。 その中心をなす詩人で、詩仙と称される。 10歳で孟宗の書を読み、15歳で剣術を習い、19歳で任侠の仲間に入る。 20歳(720)の冬、益州の刺史である 蘇頲に面会、司馬相如(前漢、四川省出身)と比肩しうると、その才能を認められた。 24歳(725)、成都を離れ、三峡を下って洞庭湖に出、南方を回って武漢の北方の安陸にいたる。 この地で、元宰相の 許圉師(きょぎょし)の孫娘と結婚し、10年間留まった(-734)。 その後、呉、越を漫遊し、洛陽にいたり、 下って襄陽にいたり孟浩然を訪ねる。 743年、越の隠者(道子)呉筠(ごいん)と会い隠者の生活に入ったが、呉筠が宮中に召されたとき同道して 玄宗皇帝に会うこととなり、翰林供奉(総務部文書課)となる。 玄宗皇帝のお気に入りとなったが楊貴妃に疎まれ、 高力士の讒言より追放の 身となる。 745年洛陽にいたり、杜甫と会う。いわゆる、両巨星、日月会合である。 755年安禄山の反乱に際し、玄宗皇帝の子、永王ᵊの幕下に入ったため、肅宗皇帝に罪せられ、貴州に追放となった (758)。 途中、三峡のあたりで恩赦にあうが、その後、腐脇疾(とこずれ?)により死去した(62歳)(762)。 一説に長江の月の影を捕まえようとして水中に落ちて溺死した。 |
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字句解釈 |
宿昔 むかし。 嗟跎 つまずく。 形影 自分自身の姿と鏡に映った自分の姿。 |
詩の鑑賞 |
年張九齢は晩年荊州に左遷された。 この詩の翌年張九齢は死去する。悲痛な詩である。 孟浩然も同年死去する。一時孟浩然は張九齢に仕えたことがある。 |