漢詩人物

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阿倍(安倍)氏(あべし)
孝元天皇の皇子大彦命を祖先とする皇別氏族である。飛鳥時代から奈良時代に大臣級の高官を輩出する。 平安時代以後は「安倍」と称して、安倍晴明以後は陰陽師の家系として知られるようになった。
景行天皇の妃の一人である高田媛の父が阿部木事であるとされ、また継体天皇の妃に阿倍波延比売が いたといわれているが、歴史上はっきりとした段階で活躍するのは宣化天皇の大夫(議政官)であった 大麻呂(火麻呂とする説もある)が初見である。大麻呂は大伴金村・物部麁鹿火・蘇我稲目に次ぐ 地位の重臣であったと言われている。推古天皇の時代には蘇我馬子の側近として麻呂が登場している。
大化の改新の新政権で左大臣となったのは、阿倍倉梯麻呂(内麻呂とも)であった。阿倍氏には 『日本書紀』などでも外国への使者などに派遣される人物が多く、倉梯麻呂は家柄のみならずそれなり の見識を買われて新政権に参加した可能性が高い。また、倉梯麻呂の娘・小足媛は孝徳天皇の妃となっ て有間皇子を生んだとされており、またもう一人の娘・橘媛は天智天皇の妃になるなど、 当時の阿倍氏の勢力が窺える。
その後、阿倍氏は一族が分立して「布施臣」・「引田臣」(ともに後に朝臣の姓を受ける)などに 分裂していった。だが、引田臣を率いる阿倍比羅夫が斉明天皇に仕えて将軍として活躍し、 布施臣を率いる倉梯麻呂の息子・御主人(635年 - 703年)は大宝律令下で最初の右大臣に任命された。 その後、布施御主人は「阿倍朝臣」の姓をあたえられ、続いて引田朝臣でも比羅夫の息子達に対して 同様の措置が取られた。遣唐使で留学生として唐に渡った仲麻呂は比羅夫の孫、船守の息子であると 言われている。以後は主として御主人と比羅夫の末裔が「阿倍氏」と称することになった。だが、 中納言で薨去した御主人の子・広庭(659年 - 732年)が死ぬと、藤原氏などの新興氏族に押されて 低迷する。だが、藤原武智麻呂夫人(豊成・仲麻呂兄弟の生母)や藤原良継夫人古美奈などの有力者の 夫人を出している。
「阿倍氏」がいつ頃から「安倍氏」と改めたかには諸説あるが、平安時代初期の延暦?弘仁年間説が 有力であると言われている。この時期には安倍兄雄( ? - 808年、御主人の玄孫、平城天皇時代の 参議)、安仁(793年 - 859年、引田臣系傍流、仁明天皇時代の大納言・右近衛大将)という二人の 有力高官を出している。だが、その後の活躍はやはり兄雄の6代目の子孫とされている安倍晴明の 活躍する平安中期にまで降ってしまう。晴明以後、安倍氏が賀茂氏とともに天文と陰陽道を司ったと いうのは著名な話であるが、官位的には晴明も息子吉平(954年 - 1027年)も最終的には従四位上で あって、先祖である兄雄と比べれば格下であるのは明白である。その後、長男時親は天文密奏宣旨授与 者、次男章親は天文博士、3男奉親は天文権博士と天文道に関する地位を独占した。以後、代々天文博士 ・陰陽頭に任じられたが、その一方でその地位や学説を巡る一族間の対立も激化していき、時親の子 有行を祖とし孫の泰親に引き継がれた嫡流にあたる家系(俗に「泰親流」)、同じく時親の子国随を 祖とし孫の晴道に引き継がれた家系(同じく「晴道党」)、時親の弟奉親を祖とし孫の宗明およびその 子広賢引き継がれた家系(同じく「宗明流」)の3系統に分立して激しく争った。 世の中が不安定であればあるほど、朝廷から陰陽師への期待が高まるものなのか、安倍氏から名高い 陰陽師が登場するのは「乱世」というべき時代である。治承・寿永の乱(源平合戦)当時の陰陽頭安倍 泰親(吉平の玄孫にあたる、1110年 - 1183年)は正四位上、息子の季弘(1136年 - 1199年)は 正四位下にまで昇進している。だが、晴道や広賢及びその子弟も自己の家系の説をもって泰親親子と 激しく対立を続け、その後もその3系統の中からも分裂する動きが続いた。分裂長期化の背景として、 暦道の業務の中核であった造暦(暦の作成)は共同作業を必要として嫡流が作業の主導権を発揮する 場があるのに対して、天文道の業務の中核であった天文密奏は勘申者の個人作業であったために各流が 競合関係に陥ったこと、寛元2年(1244年)に嫡流内部の当主争いで安倍業弘(季弘の曾孫)が弟ら 一族に殺害され、嫡流の主だった人物が処分されて一時的に人材がいなくなったことなどが挙げられる[1]。 南北朝時代に登場した安倍有世(晴明から14代目、泰親から8代目)はついに公卿である従二位にまで達した。安倍氏の一族としては500年以上絶えてなかった事であり、その職掌柄から時には恐れ忌み嫌われる立場にあった陰陽師が公卿になったことは当時としては衝撃的な事件であった。 泰親には九条兼実、有世には足利義満という政治的な後援者がいたからこそここまでの昇進に至った という意見もある。だが、泰親は平氏の衰亡や以仁王の乱を予言し、有世は明徳の乱・応永の乱を 予言したとも言われており、占星術や陰陽道においても特筆した才能があったとする記録が残されて いる。兼実や義満も彼らのそうした高い能力を評価したからこそ、その昇進を援けたのである。 一般的には(専門書の中にも)「土御門家」の祖を安倍有世に求め、有世を「土御門有世」と呼称する ことが多い。だが、有世が“土御門”を名乗ったとする記録は当の土御門家にも存在せず、 確実に「土御門」を名乗ったと言えるのは、その曾孫にあたる有宣(室町時代中期 - 後期)以後である と考えられている。
当初は「有世一代」限りの公卿という条件であったものの、実際には有世の晩年に足利義満が有世の 長年の功労に報いて嫡男の有盛を公卿に昇進させ、その後も有季・有宣とその嫡流は公卿に昇った。 かくして有世の家系は堂上家(半家)の資格を得る事になり、やがて有世以来代々の当主の屋敷が 土御門の地にあったことから、「土御門」を名乗る事となり、他の安倍氏とは一線を画して陰陽師と しての公的な職務は全て安倍氏(土御門家)と賀茂氏(幸徳井家)が取り仕切る事となった。
だが、その初代である有宣は応仁の乱以来の混乱を避け、若狭国(おおい町)の荘園に下向した。 子の有春も若狭で一生をすごし、以後若狭定住が常態となる。孫の土御門有脩(1527年 - 1577年)は、 永禄8年(1565年)賀茂氏が独占していた暦博士を初めて兼任した。その息子土御門久脩(1560年 - 1625年)は若狭から戦乱の収束した都に一時戻ったが、豊臣秀次の自害に連座して失脚した。 しかし新しく幕府をひらいた徳川家康に重用されたため、朝廷にも復帰が許され、梅小路に大邸宅を 与えられた。その息子・土御門泰重(1586年 - 1661年)は天文博士として衰退した家名の再興に尽力し 公卿として従二位にまで昇進した。また弟の泰吉を独立させて倉橋家を創設した。 更に陰陽道の総帥たる陰陽頭の座を巡る安倍氏(土御門家)と賀茂氏(幸徳井家)の間での長年の 確執は、賀茂氏出身の幸徳井友傳が天和2年(1682年)に35歳で夭折したことで、土御門泰福 (1655年 - 1717年)が陰陽頭に任じられて、以降陰陽頭は安倍氏が独占することで決着することとなる。 泰福は天和3年(1683年)、全国の陰陽師の支配・任免を土御門家の独占とすることに成功して 後に土御門神道を創設して土御門家は全盛期を迎える。だが、江戸幕府天文方が主導した改暦 (貞享暦)に成功すると、改暦の権限を巡って幕府(天文方)と朝廷(土御門家)の間で対立が生じる ようになった。泰福の末子泰邦(1711年 - 1784年)は、在野の暦算家の協力を得て宝暦暦を制定する 事に成功し、改暦の権限を再び土御門家に取り戻す事に成功した。しかしながら、宝暦暦の評判は悪く、 その後の寛政暦および天保暦への改暦はいずれも幕府天文方によって主導されることとなった。 明治維新の混乱に乗じて時の当主晴雄(1827年 - 1869年)は旧幕府の天文方を接収して、 天文観測や地図測量の権限を手中に収めた。これによって、西洋の近代的な天文学が事実上排除される という「逆転現象」が生じた。更に晴雄は西洋の太陽暦(グレゴリオ暦)の導入の動きを察して、 太陽暦を排して従来の太陰太陽暦の維持を図るために明治改暦を提唱した。しかし、 晴雄の急逝により挫折した。
王政復古の波により以上のような逆転もひとときはあったものの、むろん政府の大方針である 富国強兵の観点から、近代的な天文や測量は陸海軍の円滑な運営に欠かせないという当然の認識を 政府が持った後は、陰陽寮は解体される流れとなった。晴雄の嫡男晴栄が幼少である事を幸いに、 明治3年(1870年)に陰陽寮の廃止と陰陽道の公的分野からの排除が行われて、続いて天文や暦算 分野も海軍や大学、天文台に移管される事となった。
華族制度導入後、晴栄は子爵に叙せられている。大正4年(1915年)、土御門家が保有していた 天文記録や当主の日記などが宮内省に献上されて、その多くが現在でも宮内庁書陵部に保管されている。 また彼らの墓の多くが真如堂と京都梅小路梅林寺にある[2]。


阿倍 仲麻呂(あべ の なかまろ)
文武天皇2年(698年- 宝亀元年(770年)1月)奈良時代の遣唐留学生。中国名は仲満のち晁衡/朝衡(ちょうこう)。 筑紫大宰帥・阿倍比羅夫の孫。中務大輔・阿倍船守の長男。弟に阿倍帯麻呂がいる。
唐で科挙に合格し、唐朝において諸官を歴任して高官に登ったが、日本への帰国を果たせずに唐で客死した。
文武天皇2年(698年)阿倍船守の長男として大和国に生まれ、若くして学才を謳われた。 霊亀3年・養老元年(717年)多治比県守が率いる第9次遣唐使に同行して唐の都・長安に留学する。 同次の留学生には吉備真備や玄昉がいた。
唐の太学で学び科挙に合格し、唐の玄宗に仕える。神亀2年(725年)洛陽の司経局校書として任官、 神亀5年(728年)左拾遺、天平3年(731年)左補闕と官職を重ねた。
仲麻呂は唐の朝廷で主に文学畑の役職を務めたことから李白・王維・儲光羲ら数多くの唐詩人と親交していたらしく、 『全唐詩』には彼に関する唐詩人の作品が現存している。
天平5年(733年)多治比広成が率いる第10次遣唐使が来唐したが、さらに唐での官途を追求するため帰国しなかった。 翌年帰国の途に就いた遣唐使一行はかろうじて第1船のみが種子島に漂着、残りの3船は難破した。 この時帰国した真備と玄昉は第1船に乗っており助かっている。副使・中臣名代が乗船していた第2船は福建方面に漂着し、 一行は長安に戻った。名代一行を何とか帰国させると今度は崑崙国(チャンパ王国)に漂着して捕らえられ、 中国に脱出してきた遣唐使判官・平群広成一行4人が長安に戻ってきた。広成らは仲麻呂の奔走で渤海経由で 日本に帰国することができた。
天平5年(734年)には儀王友に昇進した。 天平勝宝4年(752年)衛尉少卿に昇進する。この年、藤原清河率いる第12次遣唐使一行が来唐する。 すでに在唐35年を経過していた仲麻呂は清河らとともに、翌年秘書監・衛尉卿を授けられた上で帰国を図った。 この時王維は「秘書晁監(「秘書監の晁衡」の意)の日本国へ還るを送る」の別離の詩を詠んでいる。 しかし、仲麻呂や清河の乗船した第1船は暴風雨に遭って南方へ流される。このとき李白は彼が落命したという誤報を伝え聞き、 「明月不歸沈碧海」の七言絶句「哭晁卿衡」を詠んで仲麻呂を悼んだ。
『天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも』 実際には仲麻呂は死んでおらず船は以前平群広成らが流されたのとほぼ同じ漂流ルートをたどり、 幸いにも唐の領内である安南の驩州(現・ベトナム中部ヴィン)に漂着した。 結局、仲麻呂一行は天平勝宝7年(755年)には長安に帰着している。
この年、安禄山の乱が起こったことから、 清河の身を案じた日本の朝廷から渤海経由で迎えが到来するものの、唐朝は行路が危険である事を理由に清河らの帰国を 認めなかった。仲麻呂は帰国を断念して唐で再び官途に就き、天平宝字4年(760年)には左散騎常侍(従三品)から 鎮南都護・安南節度使(正三品)として再びベトナムに赴き総督を務めた。天平宝字5年(761年)から神護景雲元年(767年) まで6年間もハノイの安南都護府に在任し、天平神護2年(766年)安南節度使を授けられた。 最後は?州大都督(従二品)を贈られている。結局、日本への帰国は叶えられることなく、宝亀元年(770年)1月に 73歳の生涯を閉じた。
なお、『続日本紀』に「わが朝の学生にして名を唐国にあげる者は、ただ大臣および朝衡の二人のみ」と賞されている。 また死去した後、彼の家族が貧しく葬儀を十分に行えなかったため日本国から遺族に絹と綿が贈られたという記述が残っている。
(参考) 独創古代5




晏殊(あんしゅ)
(991年 - 1055年)は、北宋撫州臨川(現:中国江西省南昌市進賢県)出身の詩人(詞人)。字は同叔。息子の晏幾道と共に二晏と称される。
神童と呼ばれ、7歳で文を作った。14歳で宋代最初の童子のための進士の試験を受け、翌年廷試を受けて進士となり、時の皇帝真宗から 秘書省正字に任じられた。明道元年(1032年)、参知政事になった。同年、李宸妃の墓志銘に関して仁宗の怒りに触れ[1]、、 金陵太守に降格された。
慶暦2年(1042年)に中央政界に復帰し、宰相になった。しかし慶暦4年(1044年)、李宸妃の一件を契機に再度多くの非難を受け、 収賄を理由として知州に降格された。
潁州,陳州,許州などの知事をつとめたが病のため長安に帰り,翌年正月没した。
仁宗はその死をいたんで2日間政治をみるのをやめたという。諡は元献。詞文にすぐれ,特に詞人としては唐,五代の艶麗な詞風を継承して, 当時の代表的作家の一人。作品は 240巻あったといわれるが,詞集『珠玉詞』の 136首と,遺文集1巻のみ現存。范仲淹,欧陽修,孔道輔らは 門下生。
脚注[1]仁宗の実母・李宸妃の墓志銘は晏殊の執筆である。仁宗は李宸妃から取り上げられ劉氏(後の章献皇后、皇太后)の子とされたが、 晏殊は劉氏を恐れ、李妃は1人の公主だけを産んだと記した。


安楽公主(あんらくこうしゅ)
嗣聖元年(684年) - 唐隆元年6月20日(710年7月21日))唐の中宗の娘。母は韋皇后。 本名を李裹児といい、これは出生時に中宗が自らの衣服を脱いで安楽公主を包んだことより命名された。
幼少より聡明で美人であり、韋后より寵愛を受けた。成年後は武三思の子・武崇訓に下嫁されたが、 武崇訓の死後、安楽公主は武延秀と私通を重ね、後に武延秀へと嫁いだ。 かつて自らを皇太女に封じようと計画したこともあったが、これは魏元忠の諫言により実現しなかった。
父母の溺愛の中で成長した安楽公主は、その生活が相当に奢侈なものであった。 また、武崇訓との間にもうけた息子を数歳にして太常卿、鎬国公に封じ、姉の長寧公主、 定安公主と共に民間の子女を攫い奴婢にするなどの行為に及んだ。 これを知った左台侍御史袁従一は安楽公主の逮捕を計画するが、中宗の詔勅に阻まれ、 その行為は不問に付された。
その後、安楽公主は韋后と共謀して中宗の殺害と唐朝の簒奪を計画する。 710年、中宗が両者により毒殺される事件が発生するが、臨?王李隆基(のちの玄宗)がただちに兵を 挙げて韋后を殺害、さらに逃亡した安楽公主も殺害し、それぞれ韋庶人、悖逆庶人と庶人に落とされた。


安 禄山(あん ろくざん)
唐代の軍人、大燕国皇帝。本姓は康で、康国(サマルカンド)出身のソグド人と突厥系の混血。 「禄山」はソグド語の「ロクシャン(rwx?n/rox?(a)n 明るい・光の意味)」の音訳。唐の玄宗に対し安史の乱を起こし、 大燕皇帝に即位したが、最後は太子の安慶緒に殺害された。
『新唐書』巻225上 安禄山伝などによると、「軋犖山」という名の突厥の軍神に巫女であった母が祈ったところ、 穹廬(ゲルなどのテント)を光が照らして懐妊し、野獣はことごとく鳴くなど祥瑞が現れた、 と出生に関わる奇瑞譚が載せられている。また、当時、節度使であった張仁愿がこれを知り殺そうとしたが、 なんとか逃れることができたという伝承もある。 父は早くに亡くなったが、母はその後に突厥の有力者である安延偃と再婚した。安延偃には唐に仕えて「胡将軍」 と呼ばれていた安波注という弟がおり、安波注とその息子たちは唐と突厥の双方に仕えたソグド人軍閥の有力者の一門であった。
安禄山は突厥や契丹、奚などの諸勢力が混在する地域に育ったせいか「六蕃語」、6ヶ国語に堪能であったため、 初め互市牙郎(貿易官)に任じられた。ずる賢く、残忍で、機転が効き、人に取り入るのに巧みであったと伝えられる。
開元20年(732年)、幽州節度使・張守珪に取り立てられた。勇猛さと地理を熟知していたことにより、 同郷の史思明とともに数騎で出ていき、必ず数十人を捕らえてきた。その後も勝利を重ね、そのため偏将に任じられた。 この頃、張守珪の養子となる。開元21年(733年)、唐の都である長安に奏上文を届けにいく。 この時、安禄山に会った宰相の張九齢は、「幽州で反乱が起きるとするならば、この胡人が起こすだろう」と語ったと伝えられる。
天宝10年(751年)、誕生日に玄宗と楊貴妃から多くの贈り物を贈られる。入朝して楊貴妃の赤子を演じ、 おむつをして大きな揺り籠に入って出てきて、玄宗を喜ばせ、宮中に自由に出入りするようになる。
更に詳しくー>ここ


韋応物(い おうぶつ)
(736年 - 791年?)、唐(中唐)の詩人。京兆府長安県(陝西省西安市)出身。
北周朝からの名門の家に生まれ、若い頃は太学に学んだ。玄宗に近衛士官(三衛郎)として仕えた。 玄宗のおぼえはめでたかったものの、強気なところがあった。安史の乱の後、職を失ったため故郷に帰って貧窮した。 そこで心を入れ替えて勉学に励んだ。その後、下級の地方官を転々とした。
洛陽県丞のとき軍兵が不正をはたらくのを厳しく取り締まった。それからは病気を理由に辞任したり?州(安徽省)刺史に なったりと、官途に就いたり辞めたりを繰り返した。786年には蘇州刺史になった。そして白居易が赴任してくると引退し、 寺院に寓居した。その最期は判然としないが、大和年間(827年 - 835年)まで生存していて、劉禹錫によって官に推薦されたというが確証はない。
自然を詠う詩に巧みで、とくに自然の静けさや穏やかさを主題とする物に秀でている。盛唐の孟浩然や王維を受け継ぐとされ、 柳宗元も一括して“王孟韋柳”と並称される。『韋蘇州集』10巻が伝わる。 作品には『幽居』(五言古詩)、『聞雁(雁を聞く)』(五言絶句)等がある。


韋皇后(いこうごう)
唐隆元年6月20日(710年7月21日)唐の中宗の皇后。韋玄貞の娘。京兆万年(現在の陝西省西安)出身。 しばしば韋后と呼ばれる。
神龍元年(705年)、武則天より譲位されて中宗が復位すると、武三思らと結託し、 従兄の韋温とともに朝政を掌握した。景雲4年(710年)には自らの即位を意図し、 娘の安楽公主とともに中宗を毒殺、温王李重茂(殤帝)を皇帝に擁立した。 しかし間もなく李隆基(玄宗)が政変を起こし、その父である相王李旦(睿宗)が復位した。 韋后は殺害され、その身分も庶人に落とされた。



(う)
(紀元前1900年頃)は中国古代の伝説的な帝で、夏朝の創始者。名は文命(ぶんめい)、 諡号は禹、別称は大禹、夏禹、戎禹ともいい、姓は?(じ)。姓・諱を合わせ?文命(じぶんめい)と もいう。夏王朝創始後、氏を夏后とした。
父は鯀(こん)である。 鯀の五世の祖は五帝の一人である帝??であり[1]、禹は黄帝の雲孫 (八世の孫)にあたる(禹は舜の族父)。 また、鯀の父は帝??である[2]。従って、 禹は帝??の孫にあたる。また、帝??は同じく五帝の一人の黄帝の孫である。
禹は黄帝の玄孫(四世の孫)にあたる(禹は舜の族高祖父、堯の同輩、堯は舜の族高祖父)[3][4][5]。 塗山氏の女を娶り、啓という子をなした。
禹は人徳を持ち、人々に尊敬される人物であった。また、卓越した政治能力を持っていたが、 それでいて自らを誇ることはなかったという。
帝堯の時代に、禹は治水事業に失敗した父の後を継ぎ、舜に推挙される形で、黄河の治水にあたった。
『列子』楊朱第七によれば、このとき仕事に打ち込みすぎ、身体が半身不随になり、手足はひび・あかぎれだらけになったという。しかしこの伝説は、どうも元来存在した「禹は偏枯なり」という描写を後世に合理的に解釈した結果うまれた物語のようである。『荘子』盗跖篇巻第二十九には「堯は不慈、舜は不孝、禹は偏枯」とあり『荀子』巻第三非相篇第五には「禹は跳び、湯は偏し」とある。白川静は『山海経』にみえる魚に「偏枯」という表現が使われていることから、禹は当初は魚の姿をした神格だったという仮説を立てた。実際「禹」という文字は本来蜥蜴や鰐、竜の姿を描いた象形文字であり、禹の起源は黄河に棲む水神だったといわれている。 そしてこの「偏枯」という特徴を真似たとされる歩行方法が禹歩であり、 半身不随でよろめくように、または片脚で跳ぶように歩く身体技法のことを言う。 禹歩は道教や中国の民間信仰の儀式において巫者が実践したやり方であり、 これによって雨を降らすことができるとか岩を動かすことができるとか伝えられている。 日本の呪術的な身体技法である反閇(へんばい)も『下学集』などの中世の辞書では禹歩と 同一視されているが、必ずしも同じであったわけではないらしい。
『太平広記』の中に記載する「神(瑶姫)は禹に鬼神を召喚する本を贈る」[6]。 『山海経広注』に記されている禹による無支祁(孫悟空の原型です)との交戦の描写には 具体的な竜としては応竜が禹に加勢しており、最後に捕らえられた[7]。
禹は即位後しばらくの間、武器の生産を取り止め、田畑では収穫量に目を光らせ農民を苦しませず、 宮殿の大増築は当面先送りし、関所や市場にかかる諸税を免除し、地方に都市を造り、 煩雑な制度を廃止して行政を簡略化した。その結果、中国の内はもとより、外までも朝貢を 求めてくるようになった。さらに禹は河を意図的に導くなどしてさまざまな河川を整備し、 周辺の土地を耕して草木を育成し、中央と東西南北の違いを旗によって人々に示し、 古のやり方も踏襲し全国を分けて九州を置いた。禹は倹約政策を取り、 自ら率先して行動した。なお中国が1996年から1999年に掛けて実施した夏商周年代 確定プロジェクト」に依れば、禹の夏王朝創始は紀元前2071年、王朝滅亡は紀元前1598年で あったとされる。ただし同プロジェクトは、4千年前の年代確定には数年の誤差は避けがたいため、 切りのよい数字を取って夏は紀元前2070年から紀元前1600年まで、と定めた[8]。
竹書紀年によれば、45年間帝であったという、今本竹書紀年によれば、8年間帝であったという[9]、 史記によれば、10年間帝であったという[10]。浙江省紹興市の会稽山に大禹陵がある。
後代、治水の神として中国だけでなく日本でも崇拝された。神奈川県開成町在住の 郷土史家・大脇良夫が全国調査したところ、禹に関連する碑や像が、水害が多い地区を中心に 107カ所見つかった。大脇らは2010年以降「禹王サミット」を開催し、2013年 「治水神・禹王研究会」を発足させた[11]。




永王 璘(えいおう りん)
? - 757年、第9代皇帝である玄宗の16子で第10代皇帝粛宗の異母弟。母は郭順義。生母は幼時に死去したため、 異母兄の粛宗に養育された。容貌が醜く斜視だったが、聡明で学問好きで、開元13年(741年)、永王に封じられる。 宮中で育ったため、人事に疎かった。
安史の乱が起こると、天宝15載(757年)、玄宗[1]に命じられ、江南・山南・嶺南などの4道節度使兼江陵大都督に任命され、 江陵に赴任する。
江陵には、江南からの租賦が充満しており、数万の募兵を集め、永王は独占し、半独立した政権を築く。 さらに、薛鏐、李台卿、韋子春、劉巨鱗、蔡?の進言に従い、江南に自立し、唐王朝から次第に離脱を図るようになった。 霊武にいた兄の粛宗は、すでに即位しており、この報告を聞き、永王に勅使を派遣して父の玄宗に謁見することを命じたが、 永王は勅命を聞かなかった。永王の子である襄城王?が勇敢で力があったため、軍を握った。襄城王?は反乱を考え、 金陵を奪うように勧めたと伝えられる。永王は5,000人の兵を率い、季廣?、渾惟明、高仙琦を将に任じた。
永王の長史であった李?は、病気を理由として辞職し、粛宗のもとに赴いた。粛宗は、高適を、彼とともに永王の件を謀らせる。 高適は情勢を分析し、永王が必ず敗北すると語った。粛宗は、高適を淮南節度使、来填を淮南西道節度使に任命し、 江東節度使である韋陟ともに対処を命じる。
独断で兵を率いて、長江に沿って東に赴いた永王を呉郡太守兼江南東路采訪使である李希言が書面でとがめると、 永王は渾惟明を派遣して、李希言のいる呉郡を攻撃させる。また、武将の季廣?に命じて、広陵を攻撃した。 渾惟明は、李希言に命じられ丹陽を守った元景曜と閻敬之を破る。閻敬之は戦死し、元景曜は降伏した。 季廣?も広陵長史・淮南采訪使の李成式に命じられて防戦を行った李承慶を降伏させる。 高適、来填、韋陟は軍を安陸に集め、永王の討伐を誓う。
757年、肅宗は宦官の啖廷瑤を派遣して、李成式と謀らせて河北招討判官の李銑と兵を合わせて、永王に向かわせる。 永王は対岸に軍を並べる。李成式は判官の裴茂に旗を長大に並べさせたため、永王は恐れるに至る。 そのため、季廣?、渾惟明、馮季康、康謙は逃亡してしまい、永王は、制止することはできなかった。
李成式の軍は篝火も盛大に並べたため、永王の軍は篝火を焚く。永王はこれを見て、唐軍が河を渡ったと思い、家族や配下とともに逃亡する。夜明けとともに、唐軍が河を渡っていないことが判明したため、軍を率い、船に乗って晋陵へと逃亡する。 唐軍の間諜が永王の逃亡を報告し、李成式の将、趙侃が河を渡ったため、永王は息子の襄城王?と武将の高仙琦に 命じて攻撃させる。趙侃は迎え撃ち、李銑が援軍に来て、襄城王?は矢を受け、軍は壊滅する。永王は高仙琦ら残兵とともに、 南方に逃れる。大?嶺にて、江西采訪使・皇甫?が遣わした兵に敗れ、襄城王?は戦死し、永王は戦いの最中に矢に当たったために捕らえられた。このとき兄の粛宗は永王を避難先の蜀に送るように命じたが、皇甫?自身の判断で永王はそのまま斬られた。薛鏐らも皆、殺された。 同時に永王の幕僚だった李白も連坐されたが、後に解放された。
皇甫先は永王の家族を蜀に帰したが、独断で永王を殺したために、粛宗に罷免された。


睿宗(えいそう)
唐朝の第5代・第8代皇帝。高宗の第8子で、中宗の弟に当たる。
684年、兄の中宗が母の武則天によって廃位されたことにより即位した。 その即位は武則天の傀儡であり、政治的な実権は皆無であった。 690年、武則天が自ら皇帝に即位すると廃位された。 705年、武則天の死の直前に中宗が復位し、李旦は安国相王に封じられる。 710年にはその中宗が韋皇后により毒殺された後、韋后一派を三男の李隆基(玄宗)と 協力して排除し、甥の李重茂(殤帝)を廃して再び帝位についた。 712年、玄宗に譲位し太上皇帝を称した。716年に55歳で崩御した。


慧遠(えおん)
(334年 - 416年)は、中国の東晋、廬山に住んだ高僧。隋代、浄影寺の慧遠と区別して廬山の 慧遠とも呼ばれる。俗姓は賈氏。中国仏教界の中心的人物の一人である。
雁門郡楼煩県(山西省寧武県)出身の人である。21歳の頃に釈道安の元で出家した。 道安に随って各地を転々としたが、襄陽に住した時に前秦の苻堅が侵攻し、道安を長安に連れ 去ったため、慧遠は師と別れて南下し、湖北省の荊州上明寺に移った。
その後、江西省の潯陽に至って廬山に入り、西林寺、のち東林寺に住した。それ以後30年余り、 慧遠は一度も山を出なかったという。この事実を踏まえて創作された「虎渓三笑」の話が知られる。
401年(隆安5年)に、鳩摩羅什が関中に入り国師として後秦の都長安に迎え入れられると、 慧遠は鳩摩羅什と往復書簡を交わし、新出の経典についての疑問点等をただした。 その書簡集が『大乗大義章』である。
402年(元興元年)、慧遠は同志123名とともに、廬山山中・般若台の阿弥陀仏像の前で、 念仏実践の誓願を立てる。これによって、慧遠は白蓮社の祖と仰がれることとなる。 ただし、慧遠の念仏行は、後世の浄土三部経に基づく称名念仏とは異なり、 『般舟三昧経』に基づいた禅観の修法であった。
さらに、当時、廬山を含む長江中流域の覇者であった桓玄に対して、仏法は王法に従属しないことを 正面きって説いたのが『沙門不敬王者論』である。
持戒堅固な慧遠は戒律の整備にも努め、『十誦律』の翻訳及び普及に尽力した。


越王勾践(えつおうこうせん)
(? - 紀元前465年)は、中国春秋時代後期の越の王。 范蠡の補佐を得て当時華南で強勢を誇っていた呉を滅ぼした。春秋五覇の一人に数えられることもある。 句践とも表記される。越王允常の子で、楚の恵王の外祖父にあたる。 紀元前496年、越を強勢に築き上げた父の允常が逝去すると、太子勾践が後を継いだ。 宿敵の允常の訃報を聞いた呉王闔閭は喪中に服した越を滅ぼすべく大軍を率いて攻め込んだ。 しかし、?李(現・浙江省嘉興市)で、范蠡の奇策によって呉軍は大敗し、 越の武将霊姑孚が放った矢で片足を破傷した闔閭はこれが原因で陣没する。代わって太子の夫差が呉王として即位した。 夫差は、伍子胥の補佐を得て呉を建て直し、越に攻め込んで今度は越を滅亡寸前までに追い詰めた。 勾践は范蠡の進言に従って夫差に和を請い、夫差は伍子胥の猛烈な反対を押し切ってこれを受け入れた。 勾践は呉に赴き夫差の召し使いとして仕えることになったが、范蠡の工作により程なくして越に戻ることになった。 勾践はこのときの悔しさを忘れず、部屋に苦い肝を吊るして毎日のようにそれを舐めて呉に対する復讐を誓った。 前述の夫差と合わせて臥薪嘗胆という故事の元となった逸話である。 越は着々と国力を蓄え、夫差が中原の会盟に出かけたときを狙って呉に攻め込んだ。 呉の太子友は斬られ、夫差は慌てて呉へ引き返してきたが、これより4年後に呉は越に滅ぼされることになる。 呉を滅ぼした勾践は、越の都を現在の江蘇省の連雲港に遷し、更に諸侯を会盟して中原の覇者となった。 ただ、覇者となった勾践は讒言を信じるようになり腹心の范蠡が去り文種を自殺させたりと越を衰退させる結果となった。



王 安石(おう あんせき)
(天禧5年11月12日(1021年12月18日) - 元祐元年4月6日(1086年5月21日))は、北宋の政治家・詩人 ・文章家。字は介甫、号は半山。撫州臨川(江西省撫州市)の人。新法党の領袖。神宗の政治顧問と なり、制置三司条例司を設置して新法を実施し、政治改革に乗り出す。文章家としても有名で、 仁宗に上奏した「万言書」は名文として称えられ、唐宋八大家の一人に数えられる。また詩人としても 有名である。儒教史上、新学(荊公新学)の創始者であり、『周礼』『詩経』『書経』に対する 注釈書『三経新義』を作り、学官に立てた。
王安石の父・王益は地方官止まりの官僚で、王安石の家は家族が多く、豊かでなかった。 1042年(慶暦2年)、22歳の時に4位で進士となる。その後は家族を養うため、中央官僚より給料が よかった地方官を歴任する。
1058年(嘉祐3年)、王安石は政治改革を訴える上奏文を出して、大きく注目された。 後に王安石と激しい論戦を繰り広げる事になる司馬光らもこの時期には王安石を賞賛する声を 送っていた。この声を受けて1067年(熙寧2年)、神宗に一地方官から皇帝の側近たる翰林学士に 抜擢され、更に1069年には副宰相となり、政治改革にあたることになる。
王安石は若手の官僚を集めて制置三司条例司という組織を作り、改革を推し進めた。 1070年(熙寧5年)には首席宰相となり、本格的に改革を始める。新法の具体的な内容に関しては 新法・旧法の争いを参照のこと。王安石の新法の特徴は大商人・大地主達の利益を制限して 中小の農民・商人たちの保護をすると同時に、その制度の中で政府も利益を上げるというところにある。 まず1074年(熙寧7年)に河北で大旱魃が起こったことを「これは新法に対する天の怒りである。」 と上奏され、これに乗った皇太后高氏・宦官・官僚の強い反対により神宗も王安石を解任せざるを 得なくなり、王安石は地方へと左遷された。新法派には王安石以外には人材を欠いており、 王安石の後を継いで新法を推し進めていた呂恵卿などは権力欲が強く、新法派内部での分裂を招いた。 翌年に王安石は復職するが、息子の王?(おうほう)(中国語版)(1044年 - 1076年)の死もあり 王安石の気力は尽きて1076年(熙寧9年)に辞職し、翌年に致仕(引退)して隠棲した。
1085年(元豊8年)に神宗が死去し、翌年には王安石も死去する。神宗が死ぬと新法に大反対であった 皇太后により司馬光が宰相となり、一気に新法を廃止するが、間もなく司馬光も死去する。 王安石・司馬光の両巨頭亡き後の新法と旧法の争いは醜い党争に堕し、どちらかの派閥が 勝利するたびに法律も一新されることが繰り返され、大きな政治的混乱を生むことになる。 この混乱が北宋滅亡の大きな原因とされる。
王安石は文学者としても優れており、その作品は『臨川集』にまとめられている。散文家としては 「唐宋八大家」の一人に数えられ、代表作としては前述の「万言書」や「孟嘗君伝を読む」などが あげられる。
詩人としては用語・構成ともに入念に考え抜かれ、典故を巧みに用いた知的で精緻な作風が特徴である。 特に七言絶句は北宋第一とされ、欧陽脩や蘇軾のような旧法党の人々からも高い評価を得ていた。 また先人の詩句を集め、そのイメージを受け継いだり変化させたりすることによって新しい詩を 作るという手法(集句)に強い関心を示したが、これは黄庭堅に代表される江西詩派の主張する 「換骨奪胎法」にと受け継がれることになった。
なお、「紅一点」の由来として王安石の作とされる詩が挙げられる。すなわち、 「石榴」の 「万緑叢中一点紅 、人を動かす春色は須く多かるべからず」という句である。もっとも、 現行本の『臨川集』には確認できず、一説には唐人の作ともされる[1]。 また、漢字の由来を述べた大著『字説』を著した。


王維(おうい)
生卒年は『旧唐書』によれば699年 - 759年、『新唐書』では701年 - 761年。以降の記述は一応『新唐書』に準拠、 (長安元年 - 上元2年)は、中国唐朝の最盛期である盛唐の高級官僚で、時代を代表する詩人。 また、画家、書家、音楽家としての名も馳せた。字は摩詰、最晩年の官職が尚書右丞であったことから王右丞とも呼ばれる。 河東(現在の山西省永済市)出身。
同時代の詩人李白が”詩仙”、杜甫が“詩聖”と呼ばれるのに対し、その典雅静謐な詩風から詩仏と呼ばれ、 南朝より続く自然詩を大成させた。韋応物、孟浩然、柳宗元と並び、唐の時代を象徴する自然詩人である。 とりわけ、王維はその中でも際だった存在である。画についても、“南画の祖”と仰がれている。

若年時代
父は、汾州(山西省汾陽市)司馬になった後、河東に移り住んだ王処廉。母の崔氏は敬虔な僧の普寂に師事していた仏教徒で、 王維はその影響を強く受けながら成長した。名の維と字の摩詰とは、『維摩経』の主人公である居士の“維摩詰”の名を分割した ものである。風姿が洗練されていて上品で、博学多芸であり、幼少から文名を挙げ、音律にすぐれ、琵琶に通じていた。 15歳のころから都に遊学し、詩によって、開元年間からすでに盛名があり、王族や貴顕からも厚く迎えられ、 さらに名声を高めた。玄宗の兄の寧王・李憲や玄宗の弟である薛王・李業に至っては、師や友のように彼に対していた。 15歳頃に彼が作成した詩が現存している。
親孝行で兄弟とも親しみ、妻との仲も「友愛の極」であったと伝えられる。そればかりでなく、草書、隷書にすぐれ、 音楽についても、音楽演奏の図を見ただけで、「霓裳羽衣の曲の第三畳最初拍」と即答したという説話に残っている。 さらに、画にも多大な才能を有していた。
玄宗のもう一人の弟である岐王・李範のもとにも出入りしており、「集異記」に張九齢の弟である張九皐と府試 (科挙の長安で開かれる予備試験)で争い、岐王の楽人に扮して、権勢の誇っていた公主(名は不明)のもとに赴き、 その容姿、琵琶の技術、詩の才、風流ぶりと諧謔を解した話術、岐王の口添えによって、府試の解頭(首席) となることができたという説話が残っている。また、「本事詩」に、寧王・李憲の邸宅において、李憲が寵愛していた女性が、 自分を譲り渡したかつての夫と会い、涙を流す場面で、李憲に詩作を命じられ、並み居る文人たちの中でただ一人 「息夫人」の詩を詠んだという説話も記載されている。


王 翰(おうかん)
中国・唐の詩人。并(へい)州晋陽(山西省太原市)の出身。字は子羽(しう)。
豪放な性格で、酒を好み、家に名馬と美妓を集めて、狩猟や宴会に日を送っていた。睿宗(えいそう)の景雲2年(711年)、 進士に及第し、張説(ちょう えつ)に認められて駕部員外郎に任ぜられたが、説の失脚とともに汝州(河南省臨汝) 刺史として都を追われ、次いで仙州(河南省葉県)別駕に左遷されたうえ、素行が治まらぬと弾劾され、道州(湖南省道県) 司馬に流されて死去。作品に、『涼州詞(りょうしゅうし)』(七言絶句)がある。


王羲之(おうぎし)
303年 - 361年、中国東晋の政治家・書家。字は逸少。右軍将軍となったことから世に王右軍とも呼ばれる。 本籍は琅邪郡臨沂(現在の山東省臨沂市)。魏晋南北朝時代を代表する門閥貴族、琅邪王氏の出身である。
曾祖父は王覧(王祥の弟)、祖父は王正、父は王曠(東晋の淮南太守)。子に王玄之(長男)、王凝之(次男)、 王渙之(三男)、王粛之(四男)、王徽之(五男)、王操之(六男)、王献之(七男)がいる。 子孫に王楨之(徽之の子)、智永らがいる[2]。
王羲之は魏晋南北朝時代を代表する門閥貴族、琅邪王氏の家に生まれ、東晋建国の元勲であった同族の王導や王敦らから 一族期待の若者として将来を嘱望されていた[8]。東晋の有力者である?鑒の目にとまりその女婿となり、またもう一人の 有力者であった征西将軍・?亮からは、彼の幕僚に請われて就任し、その人格と識見を称えられた。その後も羲之は朝廷の 高官から高く評価され、たびたび中央の要職に任命されたが、羲之はそのたびに就任を固辞した。 友人の揚州刺史・殷浩による懇願を受け、ようやく護軍将軍に就任するも、しばらくして地方転出を請い、 右軍将軍・会稽内史(会稽郡の長官、現在の浙江省紹興市付近)となった。
羲之は会稽に赴任すると、山水に恵まれた土地柄を気に入り、次第に詩、酒、音楽にふける清談の風に染まっていき、 ここを終焉の地と定め、当地に隠棲中の謝安や孫綽・許詢・支遁ら名士たちとの交遊を楽しんだ。 一方で会稽一帯が飢饉に見舞われた時は、中央への租税の減免を要請するなど、地方行政にも力を注いでいる。
354年、かねてより羲之と不仲であった王述(琅邪王氏と遠縁筋の太原王氏出身)が会稽内史を管轄する揚州刺史となる[9]。 王羲之は王述の下になることを恥じ、会稽郡を揚州の行政機構からはずすよう要請したが却下された。 王述が会稽郡にさまざまな圧力をかけてくると、これに嫌気が差した王羲之は、翌355年、病気を理由に官を辞して隠遁する。 官を辞した王羲之はその後も会稽の地にとどまり続け、当地の人士と山水を巡り、仙道の修行に励むなど悠々自適の生活を 過ごしたという。
衛恒(衛?の子)の族弟である衛展の娘で、汝陰の太守李矩の妻となった衛夫人から、後漢の蔡?、魏の鍾?の書法を伝授され、 その法を枕中の秘とした。7歳の時から衛夫人のもとで書を学び、12歳の時に父の枕中の秘書を盗み見、その技量が進んだ。 さらに各地を巡って古書を見、寝食を忘れて精進し、楷書・行書・草書の各書体について一家をなした。


王献之(おう けんし)
(344年 - 386年)は、中国、東晋の書家。字は子敬。王羲之の第7子。中書令となったことから 世に王大令とも呼ばれる。
書道の大家で、父の王羲之とともに二王(羲之が大王、献之が小王)あるいは羲献と称される。 王羲之の諸子はみな能書家であり、王献之は最年少であるが書の天分に恵まれ、羲之の書より逸気に 富んでいるといわれているが、骨格だけは父には及ばないといわれている。
王献之の書の特徴の一つとして一筆書(いっぴつしょ)があげられる。一筆書とは中秋帖などに 見られる続け書き(連綿)のことで、この書風は王鐸や米?などに影響を与えた。



王之渙(おう しかん)
(688年 - 742年)唐の詩人。并州晋陽(山西省太原市)の出身。字は季陵。
開元年間の初めに冀(き)州衡水(こうすい)県(河北省)の主簿に就いたが、 他人とうまくゆかずに辞職し、15年間無官で過ごして、晩年に文安県(河北省)の尉に就いた。 当時、詩名は高く、その詩は人々に愛誦されたと伝えられている。
「王之奐」としている本もある。


王昭君(おう しょうくん)
(紀元前1世紀ごろ)は、匈奴の呼韓邪単于、復株累若?単于の時代の閼氏(単于の妻)。姓を王、諱は牆 (『漢書』匈奴伝下)または?(『西京雑記』)。字を昭君。晋・司馬昭の避諱により王明君・明妃ともいう。 日本では通常、王昭君と呼ばれるが、地元(フフホトの方)では単に昭君と呼ばれている。 荊州南郡(現在の湖北省沙市)出身で、楊貴妃・西施・貂蝉と並ぶ古代中国四大美人の一人に数えられる。
前漢の元帝の時代、匈奴の呼韓邪単于が、漢の女性を閼氏(匈奴の言葉で君主の妻)にしたいと、元帝に依頼したところ (逆に漢王朝が持ちかけたという説もある)王昭君が選ばれた。以後、王昭君は呼韓邪単于の閼氏として一男を儲けた。
その後、呼韓邪単于が死亡したため、当時の匈奴の習慣に倣い、義理の息子に当たる復株累若?単于の妻になって二女を儲けた。 漢族は父の妻妾を息子が娶ることを実母との近親相姦に匹敵する不道徳と見なす道徳文化を持つため、 このことが王昭君の悲劇とされた。『後漢書』によると、呼韓邪単于が亡くなり、匈奴の習慣に習い息子の復株累若?単于の 妻になった。そのとき、王昭君は、反発したが漢王朝から命令されしぶしぶ妻になったとの記述がある。 こうした悲劇は『西京雑記』などで書き加えられ、民間にその伝承が広まった。
後世有名になった画工への賄賂の話は『西京雑記』にはじめて見える。それによると、 宮女たちはそれぞれ自分の似顔絵を美しく描いてもらうため、似顔絵師に賄賂を贈っていたが、 王昭君はただ一人賄賂を贈らなかったため、元帝の目に留まることがなかった。王昭君が匈奴への嫁として選ばれ、 皇帝に別れを告げるための式で王昭君を初めて見た元帝は、王昭君の美しさに仰天したが、 この段階になって王昭君を匈奴へ贈る約束を撤回すれば匈奴との関係が悪化することは明らかだったため撤回はできなかった。 その後の調査で、宮女たちから多額の賄賂を取り立てていた画家の不正が発覚したため、 元帝は似顔絵師を斬首刑に処した。当時の有名な画家であった毛延寿もこの事件で死刑になったという。
しかし、これには疑問が多い。匈奴は当時の漢にとって最も重要な外交相手であり、 その相手に対して敢えて醜い女を渡すといった無礼をするとは考えにくい。これらの話は五胡十六国時代 ・南北朝時代に鮮卑に支配されていた漢族たちが自分たちの境遇を託したものではないかと考えられる。
『西京雑記』のほか、後宮に入ったものの数年間天子の寵愛を受けることがなかったことを怨み自ら志願した (『後漢書』南匈奴伝)、子との結婚を拒否して服毒自殺した(『世説新語』賢媛篇の注に引く『琴操』)など、 様々に潤色された王昭君の物語は、王朝と異民族との狭間で犠牲となり、 文化・習俗・言語の異なる塞外の地で辛苦した薄幸の美女として好んで題材にされ、晋代の『王明君辞』、 元の馬致遠の雑劇『漢宮秋』などに作品化された。日本では、『今昔物語集』に巻第十第五に「漢前帝后王昭君行胡国語」 として取り上げられている。『和漢朗詠集』に大江朝綱が王昭君をうたった漢詩が見え、 『後拾遺和歌集』には赤染衛門が王昭君をうたった和歌を載せる。
王昭君はしばしば馬上に琵琶を抱いた姿で絵に描かれるが、『漢書』などには王昭君が琵琶を弾いたことは見えない。 西晋の傅玄「琵琶賦」(『初学記』、『通典』が引用する)に烏孫公主のために琵琶を作ったという古老の説が見えており、 それが王昭君の話にすりかわったものらしい。
王昭君の墓の位置は数ヵ所以上が伝えられるが、『通典』巻179 州郡・単于府・金河條に記される (昭君墓の位置に関する最も早い文献中の記述)、現在の内モンゴル自治区のフフホト市にあるものが有名である。 陵墓の周囲には王昭君の郷里の家を再現した建物や庭園が整備され、また敷地内には匈奴博物館などがあり、 観光スポットとして人気が高い。
王昭君の墓は盛唐以降、「青塚(青冢)」(せいちょう)と呼ばれ、李白は「生きては黄金を乏(か)き枉(ま) げて図画(ずが)せられ(画工に賄賂を贈らなかったがために醜く描かれ) 、死しては青塚を留めて人をして嗟(なげ)かしむ」(「王昭君 二首 その一」)と歌い、 杜甫は「一たび紫台を去りて朔漠連なり(漢の宮殿を去って匈奴に嫁いで以来、果てしなく広がる北の砂漠に暮らした)、 独(ひと)り青塚を留めて黄昏に向(あ)り(今はたそがれの弱々しい光の中にわずかに青塚を留めるばかり)」 (「詠懐古跡 五首 その三」)と詠んだ。白居易や張?らは青塚を詩題とする作品を為し、 かくて王昭君墓を表現する固有名詞となった[1]。敦煌発見のペリオ将来「王昭君変文」(絵を用いた講釈の台本)にも 「墳高數尺号青塚」の表現が見え、「青塚」の表現が広く一般に定着していたことが知れる[2]。
「青塚」の名は、『太平寰宇記』巻38 振武軍・金河県條に「青冢、県の西北に在り。漢の王昭君、此に葬らる。 其の上、草の色、常に青く、故に青冢と曰ふ。」とあり、また漢・蔡?撰『琴操』(散逸。実際は南北朝期の偽作) 「胡中、白草多きも、此の冢独(ひと)り青し。」[3]とある様に、「一面の白沙白草の胡地に、 王昭君の墓所のみ青草が生い茂る」ことに由来し、この伝説は、「王昭君の魂魄の再生復活をその青草に期待し、 願望したもの」[4]である。


王昌齢(おうしょうれい)
(698年?~755年)中国・唐代中期の詩人。字は少伯。就任した官職の地名から、王江寧、王竜標とも称せられる。 山西省太原に本籍を持ち、京兆・長安に生まれたらしい。開元15年(727年)に進士となり、祕書省の校書郎から 開元22年(734年)に博学宏詞科に及第して汜水(河南省)の県尉となったが、奔放な生活ぶりで江寧の丞・竜標(湖南省)の 県尉に落とされた。その後、天宝14年(755年)、安禄山の乱の時に官を辞して故郷に帰るが、刺史の閭丘暁に憎まれて殺された。


王 縉(おう しん)
(聖暦3年(700年)? - 建中2年(781年))唐代の政治家。代宗朝に宰相を務めた。唐代を代表する 詩人王維の弟。太原祁県(現在の山西省)の人。字は夏卿。
山東の太原王氏という門閥貴族に生まれる。父は汾州(現在の山西省)司馬を務めた王処廉。 幼少のころから学問を好み、兄・王維と共に文名が高かった。草沢及び文辞清麗科で科挙に及第し、 侍御史・武部員外郎を歴任する。
安史の乱に際しては、太原少尹として李光弼と共に太原を守って功績を挙げ、憲部侍郎を加えられる。 この時兄・王維が安禄山に囚われ、強要されてその政権の官職に就いていたため、 乱が終結した際には厳罰に処せられるところを、王縉が自らの官を贖って兄の罪をとりなし減刑された。
唐朝が長安・洛陽を回復してからは、鳳翔尹・秦隴防禦使・工部侍郎・左散騎常侍・兵部侍郎と 重職を歴任し、史朝義が平定された時には特に詔を受けて不安定な河北の宣撫にあたった。 広徳2年(764年)には黄門侍郎・同中書門下平章事・太微宮使・弘文崇賢館大学士に任ぜられ、 宰相に列した。その年にかつて共に戦った李光弼の死を受け、侍中・持節都統河南・淮西・ 山南東道諸節度行営事に任ぜられるが、王縉は侍中を辞退したため、上柱国・東都留守を加えられた。 続いて河南副元帥に任じられ、盧龍節度使李懐仙が殺される混乱が起きると盧龍節度使に移り、 幽州(現在の北京周辺)に赴いて混乱を収めた。さらに辛雲京の死によって太原尹・北都留守・ 河東節度使に任ぜられると、王縉を書生と侮った河東藩鎮の旧将を斬刑に処して威厳を示した。 大暦5年(770年)、太原より帰朝し、改めて門下侍郎・同中書門下平章事に任ぜられ宰相に列した。 このように節度使・宰相として内外に重用された王縉であるが、政治的には当時専権を振るっていた 宰相元載におもねる一方であり、また才能を恃んで他人を侮蔑した。
兄・王維と同じく仏教に深く帰依し、妻・李氏が亡くなると捨財して宝応寺を造立し、 節度使が入朝する度に寺に参詣させ施財させた。また、同列の宰相杜鴻漸と共に代宗に仏教信仰を薦め、 国費を仏教に費やした。この頃長安仏教界で活躍した不空(密教第四祖)に帰依し、 その五台山金閣寺造立にも全面的に協力した。このように政治を顧みず、仏教三昧の生活を送ったこと は『旧唐書』『新唐書』『資治通鑑』といった史書で大いに非難されている。 大暦12年(777年)、元載が失脚し誅殺されると、王縉は連座して括州(現在の浙江省)刺史に 左遷された。その後、処州(現在の浙江省)刺史に移されたが、徳宗即位直後の大暦14年(779年)、 同じく元載派として左遷されていた楊炎が門下侍郎・同中書門下平章事に抜擢されると共に、 王縉も太子賓客・留司東都として復帰した。徳宗朝の建中2年(781年)12月、82歳で卒した。


王 導(おう どう)
(276年 - 339年)晋代の政治家。字は茂弘。西晋及び東晋に仕え、彼の働きによって琅邪王氏は六朝時代の南朝を代表する 名門貴族となった。王覧の孫で王裁の子。王悦、王恬、王洽、王協、王劭、王薈などの父。東晋の大将軍王敦は従兄、 書家の王羲之は従甥に当たる。



王 莽(おう もう)
新朝の皇帝。字は巨君。『漢書』などに記されている「莽」の字の草冠の下の字は大ではなく 犬である。
前漢の元帝の皇后・王政君(孝元皇后)の甥で、成帝の母方の従弟に当たる。 王曼(おうまん)の次男で、王宇・王獲・王安・王臨・王興・王匡らの父。孫(王宇の子)は王宗。 娘に平帝の皇后王氏、王曄、王捷らがいる。正妻は宜春侯王咸[1]の娘。また、王永の弟で、 王光の叔父。
魏郡元城県(現・河北省邯鄲市大名県の東方)の人。 皇后に立てられた伯母の王政君の縁故で伯父達が列侯に封ぜられ高官として裕福な暮らしを送る中で、 父・王曼と兄・王永が早世したために王莽の一家のみが侯に封ぜられず貧しかった。 王莽は恭倹に身を持し、沛郡の陳参に師事して『礼経』を受け、身を勤め学を広め、 儒生並の服装をし、母と兄嫁に仕えた。また、甥の王光を養子として実子以上に熱心に養育し、 それに王莽の妻が不平を述べたと伝えられる。
壮年となり、伯父の大将軍王鳳が病むとその看病を続けたため、王鳳は死に臨んで成帝と王政君に 王莽を託す。これ以後、王商や王根の推挙と皇太后となった王政君の後ろ盾を背景に王莽は順調に 出世する。親戚の淳于長を失脚させ、大司馬となると、王莽の勢いは飛ぶ鳥を落とすほどになり、 永始元年(前16年)には新都侯に封ぜられる[2]。綏和2年(前7年)に哀帝が即位すると哀帝の祖母の 傅太后・母の丁姫との対立により大司馬を罷免され、2年後には封国の新都へ追いやられたが、 国政復帰の嘆願が多く出され、元寿元年(前2年)の日食を契機に長安に呼び戻された。
元寿2年(前1年)に哀帝が崩じると、哀帝から皇帝の璽綬を託されていた大司馬董賢から璽綬を強奪し、 中山王劉?(平帝)を擁立して大司馬に返り咲いた。暫くして古文経学の大家だった劉?を始めとした 儒学者を多く招き入れて、儒学と瑞祥に基づいた政策を実施。その一方で民衆の支持を獲得するため には手段を選ばず、次男の王獲を奴僕を殺したことで罪に問い、長男の王宇を謀略を為したことで 獄に送って、共に自殺に追い込んでいる。娘を平帝の皇后に冊立し、宰衡、安漢公となった後、 5年には14歳になった平帝が死去した。平帝の死因については後世王莽による毒殺とされることが あるが[3]、漢書本文にはそのようなことは書かれておらず、平帝は幼少時から病弱であったため、 病死である可能性が高い[4] 。後継として遠縁の広戚侯劉顕の子・劉嬰を立てるも皇帝ではなく 皇太子とし、「符命」(一種の予言書にあたるもの)に基づいて自らが摂政として皇帝の業務を 代行することとした。そして自らの呼称を「仮皇帝」・「摂皇帝」としてほぼ皇帝と同格の扱いとし、 居摂と改元、周公旦の故事に倣って朝政の万機を執り行った。
更に天下を狙う王莽は古文を典拠として自らの帝位継承を正当化づけようとした。折しも、 哀章という人物が高祖の予言という触れ込みの「金匱図」・「金策書」なる符命を偽作し[5]、 また他にも王莽の即位を後押しする符命が出現していた。そこで、これらの符命などを典拠として 居摂3年(8年)に王莽は天命に基づいて禅譲を受けたとして自ら皇帝に即位、新を建国した。 この出来事は歴史上で初めての禅譲であり、簒奪に相当する。
『漢書』元后伝によると、太皇太后として伝国璽を預かっていた王政君は、玉璽の受領にやってきた 王莽の使者王舜(王莽の従兄弟)に対して向かって王莽を散々に罵倒し、それでも玉璽の受領を 迫られると玉璽を投げつけて「お前らは一族悉く滅亡するであろう」と言い放ったと伝えられている。 しかし栗原朋信によると、伝国璽の話は王莽伝に見えず、金策書で革命は完成しているのであって 伝国璽は必要ない。またそもそも伝国璽は後漢になって出現したもので、王莽の時代には存在せず、 この話をそのまま史実と考えることはできない[6]。
王莽は周代の治世を理想とし、『周礼』など儒家の書物を元に国策を行った[7]。だが、 現実性が欠如した各種政策は短期間に破綻した。また匈奴や高句麗などの周辺民族の王号を取り上げ、 華夷思想に基づく侮蔑的な名称(「高句麗」を「下句麗」など)に改名しようとしたことから 周辺民族の叛乱を招き、それを討伐しようとしたが失敗した。さらには専売制の強化(六?)なども 失敗し、新の財政は困窮した。
そうした中、農民・盗賊・豪族が与した反乱が続発(赤眉の乱・緑林軍など)。緑林軍の流れを汲む 劉玄(更始帝)の勢力を倒そうと王莽が送った公称100万の軍勢も昆陽の戦いで劉玄旗下の劉秀 (光武帝)に破られるなど諸反乱の鎮圧に失敗し、各地に群雄が割拠して大混乱に陥る。 地皇4年(23年)、遂には頼む臣下にも背かれて、長安城には更始帝の軍勢が入城、王莽はその混乱の 中で杜呉という商人に殺された。享年68。これにより新は1代限りで滅亡した。王莽の首級は更始帝の 居城宛にて晒され、身体は功を得ようとする多くの者によって八つ裂きにされたという。
伝統的には王莽の評価はきわめて低く、王莽については政治面ばかりか人間性まで含めて批判的な 評価が下されている。『漢書』を著した班固は「王莽伝」賛で以下の様に評している。
王莽は口が大きく顎が短く、出目で瞳が赤く、大きなガラガラ声を出す。身長は7尺5寸(約173cm)も あるのに、底の厚い靴と高い冠を好み、ゴワゴワした張りのある毛を衣服に入れ、胸を反らして 高いところを見、遠くを眺めるような目つきで左右の目を見る。
こうした外見や人当たりに殊更拘りを見せ、儀式の際には髭や髪を黒く染めて若く見せようとした 一方、符命や瑞祥によって自らの登用や即位を正当化させようとした際にも自ら渋々受ける振りを するなど奸智に長けていたと言われている。
加えて王莽の治世においては余りにも異常な政策が実行されたことが、『漢書』では事細かに 記されている。
王莽に叛いた?義と共謀した王孫慶を捕え、太医に解剖させたことがある。五臓や血管について 記録させ、「これで病気の治療法が判る」と言った(『漢書』王莽伝中)。
天に救いを求めるために、泣き声の悲哀な者を郎(官僚)に取り立てた。このため、郎の数だけで 5000人に達したと言う(王莽伝下)。
ある人が一日に千里を飛び、匈奴を偵察できると言った。王莽がこれを試させたところ、 大鳥の翼をつけ、全身に羽毛をまとい、紐でつなぐ仕組であった。この者は数百歩飛んで墜落した (王莽伝下)。
この様な失政の数々や人間性の問題もあって、前近代において王莽は姦臣の代表格として 看做されることが多い。呉承恩は、『西遊記』で孫悟空が暴れた時期(山に封じられるまで)を 王莽の時代と設定したが、これは「暴君・王位簒奪者・偽天子が皇位にある時、天変地異が起こる」 という伝承を王莽の簒奪と重ねていると見られる。また日本においても、 『藤氏家伝』大織冠伝が蘇我入鹿の政を「安漢の詭譎」と批判して以来、『平家物語』も 趙高・安禄山らと並ぶ朝敵として王莽の名を挙げ(巻1)、木曾義仲の横暴ぶりを王莽に例える (巻8)など姦臣の代表格として扱われている。
1920年代から一転して、王莽を改革者として高く評価する学者が現れた。日本では吉田虎雄が 王莽の社会政策を評価し、中国では胡適が王莽の六?政策などを評価して「1900年前の社会主義者」 と呼び、王安石と並ぶ中国の改革者とした。ドイツのオットー・フランケも王莽を国家社会主義的 政策を行ったと評価した[8]。しかしこれらの評価は現代的な価値観を直接王莽に投影したものであり、 一面的である[8]。
西嶋定生は儒教が武帝のときに国教化されたという従来の説に反対し、国家の祭祀儀礼の改革や 儒教国教化の完成などの大部分は王莽が大司馬であった平帝時代に完成したとする。 王莽の政治には儒教主義がはじめてあらわれ、これは後世の中国王朝国家の性格を規律することに なったとして、西嶋は王莽政権の歴史的意義を重視する[9]。
渡邉義浩は、儒教に基づく国制(古典中国)を特徴づける14項目のうち10項目までが王莽によって 確定されたものであるとした[10]。また新の建国後、王莽は合理的で完成度の高い古文説によったが、 渡邉によると儒教の理想と具体的国政が乖離していたために改革は失敗し、後漢になって理想と 現実の調整が行われたとする[11]。
王莽の社会政策の中で後世に影響したものとしては王田制がある。王田制そのものは早々と 土地売買の禁止を廃止したために有名無実化したが、後の均田制の源のひとつとして早くから 注目された[12]。
漢朝臣下の時代に王莽自ら定めた「皇帝の即位儀礼」は光武帝以降の歴代皇帝に受け継がれ、 即位式に際してはこれに基づき諸儀礼が行われた。学・校という儒学の校舎を全国に設置して 勉強を奨励させたのも王莽の治下であり、結果的に後漢期には儒学を学ぶ人物が多くなったとも 言われる[13]。
また復古政策の一環として前漢中期頃から増え始めた[要出典]二字名を禁止した[14](二名の禁)。 王莽滅亡後もなぜか影響は残り、二字名が再び増加するのは南北朝期以降となる[要出典]。



欧陽 脩(おうよう しゅう欧陽修とも)
景徳4年6月21日(1007年8月6日) - 熙寧5年閏7月23日(1072年9月8日)[1])は、北宋仁宗から 神宗期の政治家、詩人・文学者、 歴史学者。字は永叔、醉翁・六一居士と号す。謚号は文忠。唐宋八大家の一人。
吉州廬陵県(現在の江西省吉安市)の人とされるが、出生地は父の任地の綿州(現在の四川省綿陽市) である。数え年四歳で父を失い、以降は叔父が住んでいた随州で育った。正規の教育によらず 自学自習で、1030年(天聖8年)進士に及第、包拯を継いで、開封府尹の任に就く。 高官への途が開けたが、この環境で培われた独立不羈の思想は、彼の特質のひとつであり続けた。 また、少年時代に知人の家で韓愈の文集に接し強く影響を受けている。 以後、館閣校勘等を歴任するが、1036年(景祐3年)、改革派の范仲淹を越権してまでも 弁護したため、夷陵県令に左遷された。
約10年の地方勤務後、中央に返り咲き諌官に任ぜられ、范仲淹らと慶暦の改革を進めるも、 仁宗の不興を買い、1045年(慶暦5年)には誹謗されて?州(安徽省)の知事に再び左遷された。
数年を経て、再び中央に返り咲き、翰林学士等要職を歴任。1057年(嘉祐2年)権知礼部貢挙に上り 、科挙試験を監督、蘇軾を見いだす。その後、枢密副使・参知政事(副宰相)に至り、 蘇洵や王安石を登用した。王安石の新法を早くから支持していたが、 実際に新法が実施されてみると、逆に青苗法に対してきびしい論考を張るなど、 最も強力な反対派の1人になり、そのまま政界を引退した。引退翌年の1072年(熙寧5年)、 隠棲先である潁州(安徽省)にて没した[2]。子は欧陽発、欧陽奕、欧陽?、欧陽辯がいる。
文学及び歴史学上の事跡
散文においては韓愈の例に倣い、いわゆる古文復興運動をすすめた。?州の自然や人々の生活を 描写した「醉翁亭記」は、有名な作品のひとつであり、中国の紀行文の最高水準のひとつとして 賞賛される。
韻文では詩(漢詩)と詞をともに書き、気取らず、ユーモラスな作風である。詩は、 晩唐の絢爛たる文体を避け、盛唐期の威風を残した無駄のない質実剛健なものである。 しかし彼は、どちらかと言えば詞で有名である。特に西湖の景物を詠じた一連の詞牌『采桑子』は、 その様式の標準となり詞を大衆化することに大きく貢献した。
文学者として、地方勤務中に『新五代史』を編み、中央に戻り宋祁とともに『新唐書』を編纂。 これらは当時の名高い経学者であった劉敞に春秋の凡例を尋ねるなどして作られたもので、 春秋学的色彩の強い書物として評価された(ただし清朝になり史実重視の立場が勃興すると、 従来評価されていた文学的側面が逆に批判される様になった)。また金石文の収集を好み、 『集古録』にまとめるなど金石学の発展に大きく寄与した。
欧陽文忠公集
欧陽脩の一連の作品は、南宋の周必大により『欧陽文忠公集』にまとめられている。 『欧陽文忠公集』の南宋本は数少なく、日本の天理図書館が蔵する旧金沢文庫蔵本153巻は 日本の国宝に指定されている。
2011年、天理本の中にそれまでに知られていなかった欧陽脩の書簡96篇が含まれていることが 発見された[3][4]。
日本刀歌
『日本刀歌』は日本についてうたった詩で、この詩の中で欧陽脩は徐福が日本にいたったことをいい、 その時代が焚書坑儒以前であったため、日本には「逸書百篇」(失われた『書経』の篇)が残る、 といっている。もちろんこれは詩的誇張にすぎないが、日本に残る佚存書に言及したものとして 注目される。
『日本刀歌』は中国人の日本観のみならず、日本人の歴史観にも影響を及ぼした。 『神皇正統記』の中で、「始皇帝が日本に長生不死の薬を求めたのに対し、 日本は三皇五帝の本を求めたところ、すべて送られてきた。その5年後に焚書坑儒が行われたため、 孔子の教えは日本に残ったという。この事は中国の本にも記されている」と言っている[5]のは 『日本刀歌』のことを指すと考えられる。
『日本刀歌』には、「魚皮にて装貼(そうてん)す、香木の鞘、黄と白の閑雑(かんざつ)す、 鍮(ちゅう)と銅」といった対句が記されていることから、彼の太刀は精巧な透かし彫りが施され、 鞘は鮫皮をもって巻かれていたことがわかる。加えて、「佩服(はいふく)すればもって 妖凶をはらうべし」とも述べられており、太刀の魔除け信仰についても11世紀の中国に伝わって いたことがわかる。このことは、日本刀が単なる美術品としてのみ輸出されたわけでないことを示す 資料ともなっている。
欧陽脩の言葉
三上 - 良い考えの生まれやすい状況のこと。馬上、枕上、厠上。それぞれ 「乗り物に乗っている時」、「布団で寝ている時」、「便所の中」[6]。
三多 - 文章上達の秘訣。看多、做多、商量多。それぞれ「多くの本を読むこと」、 「多く文を作ること」、「多く工夫し推敲すること」[7]。
号の「六一居士」は、「蔵書一万巻」「拓本一千巻」「琴一張」「碁一局」「酒一壷」に 囲まれた「一人の居士」を意味するという。[8]


小野篁(おののたかむら)
延暦21年(802年) - 仁寿2年12月22日(853年2月3日)、平安時代前期の公卿・文人。 参議・小野岑守の長男。 官位は従三位・参議。異名は野相公、野宰相、その反骨精神から野狂とも称された。 小倉百人一首では参議篁(さんぎたかむら)。
弘仁6年(815年)に陸奥守に任ぜられた父・岑守に従って陸奥国へ赴き、弓馬をよくした。 しかし、帰京後も学問に取り組まなかったことから、漢詩に優れ侍読を務めるほどであった岑守の子であるのになぜ弓馬の士に なってしまったのか、と嵯峨天皇に嘆かれた。これを聞いた篁は恥じて悔い改めて学問を志し、 弘仁13年(822年)文章生試に及第した。[1]
天長元年(824年)巡察弾正に任ぜられた後、弾正少忠・大内記・蔵人を経て、天長9年(832年)従五位下・大宰少弐に 叙任される。この間の天長7年(830年)に父・岑守が没した際は、哀悼や謹慎生活が度を過ぎて、 身体容貌がひどく衰えてしまうほどであったという[1]。天長10年(833年)に仁明天皇が即位すると、 皇太子・恒貞親王の東宮学士に任ぜられ、弾正少弼を兼ねる。また、同年完成した『令義解』の編纂にも参画して、 その序文を執筆している。
承和元年(834年)遣唐副使に任ぜられる。承和2年(835年)従五位上、承和3年(836年)正五位下と俄に昇叙されたのち、 承和3年と翌承和4年(837年)の2回に亘り出帆するが、いずれも渡唐に失敗する。承和5年(838年)三度目の航海にあたって、 遣唐大使・藤原常嗣の乗船する第一船が損傷して漏水したために、常嗣の上奏により、篁の乗る第二船を第一船とし 常嗣が乗船した。これに対して篁は、己の利得のために他人に損害を押し付けるような道理に逆らった方法がまかり通るなら、 面目なくて部下を率いることなど到底できないと抗議し、さらに自身の病気や老母の世話が必要であることを理由に 乗船を拒否した(遣唐使は篁を残して6月に渡海)[1]。のちに、篁は恨みの気持ちを含んだまま『西道謡』という遣唐使の 事業を(ひいては朝廷を)風刺する漢詩を作るが、その内容は本来忌むべき表現を興に任せて多用したものであった[2]。 そのため、この漢詩を読んだ嵯峨上皇は激怒して、篁の罪状を審議させ、同年12月に官位剥奪の上で隠岐への流罪に処した[2]。 なお、配流の道中に篁が制作した『謫行吟』七言十韻は、文章が美しく、趣きが優美深遠で、漢詩に通じた者で吟誦しない者は いなかったという[1]。
承和7年(840年)罪を赦されて平安京に帰り、翌承和8年(841年)には文才に優れていることを理由として特別に本位 (正五位下)に復され[3]、刑部少輔に任ぜられる。承和9年(842年)承和の変により道康親王(のち文徳天皇) が皇太子に立てられるとその東宮学士に任ぜられ、まもなく式部少輔も兼ねた。その後は、承和12年(845年) 従四位下・蔵人頭、承和13年(846年)権左中弁次いで左中弁と要職を歴任する。権左中弁の官職にあった承和13年(846年)に 当時審議中であった善愷訴訟事件において、告発された弁官らは私曲を犯していなくても、 本来は弁官の権限外の裁判を行った以上、公務ではなく私罪である、との右少弁・伴善男の主張に同意し、 告発された弁官らを弾劾する流れを作った。しかし、後年篁はこの時の判断は誤りであったとして、悔いたという[4]。 承和14年(847年)参議に任ぜられて公卿に列す。のち、議政官として、弾正大弼・左大弁・班山城田使長官・ 勘解由使長官などを兼帯し、嘉祥2年(849年)に従四位上に叙せられるが、同年5月に病気により官職を辞す。
嘉祥3年(850年)文徳天皇の即位に伴い正四位下に叙せられる。仁寿2年(852年)一旦病が癒えて左大弁に復帰するが、 まもなく再び病を得て参朝が困難となった[1]。天皇は篁を深く憐れみ、何度も使者を遣わせて病気の原因を調べさせ、 治療の足しとするために金銭や食料を与えたという[1]。同年12月には在宅のまま従三位に叙せられるが、間もなく薨去[1]。 享年51。最終官位は参議左大弁従三位。
京都市北区紫野西御所田町の島津製作所紫野工場の一角に、紫式部のものと隣接した墓所がある。
『令義解』の編纂にも深く関与するなど明法道に明るく、政務能力に優れていた。また、漢詩文では白居易と対比されるなど、 平安時代初期の三勅撰漢詩集の時代における屈指の詩人であり、『経国集』『扶桑集』『本朝文粋』『和漢朗詠集』 にその作品が伝わっている。また和歌にも秀で、『古今和歌集』(8首)以下の勅撰和歌集に14首が入集している[5]。 家集として『野相公集』(5巻)があり、鎌倉時代までは伝わったというが、現在は散逸。
書においても当時天下無双で、草隷の巧みさは王羲之父子に匹敵するとされ、後世に書を習うものは皆手本としたという[1]。
非常な母親孝行である一方、金銭には淡白で俸禄を友人に分け与えていたため、家は貧しかったという。 危篤の際に子息らに対して、もし自分が死んでも決して他人に知らせずにすぐに葬儀を行うように、と命じたとされる。[1]
身長六尺二寸(約188㎝)の巨漢でもあった[1]。
わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣舟(『百人一首』11番)
泣く涙 雨と降らなむ わたり川 水まさりなば かへりくるがに(『古今和歌集』)
篁は夜ごと井戸を通って地獄に降り、閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていたという。この井戸は、京都嵯峨の福生寺 (生の六道、明治期に廃寺、出口)[6]と京都東山の六道珍皇寺(死の六道、入口)にあったとされ、 また六道珍皇寺の閻魔堂には、篁作と言われる閻魔大王と篁の木像が並んで安置されている。
京都市北区にある篁のものと伝えられる墓の隣には、紫式部のものと言われる墓があるが、 これは愛欲を描いた咎で地獄に落とされた式部 を、篁が閻魔大王にとりなしたという伝説に基づくものである。
『今昔物語集』「小野篁、情に依り西三条の大臣を助くる語」によると、病死して閻魔庁に引据えられた藤原良相が篁の 執成しに よって蘇生したという逸話が見える。
『宇治拾遺物語』などには、嵯峨天皇のころ、「無悪善」という落書きを「悪(さが(嵯峨のこと))無くば、善けん」 (「悪なからば善か らん」とも読める。いずれにせよ、「嵯峨天皇がいなければ良いのに」の意。)と読み、 これが読めたのは篁自身が書いたからに違いないと立腹した嵯峨天皇は「『子』を十二個書いたものを読め」 というなぞなぞを出したが、見事に「猫の子の子猫、獅子の子の子獅子」と読み解いてみせ事なきを得た、という逸話も見える。
まだ日本に『白氏文集』が一冊しか渡来していない頃、天皇が戯れに白居易の詩の一文字を変えて篁に示したところ、 篁は改変したその一文字のみを添削して返したという。
白居易は、篁が遣唐使に任ぜられたと聞き、彼に会うのを楽しみしていたという。
また篁を主人公とした物語として、異母妹との悲恋を描いた『篁物語』があるが、完全なフィクションである。
陸奥守在任中の承和9年(842年)に竹駒神社を創建している。また、六道珍皇寺を創建したとの説もある。



於陵子(おりょうし)
蒙求 於陵辞聘
楚王、於陵子おほきに賢なることを知りて、「相とせむ」として、仕ひをつかはして、金を百鎰送りて 召せども、金を返して「参らず」と言へり。
陳仲子、高伝にいはく、於陵子、もとは仲子、斉の国の人なり。妻とともに楚に行きて、 於陵といふ所にこもり居て、みづから於陵子といふ。貧しけれども、いやしくも非儀のむさぼりを 求めず。楚王、賢なることを聞きて、「相として使はむ」と思して、金百鎰を送りて、 しきりに召しに遣はしければ、妻に言ひ合はせてけり。
「今日、相となりて、明日、駟をむすび、騎を連ねて、なんぢが心を楽しばしめむ」と言ひけり。 妻のいはく、「駟をむすび、騎を連ねて、楽しばむ所に、膝を方丈に入るるに過ぎじ。 あまねくする所、一肉に過ぎじ。あやしき庵(いほ)の内に沈みては、なかなかおだしき身なり。 すすみて楚国に仕へて、憂へをいだかむこと、恐らくは、なんぢ、命をたもつべし」と答へけり。
於陵、逃るる方なきことをいよいよ思ひ知りて、使者に謝して、金を受け取らずして、つひに参らず。 妻とともに、なほ山深く隠れ去りぬと云へり。
ともすれば人に問はれし道かへてなほ山深く住みぞなれつる


温庭筠(おんていいん)
(812年 - ?)は、中国・唐の詩人。太原祁県(山西省)の人。元の名は岐(き)、字は飛卿(ひけい)。
晩唐期を代表する詩人の一人で、李商隠とともに「温李」と呼ばれる。しかし試験場で隣席の者の ために詩を作ってやったり、 遊里を飲み歩いて警官と喧嘩をしたりするなど、軽率な行為が多く、科挙には及第出来なかった。 宰相・令狐綯(れいこ とう)の家に寄食したが、令狐綯を馬鹿にしたので追い出された。 大中13年(859年)頃、特に召し出されて試験を受けたが、長安で任官を待つ間、微行していた宣宗に会い、 天子と知らずにからかったので、随県(湖北省)の尉に流された。襄陽(湖北省)刺史の徐商に招かれ、 幕下に入ったこともあるが、満足せず、辞職して江東の地方を放浪し、最期は零落して死んだ。
現代には、『温飛卿詩集』九巻が残っている。



懐 王(かいおう)
(? - 紀元前299年)は戦国時代の楚の王(在位:紀元前329年 - 紀元前299年)。姓は?(び)。名は槐(かい)。 秦の張儀の謀略に引きずり回され、国力を消耗し、最後は秦との戦いに敗れ秦に幽閉されたまま死去した。 戦国時代の暗君の代名詞的存在と目され、楚の悲劇の象徴とされた。屈原が度々彼を諫めたが、頑として聞き入れず、 屈原自殺の原因となった人物でもあった。
巫山雲雨
《宋玉の「高唐賦」の、楚の懐王が昼寝の夢の中で巫山の神女と契ったという故事から》男女が夢の中で結ばれること。 また、男女が情を交わすこと。巫山の雲。巫山の雨。巫山の夢。朝雲暮雨。


賈誼(か ぎ)
(紀元前200年-紀元前168年)洛陽の出身。18歳にして詩経・書経を論じ、文章が優れていたために郡中で賞賛されていた。
当時、河南郡守であった呉公はその才能を愛し、招いて門下におく。文帝が即位し、呉公が李斯と同郷で治績をあげていることを聞き廷尉に任命されるに際して、 賈誼が年少でありながらも諸家の書に通じていることを上申したために、博士として抜擢された。
賈誼は、当時の博士の中で最も年少ではあったが、詔令の下るたびに真っ先に意見を具申することができたので、その年のうちに太中大夫に昇進する。 漢の制度に関して、儒学と五行説にもとづいて「正朔を改め、服色をかえ、法度を制し、礼楽を興す」べきことを主張した。
そうした賈誼を、文帝はさらに公卿にしようとしたが、前178年、それを嫉んだ丞相絳侯周勃・東陽侯張相如・馮敬等の讒言により、長沙王の太傅として左遷させられてしまう。
任地に赴く途中、屈原を弔った賦が『文選』にも収録されている「弔屈原文」である。3年余りにもわたる左遷生活であったが、前174年、文帝は賈誼のことを思い出し、 長安に召して鬼神のことを問う。その答えが上意にかなうものだったため、ふたたび信任され、もっともかわいがっていた末子 梁の懐王の太傳となった。
ちょうどこのころ、漢朝にとって諸侯王国は大きな脅威となり、匈奴も辺境を侵略しつつあった。そうした多様な社会問題に対し、賈誼も対策を上奏している。
今日「治安策」と呼ばれているのが、それである。第一に諸侯が強力であるのを抑制すべきであること、第二に蛮夷を侮らず警戒すべきことなどを説いている。
紀元前169年、梁の懐王が落馬して亡くなったことを悼み、その翌年賈誼自身も憂死した。
彼の文章は議論と叙事が錯綜し、雄渾流麗、古来名文として名高い。代表的な韻文としては、他に長沙在任中の「鵬鳥賦」があり、これも『文選』に収録されている。
秦を批判する「過秦論」も著名であり、これらの散文をまとめたものとして、『新書』がある。
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楽 毅(がく き)
(生没年不明)は、中国戦国時代の燕国の武将。燕の昭王を助けて、斉を滅亡寸前まで追い込んだ。 昌国君、または望諸君とも呼ばれる。子に楽間。
楽毅の先祖は魏の文侯に仕えた楽羊であり、楽羊は文侯の命令により中山国 (燕と斉と趙が接する所にあった小国。現在の河北省保定市の周辺)を滅ぼし、 その功により中山の首都霊寿に封じられた。その子孫はそのまま霊寿に住み着き、 その後復興された中山国に仕えたようである。その縁から楽毅も中山国に仕えていたとも言われている が、彼の前歴は今でも明らかになっていない。
趙滅中山の戦い(中国語版)で中山が趙の武霊王に滅ぼされた後に、一旦趙に入ったが、 紀元前295年に国内の紛争で武霊王が息子の恵文王に殺される事件が起きると、魏に移った。 魏の昭王の家臣になるが、燕の昭王が人材を求めていると聞いて、昭王に頼み燕への使者になり、 そのまま燕で仕官した。昭王は楽毅の才能に着目し、彼を上卿に次ぐ亜卿に任じた。
この少し前に燕は斉により一度滅びかけており、この当時太子として辛酸を舐めた昭王は斉に対して 強い恨みを抱いていた。国王に即位して20数年間、天下から人材を募り (これは郭隗が昭王に進言し、「まず隗より始めよ」の語源となった)、 臣民と労苦を分かち国の再興に努めたものの、当時の斉は西の秦と並ぶ戦国最強国であり、 最盛期を迎えていた。戦国四君の一人である孟嘗君を宰相とし、中山・宋を滅ぼし、 楚・三晋を破り、泗水沿岸の魯などの諸侯は事実上属国となり、一時は秦と一緒に「王」 より上位である「帝」を名乗っていた。このように燕は当時桁外れの力を有してい た斉とは国力でも軍事力でも比べ物にならなかった。しかしそれでもなお恨みを晴らしたいと言う 昭王の意向に対し、楽毅は他国と連合して斉に当たるべしと説いた。
当時の斉王は?王(?は民の下に日を置いてその左にさんずい)であり、とかく傲慢で知られた王で、 斉の国力を背景に小国に対して恫喝的な外交を布いていた為、他国の恨みを買っていた。 これに楽毅はつけこみ、まず趙を説得し、魏と韓を引き入れ、趙の友好国である秦も引き入れた。
紀元前286年、そのような動きに?王は気がつかず、宋を滅ぼし、その領土を斉に組み入れた。 この成功でますます傲慢になった?王は、自分の成功に良い顔をしない孟嘗君が疎ましくなり 殺そうとした。孟嘗君は恐れて魏へ逃げた。
紀元前284年、燕は楽毅を上将軍に任じ、大軍を発し、韓・魏・趙・秦の連合軍に合流した。 楽毅は連合軍の総大将として、五国連合軍を率いて斉軍を済西で打ち破った(済西の戦い(中国語版) , 五國聯軍攻齊之戰)。その後、楽毅は燕軍を率いて斉の首都臨?に迫り、?王は? (草かんむりに呂)に逃げ込んだ。
楽毅は臨?を占領し、伝来の宝器を奪取し、全て燕に送った。昭王は大いに喜び、 直々に斉まで来て楽毅を褒賞し、昌国君に封じた。領地の殆どはかつての功臣などで占められており、 分けられる領土が少ない中で領地を与えた辺り、昭王の喜びの程が知れる。
続いて、楽毅は破竹の勢いで斉の70余の都市を次々と落とし、「楽毅来る」というだけで門を 開いた城も相次ぎ、残るは即墨と?の二つとなった。楽毅は?王の篭る?を攻めた。 一方、?王はその頃、楚の将軍であり斉の救援に来た?歯により殺されていた。 ?歯はその後、憤慨した住民たちより殺され、?王の子の法章が探し出されて襄王として立てられた。 同じ頃、即墨では田単が篭城し頑強に抵抗した(即墨の戦い(中国語版))。
紀元前279年、そんな最中に燕で昭王が死に、太子の恵王が即位した。恵王は楽毅の事を 太子時代から良く思っておらず、ここに付け込む隙があると見た田単は反間の計を用いた。 燕に密偵を潜り込ませ、「即墨と?は今すぐにでも落とすことが出来る。楽毅がそれをしないのは、 斉の人民を手なずけて自ら斉王になる望みがあるからだ」と流言を流し、恵王の耳に入るようにした。 恵王はこれを信じ、楽毅を解任し、代わりに騎劫を将軍として送った。
このまま国へ帰れば誅殺されると思った楽毅は、趙へ亡命した。趙は喜んで迎え、 燕・斉の国境の地に封じて望諸君と称し両国に睨みを効かせた。楽毅が解任されると 田単は反攻に転じ、楽毅が奪った都市を全て取り返した。
恵王は、ここで楽毅が恨みを晴らさんと攻め込んでは大変と、代わりの将軍を送った事の言い訳と 楽毅が亡命した事を責める書を送った。楽毅はこれに「燕の恵王に報ずるの書」と呼ばれる書で答え、 その中で先王への溢れる敬愛と忠誠の情を記し、亡命したのは帰って讒言で罪人にされることで、 その自分を重用した先王の名を辱めることを恐れたからだと書した。恵王はこの書によって 誤解を解き、楽毅の息子楽間を昌国君に封じ、楽毅との和解の証拠とした。
この「報遺燕恵王書(燕の恵王に報ずるの書)」は古今の名文と呼ばれ、諸葛亮の『出師表』 と並んで「読んで泣かぬものは忠臣にあらず」と言われた。
楽毅はその後趙と燕との両方で客卿とされ、両国を行き来し、最後は趙で没した。
楽毅により大打撃を与えられた斉は復興はしたものの国力を大幅に消耗し、東の斉、 西の秦の二強国時代から秦一強時代へと移行し、これ以降の戦国時代は秦による統一へと 収束していく。
また、息子の楽間も恵王、武成王、孝王と3代の王に重用されたが、孝王の死後に後を継いだ 太子喜(燕王喜)に疎まれ、父と同じ運命を背負い趙へ亡命してしまった。 その後、楽毅の子孫は趙に移り住んでいたが、義侠に生きた楽毅を崇敬していた劉邦により、 楽毅の孫の楽叔を見つけ出し楽郷に封じ、華成君とした。趙に移り住んだ一族の中には、 道家の一派である黄老思想を修めた楽瑕公と楽臣公[2]がおり、趙が秦に滅ぼされる直前に、 斉の高密に移って高名な学者として名を馳せた[3]。前漢の武将・相国の曹参は楽臣公の孫弟子に あたる[4]。
楽毅は史書の中でいったん評価が下がったものの、三国時代魏の夏侯玄が『楽毅論』を 著し再評価された。その後、書家の王羲之がかの名書体で写し有名になっている。



霍 去病(かく きょへい)
(紀元前140年 - 紀元前117年)は、前漢の武帝時代の武将である。父は、霍仲孺。異母弟は、 大司馬大将軍になり、武帝後の政治を取り仕切った霍光。
衛青の甥、衛少児の子。衛青の姉であり、霍去病の伯母にあたる衛子夫が武帝に寵愛される戻太子を 生んで皇后に立てられたため、親族にあたる霍去病も武帝の覚えが良く、寵愛されていた。 また、漢王朝創立時からの功臣である陳平の玄孫の陳掌は霍去病の母と密通しており、 霍去病の義父となった。
騎射に優れており、18歳で衛青に従って匈奴征伐に赴いている。その後も何度も匈奴征伐に 功績を挙げ、3万の首を上げ、紀元前121年に驃騎将軍に、さらに紀元前119年には匈奴の本拠地を 撃破し、衛青と並んで大司馬とされた。大功と武帝の寵愛により権勢並ぶ物が無くなった霍去病だが、 紀元前117年、わずか24歳で病死した。
霍去病と衛青は同時代に活躍し、血縁でもある事からよく比較される。衛青は少年時代に奴隷で あった経験から人にへりくだり、常に下級兵士の事を考えていたと言われる。その一方で、 霍去病は物心付いた時には既に一族は外戚であり、叔父が匈奴討伐に大功を上げていた。 その事から叔父とは対照的に傲慢であり、兵士が飢えている時に自分たちは豪華な幕舎の下で 宴会を開くような事をしていた。
しかし宮廷でも兵士の間でも、霍去病のほうが人気は上であった。衛青はへりくだりが度を過ぎて 媚を売るような所があったとされ、また、霍去病の傲慢も頼もしい勇壮と見られていた模様だった。 武帝も自身の性格から、積極果敢な霍去病をより好んでいた。
また衛青が李広の末子の李敢に襲撃されたことに憤慨し、その李敢を射殺した逸話によって 世間からは義侠の士として人気があったという。
子の霍子侯(霍?)は武帝封禅の儀において、武帝と唯一共にし泰山に登ったと伝わり、 奉車都尉に任命されるも間もなく夭折したという。孫に霍山、霍雲などがいた。
去病という名は病気が去るという意味で付けられたが、その名に反して若くして病死した。 彼の墓は武帝の墓である茂陵の近くにあり、現在は展望公園として整備されているが、 墓の霍去病の字をなでると病気が治るという伝説がある。
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郭璞(かく はく)
(276年 - 324年)中国西晋・東晋の文学者・卜者。字は景純。河東郡聞喜県 (現・山西省運城市聞喜県)の人。文才と卜占の術により建国まもない東晋王朝の権力者たちに 重用され、史書や『捜神記』などの志怪小説では、超人的な予言者・妖術師として様々な逸話が 残されている。卜占・五行・天文暦法に通ずるのみならず、古典にも造詣が深く、 『爾雅』『方言』『山海経』に注したことで知られる。文学作品では「遊仙詩」「江賦」などが 代表作とされる。
寒門の家に生まれ、訥弁であったが、博学で文章に巧みであった。また郭公なる人物から 『青嚢中書』という書物を授かり、これによって五行・天文・卜筮のあらゆる術に通じ、 いにしえの京房や管輅をも凌ぐほどであったという。
八王の乱により中原が戦乱に見舞われると、郭璞は筮竹で将来を占い、この地が遠からず異民族に 蹂躙されることを予見した。そこで親類・友人たち数十家とともに江南に避難した。史書によると、 江南までの道中、様々な術や予言を行い、それによって難を逃れたという。
江南に来た郭璞は、その後、司馬睿(後の東晋の元帝)の腹心王導に招かれ、彼の参軍となり、 その卜筮の術によって大いに重用された。司馬睿が皇帝に即位する前後、その将来を占い、 銅鐸の出土や泉の出現などの東晋中興の正統性を裏付ける瑞祥を予見し、司馬睿の寵愛も受けるに 至った。
東晋が建国されると、郭璞は「江賦」「南郊賦」を献上し、それらは世間で大いに評判になった。 元帝にも賞賛され、著作左郎に任じられ、ついで尚書郎に移った。皇太子司馬紹(後の明帝)からは、 その才能と学識を尊敬され、当時の有力者であった温?・?亮らと同等の待遇を受けた。
324年、王敦が再び反乱を企て、郭璞にその成否を占わせたところ「成る無し」の結果がでた。 王敦はかねてから郭璞が温?・?亮らと親しく、彼らに自らの討伐をそそのかしていると疑って いたので、占いの結果に激怒し郭璞を処刑した。享年49。王敦の乱が平定されると、 弘農郡太守を追贈され、子の郭?が父の後を継いで、官位は臨賀郡太守に至った。


岳 飛(がくひ)
(Yue Fei 1103年3月24日 - 1142年1月27日)は、中国南宋の武将。字は鵬挙。相川湯陰(河南省湯陰県)出身。 南宋を攻撃する金に対して幾度となく勝利を収めたが、岳飛らの勢力が拡大することを恐れた宰相・秦檜に謀殺された。 その功績を称えて後に鄂王(がくおう)に封じられ(岳鄂王と呼ばれる)、関羽と並んで祀られている。 岳飛は元々は豪農の出であったが、幼い頃に父を亡くし、母の由氏に育てられたという。 やがて21歳の時、北宋末期の1122年に開封を防衛していた宗沢が集めた義勇軍に参加した。岳飛は武勇に優れ、 その中で金との戦いなどに軍功を挙げて頭角を現し、1134年には節度使に任命された。 しかし、増大する名声が秦檜派の反感と嫉視を招くことになる。 1140年に北伐の軍を起こすと、朱仙鎮で会戦を行い、金の総帥斡啜の率いた軍を破って開封の間近にまで迫るが、 秦檜の献策により友軍への撤退命令が出され、孤立した岳飛軍も撤退を余儀なくされた。これは『宋史』の記録であるが、 『金史』にこの会戦の記録はない。 その後、秦檜により金との和議が進められる。それに対して、主戦派の筆頭であり民衆の絶大な人気を持った岳飛は危険な 存在であり、1141年に秦檜は岳飛の子岳雲、岳家軍の最高幹部である張憲に対し、冤罪を被せて謀殺した。 この時、岳飛は39歳、岳雲は23歳だった。その背には母親によって彫られたとされる黥(入れ墨)の「尽(精)忠報国」 の4文字があったという。 後に冤罪が晴れると、1178年に武穆と諡され、1204年には鄂王に追封された。杭州の西湖のほとりには岳王廟が建立され、 岳王廟の岳飛・岳雲父子の墓の前には、彼らを陥れた秦檜夫婦・張俊らが縄で繋がれた形で正座させられている像が造られている。近年は当局により禁止されているが、かつては彼らに唾を吐きかける風習があった。 岳飛は後代、救国の英雄として称えられた。現代でも中国の歴史上の英雄と言えば、まず岳飛の名前が挙がるほどである。


娥皇(がこう)
古代中国の伝説上の女性。堯の娘で、妹の女英とともに舜の妻となった。また娥肓、倪皇、後育、娥盲、娥?とも書かれた。 姓は伊祁氏。舜の父母や弟はたびたび舜を死地に置いたが、舜は娥皇と女英の機転に助けられて危地を脱した。 舜が即位して天子となると、娥皇は后となり、女英は妃となった。聡明貞仁で天下に知られた。舜が蒼梧で死去すると、 娥皇と女英は江湘の間で自殺し、俗に湘君(湘江の川の神)となったと伝える。 ウィキペディア


賈至(か し)
(718年 - 772年)中国・唐の詩人。洛陽(河南省)の出身。字は幼幾(ようき)。一説には幼隣(ようりん)。賈曾の子。 開元23年(735年)に進士に及第、さらに天宝10戴(751年)、明経(めいけい)に及第、起居舎人・知制誥に至った。 安禄山の乱のときには、玄宗に従って蜀へ避難し、帝位を皇太子に譲る勅語を起草した。その後、一時罪によって 岳州(湖南省岳陽)に流され、そこで李白に会い、酒宴に日を送ったこともある。その落ち、都に召還され、 大暦5年(770年)には京兆尹兼御史大夫となり、右散騎常侍に至った。 作品に、『西亭春望(せいていしゅんぼう)』(七言絶句)がある。
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賀知章(がちしょう)
(659~744) 中国,盛唐の詩人。字(あざな)は季真。飲中八仙の一人。性放縦で,晩年は四明狂客と号す。 清淡風流な詩で世に知られた。李白を見いだした人物としても有名。草書・隷書の名手。詩「郷に回り偶書す」など。
四明狂客と号す。会稽の人。証聖初年進士に及第して、後に太子賓客、秘書監に至る。詩をよくして李白と交友があり、 また草書と隷書に巧みであったという。無類の酒客にして脱俗の趣あり、後に官を辞して故郷に帰り道士となって86歳で没した。 酔って馬に乗る姿は揺れる船に乗るかのようで、井戸に落ちてもそのまま眠り続けると歌う。
官を退くにあたり玄宗から鏡の湖をもらい、故郷に帰ったが翌年没した。無欲恬淡。



関 羽(かん う)
(? - 建安24年12月(220年1月)[1])は、中国後漢末期の将軍。字は雲長(うんちょう)。 元の字は長生。司隷河東郡解県(現在の山西省運城市塩湖区解州鎮常平村)の人。子は関平・関興。 孫は関統・関彝。
蜀漢の創始者である劉備に仕え、その人並み外れた武勇や義理を重んじた彼は敵の曹操や多くの 同時代人から称賛された。後漢から贈られた封号は漢寿亭侯。諡が壮繆侯(または壮穆侯)だが、 諡号は歴代王朝から多数贈られた(爵諡を参照)。
悲劇的な死を遂げたが、後世の人間に神格化され関帝(関聖帝君・関帝聖君)となり、 47人目の神とされた。
出身地から幽州?郡に逃れてきた[2]。 黄巾の乱が起きると、義勇兵を挙げた劉備・張飛と出会い、 張飛とともに劉備の護衛官を務めた。劉備が平原の相になると、関羽は張飛と共に別部司馬に 任命された。劉備は関羽・張飛に兄弟のように恩愛をかけ、張飛は関羽が年長者であることから 兄のように従ったという(『三国志』蜀志「張飛伝」)。しかし、関羽・張飛は大勢の前では あくまで劉備を主君として立てて仕えた[3]。
徐州を得た劉備は呂布と争い曹操を頼って逃れた。建安3年(198年)、曹操が呂布を破ったとき、 関羽は張飛とともに戦功を認められ、曹操から中郎将に任命された(『華陽国志』劉先主志)。 また、このとき関羽は呂布の部将の秦宜禄の妻を娶ることを曹操に願い出たが、秦宜禄の妻を見た 曹操は自分の側室としてしまった(『蜀記』)。
建安4年(199年)、劉備は曹操を裏切り徐州刺史の車冑を殺害し、徐州を占拠した。このとき、 劉備は小沛に戻り、関羽が下?の守備を任され太守の事務を代行した[4]。
建安5年(200年)、劉備が東征してきた曹操の攻撃を受け、敗れて袁紹の元に逃げると、 関羽は曹操の捕虜になった。曹操は関羽を偏将軍に任命し、礼遇したという。曹操と袁紹が戦争と なると(官渡の戦い)、関羽は呂布の降将の張遼と共に白馬県を攻撃していた袁紹の将の顔良の 攻撃を曹操に命じられた。関羽は顔良の旗印と車蓋を見ると、馬に鞭打って突撃し、顔良を刺し殺し、 顔良の首を持ち帰った。この時、袁紹軍の諸将で相手になる者はいなかったという(白馬の戦い)。 曹操は即刻上表して、漢寿[5]亭侯に封じた。
曹操は関羽の人柄と武勇を高く評価していたが、関羽が自分の下に長くとどまるつもりはないと思い、 張遼に依頼して関羽に質問させたところ、関羽は劉備を裏切ることはないことと、 曹操への恩返しが済んだら立ち去るつもりであることを述べた。そのことを張遼から聞いていた 曹操は関羽の義心に感心したという。
顔良を討ち取るという功を立てた関羽は、必ずや劉備のもとに戻ると曹操は考え、関羽に重い 恩賞を与えた。関羽はこれらの賜り物に封をして、曹操に手紙を捧げて別れを告げ、 袁紹に身を寄せた劉備の元へ去った。曹操はその義に感嘆し、関羽を追いかけようとする部下に 対して、彼を追ってはならないと言い聞かせた 後略



韓 信(かん しん)
中国秦末から前漢初期にかけての武将。劉邦の元で数々の戦いに勝利し、劉邦の覇権を決定付けた。 張良・蕭何と共に漢の三傑の一人。
なお、同時代に戦国時代の韓の王族出身の、同じく韓信という名の人物がおり、劉邦によって 韓王に封じられているが、こちらは韓王信と呼んで区別される[1]。
淮陰(現在の江蘇省淮安市)の出身。貧乏で品行も悪かったために職に就けず、他人の家に 上がり込んでは居候するという遊侠無頼の生活に終始していた。こんな有様であったため、 淮陰の者はみな韓信を見下していた。とある亭長の家に居候していたが、嫌気がした亭長と その妻は韓信に食事を出さなくなった。いよいよ当てのなくなった韓信は、数日間何も食べないで 放浪し、見かねた老女に数十日間食事を恵まれる有様であった。韓信はその老女に「必ず厚く御礼を する」と言ったが、老女は「あんたが可哀想だからしてあげただけのこと。御礼なんて望んで いない」と語ったという。
ある日のこと、韓信は町の若者に「てめえは背が高く、いつも剣を帯びているが、実際には 臆病者に違いない。その剣で俺を刺してみろ。できないならば俺の股をくぐれ」と挑発された。 韓信は黙って若者の股をくぐり、周囲の者は韓信を大いに笑ったという。その韓信は、 「恥は一時、志は一生。ここでこいつを切り殺しても何の得もなく、それどころか仇持ちに なってしまうだけだ」と冷静に判断していたのである。この出来事は「韓信の股くぐり」 として知られることになる。
秦の始皇帝の没後、陳勝・呉広の乱を機に大規模な動乱が始まると、紀元前209年に韓信は項梁、 次いでその甥の項羽に仕えて郎中となったが、たびたび行った進言が項羽に用いられることは なかった。
紀元前206年、秦の滅亡後、韓信は項羽の下から離れ、漢中に左遷された漢王劉邦の元へと移る。 しかし、ここでも連敖というつまらぬ役しかもらえなかった。
ある時罪を犯し、同僚13名と共に斬刑に処されそうになった。たまたま劉邦の重臣の夏侯嬰が いたので、「漢王は天下に大業を成すことを望まれないのか。どうして壮士を殺すような真似を するのだ」と訴え、韓信を面白く思った夏侯嬰は、韓信を劉邦に推薦した。
劉邦はとりあえず韓信を治粟都尉(兵站官)としたが、韓信に対してさほど興味は示さなかった。 自らの才能を認めて欲しい韓信は、漢軍の兵站の責任者である蕭何と何度も語り合い、 蕭何は韓信を異才と認めて劉邦に何度も推薦するが、劉邦はやはり受け付けなかった。
この頃の漢軍では、辺境の漢中にいることを嫌って将軍や兵士の逃亡が相次いでいた。そんな中、 韓信も逃亡を図り、それを知った蕭何は劉邦に何の報告もせずにこれを慌てて追い、追いつくと 「今度推挙して駄目だったら、私も漢を捨てる」とまで言って説得した。ちょうど 、辺境へ押し込まれたことと故郷恋しさで脱走者が相次いでいた中であったため、 劉邦は蕭何まで逃亡したかと誤解し、蕭何が韓信を連れ帰ってくると強く詰問した 。蕭何は「逃げたのではなく、韓信を連れ戻しに行っていただけです」と説明したが、 劉邦は「他の将軍が逃げたときは追わなかったではないか。なぜ韓信だけを引き留めるのだ」 と問い詰めた。これに対して、蕭何は「韓信は国士無双(他に比類ない人物)であり、 他の雑多な将軍とは違う。(劉邦が)この漢中にずっと留まるつもりならば韓信は必要ないが、 漢中を出て天下を争おうと考えるのなら韓信は不可欠である」と劉邦に返した。これを聞いた劉邦は、 韓信の才を信じて全軍を指揮する大将軍の地位を任せることにした。
韓信はこの厚遇に応え、劉邦に漢中の北の関中を手に入れる策を述べた。即ち、
項羽は強いが、その強さは弱めやすいものである(婦人の仁、匹夫の勇:実態の伴わない女のやさしさ、取るに足らない男の勇気)。劉邦は項羽の逆を行えば天下を手に入れられる。 特に処遇についてかなり不公平であり、不満が溜まっている。進出する機会は必ず訪れる。 兵士たちは故郷に帰りたがっており、この気持ちは大きな力になる。
関中の三秦の王は20万の兵士を見殺しにした将軍たちであり、人心は離れている。その逆に劉邦は、 以前咸陽で略奪を行わなかったなどの理由で人気があるため、関中はたやすく落ちる。
と説いた。劉邦はこれを聞き大いに喜び、諸将もこの大抜擢に納得した。
劉邦はこの年の8月に関中攻略に出兵、油断していた章邯を水攻めで撃破し、司馬欣・董翳も撃破した。 そして関中を本拠地として、韓王の鄭昌を降して項羽との対決に臨んだ。
その頃、各地で項羽の政策に反発する諸侯による反乱が相次ぎ、項羽はその対応(特に斉)に手を 焼いていた。紀元前205年、その隙を突いて、劉邦は総数56万と号する諸侯との連合軍を率いて親征し 、項羽の本拠地・彭城を陥落させた。しかし連合故に統率が甘く更に油断しきっていたため、 斉から引き返して来た項羽軍の3万に奇襲され大敗。劉邦は命からがら?陽に逃走した (彭城の戦い)。韓信も敗戦した漢軍を兵をまとめて?陽で劉邦と合流し、追撃してきた楚軍を京・ 索の中間周辺で迎撃。楚軍をこれ以上西進させなかった。
体勢を立て直した劉邦は、自らが項羽と対峙している間に韓信の別働軍が諸国を平定するという 作戦を採用した。まずは、漢側に就いていたが裏切って楚へ下った西魏王の魏豹を討つことにし、 劉邦は韓信に左丞相の位を授けて、副将の常山王張耳と将軍の曹参とともに討伐に送り出した。
魏軍は渡河地点を重点的に防御していた。韓信はその対岸に囮(おとり)の船を並べてそちらに敵を 引き付け、その間に上流に回り込んで木の桶で作った筏(いかだ)で兵を渡らせて魏の首都・安邑 (現在の山西省運城市夏県の近郊)を攻撃し、魏軍が慌てて引き返したところを討って魏豹を虜にし、 魏を滅ぼした。魏豹は命は助けられたが、庶民に落とされた。
その後、北に進んで代(山西省北部)を占領し、さらに趙(河北省南部)へと進軍した。この時、 韓信は河を背にした布陣を行う(背水の陣:兵法では自軍に不利とされ、自ら進んで行うものでは なかった)。20万と号した趙軍を、狭隘な地形と兵たちの死力を利用して防衛し、その隙に別働隊で 城砦を占拠、更に落城による動揺の隙を突いた、別働隊と本隊による挟撃で打ち破り、 陳余を?水で、趙王歇を襄国で斬った(井?の戦い)。続いて、趙の将軍であった李左車を探し出して 捕らえ、上座を用意して李左車を先生と賞し、これからのことを相談した。李左車は 「『敗軍の将は兵を語ってはならず、亡国の臣は国家の存続を計ってはならない』と聞きます。 私は敗軍の将、亡国の臣です」と初め自分の考えを述べることに躊躇したが、韓信は 「趙が敗れたのは、先生の策を入れなかった趙王と陳余にあり、先生にあるのではありません。 もし先生の策が用いられていれば、私はここに居ないでしょう」と更に賞した。これに李左車は 「『智者も千慮に一失有り。愚者も千慮に一得有り』とあります」と愚者の策であると前置きした 上で、「次に進むとすれば燕ですが、このままでは敗れます。兵が疲労しきっているからです。 まずは趙兵の遺族を慰撫し、その返礼と十分な休息を兵に与えます。燕は趙軍を少数の兵で下した 漢軍を非常に恐れており、使者を送れば降るでしょう。降らなければ、休息十分な兵を向ければよい のです」と燕を下す策を与えた。そしてその策に従い、労せずして燕(河北省北部)の臧荼を降伏 させた。紀元前204年、鎮撫のために張耳を趙王として建てるように劉邦に申し出て、これを認 められた。
この間、劉邦は項羽に対して不利な戦いを強いられ、韓信は兵力不足の劉邦に対して幾度も兵を 送っていた。しかし、それでも苦境にあった劉邦は成皋から楚の包囲から逃がれる黄河を渡ると、 夏侯嬰らとともに韓信たちがいた修武(現在の河南省焦作市修武県の西北)へ赴いた。その際、 幕舎で寝ている韓信の所に忍び込んで、その指揮権を奪った。韓信は、起き出して仰天した。 劉邦は張耳ら諸将を集めて、韓信を趙の相国に任じて曹参とともに斉を平定するように命じた。
ところが劉邦は、韓信を派遣した後で気が変わり、儒者の?食其を派遣して斉と和議を結んだ。 紀元前203年、韓信は斉に攻め込む直前であったが、既に斉が降ったと聞いて軍を止めようとした。 この時、韓信の軍中にいた弁士?通は「(劉邦から)進軍停止命令は未だ出ておらず、 このまま斉に攻め込むべきである。?食其は舌だけで斉を降しており、このままでは韓信の功績は 一介の儒者に過ぎない?食其より劣る(斉は70余城を有し、韓信の落とした50余城より多い) と見られるだろう」と進言し、韓信はこの進言に従って斉に侵攻した。備えのなかった斉の城は 次々と破られ、怒った斉王の田広は?食其を釜茹でに処して高密に逃亡した。
斉は楚に救援を求め、項羽は将軍龍且と亜将周蘭に命じて20万の軍勢を派遣させた。龍且は周蘭 から持久戦を進言されたが、以前の「股夫」の印象に影響され、韓信を侮って決戦を挑んだ。 韓信も龍且は勇猛であるから決戦を選ぶだろうと読み、広いが浅い?水という河が流れる場所を 戦場に選んで迎え撃った。この時、韓信は決戦の前夜に?水の上流に土嚢を落とし込んで臨時の堰を 作らせ、流れを塞き止めさせていた。韓信は敗走を装って龍且軍をおびき出し、楚軍が半ば 渡河した所で堰を切らせた。怒涛の如く押し寄せた奔流に龍且の20万の軍勢は押し流され、 龍且は灌嬰の軍勢に討ち取られ、周蘭も曹参の捕虜となった。
斉を平定した韓信は、劉邦に対して斉の鎮撫のため斉の仮の王となりたいと申し出た。 劉邦は、自分が苦しい状況にあるのに王になりたいと言ってきた韓信に身勝手であると激しく 反発したが、張良と陳平に認めなければ韓信は離反し斉王を自ら名乗って独立勢力となると指摘され、 一転、懐柔のために「仮の王などとは言わずに、真の王となれ」と韓信に伝え、斉王韓信を認めた。 韓信は旧戦国の七雄のうち大国の斉を領有し、河北の趙、燕を支配する大王となり西楚、漢、斉の 三国が鼎立する局面となった。王となった韓信に項羽も恐れを感じ始め、武渉という者を派遣した。 武渉は韓信に「劉邦は見逃してやっても(鴻門の会のこと)攻めてくるような義理のない信頼できない 人物でありますから、あなたにとって従わない方が良い主君です。漢と別れ、楚と共に漢に対 するべきです」と説いた。韓信は項羽に冷遇されていたことを恨んでおり、 一方で劉邦には大抜擢され斉王に封じられたことを恩義に思っていたため、これを即座に断った。 その後、?通から「天下の要衝である斉の王となった今、漢、楚と天下を三分し、両者が争いに疲れた 頃に貴方が出てこれをまとめれば、天下はついてくる」と天下三分の計を献策された。 韓信は大いに悩んだが、謀反とは異なる「一勢力としての独立」という発想に得心が行かず、 「漢王様は自らの衣を私に与え、車に同乗させてくれ、更には大将軍に任じてくれた。 裏切ることはできない」と結局は劉邦への恩義を選び、これを退けた。絶望した?通は後難を恐れ、 狂人の振りをして出奔した。
その頃、楚漢の戦いは広武山での長い持久戦になっており、疲れ果てた両軍は一旦和睦してそれ ぞれの故郷に帰ることにした。しかし劉邦はこの講和を破棄し、撤退中の楚軍に襲いかかった。 韓信も加勢の要請を受けるが、これを黙殺したために劉邦は敗れる。焦った劉邦は張良の進言により、 韓信に対して三斉(斉、済北、膠東)王として改めて戦後の斉王の位を約束し、再び援軍を要請した。 ここに及んで韓信は30万の軍勢を率いて参戦した。これを見て諸侯も続々と漢軍に参戦する。 漢軍は垓下に楚軍を追い詰め、垓下を脱出した項羽は烏江(現在の安徽省和県烏江鎮)で自決し、 5年に及んだ楚漢戦争はようやく終結した(垓下の戦い)。
紀元前202年、項羽の死が確認されると、劉邦は「本来楚王となるべき義帝には御子が居ない。 韓信は楚出身であり、楚の風土・風習にも馴染んでいる」として韓信を斉王から楚王へと移した。 これは項羽亡き後の楚王であり、また楚には韓信の故郷があるため、名誉であり栄転であった。 しかし一方で、城の数では七十余城から五十余城に減った。
故郷の淮陰に凱旋した韓信は、飯を恵んでくれた老女、自分を侮辱した若者、居候させていた 亭長を探して呼び出した。まず、老女には使い切れないほどの大金を与えた。次いで、かつての若者に は「あの時、その方を殺すのは容易かったが、それで名が挙がるわけでもない。我慢して股くぐりを したから今の地位にまで登る事ができたのだ」と言い、中尉(治安維持の役)の位につけた。 亭長には「世話をするなら、最後までちゃんと面倒を見よ」と戒め、わずか百銭を与えた。
劉邦はよく韓信と諸将の品定めをしていた。後述のように韓信は劉邦によって捕縛されることに なるのだが、その後、劉邦が韓信に「わしはどれくらいの将であろうか」と聞くと、韓信は 「陛下はせいぜい十万の兵の将です」と答えた。劉邦が「ではお前はどうなんだ」と聞き返した ところ、「私は多ければ多いほど良い(多々益々弁ず。原文は「多多益善」)でしょう」と答えた。 劉邦は笑って「ではどうしてお前がわしの虜になったのだ」と言ったが、韓信は「陛下は兵を率いる ことができなくても、将に対して将であることができます(将に将たり)。これは天授のものであって、 人力のものではありません」と答えた。
紀元前201年、同郷で旧友であった楚の将軍・鍾離?を匿ったことで韓信は劉邦の不興を買い、 また異例の大出世に嫉妬した者が「韓信に謀反の疑いあり」と讒言したため、これに弁明するため 鍾離?に自害を促した。鍾離?は「漢王が私を血眼に探すのは私が恐ろしいからです。 次は貴公の番ですぞ」と言い残し、自ら首を撥ねた。そしてその首を持参して謁見したが、 謀反の疑いありと捕縛された。韓信は「狡兎死して良狗烹られ、高鳥尽きて良弓蔵され、 敵国敗れて謀臣亡ぶ。天下が定まったので、私もまた煮られるのか?」と范蠡の言葉を引いた。 劉邦は謀反の疑いについては保留して、韓信を兵権を持たない淮陰侯へと降格させた。
韓信はそれ以降、病と称して長安の屋敷でうつうつと過ごした。ある時、舞陽侯の樊?の所に 立ち寄ると、韓信を尊敬する樊?は礼儀正しく韓信を“大王”、自らを“臣”と呼んで最大限の敬いを 見せたが、韓信は「生き長らえて樊?などと同格になっている」と自嘲した。
歳月は流れ、陳?が鉅鹿郡守に任命された。韓信を尊敬していた陳?は、出立にあたり長安の韓信の 屋敷に挨拶にやってきた。韓信は陳?に、あまりの冷遇にもはや劉邦への忠誠はなく、私が天下を 取るまでだと言い放ち、一計を授けた。劉邦の信頼が篤い陳?が謀叛すれば、劉邦は必ず激怒して 自ら討伐に赴き、長安は空になる。しかし鉅鹿は精兵のいる要衝であるから、容易には落ちないだろう。 そしてその隙に自分が長安を掌握する。反乱の頻発に現れているように天下には不満が渦巻いているの で、諸国も味方に就くだろう、というのである。
紀元前196年の春、果たして陳?は鉅鹿で反乱を起こした。信頼する陳?の造反に激怒した劉邦は、 韓信の目論見通りに鎮圧のために親征し、都を留守にした。韓信は、この機会に長安で反乱を起こし、 囚人を解放してこれを配下とし、呂后と皇太子の劉盈(のちの恵帝)を監禁して政権を奪おうと 謀った。ところが、韓信に恨みを持つ下僕がこれを呂后に密告したため、計画は事前に発覚した。 呂后に相談された相国の蕭何は、韓信を普通に呼び出したのでは警戒されると考え、 一計を講じる。適当な者を劉邦からの使者に仕立て「陳?が討伐された」と報告をさせ、 長安中に布告を出した。たちまち噂は広まり、長安在住の諸侯は祝辞を述べる為に次々と参内した。 韓信は計画が頓挫したと合点し、病気と称して自邸に引篭もっていたが、蕭何は「病身であることは 知っているが、自身にかけられた疑いを晴らすためにも、親征成功の祝辞を述べに参内した方が良い」 と招いた。そして韓信は何の疑いもなくおびき出され、捕らえられてしまう。事にあたっては 用意周到に計画し、慎重さにも抜かりのなかった韓信だったが、自分を大いに買って引きとめ、 大将軍に推挙してくれた蕭何だけは信用していたため、誘いに乗ってしまったのである。 そして韓信は劉邦の帰還を待たずに長安城中の未央宮内で斬られ、死ぬ間際に 「?通の勧めに従わなかったことが心残りだ」と言い残した。韓信の三族も処刑された。
生年は紀元前230年頃と考えられるため、享年35前後と推定できる[要出典]。
韓信の死後、陳?の討伐を終えて帰ってきた劉邦は、最初は韓信が死んだことに悲しんだものの、 韓信の最期の言葉を聞いて激怒し、?通を捕らえて殺そうとした。しかし?通が堂々と抗弁したため、 命は助けて解放した。
韓信の生涯を扱ったものとして、中国のテレビドラマ『項羽と劉邦・背水の陣』 (原題:淮陰侯韓信、1991年、演:チャン・フォンイー)がある。また、中国映画 『項羽と劉邦 鴻門の会』(原題:王的盛宴、2012年、演:チャン・チェン)でもメインキャラクター の1人として登場する。
台湾では韓信が麻雀とサイコロの発明者であるという俗説があるため、韓信を「賭博の神」・ 「財神」として崇めることもある[2][3]。
前述の通り、韓信の三族は処刑されているが、明代の来元成が記した「樵書」によると、 韓信の3歳の息子が蕭何に匿われて、韋と姓を改め、南越の趙佗のもとに逃亡したとの話がある 。広西韋氏は、韓信の子孫を自称している。




鑑真和上(がんじんわじょう)
688年〈持統天皇2年〉- 763年6月25日〈天平宝字7年5月6日〉)は、奈良時代の帰化僧。 日本における律宗の開祖。俗姓は淳于。
唐の揚州江陽県の生まれ。14歳で智満について得度し、大雲寺に住む。18歳で道岸から菩薩戒を受け、 20歳で長安に入る。翌年、弘景について登壇受具し[要出典]、律宗・天台宗を学ぶ。律宗とは、 仏教徒、とりわけ僧尼が遵守すべき戒律を伝え研究する宗派であるが、鑑真は四分律に基づく 南山律宗の継承者であり、4万人以上の人々に授戒を行ったとされている。揚州の大明寺の住職で あった742年、日本から唐に渡った僧・栄叡、普照らから戒律を日本へ伝えるよう懇請された。 当時、奈良には私度僧(自分で出家を宣言した僧侶)が多かったため、伝戒師(僧侶に位を与える人) 制度を普及させようと聖武天皇は適当な僧侶を捜していた。
仏教では、新たに僧尼となる者は、戒律を遵守することを誓う。戒律のうち自分で自分に誓うものを 「戒」といい、サンガ内での集団の規則を「律」という。戒を誓うために、10人以上の僧尼の前で 儀式(これが授戒である)を行う宗派もある。日本では仏教が伝来した当初は自分で自分に授戒する 自誓授戒が盛んであった。しかし、奈良時代に入ると自誓授戒を蔑ろにする者たちが徐々に幅を 利かせたため、10人以上の僧尼の前で儀式を行う方式の授戒の制度化を主張する声が強まった。 栄叡と普照は、授戒できる僧10人を招請するため唐に渡り、戒律の僧として高名だった鑑真のもとを 訪れた。
栄叡と普照の要請を受けた鑑真は、渡日したい者はいないかと弟子に問いかけたが、危険を冒して まで渡日を希望する者はいなかった。そこで鑑真自ら渡日することを決意し、それを聞いた弟子21人も 随行することとなった。その後、日本への渡海を5回にわたり試みたが、悉く失敗した。
最初の渡海企図は743年夏のことで、このときは、渡海を嫌った弟子が、港の役人へ「日本僧は実は 海賊だ」と偽の密告をしたため、日本僧は追放された。鑑真は留め置かれた。
2回目の試みは744年1月、周到な準備の上で出航したが激しい暴風に遭い、一旦、明州の余姚へ戻ら ざるを得なくなってしまった。
再度、出航を企てたが、鑑真の渡日を惜しむ者の密告により栄叡が逮捕をされ、3回目も失敗に終わる。 その後、栄叡は病死を装って出獄に成功し、江蘇・浙江からの出航は困難だとして、鑑真一行は 福州から出発する計画を立て、福州へ向かった。しかし、この時も鑑真弟子の霊佑が鑑真の安否を 気遣って渡航阻止を役人へ訴えた。そのため、官吏に出航を差し止めされ、4回目も失敗する。
748年、栄叡が再び大明寺の鑑真を訪れた。懇願すると、鑑真は5回目の渡日を決意する。 6月に出航し、舟山諸島で数ヶ月風待ちした後、11月に日本へ向かい出航したが、激しい暴風に遭い、 14日間の漂流の末、遥か南方の海南島へ漂着した。鑑真は当地の大雲寺に1年滞留し、 海南島に数々の医薬の知識を伝えた。そのため、現代でも鑑真を顕彰する遺跡が残されている。
751年、鑑真は揚州に戻るため海南島を離れた。その途上、端州の地で栄叡が死去する。 動揺した鑑真は広州から天竺へ向かおうとしたが、周囲に慰留された。この揚州までの帰上の間、 鑑真は南方の気候や激しい疲労などにより、両眼を失明してしまう。
753年、遣唐大使の藤原清河らが鑑真のもとに訪れ渡日を約束した。しかし、明州当局の知るところ となり、清河は鑑真の同乗を拒否した。それを聞いた遣唐副使の大伴古麻呂は清河に内密に第二船に 鑑真を乗船させた。天平勝宝5年11月16日(ユリウス暦753年12月15日)に四舟が同時に出航する。 第一船と第二船は12月21日に阿児奈波嶋(現在の沖縄本島)に到着。第三船はすでに前日20日に 到着していた。第四船は不明。
沖縄に到着した三舟は約半月間滞在、12月6日(ユリウス暦754年1月3日)に南風を得て、 第一船・第二船・第三船は同時に沖縄を発して多禰嶋(国)(現在の種子島)に向けて就航する。 出港直後に大使・藤原清河と阿倍仲麻呂の乗った第一船は岩に乗り上げ座礁したが、第二船・第三船は そのまま日本(多禰嶋)を目指した。のち第一船はベトナム北部に漂着。第一船の一行は唐に戻る こととなる。7日後(七日去)の天平勝宝5年12月12日(ユリウス暦754年1月9日)に益救嶋 (現在の屋久島)に到着して鑑真の来日が叶った。
朝廷や大宰府の受け入れ態勢を待つこと6日後の12月18日に大宰府を目指し出港する。 翌19日に遭難するも古麻呂と鑑真の乗った第二船は20日(ユリウス暦754年1月17日)に秋目 (秋妻屋浦。鹿児島県坊津)に漂着[1]。その後12月26日に、大安寺の延慶に迎えられながら 大宰府に到着。奈良の朝廷への到着は、翌天平勝宝6年2月4日(ユリウス暦754年3月2日)である。  (参照『唐大和上東征伝』『続日本紀』)
天平勝宝5年12月26日(754年1月23日)大宰府に到着、鑑真は大宰府観世音寺に隣接する戒壇院で 初の授戒を行い、天平勝宝6年2月4日に平城京に到着して聖武上皇以下の歓待を受け、 孝謙天皇の勅により戒壇の設立と授戒について全面的に一任され、東大寺に住することとなった。 4月、鑑真は東大寺大仏殿に戒壇を築き、上皇から僧尼まで400名に菩薩戒を授けた。 これが日本の登壇授戒の嚆矢である。併せて、常設の東大寺戒壇院が建立され、その後、 天平宝字5年には日本の東西で登壇授戒が可能となるよう、大宰府観世音寺および下野国薬師寺に 戒壇が設置され、戒律制度が急速に整備されていった。
天平宝字2年(758年)、淳仁天皇の勅により大和上に任じられ、政治にとらわれる労苦から 解放するため僧綱の任が解かれ、自由に戒律を伝えられる配慮がなされた。
天平宝字3年(759年)、新田部親王の旧邸宅跡が与えられ唐招提寺を創建し、戒壇を設置した。 鑑真は戒律の他、彫刻や薬草の造詣も深く、日本にこれらの知識も伝えた。また、悲田院を作り 貧民救済にも積極的に取り組んだ。


桓譚(かんたん)
中国,前漢末,後漢初の学者。字は君山。相 (安徽省宿県北西) の人。後漢初に議郎となる。著書に『新論』がある。



管仲(かん ちゅう)
管 夷吾(かん いご)、中国の春秋時代における斉の政治家である。桓公に仕え、覇者に押し上げた。 一般には字の仲がよく知られており、管 仲(かん ちゅう)として記す。三国時代の管寧はその後裔という[1]。
管仲は鮑叔との友情を次のように述懐している。 「昔、鮑叔と一緒に商売をして、利益を分ける際に私が余分に取ったが、鮑叔は私を欲張りだと非難しなかった。 私が貧乏なのを知っていたからだ。また、彼の名を成さしめようとした事が逆に彼を窮地に陥れる結果となったが、 彼は私を愚か者呼ばわりしなかった。物事にはうまく行く場合とそうでない場合があるのを心得ていたからだ。 私は幾度か仕官して結果を出せず、何度もお払い箱となったが彼は私を無能呼ばわりしなかった。 私が時節に恵まれていないことを察していたからだ。私は戦に出る度に逃げ帰ってきたが、彼は臆病呼ばわりしなかった。 私には年老いた母が居る事を知っていたからだ。公子糾が敗れた時、召忽は殉死したが私は囚われて辱めを受けた。 だが鮑叔は破廉恥呼ばわりしなかった。私が小さな節義に恥じず、天下に功名を表せなかった事の方を恥としている事を 理解していてくれたからだ。 私を生んだのは父母だが、父母以上に私を理解してくれる者は鮑叔である」
二人は深い友情で結ばれ、それは一生変わらなかった。管仲と鮑叔の友情を後世の人が称えて管鮑の交わりと呼んだ。
二人は斉に入り、管仲は公子糾に仕え、鮑叔は公子小白(後の桓公)に仕えた。しかし時の君主襄公は暴虐な君主で、 跡継ぎを争う可能性のある公子が国内に留まっていては何時殺されるかわからないため、管仲は公子糾と共に魯に逃れ、 鮑叔と小白も?に逃れた。その後、襄公は従兄弟の公孫無知の謀反で殺されたが、その公孫無知も兵に討たれ、 君主が不在となった。斉国内は糾と小白のどちらを新たな君主として迎えるべきかで論が二分され、 先に帰国した方が有利な情勢になった。
ここで管仲は公子糾の帰国を急がせる一方、競争者である小白を待ち伏せして暗殺しようとした。 管仲は藪から毒を塗った矢を射て車上の小白の腹に命中させたが、矢は腰巻の止め具に当たって体に届かず、 小白は無事であった(春秋左氏伝などにはこのことは書かれていない)。 この時、小白は咄嗟に死んだ振りをして車を走らせてその場を急いで離れ、二の矢以降から逃れた。 更に小白は自分の死を確認する刺客が再度到来することを危惧して、念のために次の宿場で棺桶の用意をさせた。 このため管仲は小白が死んだと思い込み、公子糾の一行は悠々と斉に帰国した。 しかし、既に斉に入っていた小白とその臣下たちが既に国内を纏めており、管仲と公子糾はやむなく再び魯へ退却した。
斉公に即位した小白こと桓公は、後々の禍根となる糾を討つべく軍を魯に向ける。魯も抗戦したが、 斉軍は強く窮地に追い込まれた。ここで桓公は、兵の引き上げの代わりに、 公子糾の始末と管仲および召忽の身柄引き渡しを求める。魯はこれに応じ、公子糾は斬首され、管仲は罪人として斉に送られ、 召忽は身柄を拘束される前に自決した。しかし、管仲は斉に入ると拘束を解かれる。魯を攻めるにあたり、 桓公は初め糾もろとも管仲を殺すつもりだったが、鮑叔から「我が君主が斉のみを統治されるならば、 私と高?の2人で十分です。しかし天下の覇権を望まれるならば、管仲を宰相として得なければなりません」 と言われて考え直したためである。
鮑叔の推薦により管仲は桓公と面会し、強兵の前に国を富ませることの重要性、そしてそれには民生の安定と規律の 徹底が必要だと説き、即日宰相に命じられた。鮑叔は管仲の下の立場に入り、その補佐に回った。 管仲は才を存分に発揮できる場所と右腕を得て、その優れた能力を発揮した。
管仲は内政改革に当たり、周代初期以来の古い制度である公田制を廃止し、斉の領土を21郷に分けた。 物価安定策、斉の地理を利用した塩・漁業による利益などによって農民・漁民層の生活を安定させた。 これらにより民衆は喜んで働き、産業が活性化した。安定した生活は消費を生み、活発な産業は商人を呼び寄せ、 商業も活性化した。活発な商業は他国から人を呼び、この中から優れた人材を積極的に登用した。 一方で、五戸を一つの単位としてそれぞれの間で監視の義務を負わせたり、不正に対しては厳罰をもってあたった。これらは高い規律と多くの税収を生んだ。 国内を整備した桓公は魯に攻め込み、領土を奪った。講和条約の調印の際、魯の将軍曹沫は自らの敗戦を償おうと、 桓公の首に匕首を突きつけて奪った領土を返還する事を要求した。やむなく桓公はそれに応じたが、 斉へ帰った後に「脅迫された盟約など守る必要はない。今一度魯を攻め、曹沫の首を取ってくれよう」と言った。 しかし管仲は「たとえ脅迫の結果であろうとも、一度約束した事を破って諸侯の信望を失ってはいけません」と諌め、 領地を返させた。これ以降、桓公の約束は諸侯の間で信頼を持って迎えられ、小国の君主達は桓公を頼みにするようになった。
これらの政策によって増大した国力と信頼を背景に、桓公は覇者への道を歩む。周王室内部の紛争を治め、北上してくる楚を討って周への忠誠を誓わせ、小国を盟下においた。 この功績により桓公は、周王室から方伯(周を中心とした四方のうち東を管轄する諸侯の事)に任じられた。 桓公は度々傲慢に傾き、周王朝を蔑ろにしようとするが、管仲はその度毎に諌め、桓公も自らの意に逆らうことであってもその言を受け入れた。曹沫の件や燕斉の国境の不利な変更についても、自分では嫌だと思いながらも管仲の言に従った。 後世に管仲の著書とされている『管子』の中の言葉として「倉廩満ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る。」 の言葉がある。まず民生の安定があってこそ政治が行えるという考えだが、管仲が礼節を無視したわけではない。 桓公の命令で周王室の内紛を鎮めた時に、喜んだ周の襄王は管仲を賞して上卿にしようとしたが、 管仲は「私は陪臣でしかないので、そのような待遇は受けられません」とあくまで固辞した。 曹沫の一件での意見も同じ理由によるものであった。




簡野道明(かんのみちあき)
慶応元年4月9日(1865年5月3日) - 昭和13年(1938年)2月11日)は日本の漢文学者(漢字学者)・言語学者・教育者である。 漢和辞典「字源」の編者。



韓愈(かんゆ)
768年(大暦3年) - 824年(長慶4年))は、中国・唐中期を代表する文人・士大夫である。字は退之(たいし)、 諡は文公。鄧州南陽(今の河南省孟州市)の人であるが、昌黎(河北省)の出身であると自称した。唐宋八大家の一人。 諡によって「韓文公」ともよばれる。
韓愈は、六朝以来の文章の主流であった四六駢儷文が修辞主義に傾斜する傾向を批判し、 秦漢以前の文を範とした達意の文体を提唱し(古文復興運動)、唐宋八大家の第一に数えられている。 この運動に共鳴した柳宗元は、韓愈とともに「韓柳」と並称される。
古文復興運動は、彼の思想の基盤である儒教の復興と表裏をなすものであり、その観点から著された文章として、 「原人」「原道」「原性」などが残されている。その排仏論も、六朝から隋唐にかけての崇仏の傾向を斥け、 中国古来の儒教の地位を回復しようとする、彼の儒教復興の姿勢からきたものであった。 その傾向を受けついだのは高弟の李?である。
詩人としては、新奇な語句を多用する難解な詩風が特徴で、 平易で通俗的な詩風を特徴とする白居易に対抗する中唐詩壇の一派を形成し、 孟郊・張籍・李賀・王建・賈島など「韓門の弟子」と称する詩人たちを輩出した。
文集に『韓昌黎集』40巻、『外集』10巻がある。




源 義仲 (みなもと の よしなか)
平安時代末期の信濃源氏の武将。河内源氏の一族、源義賢の次男。源頼朝・義経兄弟とは 従兄弟にあたる。木曾 義仲(きそ よしなか)の名でも知られる。『平家物語』においては 朝日将軍(あさひしょうぐん、旭将軍とも)と呼ばれている。
以仁王の令旨によって挙兵、都から逃れたその遺児を北陸宮として擁護し、 倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破って入京する。連年の飢饉と荒廃した都の治安回復を 期待されたが、治安の回復の遅れと大軍が都に居座ったことによる食糧事情の悪化、 皇位継承への介入などにより後白河法皇と不和となる。法住寺合戦に及んで法皇と後鳥羽天皇を 幽閉して征東大将軍[注釈 1]となるが、源頼朝が送った源範頼・義経の軍勢により、 粟津の戦いで討たれた。
寿永3年(1184年)1月6日、鎌倉軍が墨俣を越えて美濃国へ入ったという噂を聞き、義仲は怖れ慄いた。 15日には自らを征東大将軍に任命させた[注釈 1]。平氏との和睦工作や、後白河法皇を伴っての 北国下向を模索するが、源範頼・義経率いる鎌倉軍が目前に迫り開戦を余儀なくされる。 義仲は京都の防備を固めるが、法皇幽閉にはじまる一連の行動により既に人望を失っていた 義仲に付き従う兵は無く、宇治川や瀬田での戦いに惨敗した(宇治川の戦い)。
戦いに敗れた義仲は今井兼平ら数名の部下と共に落ち延びるが、20日、近江国粟津 (現在の滋賀県大津市)で討ち死にした(粟津の戦い)。九条兼実は「義仲天下を執る後、 六十日を経たり。信頼の前蹤と比するに、猶その晩きを思ふ」[31]と評した。享年31。
義仲が戦死したとき嫡男・義高は頼朝の娘・大姫の婿として鎌倉にいたが、逃亡を図って討たれた。 義仲の家系は絶えたとされるが諸説あり、戦国大名の木曾氏は義仲の子孫を自称している。



魏 徴(ぎ ちょう)
(580年 - 643年)は、唐の政治家。字は玄成。祖父の魏釗は北周に仕え、父の魏?は隋に仕えた。 子に魏叔玉、魏叔瑜、魏叔?、魏叔?、娘(霍王李元軌夫人)などがいる。
鉅鹿郡曲城県(現在の河北省?台市巨鹿県、晋州市、邯鄲市館陶県)の人。
若いころから、高祖、太宗の2代に仕えて、諫議大夫・左光禄大夫、秘書監、侍中を歴任して、 鄭国公に封じられ、太宗に直諫(じかに諫言)することで有名であり、そのやりとりは『貞観政要』に 多く載せられている。
幼少時は貧困で、隋末に李密(瓦崗軍)のもとへ身を寄せた。しかし、李密が唐に敗戦したために、 竇建徳の捕虜となり、その才能を見出された。竇建徳の兵が敗れると、唐へ帰順して、 太子洗馬つまり皇太子李建成の側近の地位を得た。玄武門の変で李建成と李元吉兄弟が非業の死を 遂げると、兄弟を討ち取った李世民(太宗)は率直さを評価して諫議大夫へ昇進させた、 後に秘書監、侍中などの職を転任した。癇癪を起こした太宗を二百回余りも諌めた。 逝去した際に、文貞公と諱された。
太宗は彼の死を非常に哀しみ、侍臣へ以下のように言ったという。
「人以銅為鏡、可以正衣冠。以古為鏡、可以見興替。以人為鏡、可以知得失。魏?沒、朕亡一鏡矣 (人は銅を以て鏡と為し、以て衣冠を正すべし。古きを以て鏡と為し、以て興替を見るべし。 人を以て鏡と為し、以て得失を知るべし。魏徴の沒するや、朕 一鏡を亡(うしな)へり。」 (『資治通鑑』巻一九六)。
太宗の命で編纂した『隋書』の序論、『梁書』、『陳書』、『齊書』の総論など、多くの著作がある。 その言論は『貞観政要』に多く収められている。「人生意気に感ず」の句で有名な「述懐」 という詩を詠んだ。
明代の白話小説『西遊記』では、魏徴は陽間(この世)と陰間(あの世)を往来できる人物として 描かれ、太宗と囲碁の対局中にうたた寝した間に、天帝の命令により夢の中で涇河の龍王を 処刑したことになっている。恨みを抱いた涇河龍王が太宗の夢枕に現れたため、太宗は衰弱死し、 冥府めぐりを行って寿命を延ばし帰還した(詳細は西遊記の成立史)。



吉備 真備(きび の まきび)
日本の奈良時代の学者・公卿。元の名は下道 真備(しもつみち の まきび)。 氏姓は下道朝臣のち吉備朝臣。右衛士少尉・下道圀勝[3]の子。官位は正二位・右大臣。 勲等は勲二等。
備中国下道郡(現在の岡山県倉敷市真備町)出身。
霊亀2年(716年)遣唐留学生となり、翌養老元年(717年)に阿倍仲麻呂・玄昉らと共に入唐した。 帰路では種子島に漂着するが、天平7年(735年)に多くの典籍を携えて帰朝した。唐では経書と 史書のほか、天文学・音楽・兵学などを幅広く学び、帰朝時には経書(『唐礼』130巻)、 天文暦書(『大衍暦経』1巻、『大衍暦立成』12巻)、日時計(測影鉄尺)、 楽器(銅律管・鉄如方響・写律管声12条)、音楽書(『楽書要録』10巻)、弓(絃纏漆角弓・ 馬上飲水漆角弓・露面漆四節角弓各1張)、矢(射甲箭20隻、平射箭10隻)などを献上し、 『東観漢記』をもたらした。
帰朝後は聖武天皇や光明皇后の寵愛を得て、天平7年(735年)中に従八位下から一挙に10階昇進して 正六位下に、天平8年(736年)に外従五位下、天平9年(737年)に従五位上に昇叙と、 急速に昇進する。翌天平10年(738年)に橘諸兄が右大臣に任ぜられて政権を握ると、 真備と同時に帰国した玄昉とともに重用され、真備は右衛士督を兼ねた。天平11年(739年)8月、 母を葬る[1]。天平12年(740年)には、真備と玄昉を除かんとして藤原広嗣が大宰府で反乱を起こす (藤原広嗣の乱)。翌天平13年(741年)に東宮学士として皇太子・阿倍内親王 (後の孝謙天皇・称徳天皇)に『漢書』や『礼記』を教授した。その後、天平15年(743年) には従四位下・春宮大夫兼春宮学士に叙任され、天平18年(746年)には吉備朝臣の姓を賜与され、 天平19年(747年)に右京大夫に転じて、天平勝宝元年(749年)には従四位上に昇った。
孝謙天皇即位後の翌天平勝宝2年(750年)には藤原仲麻呂が専権し、筑前守次いで肥前守に左遷される。 天平勝宝3年(751年)には遣唐副使となり、翌天平勝宝4年(752年)に再度入唐、阿倍仲麻呂と 再会する。その翌年の天平勝宝5年(753年)に、鑑真と同じく屋久島へ漂着、さらに紀州太地に 漂着後、無事に帰朝する。
天平勝宝6年(754年)には正四位下・大宰大弐に叙任されて九州に下向する。天平勝宝8歳(756年) に新羅に対する防衛のため筑前国に怡土城を築き、天平宝字2年(758年)に大宰府で唐での安禄山の 乱に備えるよう勅を受けた。その後、暦学が認められて、儀鳳暦に替えて大衍暦が採用された。
天平宝字8年(764年)には造東大寺長官に任ぜられ、70歳で帰京した。同年に発生した藤原仲麻呂の 乱では、従三位に昇叙して、中衛大将として追討軍を指揮して、優れた軍略により乱鎮圧に功を挙げ、 翌天平神護元年(765年)には勲二等を授けられた。翌天平神護2年(766年)、 称徳天皇(孝謙天皇の重祚)と法王に就任した弓削道鏡の下で中納言となり、 同年の藤原真楯薨逝に伴い大納言に、次いで従二位・右大臣に昇進して、左大臣の藤原永手とともに 政治を執った。これは地方豪族出身者としては破格の出世であり、学者から立身して 大臣にまでなったのも、近世以前では、吉備真備と菅原道真のみである。
神護景雲4年(770年)、称徳天皇が崩じた際には、娘(妹)の由利を通じて天皇の意思を得る 立場にあり、永手らと白壁王(後の光仁天皇)の立太子を実現した。『水鏡』など後世の史書や 物語では、後継の天皇候補として文室浄三および文室大市を推したが敗れ、 「長生の弊、却りて此の恥に合ふ」と嘆息したという。ただし、この皇嗣をめぐる話は『続日本紀』に は認められず、この際の藤原百川の暗躍を含めて後世の誤伝あるいは作り話とする説が強い[6]。
光仁天皇の即位後、真備は老齢を理由に辞職を願い出るが、光仁天皇は兼職の中衛大将のみの 辞任を許し、右大臣の職は慰留した。宝亀2年(771年)に再び辞職を願い出て許された。 それ以後の生活については何も伝わっておらず、宝亀6年(775年)10月2日薨去。享年83。 最終官位は正二位前右大臣。
奈良市内にある奈良教育大学の構内には真備の墓と伝えられる吉備塚(吉備塚古墳)がある。
公務の傍ら、孔子をはじめとする儒教の聖人を祭る朝廷儀礼である釈奠の整備にも当たった。 著書に『私教類聚』『道弱和上纂』『刪定律令』などがあるとされる。在唐中、書は張旭に学び、 帰朝後、晋唐の書を弘めた。古筆中に『虫喰切』『南部の焼切』が現存する[7]。
『江談抄』や『吉備大臣入唐絵巻』などによれば、真備は、殺害を企てた唐人によって、 鬼が棲むという楼に幽閉されたが、その鬼というのが真備とともに遣唐使として入唐した阿倍仲麻呂の 霊(生霊)であったため、難なく救われた。また、難解な「野馬台の詩」の解読や、 囲碁の勝負などを課せられたが、これも阿倍仲麻呂の霊の援助により解決した。 唐人は挙句の果てには食事を断って真備を殺そうとするが、真備が双六の道具によって日月を 封じたため、驚いた唐人は真備を釈放した。
真備が長期間にわたって唐に留まることになったのは、玄宗がその才を惜しんで帰国させなかったため ともいわれる。真備は、袁晋卿(後の浄村宿禰)という音韻学に長けた少年を連れて帰朝したが、 藤原長親によれば、この浄村宿禰という人物は、呉音だった漢字の読み方を漢音に改めようと努め、 片仮名を作ったとされる。また、帰路では当時の日本で神獣とされていた九尾の狐も同船していたと いわれる。
中世の兵法書などでは、張良が持っていたという『六韜三略』の兵法を持ち来たらしたとして、 真備を日本の兵法の祖とした。碁に関しても、日本に初めて持ち帰ったとされる伝承があるが、 魏志倭人伝に碁と双六が齎されたことが記載されており事実ではない。
また、真備は陰陽道の聖典『金烏玉兎集』を唐から持ち帰り、常陸国筑波山麓で阿倍仲麻呂の子孫に 伝えようとしたという。金烏は日(太陽)、玉兎は月のことで「陰陽」を表す。安倍晴明は、 阿部仲麻呂の一族の子孫とされるが、『金烏玉兎集』は晴明が用いた陰陽道の秘伝書として、 鎌倉時代末期か室町時代初期に作られた書とみられている。伝説によると、中国の伯道上人という 仙人が、文殊菩薩に弟子入りをして悟りを開いた。このときに文殊菩薩から授けられたという 秘伝書『文殊結集仏暦経』を中国に持ち帰ったが、その書が『金烏玉兎集』であるという。 その他、『今昔物語集』では、玄昉を殺害した藤原広嗣の霊を真備が陰陽道の術で鎮めたとし、 『刃辛抄』では、陰陽書『刃辛内伝』を持ち来たらしたとして、真備を日本の陰陽道の祖としている。
『宇治拾遺物語』では、他人の夢を盗んで自分のものとし、そのために右大臣まで登ったという 説話もある。



季 布(き ふ)
秦末から前漢初期にかけての武将。はじめ楚の項羽配下だったが、のちに劉邦に仕えた。
項羽と同郷である下相県(現在の江蘇省宿遷市宿城区の南西部)の人で、若い時から弱者を助けていた ことから任侠者としても名高かった。項羽からの信頼も厚く、楚漢戦争の際には劉邦を幾度も窮地に 立たせた。
しかし、垓下の戦いあたりで、鍾離?とともに一兵卒に変装して項羽の陣営から離脱した。項羽亡き 後は、漢よりの追手から逃れるために各地を逃亡して、濮陽の町の周氏の家に潜伏していた。 劉邦は季布に千金の賞金をつけて探させ、匿う者は一族諸共死刑と布告した。周氏の主人は季布に 勧めて、魯国の朱家の下で過ごすことになった。漢の追及が激しいためにいったん季布は、 頭を剃り、首枷をつけ、奴隷のなりをして魯の朱家の家へ向かった。朱家は大侠客として名が 知れており、周氏の仲介で季布は朱家の客分となった。朱家は漢の都・洛陽へ向かい、劉邦の配下の うち義人として名高い夏侯嬰を訪ね、劉邦への仲介を依頼。劉邦と直接対面した結果、季布は郎中 (警護役)に取り立てられた。恵帝の時代に中郎将となった。
匈奴の冒頓単于が南下して、遠征する際に手紙を送った。その内容が実力者の呂雉(呂后)侮辱する ものだったので、彼女は激怒した。呂雉は諸将を集めて軍議を開いた。すると呂雉の義弟である 上将軍の樊?が「この私めに十万の軍勢をお授けください。野蛮な匈奴を蹴散らしましょうぞ」 と述べた。他の将軍たちも呂雉に媚び諂って賛成した。しかし、季布は「樊?将軍の発言は死刑に 値します。そもそも、高祖の時代にも御自ら四十万を率いて遠征に向かいながら平城で惨敗され ました。それがどうでしょう。樊?将軍が十万を率いてもかえって惨敗するでしょう。それこそ陛下の 御前で嘘をつくようなものです。かつて秦は匈奴対策に気取られたために、陳勝の反乱に対応する ことができませんでした。それ以降は戦乱が続き、今日まで癒えておりません。樊?将軍が陛下の 御前で諂う行為は、再び乱世の時代になるようなものです」と直言した。
季布の直言を聞いた漢の大臣と諸将は呂雉を畏れ憚ったために、その顔色をうかがったが呂雉は 軍議をここで打ち切り、以降から匈奴遠征を持ち出すことはなかった。文帝の時代に、季布は河東の 郡守にまで出世した[1]。
ある人物が季布は優れた人物と推薦した。文帝はそれを聞いて彼を御史大夫に任じようとしたが、 季布を好まない人物が「彼は向こう見ずで、酒乱で手に負えない性癖がある」と讒言したため、 季布は都の宿舎で一ヵ月余も放置され、そのまま何もなく帰任される事態となった。何かの事情がある と感じた季布は謁見を申し出て「私は功績もないのに、陛下からご恩顧を賜り、河東にて勤務を 勤めている最中でございます。なのに、陛下は何のご理由で私を召し出して。そのまま音沙汰もない のは不自然に感じ取りました。これはきっと左右の者が陛下に私のことをあるなしと申し上げたの でしょう。私は多忙な河東の勤務から陛下のお召しによって参内して、何の音沙汰がないのは物事 の道理に背くものです。しかもそのまま帰任せよとは、陛下は左右の者に惑わされて、 天下は乱れるかもしれないと私は案じる次第であります」と述べた。
文帝は、これを聞いて恥じ入ってしまい、間を置いて「河東は朕が手足を頼む郡である。それで 特例としてそなたを召し出したということだ」と述べた。これを聞いた季布は納得して、 文帝と酒宴して、まもなく帰任したという。
季布は子供の頃から義理堅い人物として評判であり、その物事を直言する人柄とで次第に宮廷でも 重みをますようになり、「黄金百斤を得るは、季布の一諾を得るに如かず」とまで言われるように なった。なお、季布が漢に取り立てられた後、遊説家の曹丘生が訪ねてきた。季布は遊説家を嫌って いたが、曹丘生が「『黄金百斤を得るは、季布の一諾を得るに如かず』という言葉が世間に広がった のは、遊説家である私が同郷のよしみで行ったものなのに、私を嫌うなんて酷ではありませんか?」 と言ったため、季布は曹丘生を気に入りもてなしたという。
後世でも、唐の魏徴が自著『述懐』の中で「季布に二諾無く、侯?は一言を重んず」と、その義理堅さ を歌っている。




牛僧儒(ぎゅうそうじゅ)
(780年一848年),字思黯,安定?觚(今甘粛慶台) 人。唐代大臣,牛李党争主人公之一。德宗貞元二十一年(805年)登進士。 元和三年(808年)以賢良方正対策。直言批評時政,爲宰相李吉甫所忌。初爲伊闕具尉, ?河南尉,?観察御史、殿中侍御史、 礼部員外郎、考功員外郎、御史中丞、戸部侍郎等?。長慶三年(823年),升任宰相。宝?元 年(825年),出爲武昌節度使。 大和四年(830年),?召爲相。后出任河南節度使、東都留守等?。武宗時,李德裕当政,被貶爲循州長史。宣宗時,召爲太子少師。 大中二年(848年)病卒。

(779年-847年)は、中国の9世紀、唐代の政治家である。
貞元21年(805年)の進士。戸部侍郎・同中書門下平章事に上った。李逢吉・李宗閔らと結んで李徳裕と争い、 「牛李の党争」を引き起こした。
会昌2年(842年)、李徳裕の李党が権力を握ると、牛僧孺は循州員外長史に左遷された。同6年(846年)に宣宗が即位すると、 李党は排斥され、大中元年(847年)に牛僧孺は朝廷に召還されて太子少師となった。 その後、李徳裕は崖州司戸として配所で逝去し、牛李の党争は牛党の勝利に終わった。
なお、牛僧孺は『玄怪録』の撰者とみなされている。


堯(ぎょう)
中国神話に登場する君主。姓は伊祁(いき)、名は放勲(ほうくん)。陶、次いで唐に封建されたので陶唐氏ともいう。 儒家により神聖視され、聖人と崇められた。
『史記』「五帝本紀」によれば、?の次子として生まれ、?の後を継いだ兄の死後帝となった[1]。「その仁は天のごとく、 その知は神のごとく」などと最大級の賛辞で描かれる。黄色い冠で純衣をまとい、白馬にひかせた赤い車に乗った[2]。
羲和、羲仲、羲叔、和仲に命じ、天文を観察して暦を作らせた。一年を366日とし、3年に1度閏月をおいた。[3]
堯は大洪水を憂え、臣下の四岳に誰に治めさせるかを問うた。みなが鯀を推薦した。堯は「鯀は(帝の)命に背き、 一族を損なっている」と反対したが、岳は試しに使い、だめなら止めればよいと言った。そこで鯀を用いたが、 9年たっても成果がなかった。[4]
『十八史略』によれば平陽に都したとし、質素な生活を送っていたとしている。
別の書物での堯の伝説として、?(?の字は羽の下に廾、姓は后)を挙げる。その頃の太陽は全部で十個あり、 交代で地上を照らしていたのだが、ある時に十個が一度に地上を照らすようになったために地上は灼熱地獄となった。 堯は弓の名人である?に何とかして来いと命令すると、?は九個の太陽を打ち落として帰ってきて、 救われた民衆は堯を褒め称え帝に迎えたという。
舜への禅譲
堯には丹朱と言う息子がいたが、臣下から推薦者を挙げさせた。放斉は丹朱を挙げ、驩兜は共工を挙げたが、堯は二人とも退けた。みなが虞舜(舜)を挙げ、性質がよくない父と母、弟に囲まれながら、彼らが悪に陥らないよう導いていると言った。堯は興味を示し、二人の娘を嫁した。[5] それから民と官吏を3年間治めさせたところ、功績が著しかったため、舜に譲位することにした。 舜は固辞したが、強いて天子の政を行なわせた。舜の願いにより、驩兜、共工、鯀、三苗を四方に流した。 20年後に完全に政治を引退し、8年たって死んだ。天下の百姓は父母を失ったように悲しみ、3年間音楽を奏でなかった。 3年の喪があけてから、舜は丹朱を天子に擁立しようとしたが、諸侯も民も舜のもとに来て政治を求めたので、 やむなく舜が即位した。[6]
堯舜の伝説の形成
舜と共に聖天子として崇められ、堯舜と並び称される。堯舜伝説は春秋時代末には既に形作られていたようで、 起源となったような人物がいるのかは解らないが、中国人民日報は2000年に山西省で堯舜時代の遺跡が見つかったと発表している。 また1993年に郭店一号楚墓から発見された竹簡には堯や舜の事跡が記録されており、注目される。
堯舜伝説の異説
唐代の歴史家・劉知幾は、その著書・『史通』で、堯舜伝説を否定する以下の内容のことを書き残している。
『山海経』等の歴史・地理書には、「囚堯城」や「帝丹朱」という記述があり、このことから想定するに、 堯は実力者の舜に強制的に退位させられ、「囚堯城」に幽閉された。それから間もなく、舜は丹朱(帝丹朱)を即位させたが、 しばらくして、人々の支持はことごとく自分に集まっているとして、丹朱を廃して自身が即位したのではないか。 第一、そんなに徳の高い大人物が次から次と出て来るものだろうか。
鼓腹撃壌
堯の御世も数十年、平和に治まっていた。堯はあまりの平和さに、天下が本当に治まっているか、 自分が天子で民は満足しているか、かえって不安になった。そこで、目立たぬように変装して家を出て自分の 耳目で確かめようとした。ふと気がつくと子供たちが、堯を賛美する歌を歌っていた。これを聴いた堯は、 子供たちは大人に歌わされているのではないかと疑って真に受けず、立ち去った。ふと傍らに目をやると、 老百姓が腹を叩き、地を踏み鳴らしながら(=鼓腹撃壌)楽しげに歌っている。この歌を聴いて堯は世の中が 平和に治まっていることを悟った、とされる(『十八史略』)。


喬 琳(きょうりん)
(?-784年7月28日),中国唐朝官員,唐德宗初年短暫為相。
太原人氏。他年少孤貧,但好学,以文詞聞名。唐玄宗天宝(742年-756年)初年,中進士。拜監察御史。


許 圉師(きょ ぎょし)
? - 679年、唐の政治家、宰相。 貫籍は、安州安陸県(現・湖北省安陸市)。 『永徽五礼』・『芳林要覧』などの編纂に参与した。『全唐詩』巻四五に詩一首が残る。



魚玄機(ぎょ げんき )
(844頃~871頃) 中国、晩唐の女流詩人。字あざなは幼微・蕙蘭。補闕李億の妾となったが、 のち愛衰えて道教寺院咸宜観に入り女道士となる。詩文にすぐれ、温庭筠らと交わる。侍婢じひを 殺して刑死。著「唐女郎魚玄機詩」を残す。森鴎外に小説「魚玄機」がある。

 魚玄機(ぎょげんき)が人を殺して獄に下った。風説は忽たちまち長安人士の間に流伝せられて、 一人として事の意表に出でたのに驚かぬものはなかった。
 唐(とう)の代(よ)には道教が盛であった。それは道士等(どうし)らが王室の李り姓であるの を奇貨として、老子を先祖だと言い做(な)し、老君に仕うること宗廟(そうびょう)に仕うるが如 (ごと)くならしめたためである。天宝以来西の京の長安には太清宮(たいせいきゅう)があり、 東の京の洛陽(らくよう)には太微宮(たいびきゅう)があった。その外ほか都会ごとに紫極宮 (しきょくきゅう)があって、どこでも日を定めて厳かな祭が行われるのであった。 長安には太清宮の下(しも)に許多(いくた)の楼観がある。道教に観があるのは、仏教に寺が あるのと同じ事で、寺には僧侶(そうりょ)が居おり、観には道士が居る。その観の一つを 咸宜観(かんぎかん)と云って女道士(じょどうし)魚玄機はそこに住んでいたのである。
 玄機は久しく美人を以て聞えていた。趙痩(ちょうそう)と云わむよりは、むしろ楊肥(ようひ) と云うべき女である。それが女道士になっているから、脂粉の顔色を※(「さんずい+宛」、 第4水準2-78-67)けがすを嫌っていたかと云うと、そうではない。平生粧(よそおい)を凝こらし 容(かたち)を冶(かざ)っていたのである。獄に下った時は懿宗(いそう)の咸通(かんつう) 九年で、玄機は恰あたかも二十六歳になっていた。
 玄機が長安人士の間に知られていたのは、独り美人として知られていたのみではない。この女は詩 を善よくした。詩が唐の代に最も隆盛であったことは言を待たない。隴西(ろうせい)の李白 (りはく)、襄陽(じょうよう)の杜甫(とほ)が出て、天下の能事を尽した後に太原(たいげん) の白居易(はくきょい)が踵ついで起って、古今の人情を曲尽(きょくじん)し、長恨歌 (ちょうこんか)や琵琶行(びわこう)は戸ごとに誦(そらん)ぜられた。白居易の亡くなった 宣宗(せんそう)の大中(たいちゅう)元年に、玄機はまだ五歳の女児であったが、ひどく怜悧 (れいり)で、白居易は勿論もちろん、それと名を斉(ひとし)ゅうしていた元微之(げんびし) の詩をも、多く暗記して、その数は古今体を通じて数十篇に及んでいた。十三歳の時玄機は始て 七言絶句を作った。それから十五歳の時には、もう魚家の少女の詩と云うものが好事者(こうずしゃ) の間に写し伝えられることがあったのである。
 そう云う美しい女詩人が人を殺して獄に下ったのだから、当時世間の視聴を聳動(しょうどう) したのも無理はない。
  魚玄機の生れた家は、長安の大道から横に曲がって行く小さい街にあった。所謂いわゆる狭邪 (きょうしゃ)の地でどの家にも歌女(かじょ)を養っている。魚家もその倡家(しょうか)の一つで ある。玄機が詩を学びたいと言い出した時、両親が快く諾して、隣街の窮措大(きゅうそだい)を家に 招いて、平仄(ひょうそく)や押韻の法を教えさせたのは、他日この子を揺金樹(ようきんじゅ) にしようと云う願があったからである。
 大中十一年の春であった。魚家の妓ぎ数人が度々ある旗亭きていから呼ばれた。客は宰相 令狐綯(れいことう)の家の公子で令狐※(れいこかく)[#「さんずい+高」、195-7]と云う人 である。貴公子仲間の斐誠(ひせいが)いつも一しょに来る。それに今一人の相伴があって、 この人は温姓(おんせい)で、令狐や斐に鍾馗(しょうき)々々と呼ばれている。公子二人は 美服しているのに、温は独り汚れ垢あかついた衣きぬを着ていて、兎角とかく公子等に頤使 (いし)せられるので、妓等は初め僮僕(どうぼく)ではないかと思った。然しかるに酒酣 (たけなわ)に耳熱して来ると、温鍾馗は二公子を白眼に視みて、叱咤(しった)怒号する。 それから妓に琴を弾かせ、笛を吹かせて歌い出す。かつて聞いたことのない、美しい詞ことばを 朗かな声で歌うのに、その音調が好く整っていて、しろう人ととは思われぬ程である。鍾馗の 諢名あだなのある于思※(「目+于」、第3水準1-88-76)目うさいかんもくの温が、二人の白面郎に 侮られるのを見て、嘲謔(ちょうぎゃく)の目標にしていた妓等は、この時温の傍そばに一人寄り 二人寄って、とうとう温を囲んで傾聴した。この時から妓等は温と親しくなった。温は妓の琴を 借りて弾いたり、笛を借りて吹いたりする。吹弾すいたんの技も妓等の及ぶ所ではない。
 妓等が魚家に帰って、頻しきりに温の噂うわさをするので、玄機がそれを聞いて師匠にしている 措大に話すと、その男が驚いて云った。「温鍾馗と云うのは、恐らくは太原の温岐(おんき) の事だろう。またの名は庭※(「竹かんむり/均」、第3水準1-89-63)(ていいん)、字(あざな) は飛卿ひけいである。挙場にあって八たび手を叉こまぬけば八韻の詩が成るので、温八叉 (おんはっしゃ)と云う諢名もある。鍾馗と云うのは、容貌ようぼうが醜怪だから言うのだ。 当今の詩人では李商隠(りしょういん)を除いて、あの人の右に出るものはない。この二人に 段成式(だんせいしき)を加えて三名家と云っているが、段はやや劣っている」と云った。
 それを聞いてからは、妓等が令狐の筵会(えんかい)から帰る毎ごとに、玄機が温の事を問う。 妓等もまた温に逢あう毎に玄機の事を語るようになった。そしてとうとうある日温が魚家に訪ねて来た。美しい少女が詩を作ると云う話に、好奇心を起したのである。  温と玄機とが対面した。温の目に映じた玄機は将まさに開かむとする牡丹ぼたんの花のような 少女である。温は貴公子連と遊んではいるが、もう年は四十に達して、鍾馗の名に負そむかぬ容貌を している。開成の初に妻を迎えて、家には玄機とほとんど同年になる憲と云う子がいる。
 玄機は襟えりを正して恭(うやうや)しく温を迎えた。初め妓等に接するが如き態度を以て 接しようとした温は、覚えず容かたちを改めた。さて語を交えて見て、温は直に玄機が尋常の女 でないことを知った。何故なぜと云うに、この花の如き十五歳の少女には、些(ち)との嬌羞 (きょうしゅう)の色もなく、その口吻(こうふん)は男子に似ていたからである。
 温は云った。「卿(けい)の詩を善くすることを聞いた。近業があるなら見せて下さい」 と云った。
 玄機は答えた。「児(じ)は不幸にして未いまだ良師を得ません。どうして近業の言うに 足るものがありましょう。今伯楽(はくらく)の一顧を得て、奔※(「足へん+是」、第4水準2-89-42) (ほんてい)して千里を致すの思があります。願わくは題を課してお試み下さい」と云ったのである。
 温は微笑を禁じ得なかった。この少女が良驥(りょうき)を以て自ら比するのは、いかにも ふさわしくないように感じたからである。
 玄機は起(たっ)て筆墨を温の前に置いた。温は率然「江辺柳」の三字を書して示した。 玄機が暫しばらく考えて占出(せんしゅつ)した詩はこうである。
賦得江辺柳
翠色連荒岸すゐしよくくわうがんにつらなり。 烟姿入遠楼えんしゑんろうにいる。
影鋪秋水面かげはしうすゐのおもてにのべ。 花落釣人頭はなはつりびとのかうべにおつ。
根老蔵魚窟ねはおいてぎよくつかくれ。 枝低繋客舟えだはひくくきやくしうつながる。
蕭々風雨夜せうせうたりふううのよ。 驚夢復添愁ゆめよりさめてまたうれひをそふ。
 温は一誦(しょう)して善(よ)しと称した。温はこれまで七たび挙場に入った。そして毎 (つね)に堂々たる男子が苦索して一句を成し得ないのを見た。彼輩(か)のはいは皆遠くこの 少女に及ばぬのである。
 此を始として温は度々魚家を訪ねた。二人の間には詩筒(しとう)の往反(おうへん)織るが 如くになった。
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   温は大中元年に、三十歳で太原たいげんから出て、始て進士の試しに応じた。自己の詩文は 燭(しょく)一寸を燃もやさぬうちに成ったので、隣席のものが呻吟(しんぎん)するのを見て、 これに手を仮かして遣(や)った。その後挙場に入る毎に七八人のために詩文を作る。その中には 及第するものがある。ただ温のみはいつまでも及第しない。
 これに反して場外の名は京師けいしに騒いで、大中四年に宰相になった令狐綯も、温を引見して 度々筵席に列せしめた。ある日席上で綯が一の故事を問うた。それは荘子そうしに出ている事 であった。温が直ちに答えたのは好(いい)が、その詞(ことば)は頗すこぶる不謹慎であった。 「それは南華に出ております。余り僻書(へきしょ)ではございません。相公(しょうこう) も※(「燮」の「又」に代えて「火」、第3水準1-87-67)理(しょうり)の暇(いとま)には、 時々読書をもなさるが宜(よろ)しゅうございましょう」と云ったのである。
 また宣宗が菩薩蛮(ぼさつばん)の詞を愛するので、綯が填詞(てんし)して上たてまつった。 実は温に代作させて口止をして置いたのである。然るに温は酔ってその事を人に漏した。 その上かつて「中書堂内坐将軍(ちゆうしよだうないしやうぐん)をざせしむ」と云ったことがある。 綯が無学なのを譏そしったのである。
 温の名は遂ついに宣宗にも聞えた。それはある時宣宗が一句を得て対を挙人中に求めると、 温は宣宗の「金歩揺(きんほよう)」に対するに「玉条脱(ぎよくじようだつ)」を以てして、 帝に激賞せられたのである。然るに宣宗は微行をする癖があって、温の名を識(し)ってから間もなく、 旗亭で温に邂逅(かいこう)した。温は帝の顔を識らぬので、暫く語を交えているうちに傲慢 (ごうまん)無礼の言をなした。
 既にして挙場では、沈詢(ちんじゅん)が知挙になってから、温を別席に居らせて、 隣に空席を置くことになった。詩名はいよいよ高く、帝も宰相もその才を愛しながら、 その人を鄙(いや)しんだ。趙※(「端のつくり+頁」、第3水準1-93-93)(ちょうせん)の妻に なっている温の姉などは、弟のために要路に懇請したが、何の甲斐かいもなかった。
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  温の友に李億(りおく)と云う素封家があった。年は温より十ばかりも少くて頗すこぶる 詞賦(しふ)を解していた。
 咸通(かんつう)元年の春であった。久しく襄陽(じょうよう)に往っていた温が長安に 還かえったので、李がその寓居(ぐうきょ)を訪ねた。襄陽では、温は刺史(しし)徐商 (じょしょう)の下(もと)で小吏になって、やや久しく勤めていたが、終(つい)に厭倦 (えんけん)を生じて罷やめたのである。
 温の机の上に玄機の詩稿があった。李はそれを見て歎称(たんしょう)した。そしてどんな女か と云った。温は三年前から詩を教えている、花の如き少女だと告げた。それを聞くと、李は精 (くわ)しく魚家のある街まちを問うて、何か思うことありげに、急いで座を起った。
 李は温の所を辞して、径ただちに魚家に往(い)って、玄機を納(いれ)て側室にしようと云った。 玄機の両親は幣(へい)の厚いのに動された。
 玄機は出(いで)て李と相見た。今年はもう十八歳になっている。その容貌の美しさは、 温の初て逢った時の比ではない。李もまた白皙(はくせき)の美丈夫(びじょうふ)である。李は 切に請い、玄機は必ずしも拒まぬので、約束は即時に成就して、数日の後に、李は玄機を城外の 林亭(りんてい)に迎え入れた。
 この時李は遽(にわか)に発した願が遽に※(「りっしんべん+(はこがまえ<夾)」、 第3水準1-84-56)(かな)ったように思った。しかしそこに意外の障礙(しょうがい)が生じた。 それは李が身を以て、近(ちか)づこうとすれば、玄機は回避して、強いて逼(せま)れば号泣する のである。林亭は李が夕(ゆうべ)に望を懐(いだ)いて往き、朝あしたに興を失って還るの処 (ところ)となった。
 李は玄機が不具ではないかと疑って見た。しかしもしそうなら、初に聘(へい)を卻(しりぞ) けたはずである。李は玄機に嫌われているとも思うことが出来ない。玄機は泣く時に、一旦 (いったん)避けた身を李に靠(もた)せ掛けてさも苦痛に堪えぬらしく泣くのである。  李はしばしば催してかつて遂げぬ欲望のために、徒らに精神を銷磨(しょうま)して、行住座臥 (こうじゅうざが)の間、恍惚(こうこつ)として失する所あるが如くになった。  李には妻がある。妻は夫の動作が常に異なるのを見て、その去住に意を注いだ。そして僮僕 (どうぼく)に啗(くら)わしめて、玄機の林亭にいることを知った。夫妻は反目した。 ある日岳父が婿むこの家に来て李を面責し、李は遂に玄機を逐おうことを誓った。
 李は林亭に往って、玄機に魚家に帰ることを勧めた。しかし魚は聴かなかった。縦令たとい二親 (ふたおや)は寛仮するにしても、女伴(じょはん)の侮あなどりを受けるに堪えないと云うのである。 そこで李は兼かねて交っていた道士趙錬師ちょうれんしを請待しょうだいして、玄機の身の上を託した。 玄機が咸宜観に入って女道士になったのは、こうした因縁である。
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 玄機は才智に長たけた女であった。その詩には人に優れた剪裁せんさいの工たくみがあった。 温を師として詩を学ぶことになってからは、一面には典籍の渉猟に努力し、一面には字句の錘錬 (ついれん)に苦心して、ほとんど寝食を忘れる程であった。それと同時に詩名を求める念が漸 (ようやく)増長した。
 李に聘せられる前の事である。ある日玄機は崇真観(しゅうしんかん)に往って、南楼に状元 (じょうげん)以下の進士等が名を題したのを見て、慨然として詩を賦ふした。

遊崇真観南楼しゆうしんくわんのなんろうにあそび。
覩新及第題名処しんきふだいのなをだいせしところをみる。
雲峯満目放春晴うんぽうまんもくしゆんせいをはなち。
歴々銀鈎指下生れきれきたるぎんこうかせいをさす。
自恨羅衣掩詩句みづからうらむらいのしくをおほふを。
挙頭空羨榜中名かうべをあげてむなしくばうちゆうのなをうらやむ。
 玄機が女子の形骸けいがいを以て、男子の心情を有していたことは、この詩を見ても推知する ことが出来る。しかしその形骸が女子であるから、吉士(きっし)を懐おもうの情がないことはない。 ただそれは蔓草(つるくさ)が木の幹に纏まとい附こうとするような心であって、房帷(ぼうい) の欲ではない。玄機は彼があったから、李の聘に応じたのである。此(これ)がなかったから、 林亭の夜は索莫さくばくであったのである。
 既にして玄機は咸宜観に入った。李が別に臨んで、衣食に窮せぬだけの財を餽おくったので、 玄機は安んじて観内で暮らすことが出来た。趙が道書を授けると、玄機は喜んでこれを読んだ。 この女のためには経(けい)を講じ史を読むのは、家常の茶飯であるから、道家の言が却かえって その新を趁(おい)奇を求める心を悦よろこばしめたのである。
 当時道家には中気真術と云うものを行う習ならいがあった。毎月朔望さくぼうの二度、 予め三日の斎(ものいみ)をして、所謂(いわゆる)四目四鼻孔云々(うんぬん)の法を修するので ある。玄機は※(「二点しんにょう+官」、第3水準1-92-56)のがるべからざる規律の下もとにこれを 修すること一年余にして忽然こつぜん悟入する所があった。玄機は真に女子になって、 李の林亭にいた日に知らなかった事を知った。これが咸通二年の春の事である。
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 玄機は共に修行する女道士中のやや文字ある一人と親しくなって、これと寝食を同じゅうし、 これに心胸を披瀝ひれきした。この女は名を采蘋(さいひん)と云った。ある日玄機が采蘋に書いて 遣やった詩がある。
贈隣女りんぢよにおくる
羞日遮羅袖ひをさけてらしうもてさへぎる。
愁春懶起粧はるをうれひてきしやうするにものうし
。 易求無価宝もとめやすきはあたひなきたから。
難得有心郎えがたきはこゝろあるらう。
枕上潜垂涙ちんじやうひそかになみだをながし。
花間暗断腸くわかんひそかにはらわたをたつ。
自能窺宋玉みづからよくそうぎよくをうかゞふ。
何必恨王昌なんぞかならずしもわうしやうをうらまん。
 采蘋は体が小くて軽率であった。それに年が十六で、もう十九になっている玄機よりは少 (わかい)ので、始終沈重ちんちょうな玄機に制馭(せいぎょ)せられていた。そして二人で 争うと、いつも采蘋が負けて泣いた。そう云う事は日毎にあった。しかし二人は直(ただ)ちにまた 和睦わぼくする。女道士仲間では、こう云う風に親しくするのを対食と名づけて、 傍(かたわら)から揶揄(やゆ)する。それには羨(せん)と妬(と)とも交まじっているのである。  秋になって采蘋は忽(たちまち)失踪しっそうした。それは趙の所で塑像を造っていた 旅の工人が、暇いとまを告げて去ったのと同時であった。前に対食を嘲あざけった女等が、 趙に玄機の寂しがっていることを話すと、趙は笑って「蘋也飄蕩(ひんやへうたう) 、※(「くさかんむり/惠」、第3水準1-91-24)也幽独(けいやいうどく)」と云った。玄機は 字(あざな)を幼微と云い、また※(「くさかんむり/惠」、第3水準1-91-24)蘭(けいらん) とも云ったからである。
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 趙は修法の時に規律を以て束縛するばかりで、楼観の出入などを厳にすることはなかった 。玄機の所へは、詩名が次第に高くなったために、書を索もとめに来る人が多かった。 そう云う人は玄機に金を遣ることもある。物を遣ることもある。中には玄機の美しいことを聞いて、 名を索書に藉かりて訪とうものもある。ある士人は酒を携えて来て玄機に飲ませようとすると、 玄機は僮僕(どうぼく)を呼んで、その人を門外に逐(おい)出させたそうである。
 然るに采蘋が失踪した後、玄機の態度は一変して、やや文字を識る士人が来て詩を乞(こい) 書を求めると、それを留とどめて茶を供し、笑語※(「日/咎」、第3水準1-85-32)(しょうご) ひかげを移すことがある。一たび※(「肄」の「聿」に代えて「欠」、第3水準1-86-31)待(かんたい) せられたものは、友を誘いざなって再び来る。玄機が客かくを好むと云う風聞は、幾(いくばく) もなくして長安人士の間に伝わった。もう酒を載せて尋ねても、逐われる虞おそれはなくなったの である。
 これに反して徒(いたずら)に美人の名に誘われて、目に丁字(ていじ)なしと云う輩 (やから)が来ると、玄機は毫(ごう)も仮借せずに、これに侮辱を加えて逐い出してしまう。 熟客(じゅっかく)と共に来た無学の貴介子弟(きかいしてい)などは、幸(さいわい)にして謾罵 (まんば)を免れることが出来ても、坐客があるいは句を聯つらねあるいは曲を度する間にあって、 自(みず)から視みて欠然たる処から、独り窃(ひそか)に席を逃れて帰るのである。
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 客と共に謔浪(ぎゃくろう)した玄機は、客の散じた後に、怏々(おうおう)として楽まない。 夜が更けても眠らずに、目に涙を湛(たた)えている。そう云う夜旅中の温に寄せる詩を作った ことがある。
寄飛卿ひけいによす
※砌乱蛩鳴かいぜいらんきようなき[#「土へん+皆」、205-11]。
 庭柯烟露清ていかえんろきよし。
月中隣楽響げつちゆうりんがくひゞき。
 楼上遠山明ろうじやうゑんざんあきらかなり。
珍簟涼風到ちんてんにりやうふういたり。 
瑶琴寄恨生えうきんにきこんうまる。
※(「禾+(尤/山)」、第3水準1-47-84)君懶書札けいくんしよさつにものうし。 
底物慰秋情なにごとぞしうじやうをなぐさめん。
 玄機は詩筒を発した後、日夜温の書の来きたるのを待った。さて日を経て温の書が来ると、 玄機は失望したように見えた。これは温の書の罪ではない。玄機は求むる所のものがあって、 自らその何物なるかを知らぬのである。
 ある夜玄機は例の如く、燈ともしびの下もとに眉を蹙ひそめて沈思していたが 、漸ようやく不安になって席を起ち、あちこち室内を歩いて、机の上の物を取っては、 また直すぐに放下しなどしていた。やや久しゅうして後、玄機は紙を展のべて詩を書いた。 それは楽人陳某ちんぼうに寄せる詩であった。陳某は十日ばかり前に、二三人の貴公子 と共にただ一度玄機の所に来たのである。体格が雄偉で、面貌めんぼうの柔和な少年で、 多く語らずに、始終微笑を帯びて玄機の挙止を凝視していた。年は玄機より少わかいのである。
感懐寄人かんくわいひとによす
恨寄朱絃上うらみをしゆげんのうへによせ。
 含情意不任じやうをふくめどもいまかせず。
 早知雲雨会はやくもしるうんうのくわいするを。
未起※(「くさかんむり/惠」、第3水準1-91-24)蘭心いまだおこさずけいらんのこゝろ。
 灼々桃兼李しやく/\たるもゝとすもゝ。
 無妨国士尋こくしのたづぬるをさまたぐるなし。
蒼々松与桂さう/\たるまつとかつら。 
仍羨世人欽なほうらやむよのひとのあふぐを。 
月色庭階浄げつしよくていかいにきよく。
歌声竹院深かせいちくゐんにふかし。 
門前紅葉地もんぜんこうえふのち。 
不掃待知音はらはずちいんをまつ。  陳は翌日詩を得て、直ただちに咸宜観に来た。玄機は人を屏しりぞけて引見し、 僮僕に客を謝することを命じた。玄機の書斎からはただ微かすかに低語の声が聞えるのみであった。 初夜を過ぎて陳は辞し去った。これからは陳は姓名を通ぜずに玄機の書斎に入ることになり、 玄機は陳を迎える度に客を謝することになった。
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 陳の玄機を訪とうことが頻(しきり)なので、客は多く卻(しりぞ)けられるようになった。 書を索(もと)めるものは、ただ金を贈って書を得るだけで、満足しなくてはならぬことになった のである。
 一月ばかり後に、玄機は僮僕に暇(いとま)を遣やって、老婢(ろうひ)一人を使うことにした。 この醜悪な、いつも不機嫌な媼(おうな)はほとんど人に物を言うこともないので、観内の状況は 世間に知られることが少く、玄機と陳とは余り人に煩聒はんかつせられずにいることが出来た。
 陳は時々旅行することがある。玄機はそう云う時にも客を迎えずに 、籠居ろうきょして多く詩を作り、それを温に送って政を乞うた。 温はこの詩を受けて読む毎に、語中に閨人(けいじん)の柔情(じゅうじょう)が漸く多く、 道家の逸思がほとんど無いのを見て、訝(いぶか)しげに首を傾けた。玄機が李の妾(しょう) になって、幾(いくばく)もなく李と別れ、咸宜観に入って女道士になった顛末(てんまつ)は、 悉ことごとく李の口から温の耳に入っていたのである。
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 七年程の月日が無事に立った。その時夢にも想わぬ災害が玄機の身の上に起って来た。
 咸通八年の暮に、陳が旅行をした。玄機は跡に残って寂しく時を送った。その頃ころ温に寄せた 詩の中に、「満庭木葉愁風起まんていのこのはしうふうおこり、 透幌紗窓惜月沈くわうしやのまどをとほしつきのしづむををしむ」 と云う、例に無い悽惨せいさんな句がある。
 九年の初春に、まだ陳が帰らぬうちに、老婢が死んだ。親戚(しんせき)の恃たのむべきもの もない媼は、兼(かね)て棺材まで準備していたので、玄機は送葬の事を計らって遣った。 その跡へ緑翹(りょくぎょう)と云う十八歳の婢が来た。顔は美しくはないが、聡慧そうけいで 媚態(びたいが)あった。
 陳が長安に帰って咸宜観に来たのは、艶陽三月の天であった。玄機がこれを迎える情は、 渇した人が泉に臨むようであった。暫らくは陳がほとんど虚日のないように来た。その間に玄機は、 度々陳が緑翹を揶揄(やゆ)するのを見た。しかし玄機は初め意に介せなかった。なぜと云うに、 玄機の目中には女子としての緑翹はないと云って好よい位であったからである。
 玄機は今年二十六歳になっている。眉目びもく端正な顔が、迫り視みるべからざる程の気高い 美しさを具えて、新(あら)たに浴を出た時には、琥珀色(こはくいろ)の光を放っている。 豊かな肌は瑕(きず)のない玉のようである。緑翹は額の低い、頤(おとがい)の短い ※(「けものへん+渦のつくり」、第3水準1-87-77)子かしに似た顔で、手足は粗大である。領 (えり)や肘はいつも垢膩(こうじ)に汚けがれている。玄機に緑翹を忌む心のなかったのは 無理もない。
 そのうち三人の関係が少しく紛糾して来た。これまでは玄機の挙措が意に満たぬ時、 陳は寡言になったり、または全く口を噤つぐんでいたりしたのに、今は陳がそう云う時、 多く緑翹と語った。その上そう云う時の陳の詞ことばは極きわめて温和である。玄機はそれ を聞く度に胸を刺されるように感じた。
 ある日玄機は女道士仲間に招かれて、某の楼観に往った。書斎を出る時、緑翹にその観の名 を教えて置いたのである。さて夕方になって帰ると、緑翹が門かどに出迎えて云った。 「お留守に陳さんがお出いでなさいました。お出になった先を申しましたら、 そうかと云ってお帰なさいました」と云った。
 玄機は色を変じた。これまで留守の間に陳の来たことは度々あるが、いつも陳は書斎に 入って待っていた。それに今日は程近い所にいるのを知っていて、待たずに帰ったと云う。 玄機は陳と緑翹との間に何等かの秘密があるらしく感じたのである。
 玄機は黙って書斎に入って、暫く坐ざして沈思していた。猜疑さいぎは次第に深くなり、 忿恨ふんこんは次第に盛んになった。門に迎えた緑翹の顔に、常に無い侮蔑ぶべつの色が 見えたようにも思われて来る。温言を以て緑翹を賺すかす陳の声が歴々として耳に響くようにも 思われて来る。
 そこへ緑翹が燈ともしびに火を点じて持って来た。何気なく見える女の顔を、玄機は甚だし く陰険なように看取した。玄機は突然起って扉に鎖じょうを下した。そして震(ふる)う声で 詰問しはじめた。女はただ「存じません、存じません」と云った。玄機にはそれが甚しく狡獪 (こうかい)なように感ぜられた。玄機は床の上に跪ひざまずいている女を押し倒した。 女は懾おそれて目を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはっている。 「なぜ白状しないか」と叫んで玄機は女の吭(のど)を扼(やく)した。女はただ手足を もがいている。玄機が手を放して見ると、女は死んでいた。
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 玄機の緑翹を殺したことは、やや久しく発覚せずにいた。殺した翌日陳の来た時には、 玄機は陳が緑翹の事を問うだろうと予期していた。しかし陳は問わなかった。玄機がとうとう 「あの緑翹がゆうべからいなくなりましたが」と云って陳の顔色を覗うかがうと、 陳は「そうかい」と云っただけで、別に意に介せぬらしく見えた。玄機は前夜のうちに観の 背後うしろに土を取った穴のある処へ、緑翹の屍かばねを抱いて往って、穴の中へ推し 墜おとして、上から土を掛けて置いたのである。
 玄機は「生ける秘密」のために、数年前から客を謝していた。然るに今は「死せる秘密」 のために懼おそれを懐いだいて、もし客を謝したら、緑翹の踪跡そうせきを尋ねるものが 、観内に目を著つけはすまいかと思った。そこで切(せつ)に会見を求めるものがあると、 強いて拒まぬことにした。
 初夏の頃に、ある日二三人の客があった。その中の一人が涼を求めて観の背後に出ると、 土を取った跡らしい穴の底に新しい土が填うまっていて、その上に緑色に光る蠅はえが群がり 集まっていた。その人はただなんとなく訝いぶかしく思って、深い思慮をも費さずに、 これを自己の従者に語った。従者はまたこれを兄に語った。兄は府の衙卒がそつを勤めている ものである。この卒は数年前に、陳が払暁に咸宜観から出るのを認めたことがある。 そこで奇貨措おくべしとなして、玄機を脅(おびやか)して金を獲えようとしたが、玄機は笑って 顧みなかった。卒はそれから玄機を怨んでいた。今弟の語ことばを聞いて、小婢しょうひの 失踪したのと、土穴に腥羶せいせんの気があるのとの間に、何等かの関係があるように思った。 そして同班の卒数人と共に、※(「金+插のつくり」、第3水準1-93-28)すきを持って 咸宜観に突入して、穴の底を掘った。緑翹の屍は一尺に足らぬ土の下に埋まっていたのである。
 京兆(けいちょう)の尹(いん)温璋(おんしょう)は衙卒の訴に本もとづいて魚玄機を 逮捕させた。玄機は毫(ごう)も弁疏(べんそ)することなくして罪に服した。楽人陳某 は鞠問(きくもん)を受けたが、情を知らざるものとして釈ゆるされた。
 李億を始はじめとして、かつて玄機を識っていた朝野の人士は、皆その才を惜んで救おうとした。 ただ温岐一人は方城の吏になって、遠く京師けいしを離れていたので、玄機がために力を 致すことが出来なかった。
 京兆の尹は、事が余りにあらわになったので、法を枉まげることが出来なくなった。 立秋の頃に至って、遂ついに懿宗(いそう)に上奏して、玄機を斬ざんに処した。        ――――――――――――――――――――
 玄機の刑せられたのを哀むものは多かったが、最も深く心を傷めたものは、方城にいる 温岐であった。
 玄機が刑せられる二年前に、温は流離して揚州(ようしゅう)に往っていた。揚州は大中十三年に 宰相を罷やめた令狐綯が刺史ししになっている地である。温は綯が自己を知っていながら 用いなかったのを怨んで名刺をも出さずにいるうちに、ある夜妓院ぎいんに酔って虞候 (ぐこう)に撃たれ、面おもてに創きずを負い前歯を折られたので、怒ってこれを訴えた。 綯が温と虞候とを対決させると、虞候は盛んに温の※(「さんずい+于」、 第3水準1-86-49)行おこうを陳述して、自己は無罪と判決せられた。事は京師に聞えた。 温は自ら長安に入って、要路に上書して分疏ぶんそした。この時徐商と楊収ようしゅうとが 宰相に列していて、徐は温を庇護したが楊が聴かずに、温を方城に遣って吏務に服せしめたのである。 その制辞せいじは「孔門以徳行為先こうもんはとくかうをもつてさきとなし、 文章為末ぶんしやうをすゑとなす、爾既徳行無取なんぢすでにとくかうのとるなし、 文章何以称焉ぶんしやうなんぞもつてしようせられんや、徒負不羈之才いたづらにふきのさいをおふ、 罕有適時之用てきじのようあることまれなり」と云うのであった。 温は後に隋県ずいけんに遷うつされて死んだ。子の憲も弟の庭皓ていこうも、 咸通中に官に擢ぬきんでられたが、庭皓は※(「广+龍」、第3水準1-94-86) ※(「員+力」、第3水準1-14-71)(ほうくん)の乱に、徐州で殺された。玄機が斬られてから 三月の後の事である。
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    参照
     其一 魚玄機
三水小牘       南部新書
太平広記       北夢瑣言ほくむさげん
続談助        唐才子伝
唐詩紀事       全唐詩(姓名下小伝)
全唐詩話       唐女郎魚玄機詩
     其二 温飛卿
旧唐書        漁隠叢話ぎょいんそうわ
新唐書        北夢瑣言
全唐詩話       桐薪どうしん
唐詩紀事       玉泉子
六一詩話       南部新書
滄浪そうろう詩話       握蘭集あくらんしゆう
彦周げんしゆう詩話       金筌集きんせんしゆう
三山老人語録     漢南真稿
雪浪斎せつろうさい日記      温飛卿詩集
(大正四年四月)





空海(くうかい)
(宝亀5年(774年) - 承和2年3月21日(835年4月22日))は、平安時代初期の僧。 弘法大師(こうぼうだいし)の諡号(921年、醍醐天皇による)で知られる真言宗の開祖である。 俗名(幼名)は佐伯 眞魚(さえき の まお[1])。日本天台宗の開祖最澄(伝教大師)と共に、 日本仏教の大勢が、今日称される奈良仏教から平安仏教へと、転換していく流れの劈頭に位置し、 中国より真言密教をもたらした。能書家としても知られ、嵯峨天皇・橘逸勢と共に三筆の ひとりに数えられている。 宝亀5年(774年)、讃岐国多度郡屏風浦(現:香川県善通寺市)で生まれた。父は郡司・佐伯直田公 (さえきのあたいたぎみ)、母は阿刀大足の娘(あるいは妹)[2][3]、幼名は真魚。 真言宗の伝承では空海の誕生日を6月15日とするが、これは中国密教の大成者である不空三蔵の 入滅の日であり、空海が不空の生まれ変わりとする伝承によるもので、正確な誕生日は不明である [4][5]。
延暦7年(788年)、平城京に上る。上京後は、中央佐伯氏の佐伯今毛人が建てた氏寺の佐伯院に 滞在した。(真魚は讃岐佐伯氏)[6]
延暦8年(789年)、15歳で桓武天皇の皇子伊予親王の家庭教師であった母方の叔父である阿刀大足 について論語、孝経、史伝、文章などを学んだ。
延暦11年(792年)、18歳で京の大学寮に入った。大学での専攻は明経道で、春秋左氏伝、毛詩 、尚書などを学んだと伝えられる。
延暦12年(793年)、大学での勉学に飽き足らず、19歳を過ぎた頃から山林での修行に入ったという。 24歳で儒教・道教・仏教の比較思想論でもある『聾瞽指帰』を著して俗世の教えが真実でないことを 示した[7]。この時期より入唐までの空海の足取りは資料が少なく、断片的で不明な点が多い。 しかし吉野の金峰山や四国の石鎚山などで山林修行を重ねると共に、幅広く仏教思想を学んだことは 想像に難くない。『大日経』を初めとする密教経典に出会ったのもこの頃と考えられている。 さらに中国語や梵字・悉曇などにも手を伸ばした形跡もある。
ところでこの時期、一沙門より「虚空蔵求聞持法」を授かったことはよく知られるところである。 『三教指帰』の序文には、空海が阿波の大瀧岳(現在の太竜寺山付近)や土佐の室戸岬などで 求聞持法を修ましたことが記され、とくに室戸岬の御厨人窟で修行をしているとき、口に明星 (虚空蔵菩薩の化身)が飛び込んできたと記されている。このとき空海は悟りを開いたといわれ、 当時の御厨人窟は海岸線が今よりも上にあり、洞窟の中で空海が目にしていたのは空と海だけで あったため、空海と名乗ったと伝わっている。求聞持法を空海に伝えた一沙門とは、 旧来の通説では勤操とされていたが、現在では大安寺の戒明ではないかといわれている。 戒明は空海と同じ讃岐の出身で、その後空海が重要視した『釈摩訶衍論』の請来者である。
空海の得度に関しては、延暦12年(793年)に、20歳にして勤操を師とし和泉国槇尾山寺で 出家したという説、あるいは25歳出家説が古くからとなえられていたが、延暦23年(804年)、 遣唐使が遭難し来年も遣唐使が派遣されることを知った、入唐直前31歳の延暦23年に東大寺戒壇院で 得度受戒したという説が有力視されている。ただし、太政官譜では延暦22年4月7日出家したと 記載する[8]。空海という名をいつから名乗っていたのかは定かではない。無空や教海と 名乗った時期があるとする文献もある。
延暦22年(803年)、医薬の知識を生かして推薦され、直前に得度したが遣唐使の医薬を学ぶ 薬生として出発するが悪天候で断念し、翌年に、長期留学僧の学問僧として唐に渡る[9]。 当時の留学僧は中小氏族の子弟が多いが[10]、中国語の能力の高さが有利との指摘はあるが[11]、 この間の学問僧への変更の経緯は不明である。
第16次(20回説では18次)遣唐使一行には、最澄や橘逸勢、後に中国で三蔵法師の称号を贈られる 霊仙がいた。最澄はこの時期すでに天皇の護持僧である内供奉十禅師の一人に任命されており、 当時の仏教界に確固たる地位を築いていたが、空海はまったく無名の一沙門だった。
同年5月12日、難波津を出航、博多を経由し7月6日、肥前国松浦郡田浦、五島市三井楽町[12] から入唐の途についた。空海と橘逸勢が乗船したのは遣唐大使の乗る第1船、最澄は第2船である。 この入唐船団の第3船、第4船は遭難し、唐にたどり着いたのは第1船と第2船のみであった。
空海の乗った船は、途中で嵐にあい大きく航路を逸れて貞元20年(延暦23年、804年)8月10日、 福州長渓県赤岸鎮に漂着。海賊の嫌疑をかけられ、疑いが晴れるまで約50日間待機させられる。 このとき遣唐大使に代わり、空海が福州の長官へ嘆願書を代筆している(風信帖#入唐を参照)。 また、空海個人での長安入京留学の嘆願書「啓」を提出し、「20年留学予定」であると記述している [13]同年11月3日に長安入りを許され、12月23日に長安に入った。
永貞元年(延暦24年、805年)2月、西明寺に入り滞在し、空海の長安での住居となった。
長安で空海が師事したのは、まず醴泉寺の東土大唐??三藏法師。密教を学ぶために必須の梵語に 磨きをかけたものと考えられている。空海はこの般若三蔵から梵語の経本や新訳経典を与えられている。 5月になると空海は、密教の第七祖である唐長安青龍寺の恵果和尚を訪ね、以降約半年にわたって 師事することになる。恵果は空海が過酷な修行をすでに十分積んでいたことを初対面の際見抜いて、 即座に密教の奥義伝授を開始し[14]、空海は6月13日に大悲胎蔵の学法灌頂、7月に金剛界の灌頂を 受ける。ちなみに胎蔵界・金剛界のいずれの灌頂においても彼の投じた花は敷き曼荼羅の大日如来の 上へ落ち、両部(両界)の大日如来と結縁した、と伝えられている。
8月10日には伝法阿闍梨位の灌頂を受け、「この世の一切を遍く照らす最上の者」(=大日如来)を 意味する遍照金剛(へんじょうこんごう)の灌頂名を与えられた。この名は後世、 空海を尊崇するご宝号として唱えられるようになる。このとき空海は、青龍寺や不空三蔵ゆかりの 大興善寺から500人にものぼる人々を招いて食事の接待をし、感謝の気持ちを表している。
8月中旬以降になると、大勢の人たちが関わって曼荼羅や密教法具の製作、経典の書写が行われた。 恵果和尚からは阿闍梨付嘱物を授けられた。伝法の印信である。阿闍梨付嘱物とは、 金剛智 - 不空金剛 - 恵果と伝えられてきた仏舎利、刻白檀仏菩薩金剛尊像(高野山に現存) など8点、恵果和尚から与えられた健陀穀糸袈裟(東寺に現存)や供養具など5点の計13点である。 対して空海は伝法への感謝を込め、恵果和尚に袈裟と柄香炉を献上している。
同年12月15日、恵果和尚が60歳で入寂。元和元年(延暦25年、806年)1月17日、空海は全弟子を 代表して和尚を顕彰する碑文を起草した。
そして、3月に長安を出発し、4月には越州に到り4か月滞在した。ここでも土木技術や薬学をはじめ 多分野を学び、経典などを収集した。折しも遭難した第4船に乗船していて生還し、 その後急に任命されて唐に再渡海していた遣唐使判官の高階遠成を通じ上奏して、 「20年の留学予定を短縮し2年で留学の滞在費がなくなったこと」を理由に唐朝の許可を得て[15] その帰国に便乗する形で、8月に明州を出航して、帰国の途についた。
途中、暴風雨に遭遇し、五島列島福江島玉之浦の大宝港に寄港、そこで真言密教を開いたため、 後に大宝寺は西の高野山と呼ばれるようになった。福江の地に本尊・虚空蔵菩薩が安置されていると 知った空海が参籠し、満願の朝には明星の奇光と瑞兆を拝し、異国で修行し真言密教が 日本の鎮護に効果をもたらす証しであると信じ、寺の名を明星院と名づけたという[16]。
「虚しく往きて実ちて帰る」という空海の言葉は、わずか2年前無名の一留学僧として入唐した空海の 成果がいかに大きなものであったかを如実に示している。
大同元年(806年)10月、空海は無事、博多津に帰着。大宰府に滞在し、呉服町には東長寺を開基し、 また宗像大社神宮寺であった鎮国寺を創建したと伝わる。日本ではこの年の3月に桓武天皇が崩御し、 平城天皇が即位していた。 空海は、10月22日付で朝廷に『請来目録』を提出。唐から空海が 持ち帰ったものは『請来目録』によれば、多数の経典類(新訳の経論など216部461巻)、 両部大曼荼羅、祖師図、密教法具、阿闍梨付属物など膨大なものである。当然、 この目録に載っていない私的なものも別に数多くあったと考えられている。 「未だ学ばざるを学び、?聞かざるを聞く」(『請来目録』)、空海が請来したのは密教を含めた 最新の文化体系であった。
空海は、20年の留学期間を2年で切り上げ帰国したため、空海に対して、朝廷は対応に困ったのか 大同4年(809年)まで入京を許可せず、大同元年(806年)10月の帰国後は、 入京の許しを待って数年間大宰府に滞在することを余儀なくされた[注釈 1]。 大同2年より2年ほどは大宰府・観世音寺に止住している。この時期空海は、個人の法要を引き受け、 その法要のために密教図像を制作するなどをしていたとされる[15]。



屈 原(くつげん)
(紀元前343年1月21日頃 - 紀元前278年5月5日頃)は、中国戦国時代の楚の政治家、詩人。姓は?、 氏は屈。
諱は平または正則。字が原。春秋戦国時代を代表する詩人であり、政治家としては秦の張儀の謀略を 見抜き踊らされようとする懐王を必死で諫めたが受け入れられず、楚の将来に絶望して入水自殺した。
屈原は楚の武王の公子瑕(屈瑕)を祖とする公室系の宗族(広義の王族)の1人であり、屈氏は景氏・ 昭氏と共に楚の王族系でも最高の名門の1つであった(これを三閭と呼ばれる)。
家柄に加えて博聞強記で詩文にも非常に優れていたために懐王の信任が厚く、賓客を応接する左徒と なった。当時の楚は、西の秦とどう向き合っていくかが主要な外交問題であった。楚の外交方針に ついて、臣下は二分していた:
一つは、西にある秦と同盟することで安泰を得ようとする親秦派(楚における連衡説)であり、 もう一つは、東の斉と同盟することで秦に対抗しようとする親斉派(楚における合従説)である。 屈原は親斉派の筆頭であった。
屈原の政治能力は当時の楚では群を抜いていたが非常に剛直な性格のために同僚から嫉妬されて 讒言を受け、王の傍から遠ざけられ同時に国内世論は親秦派に傾いた。
屈原は秦は信用ならないと必死で説いたが、受け入れられない。屈原の心配どおり秦の謀略家張儀の 罠に懐王が引っかかり、楚軍は大敗した(張儀の項を参照)。丹陽、藍田の大敗後、一層疎んぜられて 公族子弟の教育役である三閭大夫へ左遷され、政権から遠ざけられた。
秦は懐王に婚姻を結ぼうと持ちかけて秦に来るように申し入れた。屈原は秦は信用がならない、 先年騙されたことを忘れたのかと諫めたが懐王は親秦派の公子子蘭に勧められて秦に行き、 秦に監禁されてしまった。
王を捕らえられた楚では頃襄王を立てた。頃襄王の令尹(丞相)に屈原が嫌いぬいた子蘭がなったために、 更に追われて江南へ左遷された。その後、秦により楚の首都郢が陥落したことで楚の将来に絶望して、 石を抱いて汨羅江(べきらこう)に入水自殺した。後に屈原の無念を鎮めるため、また亡骸を魚が 食らわないよう魚のえさとしても人々が笹の葉に米の飯を入れて川に投げ込むようになったと言われ、 これがちまきの由来といわれる[1]。
また、伝統的な競艇競技であるドラゴンボート(龍船)は「入水した屈原を救出しようと民衆が、 先を争って船を出した」という故事が由来であると伝えられている。
屈原の強烈な愛国の情から出た詩は楚の詩を集めた『楚辞』の中で代表とされ、その中でも代表作と される『離騒(中国語版)』は後世の愛国の士から愛された。



虞美人(ぐびじん)
(? - 紀元前202年?)は、秦末から楚漢戦争期にかけての女性。
項羽(項籍)の愛人(中国語で妻や恋人を意味する)。正確な名前ははっきりしておらず、「有美人姓虞氏」 (『漢書』巻31陳勝項籍傳第1[1])とも「有美人名虞」(『史記』巻7項羽本紀 第7[2])ともいわれ、 「美人」も後宮での役職名(zh:中國古代後宮制度#秦朝参照)であるともその容姿を表現したものであるともいわれる。 小説やテレビドラマでは項羽の妻として描かれ、虞を姓とし「虞姫」と紹介されているものが多い。
項羽との馴れ初めについては『史記』にも『漢書』にも一切記載されておらず、垓下の戦いで初めて「有美人姓虞氏 常幸從[1]」、「有美人名虞 常幸從 駿馬名騅 常騎之[2]」(劉邦率いる漢軍に敗れた傷心の項羽の傍にはいつも虞美人がおり、 項羽は片時も彼女を放すことがなかった)と紹介されている。
劉邦軍により垓下に追い詰められ、四面楚歌の状態になって自らの破滅を悟った(思い込んだ)項羽は彼女に、ーーー と歌い、垓下から脱出する。
『史記』および『漢書』ではその後の虞美人について一切記述されていないが、通俗小説の『通俗漢楚軍談』などでは、 項羽の足手まといにならぬために虞美人は自殺している。また、虞美人の自殺云々についても、 女性の貞節が口うるさく言われるようになった北宋時代からそのような話が出てくるようになったといわれる。
自殺した虞美人の伝説はヒナゲシに「虞美人草」という異名がつく由来となった。




嵆康(けいこう)
(224年 - 262年あるいは263年)は、中国三国時代の魏の文人。字は叔夜。 豫州?国?県(現在の安徽省?渓県)の人。竹林の七賢の一人で、その主導的な人物の一人。 子は?紹・女子一人。
曹操の曾孫娘の長楽亭主(曹林の孫娘)を妻とし[1]、魏の宗室の姻戚として中散大夫に 任じられたので、?中散とも呼ばれる。
非凡な才能と風采を持ち、日頃から妄りに人と交際しようとせず、山中を渉猟して仙薬を求めたり、 鍛鉄をしたりするなどの行動を通して、老荘思想に没頭した。気心の知れた少数の人々と、 清談と呼ばれる哲学論議を交わし名利を求めなかった。友人の山濤が自分の後任に嵆康を吏部郎に 推薦した時には、「与山巨源絶交書」(『文選』所収)と書いて彼との絶交を申し渡した上で、 それまで通りの生活を送った。ただし死の直前、子の?紹を山濤に託しているように、 この絶交書は文字通りのものではなく、自らの生き方を表明するために書かれたものであった。
嵆康の親友であった呂安は、兄の呂巽が自分の妻と私通した事で諍いを起こし、 兄を告発しようとした。ところが、身の危険を感じた呂巽によって先に親不孝の罪で訴えられた[2]。 この時、嵆康は呂安を弁護しようとした。しかし鍾会は以前から嵆康に怨恨があったため、 この機会に嵆康と呂安の言動を風俗を乱す行ないだとして、司馬昭に讒言した。このため、 山濤の吏部郎への推薦を断った事と、呂安を弁護する姿勢が罪状に挙げられ、嵆康と呂安は死罪 となった[3]。
当時、汲郡に孫登という道士がいた。嵆康は山に薬草を採りに行った時に知り合い、 彼の元に3年通っていた。しかし、孫登が一言も口を利こうとしなかったため、嵆康は別れ際に 「先生[4]、まだ口を利いてはいただけないのでしょうか」と尋ねた。そのため孫登は、 初めて口を開き「あなたは多才だが見識が乏しい。今の世の中では難を免れるのは難しいぞ」 と言った[5]。結局、嵆康は死刑という難を免れる事ができなかった。
嵆康は「琴(きん)」を演奏する事を好んでおり、ある時に見知らぬ人物から「広陵散」 と呼ばれる琴の曲を学び得意としていたが、誰にもそれを教えなかった。刑の直前にこの曲を演奏し 「広陵散、今に於いて絶ゆ」と言い残し処刑されたという[6]。「声無哀楽論」・ 「琴賦」を著すなど、音楽理論に精通していた。
著作は他に「養生論」・「釈私論」があり、詩は「幽憤詩」・「贈秀才入軍五首」などの四言詩に 優れていた。


頃襄王(けいじょうおう)
在位:紀元前298年 - 紀元前263年)は、中国の戦国時代の楚の第38代の王。
第37代の懐王の子。太子時代に斉に人質としてあったが、父の懐王が秦に抑留されたため、帰国して即位した。 だが秦の攻勢は続き、逆にそれまで大国だった楚は懐王のために衰勢になっていたため、 即位直後の紀元前298年に秦の攻撃を受けて16の城を失った。このため紀元前285年に秦の昭襄王と和睦した。 紀元前284年に燕の昭王の提唱で韓・魏・趙ら三晋など5ヶ国と連合して斉に攻め入り、斉軍に大勝して淮北を獲得した。
だが紀元前280年から秦の白起に攻められ、2年後には遂に都の郢を落とされて陳に遷都した。 紀元前273年に三晋と連合して燕を攻めて大勝するも、秦との戦いは常に劣勢にあり太子の熊元(のちの考烈王)を 人質に差し出して和睦した。
紀元前263年に死んだ。死後、王位は人質として秦にあった熊元が春申君の助力を受けて即位した。



建安七子(けんあんしちし)
後漢末期、建安年間(196年 - 220年)、当時、実質的な最高権力者となっていた曹一族の曹操を 擁護者として、多くの優れた文人たちによって築き上げられた、五言詩を中心とする詩文学。
それまで文学の中心とされていた辞賦に代わり、楽府と呼ばれる歌謡を文学形式へと昇華させ、 儒家的・礼楽的な型に囚われない、自由闊達な文調を生み出した。激情的で、反骨に富んだ 力強い作風の物も多く、戦乱の悲劇から生じた不遇や悲哀、社会や民衆の混乱に対する想い、 未来への不安等をより強く表現した作品が、数多く残されている。
有名、無名を合わせ、数多くの文学者が建安の文壇に名を連ねてはいるが、中でも著名なのが 建安七子と呼ばれる文学者たちである。
孔融・陳琳・徐幹・王粲・応?・劉楨・阮?ら七人を総称して、建安の七子と呼ぶ。 それに加えて、建安文学の擁護者であり、一流の詩人でもあった曹一族の曹操・曹丕・曹植の3人 (三曹と呼ぶ)を同列とし、建安の三曹七子と呼称することもある。
また、繁欽・路粋・何晏・応?・蔡?・呉質といった著名文学者たちも、この建安文学に携わり、 大きく貢献した文壇の一員であるとされている。



厳光(げん こう)
(紀元前39年 - 41年)は中国・後漢時代初期の隠者・逸民。字は子陵、別名は遵。
会稽郡余姚県(浙江省余姚市)の出身。若くして才名あり、のちの光武帝となる劉秀と同門に学ぶ。 劉秀が皇帝となると、厳光は姓名を変えて身を隠した。光武帝はその才能を惜しみ行方を捜させた ところ、後斉国で羊毛の皮衣を着て沢の中で釣りをしているところを見いだされて、 長安に召し出された。宮中の作法に詳しい司徒の侯覇が厳光と親しかったが、 厳光は細かい礼に従わず、光武帝はそれでも「狂奴故態を改めず」と笑っただけだった。 それどころか自ら宿舎に足を運んで道を論じたという。ある夜、帝と光がともに就寝し、 光が帝の腹の上に足を乗せて熟睡し、翌日大夫がその不敬を奏上して罰しようとしたが、 帝は「故旧とともに臥したのみ」とこの件を取りあげなかった。諫議大夫に挙げられたがこれを 断って富春山(浙江省富陽県)で農耕をして暮らし、その地で没する。光武帝はその死を悲しみ、 厳光が亡くなった郡県に詔して銭百万と穀千斛を賜った。
厳光が釣りをしていた場所(桐廬県の南、富春江の湖畔)は「厳陵瀬」と名づけられた。 釣臺は東西に一つずつあり、高さはそれぞれ数丈、その下には羊裘軒・客星館・招隠堂があった。 北宋の政治家・范仲淹は厳光の祠堂を修復し、「厳先生祠堂記」を撰写しその中で 「雲山蒼蒼、江水泱泱。先生之風、山高水長」と厳光の高尚な気風を賞賛した。
一方、清代初期の王船山は『読通鑑論』で厳光を評し、「厳光が光武帝に仕えなかったのは、 沮溺・丈人(『論語』に登場する隠者たち)に比べて度量が狭い。 後者二人はその時代に道が行われないことを知り、やむを得ず君臣の義を廃したのである。 光武帝は王莽の乱をおさめ漢の正統を継ぎ、礼楽を修め古典に則る人だった。 帝の教化が十分でないとすれば、それこそ賢者が道を以て帝を助けるべきではないか。 なぜ厳光は、はやばやと天下を見捨ててしまったのか」と怪しんでいる。


玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)
(602年 - 664年3月7日)は、唐代の中国の訳経僧。玄奘は戒名であり、俗名は陳?(チンイ)。諡は大遍覚[1]で、尊称は法師、 三蔵など。鳩摩羅什と共に二大訳聖、あるいは真諦と不空金剛を含めて四大訳経家とも呼ばれる。
629年に陸路でインドに向かい、巡礼や仏教研究を行って645年に経典657部や仏像などを持って帰還。 以後、翻訳作業で従来の誤りを正し、法相宗の開祖となった。また、インドへの旅を地誌『大唐西域記』として著し、 これが後に伝奇小説『西遊記』の基ともなった。
陳?は、隋朝の仁寿2年(602年)、洛陽にほど近い?氏[2][3][4](現在の河南省偃師市?氏鎮)で陳慧(または陳恵)の 4男[2][4]として生まれた。母の宋氏は洛州長史を務めた宋欽の娘である。[2]字は玄奘[2][4]で、戒名はこれを諱とした。 生年は、上記の602年説の他に、598年説、600年説がある。[5]
陳氏は、後漢の陳寔[2][3][4]を祖にもつ陳留(中国語版)(現在の河南省開封市)出身の士大夫の家柄で、地方官を歴任した。 特に曽祖父の陳欽(または陳山)は北魏の時代に上党郡の太守になっている。[2][4]その後、祖父である陳康は北斉に仕え、 ?氏へと移住した。[2][3][4]
8歳の時、『孝経』を父から習っていた陳?は、「曾子避席」のくだりを聞いて、「曾子ですら席を避けたのなら、 私も座っていられません」と言い、襟を正して起立した状態で教えを受けた。この逸話により、陳?の神童ぶりが評判となった。[4] 10歳[5]で父を亡くした陳?は、次兄[4]の長捷(俗名は陳素[3])が出家して洛陽の浄土寺に住むようになった[2][3][4]のをきっかけに、 自身も浄土寺に学び、11歳にして『維摩経』と『法華経』を誦すようになった。[3]ほどなくして度僧の募集があり、 陳?もそれに応じようとしたが、若すぎたため試験を受けられなかったので、門のところで待ち構えた。 これを知った隋の大理卿である鄭善果(中国語版)は、陳?に様々な質問をして、最後になぜ出家したいのかを尋ねたところ、 陳?は「遠くは如来を紹し、近くは遺法を光らせたいから」と答えた。[4]これに感じ入った鄭善果は、 「この風骨は得がたいものだ」と評して特例を認め、[2][4]陳?は度牒を得て出家した。 こうして兄とともに浄土寺に住み込むことになり、13歳で『涅槃経』と『摂大乗論』を学んだ。[2][3][4]
武徳元年(618年)、隋が衰え、洛陽の情勢が不安定になると、17歳の玄奘は兄とともに長安の荘厳寺[3]へと移った。 しかし、長安は街全体が戦支度に追われ、玄奘の望むような講釈はなかった。 [2][3][4]かつて煬帝が洛陽に集めた名僧たちは主に益州に散らばっていることを知った玄奘は、益州巡りを志し、 武徳2年(619年)に兄と共に成都へと至って『阿毘曇論』を学んだ。また益州各地に先人たちを尋ねて『涅槃経』、 『摂大乗論』、『阿毘曇論』の研究をすすめ、歴史や老荘思想[2][4]への見識を深めた。
武徳5年(622年)、21歳の玄奘は成都で具足戒を受けた。[2][4]ここまで行動を共にしていた長捷は、 成都の空慧寺に留まることになったので、玄奘はひとり旅立ち、商人らに混じって三峡を下り、荊州の天皇寺で学んだ。 [2][3][4]その後も先人を求めて相州へ行き、さらに趙州で『成実論』を、長安の大覚寺で『倶舎論』を学んだ。[2][4]
玄奘は、仏典の研究には原典に拠るべきであると考え、また、仏跡の巡礼を志し、貞観3年(629年)、 隋王朝に変わって新しく成立した唐王朝に出国の許可を求めた。しかし、当時は唐王朝が成立して間もない時期で、 国内の情勢が不安定だった事情から出国の許可が下りなかったため、玄奘は国禁を犯して密かに出国、 役人の監視を逃れながら河西回廊を経て高昌に至った。
高昌王である?文泰は、熱心な仏教徒であったことも手伝い、玄奘を金銭面で援助した。玄奘は西域の商人らに混じって 天山南路の途中から峠を越えて天山北路へと渡るルートを辿って中央アジアの旅を続け、ヒンドゥークシュ山脈を越えて インドに至った。
ナーランダ大学では戒賢に師事して唯識を学び、また各地の仏跡を巡拝した。ヴァルダナ朝の王ハルシャ・ヴァルダナの 保護を受け、ハルシャ王へも進講している。
こうして学問を修めた後、西域南道を経て帰国の途につき、出国から16年を経た貞観19年1月(645年)に、 657部の経典を長安に持ち帰った。幸い、玄奘が帰国した時には唐の情勢は大きく変わっており、 時の皇帝・太宗も玄奘の業績を高く評価したので、16年前の密出国の件について玄奘が罪を問われることはなかった。
太宗が玄奘の密出国を咎めなかった別の理由として、玄奘が西域で学んできた情報を政治に利用したい太宗の 思惑があったとする見方もある。事実、玄奘は帰国後、太宗の側近となって国政に参加するよう求められたが、 彼は国外から持ち帰った経典の翻訳を第一の使命と考えていたため太宗の要請を断り、太宗もこれを了承した。 その代わりに太宗は、西域で見聞した諸々の情報を詳細にまとめて提出することを玄奘に命じており、 これに応ずる形で後に編纂された報告書が『大唐西域記』である。
帰国した玄奘は、持ち帰った膨大な経典の翻訳に余生の全てを捧げた。太宗の勅命により、玄奘は貞観19年(645年) 2月6日から弘福寺の翻経院で翻訳事業を開始した。この事業の拠点は後に大慈恩寺に移った。 さらに、持ち帰った経典や仏像などを保存する建物の建設を次の皇帝・高宗に進言し、652年、大慈恩寺に大雁塔が建立された。 その後、玉華宮に居を移したが、翻訳作業はそのまま玄奘が亡くなる直前まで続けられた。 麟徳元年2月5日(664年3月7日)、玄奘は経典群の中で最も重要とされる『大般若経』の翻訳を完成させた百日後に 玉華宮で寂した。
玄奘自身は亡くなるまでに国外から持ち帰った経典全体の約3分の1までしか翻訳を進めることができなかったが、 それでも彼が生前に完成させた経典の翻訳の数は、経典群の中核とされる『大般若経』16部600巻(漢字にして約480万字) を含め76部1347巻(漢字にして約1100万字)に及ぶ。玄奘はサンスクリット語の経典を中国語に翻訳する際、 中国語に相応しい訳語を新たに選び直しており、それ以前の鳩摩羅什らの漢訳仏典を旧訳(くやく)、 それ以後の漢訳仏典を新訳(しんやく)と呼ぶ。
『般若心経』も玄奘が翻訳したものとされているが、この中で使われている観自在菩薩は、クマーラジーバによる旧訳では 『観音経』の趣意を意訳した観世音菩薩となっている。訳文の簡潔さ、流麗さでは旧訳が勝るといわれているが、 サンスクリット語「Avalokite?vara(アヴァローキテーシュヴァラ)」は「自由に見ることができる」という意味なので、 観自在菩薩の方が訳語として正確であり、また玄奘自身も旧訳を批判している。
一説では、時の唐の皇帝・太宗の本名が「李世民」であったため、「世」の字を使うことが避諱によりはばかられたからとも される。
玄奘自身は、明確に特定の宗派を立ち上げたわけではないが、彼の教えた唯識思想ともたらした経典は、 日中の仏教界に大きな影響を与えた。
法相宗の実質的な創始者は玄奘の弟子の基である。しかし、『仏祖統紀』などは、玄奘とナーランダー留学時の師である 戒賢までを含めた3人を法相宗の宗祖としている。
遣唐使の一員として入唐した道昭は、玄奘に教えを受けた。 道昭の弟子とされるのが、行基である。
玄奘の遺骨
慈恩寺玄奘塔(さいたま市岩槻区) 詳細は「慈恩寺 (さいたま市)」を参照
日中戦争当時の、1942年(昭和17年)に、南京市の中華門外にある雨花台で、旧日本軍が玄奘の墓を発見した。 それは、縦59cm横78cm高さ57cmの石槨で、中には縦51cm横51cm高さ30cmの石棺が納められていた。石棺の内部には、 北宋代の1027年(天聖5年)と明の1386年(洪武19年)の葬誌が彫られていた。石棺内に納められていたのは、 頭骨であり、その他に多数の副葬品も見つかった。
この玄奘の霊骨の扱いには関しては、日中で応酬を経た後、分骨することで決着を見た。中国側は、 北平の法源寺内・大遍覚堂に安置された。その他、各地にも分骨され、南京の霊谷寺や成都の浄慈寺など、 数ヶ寺に安置される他、南京博物院にも置かれている。
この時、日本で奉安されたのが、現さいたま市岩槻区の慈恩寺である。後に奈良市の薬師寺「玄奘三蔵院」に一部分骨された。
著作・伝記
玄奘の作品
玄奘自身の著作である『大唐西域記』により、彼の旅程の詳細を知ることができる。玄奘の伝記は、 仏教関係の様々な書物に記載されているが、唐代のものとしては、『大慈恩寺三蔵法師伝』と『続高僧伝』がある。
大唐西域記
玄奘は、その17年間にわたる旅の記録を『大唐西域記』として残しており、当時の中央アジア・インド社会の様相を伝える 貴重な歴史資料となっている。
大慈恩寺三蔵法師伝
慧立と彦?により伝記が編まれ、玄奘の死から24年後にあたる垂拱4年3月15日(688年)に『大慈恩寺三蔵法師伝』全10巻が完成した。略称は『慈恩伝』。 大正新脩大蔵経では、『大唐大慈恩寺三藏法師傳』としてNo.2053に収録されている(T50_220c)。また、興福寺と法隆寺の所蔵する院政期の写本は共に国の重要文化財である。
『続高僧伝』は、道宣の編纂した中国僧の伝記集。ただし、『続高僧伝』が完成した645年は、玄奘の帰国直後であるのに対し、 玄奘の項には、664年の死までが記されている。
元代に成立した小説『西遊記』は、『大唐西域記』や 『大慈恩寺三蔵法師伝』を踏まえたうえで書かれており、 玄奘は三蔵の名で登場している。
三蔵法師とは経、律、論に精通している僧侶に対して皇帝から与えられる敬称であり、本来は玄奘に限ったものではない。 例えば鳩摩羅什、真諦、不空金剛、霊仙なども「三蔵法師」の敬称を得ている。 だが今日では、特筆すべき功績を残した僧侶として「三蔵法師」といえば、玄奘のことを指すことが多くなった。






元正天皇(げんしょうてんのう)
(天武天皇9年(680年) - 天平20年4月21日(748年5月22日))日本(奈良時代)の第44代天皇。 女帝(在位:霊亀元年9月2日(715年10月3日) - 養老8年2月4日(724年3月3日))。父は天武天皇と 持統天皇の子である草壁皇子、母は元明天皇。文武天皇の姉。諱は氷高(ひたか)・日高、 又は新家(にいのみ)。和風諱号は日本根子高瑞浄足姫天皇 (やまとねこたまみずきよたらしひめのすめらみこと)である。日本の女帝としては5人目であるが、 それまでの女帝が皇后や皇太子妃であったのに対し、結婚経験は無く、 独身で即位した初めての女性天皇である。
天武天皇の皇太子であった草壁皇子の長女として生まれる。母は阿閉皇女(のちの元明天皇)。 天皇の嫡孫女として重んじられたようで、天武天皇11年(682年)8月28日に、日高皇女の病により、 罪人198人が恩赦された[2]。翌天武天皇12年(683年)、3歳下の同母弟・珂瑠(のちの文武天皇)が 誕生。
父・草壁皇子は即位に到らず持統天皇3年(689年)に薨去し、祖母・持統天皇の即位の後、 同母弟・珂瑠皇子が文武天皇元年(697年)に持統天皇から譲位されて天皇の位に即いた。 当時氷高皇女は18歳であり、天皇の同母姉という立場が非婚に影響したものと思われる。
慶雲4年(707年)に文武天皇が崩御し、その遺児である首皇子(のちの聖武天皇)がまだ幼かったため、 母の阿閉皇女が即位、元明天皇となった。和銅3年(710年)、平城京に遷都。和銅7年(714年) 1月20日、二品氷高内親王に食封一千戸が与えられる[3]。和銅8年/霊亀元年(715年)1月10日に 一品に昇叙[4]。
霊亀元年9月2日、皇太子である甥の首皇子(聖武天皇)がまだ若いため、母・元明天皇から 譲位を受け即位。「続日本紀」にある元明天皇譲位の際の詔には「天の縦せる寛仁、沈静婉レンにして、 華夏載せ佇り」とあり「慈悲深く落ち着いた人柄であり、あでやかで美しい」と記されている。 歴代天皇の中で唯一、母から娘への皇位継承が行われた。これを女系継承とする考えもあるが、 父は草壁皇子であるため男系の血筋をひく女性皇族間の皇位継承である。
養老元年(717年)から藤原不比等らが中心となって養老律令の編纂を始める。
養老4年(720年)に、日本書紀が完成した。またこの年、藤原不比等が病に倒れ亡くなった。 翌年長屋王が右大臣に任命され、事実上政務を任される。長屋王は元正天皇のいとこにあたり、 また妹・吉備内親王の夫であった。不比等の長男・武智麻呂は中納言、次男・房前は、未だ参議 (その後内臣になる)であった。
養老7年(723年)、田地の不足を解消するために三世一身法が制定された。 これにより律令制は崩れ始めていく。
養老8年/神亀元年(724年)2月4日、皇太子(聖武天皇)に譲位した。譲位の詔では新帝を「我子」 と呼んで譲位後も後見人としての立場で聖武天皇を補佐した。
天平15年(743年)、聖武天皇が病気がちで職務がとれなくなると、上皇は改めて「我子」 と呼んで天皇を擁護する詔を出し、翌年には病気の天皇の名代として難波京遷都の勅を発している。 晩年期の上皇は、病気がちで政務が行えずに仏教信仰に傾きがちであった聖武天皇に代わって、 橘諸兄・藤原仲麻呂らと政務を遂行していたと見られている。




元稹(げんしん)
779年(大暦14年) - 831年(大和5年)、中国・唐代中期の詩人、文人、宰相。字は微之。郡望は河南洛陽(河南省洛陽市) であるが、長安靖安里に生まれた。
代の王拓跋什翼?(北魏の昭成帝)の末裔であった。しかし、彼の代には零落し、幼くして父を失い母の手一つで育てられた。 15歳で明経科に、28歳で進士に合格、左拾遺から河南(洛陽)の県尉さらに監察御史となったが、 宦官仇士元との紛争で江陵府の司曹参軍に左遷された。?州の長史をしているときに召し出されて首都へ行き、 中書舎人・承旨学士となり、穆宗の時に工部侍郎・同平章事(宰相)に進んだが、4ヶ月で罷免され、都を出て同州刺史となり、 越州に転じ浙東観察使を兼ねた。827年頃に都にもどり、尚書左丞検校戸部尚書となり、鄂州刺史に武昌軍節度使を兼ね、 その地で急病により没する。
出世に熱心のあまり、監察御史であったときはしばしば地方官の不正を糾弾し、大政治家の裴度と勢力争いに及ぶ。 元稹はその詩文を穆宗に喜ばれ、さらに宦官の巨頭・崔潭峻と仲がよいので任官できたとも言われる。 一時期不遇で文学に専心。楽府体の詩歌に社会批判を導入し、叙事詩的手法を駆使して新楽府という新生面をひらく。 そのため「才子」とも称せられた。やがて白居易と「元白」と並称されるほど交流を深め、和答に次韻という形式を創造し 「元和体」または「元白体」として一世を風靡した。短編小説の『鶯鶯伝』[1] では曲折に富む構成と達意な筆致で、 以後に流行する小説[2]を先導した。『元氏長慶集』60巻にほぼ全作品が収められている。



阮 籍(げんせき)
阮 籍(げん せき、210年(建安15年) - 263年(景元4年))は、中国三国時代の人物。字(あざな)を嗣宗、 ?州陳留郡尉氏の人。竹林の七賢の指導者的人物である。父は建安七子の一人である阮?。甥の阮咸も竹林の七賢の一人である。 子は阮渾。兄は阮煕。
阮籍は、青眼と白眼を使い分けることができたという。礼法を重視した儒家のような気に入らない人物に対しては白眼で対応し、 気に入った人物に対しては青眼で対応したという。阮籍が喪に服していた時、?喜は礼法に則り弔問した。 すると阮籍が白眼視したので、?喜は怒って帰ってしまった。弟の?康がそれを聞き、酒と琴を持って阮籍の家を訪れると 、阮籍は喜んで青眼で迎えたという。
転じて、気に入らない人物を冷遇することを、白眼視という。一方で彼は時事を評論せず、 人の過ちを決して口にしない極めて慎重な人物であったという[2]。



憲宗皇帝(けんそうこうてい)
唐朝の第14代皇帝。順宗の長男。 805年4月に立太子され、同年8月には順宗の病を理由にした譲位にともない即位した。 即位後は宦官の勢力に対抗するために杜黄裳を登用した。さらに地方の節度使勢力を抑制するため、 817年(元和12年)には淮西節度使を討って地方の統制強化も実施している。対藩鎮勢力の施策としては、 儒者の臣を藩帥に任命し、監査任務を主とする監軍には宦官を配し、節度使勢力の動静を監視させる制度を開始した。 さらに名臣と謳われた武元衛や李吉甫らにも恵まれ、軍備を拡張した禁軍を積極的に活用した結果、 唐王朝に反抗的であった河朔三鎮も服従を誓い、衰退した唐は一時的な中興を見た。
だが、太子に立てられた長男の鄧王・李寧(恵昭太子)が19歳で早世すると、 憲宗はその悲しみから仏教や道教に耽溺するようになった。法門寺の仏舎利を長安に奉迎することを計画し、 韓愈の「論仏骨表」による諫言を退け、莫大な国費を費やして供養を行なった。 また丹薬を乱用し宦官を虐待するという精神的異常をきたした。 そのため820年に宦官の王守澄や陳弘志らによって43歳で暗殺された。


玄宗皇帝(げんそうこうてい)
685~762 中国、唐の第6代皇帝。在位712~756年。姓名は李隆基(りりゅうき)。 則天武后のあとに権勢をふるった中宗の皇后韋(い)氏一派を710年にクーデタで一掃し、 父の睿(えい)宗を即位させて自らは皇太子となり、やがて父のあとをついだ。 玄宗は治世の前半は混乱した秩序の回復につとめ、有用な人材を登用して国力を増大、対外的にも突厥をおさえるなどの 積極策をとり、年号からとって「開元の治」とたたえられた。 しかし、「貞観(じょうがん)の治」と称された唐初期の治世を再現しようとする玄宗の理想は、 くずれつつある律令政治のほころびをつくろうにすぎず、農村の窮乏、科挙制の浸透による新興勢力の増大などの 新しい時代の動きにこたえるものではなかった。この矛盾はしだいに明らかとなった。 財政はゆとりをなくし、均田制や府兵制などの諸制度もくずれはじめた。玄宗はしだいに政治をおろそかにするようになり、 息子寿王の妃だった楊貴妃をうばって後宮にいれるなど、遊興にふけっていった。 755年に安史の乱がおきると、玄宗は翌年四川(しせん)へおちのび、その途中で楊貴妃は殺される。 玄宗は皇太子(粛宗)に位をゆずって上皇となり、757年にうばいかえされた長安へもどったが、 粛宗との不和で幽閉同然となり、失意のうちに病死した。

厳 武(げんぶ)
(726年 - 765年)は、中国・唐代の官僚。字は季鷹。玄宗期に用いられた厳挺之の子。 蜀の地に流浪してきた杜甫を保護したことで知られる。
華州華陰(陝西省)の出身。幼い時から豪爽な性格で、父から奇才を認められた。しかし、勉学はその意義を究めるにほど遠く、 蔭隠により、太原府(山西省)参軍に就任し、殿中侍御史に進む。
安史の乱のとき、玄宗に従い、蜀の地に入り、諫議大夫に抜擢される。至徳元年(756年)、粛宗のもとに赴き、 房?に父の厳挺之の名声により用いられ、給事中に用いられる。長安の回復後、京兆少尹となる。 しかし、房?の失脚により、巴州刺史に左遷させられ、その後、東川節度使に転任する。玄宗によって、 成都尹および剣南節度使に任じられる。
唐による長安の奪還後、京兆尹に任じられ、鄭国公に封じられる。黄門侍郎に転任し、元載と深い交流をし、 宰相になろうとしたが、果たせず、再び剣南節度使となる。当狗城において吐蕃(チベット)の7万の衆をうち破り、 鹽川を攻め取り、吏部尚書を官位に加えられる。
厳武は蜀(四川省)を治めて、放埒であった。能力がなくても、彼を喜ばせると、莫大な賞賜を与えられた。 富裕であった蜀の地は、彼の苛斂誅求のために、逃亡者で空地ばかりとなった。また、かつて自分の判官であり、 梓州刺史に就任した章彝を小さなことで怒って、殺してしまった。しかし、外国は彼を恐れ、国境を侵さなかった。 また、蜀に流浪して来た杜甫に対し、厚遇したことでも知られる。
酔った杜甫に「本当に、君はあの厳挺之の子か」と言われ、目を怒らせたが、「君こそ、あの杜審言の子孫か」と言い返し、 満座が大笑いしたため、場がおさまったと伝えられる。
杜甫を厚く遇したが、彼のことを何度も殺そうとした。厳武は章彝とともに杜甫を殺そうと役人を集めたが、 母の裴氏に止められて、章彝は殺したが、杜甫は殺されなかった。



呉筠(ごいん)
( ?‐778)中国,唐代の道士。華陰(陝西省大茘県)の人。号を中嶽道士,諡(おくりな)を宗元先生という。 玄宗の天宝年間(742‐755),嵩山(すうざん)の潘師正に師事して道士となった。道教を好む玄宗に召されて翰林待詔となったが, 宦官高力士をはじめ仏教勢力に忌まれ,安史の乱中,茅山さらに会稽へ隠棲した。文人としても名声があり孔巣父, 李白などと親交があった。《宗元集》20巻のほか《玄綱》《神仙可学論》などの撰述がある。



項羽(こうう)
項 籍(こう せき、元前232年 - 紀元前202年)は、秦末期の楚の武将。秦に対する造反軍の 中核となり秦を滅ぼし、一時“西楚の覇王[1]”(在位紀元前206年 - 紀元前202年)と号した。 その後、天下を劉邦と争い(楚漢戦争)、当初は圧倒的に優勢であったが人心を得ず、 次第に劣勢となって敗死した。 姓は項、名は籍、字が羽である。
項羽は、楚の将軍であった項燕の孫。項氏は代々楚の将軍を務めた家柄であった。項羽は両親を 早くに亡くしたため、叔父の項梁に養われていた。
『史記』によれば、項羽は文字を習っても覚えられず[3]、剣術を習ってもあまり上達しなかった。 項梁はそのことで項羽を怒ったが、項羽は「文字なぞ自分の名前が書ければ十分です。 剣術のように一人を相手にするものはつまらない。私は万人を相手にする物がやりたい」 と答えたので項梁は喜んで集団戦の極意である兵法を項羽に教えた。項羽は兵法の概略を理解すると、 それ以上は学ぼうとしなかった[4]。
成人すると、身長が9尺(約207センチ)の大男となり、怪力を持っており、才気は人を 抜きんでていたこともあって、呉中の子弟はすでに項羽には一目置いていた。
秦末期、陳勝・呉広の乱が起きると、項羽は項梁に従って会稽郡役所に赴いて、郡守である殷通を だまし討ちした。さらに、襲いかかってきた殷通の部下数十名を一人で皆殺しにし、 会稽の役人たちは項羽の強さに平伏、項梁は会稽郡守となって造反軍に参加した。
その後、留で秦嘉(中国語版)と甯君らが景駒(楚の旧公族)を擁立して陳勝から独立すると、 項梁は秦嘉に帰順を促したが、秦嘉はこれを拒否した。項梁は項羽と英布に命じて、襄城を攻めて 秦嘉を討ち取り、降伏した城兵を生き埋めにして凱旋した。
まもなく陳勝が御者の荘賈によって殺害されると、項梁は范増から教えを請い旧王家の末裔・?心を 探し出してこれを「楚王」に祭り上げて大いに威勢を奮ったが、秦の章邯の奇襲によって戦死する。 このとき、項梁の戦死を恨んだ項羽は、章邯が居城としていたが既に去っていた定陶城の住民を 皆殺しにしている。項梁死後の楚軍の指揮について会議が行われたが、結局斉の使者に項梁の 戦死を予言した宋義が楚軍を指揮することになった。
宋義は趙の張耳、陳余の救援要請を受けて趙へ向かったが、進軍を安陽までで止めてしまい、 兵が飢えてしまった。項羽は進軍すべきと宋義に直訴したが「秦が趙との戦いで疲弊したところを 打ち破る」と言う宋義に納得できなかった項羽は彼を殺害し、実質的な楚軍の総大将となった。 また、斉の宰相に就任しようと楚軍から離れていった宋義の息子の宋襄も追いかけて殺害した。
そして、項羽は咸陽へ向けて北進を開始した。途中、鉅鹿を包囲していた秦の名将・章邯が率いる 20万を超える大軍と決戦を行った。鉅鹿の落城は時間の問題と見られており、趙軍10万や救援に 駆けつけていた各国の軍は全く手を出せず、傍観していた。
しかし項羽は、まず秦軍の食料運搬部隊を襲い、糧道を絶って秦の大軍を飢餓に追い込み、 士気を低下させた。次いで項羽は、川を渡った後に兵士に三日分の兵糧のみを与え 、残りの物資と共に船を沈めた。三日で決着が着かねば全滅あるのみ、と決死の覚悟をさ せたのである。そして項羽は王離の軍を包囲し、甬道を絶って章邯との戦いに大勝し、王離を捕え、 蘇角を討ち取った。秦の将の渉間は自害した。この戦いで数に劣る楚の兵は皆一人で十人の敵と 戦ったという[5]。この功績により各国の軍の指導者たちは項羽に服属し、項羽は上将軍となった。 項羽はその後も秦軍を攻め、連戦連勝し、総大将の章邯は降伏を申し出て、戦いは終わった。 この時、項羽は20万以上の秦兵を捕虜として得たが、暴動の気配が見えたので新安という 所でこれを全て坑(穴に埋めて殺すこと)した[6]。
項羽は関中に入ろうとしたが、その時すでに、別働隊として咸陽を目指していた劉邦が関中に 入っていた。功績を横取りされたと感じた項羽は大いに怒り、劉邦を攻め殺そうとした。 劉邦は慌てて項羽の従父(叔父)項伯を通じて和睦を請い、項羽と劉邦は酒宴を開いて 和睦の話し合いを行い、劉邦は命拾いをした。これが有名な鴻門の会である。
項羽は劉邦を許した後、劉邦に降伏していた秦の最後の王である子嬰一族を皆殺しに処して、 咸陽を焼き払って財宝を略奪した。その後、ある論客から地の利が便利な咸陽を都とするように 進言されたが、項羽はこれを聞き容れず、退出した論客は「人は『楚人とは沐猴(?猴。猿の一種) が冠をつけているのと同じ(楚人沐猴而冠耳)』と申すが、まさにその通りである」と呟いたために、 これを聞いた楚の衛兵は、項羽にこのことを報告した。これを聞いた項羽は激怒して、 その論客を捕らえて、釜茹でに処した[7]。項羽のこの行為に諸侯は異論を唱えることができず、 項羽はそのまま故郷に錦を飾るために楚の彭城(現在の江蘇省徐州市銅山区)を都と定めた。
楚へ帰ると自ら「西楚の覇王」と名乗り、諸侯を対象に大規模な封建を行うが、その基準となったのは 功績ではなく、項羽との関係が良好か否かであった。故に、ろくに手柄を立てなかったものが 優遇されたり、逆に、咸陽に一番乗りして秦を滅亡させた劉邦が冷遇されて漢中に左遷されるなど、 不公平なものとなり、諸侯の多くに大きな不満を抱かせるものとなった。
また、?心を「義帝」と呼んで楚王から格上げしたが、傀儡のはずが自立を模索し自分に指示する ようになった義帝の処遇に困り、遷都という名目で彭城から追い出し、辺境に追いやりその途中で 暗殺した。このことによって倫理的に大逆の汚名を負うことになり、人望を失い劉邦に自分を 討つ大義名分を与えてしまった。さらに留任させて捕らえた韓王成も彭城で処刑した。
紀元前206年、斉の王族・田栄が項羽に対して挙兵すると、これをきっかけに封建に不満を抱く 諸侯が続々と反乱を起こした。義帝の殺害を知った「漢王」劉邦は大義名分を得て蜂起し、 諸侯へ項羽への反乱を呼びかける。これ以降の楚と漢の戦争を「楚漢戦争」と呼ぶ。
このときの諸侯に向けた檄文は以下のものである。
「天下共立義帝,北面事之.今項羽放殺義帝於江南,大逆無道.寡人親為發喪,諸侯皆縞素. 悉發関内兵,収三河士,南浮江漢以下,願従諸侯王撃楚之殺義帝者.」 項羽は討伐軍を率いて各地を転戦する。項羽は戦闘には圧倒的に強く、項羽が行けばすぐに反乱は 収まるものの、間を置かず別の地域で反乱が置き、項羽がその鎮圧に行けばすぐにまた別の地域で 反乱が再発するといういたちごっこを繰り返した。また項羽が降伏を許さず、反乱を起こした国の 兵士は全員生き埋めにして殺し、住民も情け容赦なく殺す[8]ため、反乱軍は兵民一丸となって必死に 抵抗し、戦闘は泥沼化していった。
特に斉は70余りの城があり、項羽は長らく手を煩わされることになる。さらに、九江王に封じた 英布に幾度も救援要請を行ったが、病と称して拒否されるなど、味方と考えていた者にも 裏切られている。項羽は戦術には非常に優れていたが、戦略・政略・人望などに乏しく、 直情径行型であったため人の恨みを買いやすかったといわれる。
三秦(関中)を平定した劉邦は魏・趙などと連合して50万を超える大軍を率いて楚の彭城を 占領するが、これは寄せ集めの集団であり、3万の精兵のみを率いて急行してきた項羽はこの大軍を 一蹴し、10余万を殺戮する(彭城の戦い)[9]。劉邦は敗走し、父や妻の呂雉は項羽の捕虜となった。 その後、項羽は?陽(けいよう、河南省?陽市)一帯に劉邦を追い込んだが(?陽の戦い)、 劉邦旗下の韓信による魏・趙・燕・斉諸国遠征や、項羽に反感を抱く彭越、離反した英布などの、 諸侯による後方撹乱行動に悩まされる。
このため劉邦をしばしば破り何度も追い詰めながら、最後にはいつも逃げられてしまい、 別の反乱の鎮圧に戻らざるを得なくなって追及の手を緩めると、今度は関中の蕭何の補給で 盛り返した劉邦が再度項羽と対峙する、という繰り返しとなった。
その間隙を狙って行われた陳平による内部分裂工作により、知恵袋であり亜父 (父についで尊敬する人)とまで呼んでいた范増や、これまで共に闘ってきた鍾離?・季布・龍且らの 各将軍を疑うようになった。その後、范増は病死し、韓信に攻められていた斉の救援 に龍且率いる20万の軍勢を差し向けるものの、これは韓信の水計により壊滅し龍且も戦死し、 大打撃を受ける。さらに漢から斉に至る楚包囲網が完成し、ここにきて劉邦・韓信の力が楚を 上回るようになっていった。
紀元前203年、項羽は劉太公を返還することで劉邦といったん和睦し故郷へ帰ろうとしていた。 しかしこの時漢軍が和平の約束を破り項羽の後背を襲った。長い戦闘で疲弊の極みにあった 楚軍は敗走し、韓信の兵力30万を始めとする諸侯連合軍に項羽軍10万は垓下に追い詰められた (垓下の戦い)[10]。この時に城の四方から項羽の故郷である楚の国の歌が聞こえてきた。 これを聞いた項羽は「漢は皆已に楚を得たるか?是れ何ぞ楚人の多きや」と嘆いた。 ここから四面楚歌の言葉が生まれた。
その夜、項羽が愛人虞美人[11]に送った詩が垓下の歌である。
項羽は手勢八百騎を率いて漢軍の包囲網を突破して烏江(うこう、現在の安徽省和県烏江鎮) という所までやってきた。烏江の亭長に、
「江東は小さな所ですが土地は千里あり、万の人が住んでいます、彼の地ではまた王になるには十分でしょう。願わくは大王、早く渡ってください。今は私一人が船を出し、漢の軍は至っても渡ることはできないでしょう」 と言われたが、項羽は
「天が我を滅ぼすのに何故渡ろうか?私が江東の子弟八千人を率いてここから西へ出発し、 今一人として帰る者が居ない。たとえ江東の父兄が哀れんで私を王にしようとも、 私に何の面目があろう?たとえ彼らがそれを言わなくとも、どうして私一人が心に恥を感じずに いられようか」
と断った。 『史記』項羽本紀によれば、項羽は自分の乗馬である騅を烏江の亭長に譲り渡し、 従卒を下馬させ、劉邦軍を迎え撃ち、項羽みずから数百人の敵兵を討ち取ったという。 この戦いで十数か所に傷を負った項羽は、追っ手の中に旧知の呂馬童がいるのを見つけると、
「漢は私の頭に千金と万の邑を懸けていると聞く、旧知のお前にその恩賞をくれてやろう」
と言って、自らの首を刎ねて死んだ。享年31。
劉邦は項羽を殺した者に対して領土をかけていたので、項羽が死んだ時、王翳が頭をとり、 その他の部分の死体に向かって兵士が群がり、死体を取り合い、殺し合う者が数十人にもなった。 故に死体は五つに分かれた。劉邦はその五つの持ち主(楊喜・王翳・呂馬童・呂勝・楊武)に対して 一つの領土を分割して渡した。また劉邦は無惨な死体となった項羽を哀れみ、魯公の礼を以て 穀城に葬った。
なお、項羽の死後、項伯(射陽侯)をはじめとして項一族はいずれも劉邦によって列侯に封じられ、 劉姓を賜っている。項伯の子孫が宋の劉裕といわれる(『魏書』島夷劉裕伝)。
項羽は劉邦と対照的な性格とされ、それを示す逸話として項羽と劉邦がそれぞれ始皇帝の行幸に 会った時の発言がよく取り上げられる。項羽は始皇帝の行列を見て「彼奴に取って代わってやるわ!」 と言ったが、劉邦は「ああ、大丈夫たる者、ああならなくてはいかんな」と言ったと伝えられる[12]。
このように項羽と劉邦は様々な点で対照的な面を見せたが、劉邦が項羽に対して対照的であろうと したという説もある。項羽は自らも言うように戦場では連戦連勝で文句の付け所が無かったが、 戦闘以外の場所では捕虜を虐殺したりするなどの悪行が目立った。有名な新安での秦兵20万の 虐殺は項羽にとっては決して特別な行為ではなく、それ以外にも城を落とすたびに住民を殺したことが 幾度もあった。項羽に対して秦は激しく抵抗し、その間、秦軍を降伏させて進軍を早めた 劉邦が先に咸陽一番乗りを果たしている。また、こうした苛烈さは、秦滅亡後に起きた斉の離反を 鎮圧できずに劉邦に東進を許してしまう原因にもなった。
事跡から想像できる項羽の性格は、かなり子供っぽいものと言える。咸陽を落とした後、 「関中は山河に四方を囲まれ、土地は肥沃、此処に都を構えて覇を唱えましょう」と進言されたが 「せっかく出世したのに故郷へ凱旋しないのは、夜中に刺繍の入った着物を着て道行くのと同じ ことぞ。誰がそれを知ろうか」と答えたという逸話は、項羽の性格をよく表している。
項羽は喜怒哀楽が激しく、部下に対して厚く慈しむ場合もあれば、激しく詰ることも多かった。 特に部下と女子との扱いが極端に違っていたこともあり、韓信を雑兵のまま重用しなかったため 劉邦のもとへ去られたり、陳平の対応に怒り殺そうとしたため陳平が漢に降ることになったり、 揚げ句の果てには亜父と慕っていた范増さえも疑って引退させるなど、その性格から数々の将軍・ 策士が項羽から離れる結果となった。秦滅亡後の処遇も、論功行賞ではなく項羽と仲が良いか どうかによっており、数々の反乱を生む要因となった。 また、ある時あまり敵兵が抵抗せずに 城を落とせた為兵士が弱い(或いは敵兵が強く抵抗したことで自分を主と認めない) と怒って城兵を含む住民を皆殺しにしようとしたが、利発な子供に説得されて住民の皆殺しを 取りやめたなどの逸話がある。
韓信に評価された「匹夫の勇」(分別なくただ血気にはやる勇気)、「婦人の仁」 (思慮の浅い女性の同情心)という項羽の性格は、天下を治めるには不適格だった。 そうした自分の欠点に最後まで気づかないまま自ら命を絶った項羽を、司馬遷は史記の中で 「自分の覇王の事業を既に成し遂げたと思いこみ、武力で天下を征服・管理しようとしていた。 そして、5年間の内戦を経て、ついに国を滅ぼし、自分自身も死んでしまった。それでも、 死ぬ前にもまだ悟らず、自分を責めようとしなかった。それは間違っている。『天が私を滅ぼすのだ。 戦に負けたわけではない。』と公言した。これはどんなに荒唐無稽なことだろうか[13]」 と強く批判している。後の後漢時代に、その勢いから項羽に因んで小覇王と呼ばれた孫策は自らを 項羽に例えて朝廷に上奉しようとした許貢に激怒して殺害し、のちに許貢の部下に襲撃された 傷がもとで死に至っている。
しかし、項羽の短くも苛烈な生涯に多くの人々が魅了されてきたのも事実であり、 京劇の「覇王別姫」は現在も人気の演目となっている。
史記の中で、項羽は本紀(第7巻・項羽本紀)を立てられている。なお、この項羽本紀は史記 の中でも特に名文の誉れが高く、日本の『平家物語』に於ける木曾義仲の最期を描いた場面は、 項羽本紀に於ける項羽の死の描写に影響を受けているといわれている。天下を取ったか否かは 意見が分かれている[14]が、現時点では世界史にて西楚は歴代王朝には名を連ねていない。
また、佐竹靖彦は著書『項羽』で、項羽の最大の功績を、中国で長らく続いてきた東部に対する 西部の優位を覆し、東西が融合するスタートラインを作った事にあったとする。また、 項羽の集団を「前近代的な愛国心を持った戦士達の集合体」とし、それらが秦を打倒出来たのは 「項羽の無私の人格所以」、敗れたのは「劉邦陣営と違い合理的な官僚集団が全く育たなかったため」 としている。



侯嬴(こう えい)
戦国時代の魏の隠者。侯生とも。大梁の夷門の門番をしていたが、70歳の頃、魏の公子の信陵君 (魏無忌)に礼を持って迎えられ食客となった。
当初は、信陵君の招聘を理由をつけて断っていた。また、屠殺業の朱亥(中国語版)と仲が良く、 信陵君の度量を試していた。やがて、食客となった。
秦が趙の邯鄲を攻めた際、魏の安釐王(信陵君の異母兄)は将軍の晋鄙に十万の軍を率いらせ、 趙へ救援に向かわせようとしたが、秦が派遣した使者から、救援を行えば趙の次に滅ぼすとの 脅迫を恐れ、晋鄙に軍の停止を命じた。
趙の平原君(趙勝)からの使者は、何のために(信陵君の姉と)婚姻を結んだのか、と信陵君を 責め立てたので、信陵君は死を覚悟して百輌の車騎と共に趙へと向かうことを決めた。 信陵君が出立の際、夷門へと立ち寄り侯嬴へその決意を告げたが、侯嬴は素っ気なく 見送った。一度はそのまま出立したが、信陵君が侯嬴の態度を訝しみ、礼が足りなかったの だろうかと侯嬴の元へと戻ると、侯嬴は、王の寵姫の如姫は信陵君への恩があるので、 如姫に王の寝室から晋鄙の軍へと命令を下すための兵符を盗ませる策を与えた。
兵符を盗み出すことに成功した後、侯嬴は信陵君へ、晋鄙が従わない場合は殺害するように 伝えた。信陵君が出立する際、侯嬴は朱亥を伴うように進言して信陵君が晋鄙の軍へとたどり 着く日を数え、自らの首を刎ねて餞とすると言い、信陵君を送り出した。信陵君が晋鄙の軍へと 到着すると、侯嬴はその言葉の通り自刎した。



黄 蓋(こうがい)
(? - 建安19年(215年)?)は、中国後漢末期の武将。字は公覆。荊州零陵郡泉陵県の人。孫堅・孫策・孫権に仕えた宿将である。 子は黄柄。
『呉書』によると、祖先が南陽太守の黄子廉という人物で、その子孫は各地に散らばった。黄蓋の一族は祖父の時代に零陵へ移住してきたという。 若い頃に父が亡くなり、貧しい生活をしていたが、常に大志を抱き、上表文の書き方や兵法の勉強に勤しんでいた。
郡の役人になった後、孝廉に推挙された。三公から招聘を受けたが、孫堅が挙兵するとこれに従い、荊州南部の反乱や董卓討伐に従軍して活躍し、 別部司馬に任命された。
孫堅の死後は孫策に仕え、孫策の江東制覇に従った。孫策が劉表と黄祖の征伐報告をした時の上奏に、呂範・程普・孫権・韓当と共に黄蓋の 名もある(「孫破虜討逆伝」が引く『呉録』)。孫策が早世すると、跡を継いだ孫権にも仕えて若い主君を支えた。
黄蓋は自ら甲冑をつけ、刀剣を振るって各地の反乱を鎮圧し、城を攻略した。統治が困難な地域には黄蓋が長官として任じられ、 石城県・春穀県・尋陽県など9つの県に赴任し、丹陽都尉にまでなった。法令に厳格な処罰を行ないつつも、強きを抑えて弱きを助ける統治 を行ったため、どの地も無事に平定された。また、土着民族たる山越までもが信服し、人々は平穏に暮らすことができた。
風貌に威厳があり、兵卒を思いやり優しく接したため、軍を率いた時に兵士達は命をふるって戦った。
建安12年(208年)、曹操が江南に進軍を開始し赤壁の戦いが始まると、黄蓋は周瑜の指揮下で従軍した。曹操軍の艦船を焼き討ちすることを 進言し、偽りの投降を用いた火攻めで曹操軍を攻め立て、曹操軍の艦船と岸辺の軍営を焼き払った。赤壁において、 黄蓋は流れ矢に当たって長江に落ちてしまい、救い上げられたものの、黄蓋とわからなかったために、負傷したまま厠に放置されてしまった。 しかし、同僚の韓当が見つけ手当てさせたため、九死に一生を得たという(「周瑜伝」、「黄蓋伝注引呉書」)。 この功績で、武鋒中郎将に任命された。
武陵蛮が反乱を起こすと、黄蓋が武陵太守に任命され鎮圧の任にあたることになった。郡の兵士は500人程であったが、 賊軍を城門に誘い込んで撃退し反乱を鎮圧した。この時、首謀者以外の者の罪は問わなかった。反乱を鎮めると、これまで益州に服していた 巴・醴・由・誕の部族も誼を通じてくるようになった。
また、山越の反乱者に長沙郡益陽県を攻められるとそれも平定し、偏将軍に昇進した。
その後、黄蓋は病に伏せりそのまま病没した。黄蓋には決断力があり、事務を長期間滞らせることがなかったため、 孫権領内の人々は彼を偲んだという。孫権は彼の子に関内侯の爵位を授けた。『呉書』によると、肖像画を描いて季節ごとに お祭をした人々もいたという。
没年は不明だが、死後その配下の軍勢は、同時期に亡くなった孫瑜の軍と共に、孫皎が指揮をしたとあるため(「宗室伝」)、 孫瑜が亡くなった215年の時点では、黄蓋は既に死去していたことが確認できる。
『安南志略』巻7には、南海郡出身で同姓同名の黄蓋が呉の日南太守となったが、貪欲であったため追放されたという記述がある。
三国志演義
小説『三国志演義』では「鉄鞭」を愛用武器とする武将として、程普・韓当・祖茂と共に孫堅軍の猛将の一人として登場する。 孫堅が玉璽をめぐり袁紹と対立すると、程普・韓当と共に袁紹軍の顔良・文醜と対峙している。孫堅が劉表との戦いで戦死すると、 孫策を守り戦い、黄祖を生け捕って孫堅の遺体との交換材料にする。孫策が挙兵すると程普らと共に合流し、再びその配下となる。 赤壁の戦いにおいて張昭ら降伏派の文官が、諸葛亮をやり込めようとしている場に現れ、文官らを一喝し、諸葛亮を孫権の元に招いている。 後に周瑜が孫権の下に駆けつけると、程普らと共に主戦論を唱える。
開戦後、曹操の大軍を前に衆寡敵せずと見た黄蓋は、周瑜に火攻めを提案し、その実現のための奇策を実行する。まず、 偽りの投降を曹操に信用させるため、降将である蔡和・蔡仲を含む諸将の前で周瑜との不和を演じ、また周瑜から棒叩きの刑を受けている。 次に、黄蓋の計画を見抜きこれに同心することを申し出た?沢を使者とし、曹操に対し偽りの書簡を送り、先鋒となる自分が時期を計って 裏切る旨を伝えさせている。その際に孫軍に潜んでいた間者が、曹操にこれを報告したため、曹操は黄蓋の投降が偽りではなく、 周瑜に対する不満によるものと信じることになる。自らを傷つけることで敵を偽って信用させ、起死回生の策を行なったこの 黄蓋の行為が、苦肉の策の語源となった。
黄蓋は?沢や甘寧と共に準備を整え、合戦が始まると投降を装って曹操軍に近づき、自軍の軍船に積んだ薪や油に火を放って、 曹操軍の船団に突入させている。?統の連環の計によって船同士を鎖で繋いでいた曹操軍は、忽ち炎に包まれ大打撃を被ることとなるのである。 その際、逃亡する曹操を見つけ追撃するものの、曹操軍の張遼から矢を受け負傷し、撤退している。最後は落水し韓当に救われている。



孔子(こうし)
(紀元前552年10月9日‐紀元前479年3月9日)春秋時代の中国の思想家、哲学者。儒家の始祖。 氏は孔、諱は丘、 字は仲尼(ちゅうじ)。孔子とは尊称である(子は先生という意味)。ヨーロッパではラテン語化された"Confucius" (孔夫子の音訳、夫子は先生への尊称)の名で知られている。
実力主義が横行し身分制秩序が解体されつつあった周末、魯国に生まれ、周初への復古を理想として身分制秩序の再編と 仁道政治を掲げた。孔子の弟子たちは孔子の思想を奉じて教団を作り、戦国時代、儒家となって諸子百家の一家をなした。 孔子と弟子たちの語録は『論語』にまとめられた。
3500人の弟子がおり、特に「身の六芸に通じる者」として七十子がいた。そのうち特に優れた高弟は孔門十哲と呼ばれ、 その才能ごとに四科に分けられている。すなわち、徳行に顔回・閔子騫・冉伯牛・仲弓、言語に宰我・子貢、政事に冉有・子路、 文学(学問のこと)に子游・子夏である。その他、孝の実践で知られ、『孝経』の作者とされる曾参(曾子)がおり、 その弟子には孔子の孫で『中庸』の作者とされる子思がいる。
孔子の死後、儒家は八派に分かれた。その中で孟軻(孟子)は性善説を唱え、孔子が最高の徳目とした仁に加え、 実践が可能とされる徳目義の思想を主張し、荀況(荀子)は性悪説を唱えて礼治主義を主張した。
『詩』『書』『礼』『楽』『易』『春秋』といった周の書物を六経として儒家の経典とし、その儒家的な解釈学の立場から 『礼記』や『易伝』『春秋左氏伝』『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』といった注釈書や論文集である伝が整理された(完成は漢代)。
孔子の死後、孟子・荀子といった後継者を出したが、戦国から漢初期にかけてはあまり勢力が振るわなかった。 しかし前漢・後漢を通じた中で徐々に勢力を伸ばしていき、国教化された。以後、時代により高下はあるものの儒教は 中国思想の根幹たる存在となった。
20世紀、1910年代の新文化運動では、民主主義と科学を普及させる観点から、孔子及び儒教への批判が雑誌『新青年』などで 展開され、1949年に成立した中華人民共和国では、1960年代後半から1970年代前半の文化大革命において、毛沢東とその部下達は 批林批孔運動という孔子と林彪を結びつけて批判する運動を展開。孔子は封建主義を広めた中国史の悪人とされ、 林彪はその教えを現代に復古させようと言う現代の悪人であるとされた。
近年、中国では、中国共産党が新儒教主義また儒教社会主義を提唱し(儒教参照)、また、「孔子」がブランド名として 活用されている(孔子鳥、孔子学院を参照。)。



高適(こうせき)
702頃~765 渤海(ぼっかい)(山東省)の人。滄州渤海(現河北省)の出身。李白と親交があり磊落な性質で家業を怠り、 落ちぶれて梁・宋(現河南省)で食客となっていたが、発憤して玄宗の時に有道科に挙げられ、封丘尉の役職を授けられた。 その後官職を捨てて河右に遊歴し、河西節度使哥舒翰に見いだされて幕僚となった。 また侍御史となり、蜀に乱を避けた玄宗に随行した。粛宗の命で、江西采訪使・皇甫?とともに皇弟である永王李?の軍を 討伐平定した。後に蜀が乱れるに及び蜀州・彭州の刺史となり、西川節度使となった。長安に帰って刑部侍郎・散騎常侍となり、 代宗の代に渤海侯に封ぜられ、その地で没した。



高祖 李淵(こうそ りえん)
唐の初代皇帝。隋末の混乱の中で太原で挙兵し、長安を落として根拠地とした。そこで隋の恭帝侑を傀儡として立て、 禅譲により唐を建国した。李淵は在位9年の間王世充などの群雄勢力と戦い、また律令を整備した。 626年に太宗(李世民)に譲位し、太宗が残存の群雄勢力を一掃して唐の天下統一を果たした。



高宗 李治(こうそう)
唐朝の第3代皇帝。太宗の第9子。母は長孫皇后。皇帝ではなく「天皇」の称号を使用したことでも知ら れている。
父太宗の晩年に、皇太子であった同母長子の李承乾と第4子の魏王李泰が内訌を理由に共に廃立された。 母方の伯父の長孫無忌の進言もあり、第9子の李治が代わって皇太子に立てられ、 太宗の死にともない皇帝に即位した。太宗に溺愛された異母兄の呉王李恪 (隋の煬帝の外孫でもあった)を擁立する動きが見られたため、長孫無忌は呉王に謀反の嫌疑を かけて自殺に追い込み、一族を処刑した。
663年、白村江の戦いで倭・百済遺民連合軍に勝利する。666年、泰山にて封禅を行う。668年、 新羅と共同(唐・新羅の同盟)して、隋以来敵対関係にあった高句麗を滅亡させる (唐の高句麗出兵)。こうして新羅を除く朝鮮半島を版図に収め、安東都護府を設置、 唐の最大版図を獲得したが、676年に新羅が朝鮮半島全土を統一(唐・新羅戦争)すると、 朝鮮半島経営を放棄した。
この時期になると、外戚の長孫氏が皇后である武氏の一派によって追放され、 代わって武后が政治の実権を掌握するようになっていた。このため高宗は武后廃立を計画したが、 失敗する。後に丹薬による中毒で眼病を患い、唐の実権は完全に武后により掌握された。 このような状況の中683年に崩御した。
病気がちであった高宗は、政治において主導権を発揮することはなく、最初は外戚の長孫氏、 後に皇后の武氏に実権を握られ続けた皇帝であった。


公孫 述(こうそん じゅつ)
扶風茂陵の人。新末後漢初に四川(巴蜀)に地方王朝「成」(成家とも)を建てた。
父の公孫仁は成帝の末に侍御史となり、その故を以て郎となる。父が河南都尉の時に、公孫述は天水郡清水県の長に任じられ、 若年を心配した公孫仁は自分の部下を使わすが、その部下は「公孫述は教えを待つ者には非ず」と一人戻る。 能有る為に太守は五県を兼務させるも政事は整い、盗賊は発せず、郡中鬼神有りと称される。王莽の天鳳年間に導江の卒正 (新制における蜀の太守)となり、能名を馳せた。
赤眉の乱の混乱の中、更始帝が立つと漢中から四川にかけて、宗成と王岑が漢軍の将を称して挙兵した。 当初、公孫述は成都に招くも、掠奪を行う賊兵と知ると、公孫述はこれを討たんものと県内の豪傑を募って、 自分は輔漢将軍・蜀郡太守兼益州牧の印綬を預けられたと称し、宗成らを討って、この地に割拠する。
更始2年(24年)秋、長安の更始帝(劉玄)は巴蜀の地を平定せんと李宝・張忠ら軍を派遣するも、 公孫述は弟公孫恢を遣って綿竹で撃退した。建武元年(25年)には蜀王を号し、国号を「成家(中国語版)」とした (王朝名は成都を首都としたことによる)。また年号を建てて龍興元年とした。それまでの五銖銭を廃止して鉄銭を発行したが、 不評であった。
公孫述は、漢中は南鄭、武都郡は下弁・河地を収めて、漢中郡・武都郡を支配下に置き、三輔は陳倉に進出する。 しかし劉秀が皇帝に即位し、更始帝に代わって漢王朝を継ぎ(後漢王朝)、光武帝の大司徒鄧禹が三輔に入り、その後、 光武帝の征西大将軍馮異が長安を含む三輔を定めることとなり、隴西の地で割拠していた隗囂は鄧禹から西州大将軍の号を受け、 その後も光武帝に従って、三輔にて公孫述の兵を討つ。
龍興6年(30年)、光武帝は隴西を通って公孫述を討たんとし、これを嫌った隗囂は遂に光武帝と兵を交えることになる。
龍興7年(31年)、光武帝とも和睦できず隗囂は公孫述に臣従する。龍興10年(34年)、光武帝の中郎将来歙は病死した隗囂の 後を継いだ隗純を捕え、隴西を降す。龍興11年(35年)、来歙は、蓋延・馬成・劉尚を率いて隴から武都郡に、 征南大将軍岑彭・大司馬呉漢・臧宮らが長江を遡って巴蜀(四川)へ侵入し、公孫述は来歙・岑彭を暗殺するも、 翌年遂に成都に攻め込まれ、公孫述はこの防衛戦で負傷し、その夜に死去して成都は開城した。公孫述の一族は共々誅殺された。



高力士(こう りきし)
光宅元年(684年) - 宝応元年(762年))中国唐代の宦官。唐の第6代皇帝玄宗の腹心として仕え、権勢を振るった。 潘州(広東省)の人。即位前の玄宗に仕え,韋后や太平公主らを排除して玄宗が即位するのに大功があり, 玄宗の寵を背景に権勢をほしいままにした。宇文融,李林甫,楊国忠,安禄山らはいずれも彼と結んで高位昇進を得た。 安史の乱の際,玄宗の蒙塵に従って成都に至ったが,後輩宦官の李輔国により失脚させられた。 のち許されて帰京の途次に没した。唐代の宦官による政権介入は高力士に始まる。


呉王夫差(ごおうふさ)
(? - 紀元前473年)は、中国春秋時代の呉の第7代、最後の王。姓は姫。春秋五覇の一人に数えられる。 先代の呉王闔閭の次男。越王勾践によって討たれた父・闔閭の仇を討つため、伍子胥の尽力を得て国力を充実させ、 一時は覇者となったが、勾践の反撃により敗北して自決した。
闔閭は勾践が范蠡の助言を容れて国力を伸張させていた時に越に攻め込んだが逆撃され、 闔閭は越の武将である霊姑孚が放った矢によって足の親指に傷を負い、それが原因で破傷風となって死んだ。 闔閭は死に際して夫差の兄弟である公子子山との後継者争いを避けるために急いで夫差を呼んで、 自分の後継者に任命し「勾践がお前の父を殺したことを忘れるな」と遺言した。 この言葉を忘れないように夫差は寝室に入る時は部下に闔閭の遺言を繰り返させ、 寝る時は薪の上に寝て復讐を忘れないようにした(『史記』呉太伯および越王句践世家の「臥薪嘗胆」)。


胡応麟(こおうりん)
(1551年 - 1602年)は明代中国の学者。字は元瑞または明瑞。少室山人、時羊生と号する。
南京の官であった胡僖の子として蘭渓(現在の浙江省金華市)に生まれる。幼少より詩を善く書き、万暦4年(1576年) に挙人となる。ただし万暦11年、14年、23年、27年の会試に及第せず、ついに官に登用されることなく、 山中に居住し読書にふけり、貧しいながらも書物を収集し4万冊に及ぶ。学問の範囲は経史子集にわたり、 儒家・仏教・道教に至るまでになった。編纂書・著作が非常に多い。



呉元済(ごげんさい)
814年に李光顔と李愬は節度使の呉元済を討伐するよう命じられた。
李愬は命令を受けたあと、偵察を行いながら、「自分は弱卒であり呉元済を討つことが目的でなく治安回復のみが任務」 と宣伝して回った。呉元済は彼を監視していたが、結局李愬を攻撃軍でないと判断してその活動を見逃すようになった。 李愬は、数年かけて工作を行い、呉元済の部下の丁士良、呉秀琳、李忠義などを徐々に離反させた。 817年、李光顔が大軍で呉元済軍を攻撃。呉元済の蔡州城からは主力が進発したため手薄となった。 そこで風雪の日、李愬は蔡州城を夜襲して呉元済を捕縛、長安に連行して処刑した。
順手牽羊(じゅんしゅけんよう)は、兵法三十六計の第十二計にあたる戦術。読み下し「手に順(したが)いて羊を牽(ひ)く」 である。の一例。


呉起(ごき)
(紀元前440年 - 紀元前381年)は、中国戦国時代の軍人、政治家、軍事思想家。孫武、孫?と並んで兵家の代表的人物とされ、 兵法の事を別名「孫呉の術」とも呼ぶ。死後兵法書『呉子』の作者に擬せられた。子は呉期[1]。
衛の左氏(現在の山東省?沢市定陶県)の人[2]。立身出世を志して、曾子(曾参)に学んだが[3][4]、 母の葬儀に帰らなかったため不孝として破門される。母の葬儀に帰らなかったのは、かつて仕官のため各地を転々としたものの、 仕官先が見つからないまま家の財産を使い果たし、そのことを馬鹿にした人を故郷で殺害した後ろめたさのためであり、 呉起は素直に曾子のもとを去った[5]。
その後、魯の元公の嘉に仕えてその将軍となる。斉人を妻にしていたために将軍に任用する事を危ぶまれたが、 先んじて妻を殺すことでそれを晴らした。しかし、それが結局人格に対する不信感を産み、魯の大夫達により 「呉起は自分の妻を殺したばかりでなく、魯と兄弟国である衛を独断で侵略した怪しからん人物である」という讒言にあって、 彼は元公から懲戒免職されて失脚し、身の危険を感じて魏の文侯のもとに走る。
文侯は魏の歴代の君主の中でも一二を争うほどの名君で、積極的に人材を集め、魏の国力を上昇させていた。 文侯が呉起を任用するかどうかを家臣の李克に下問したところ、李克は「呉起は貪欲で好色ですが、 軍事にかけては名将司馬穰苴も敵いません」と答え、文侯は呉起を任用する事に決めた。
呉起は軍中にある時は兵士と同じ物を食べ、同じ所に寝て、兵士の中に傷が膿んだ者があると膿を自分の口で吸い出してやった。 ある時に呉起が兵士の膿を吸い出してやると、その母が嘆き悲しんだ。将軍様がじきじきにあんな事をやって下されているのに、 何故泣くのだと聞かれると「あの子の父親は将軍様に膿を吸っていただいて、感激して命もいらずと敵に突撃し戦死しました。 あの子もきっとそうなるだろうと嘆いていたのです」と答えたと言う。 この逸話(「吮疽の仁」と呼ばれている)の示すように兵士達は呉起の行動に感激し、呉起に信服して命も惜しまなかったため、 この軍は圧倒的な強さを見せた。
呉起は軍を率い、秦を討ち、5つの城を奪った。この功績により西河の太守に任じられ、秦・韓を牽制した。 文侯が死に、子の武侯が即位すると田文[6]と宰相の座を争うが、これに敗れる。これを不服として、本人に抗議し、 軍略・政治力・諸侯への威信、それぞれどちらが優れているかを問い質した。すると、 田文は三つとも呉起の方が優れていると述べた上で、「だが、今の主君は幼くして民からの信望も薄い。 このような状況においては、私と貴殿とどちらが大役を任されるだろうか?」と尋ね返した。 ここにおいて呉起は己が田文に及ばないことを認めた。
その後田文が亡くなり、文侯の女婿でもある公叔某が後任の宰相となった。しかし公叔は呉起を嫌ったために、 妻の弟である武侯に呉起のことを讒言した。そのために武侯は呉起を疎み始め、両者の間は上手くいかなくなった。 さらに公叔は呉起を陥れる策略を画策し、呉起に反乱の罪を着せようとしたので呉起は楚に逃亡した。
楚では時の君主悼王に寵愛され、令尹(宰相)に抜擢され法家的な思想を元とした国政改革に乗り出す。 元々楚は宗族の数が他の国と比べてもかなり多かったため、王権はあまり強くなかった。これに呉起は、 法遵守の徹底・不要な官職の廃止などを行い、これにより浮いた国費で兵を養い、富国強兵・王権強化に成功した。 この事から呉起は法家の元祖と見なされる事もある(ただし管仲や伝説の太公望も、その政治手法は法家的とされ、 時代的には古い)。しかしその裏では権限を削られた貴族達の強い恨みが呉起に向けられ、呉起もそれを察知していた。 呉起が無事なのは悼王の寵愛があればこそだが、悼王は既に高齢であった。
紀元前381年、悼王が老齢で死去すると、反呉起派は呉起を殺すために宮中に踏み込んだ。逃れられない事を悟ると 呉起は悼王の死体に覆いかぶさり、遺体もろとも射抜かれて絶命した。政権空白期の事故である。 だが父の跡を継いだ粛王は、反呉起派の放った矢が亡父の悼王にも刺さった事を見逃さず、 巧みに「王の遺体に触れた者は死罪」という楚の法律(かつて伍子胥が王の死体に鞭打ったために、このような法律があった) を持ち出し、改革反対派である悼王の遺体を射抜いた者達を大逆の罪で一族全員処刑してしまった。 死の間際において呉起は、自分を殺す者達への復讐を目論み、かつ改革反対派の粛清を企てたのである。 しかしこの機転にもかかわらず、呉起の死により改革は不徹底に終わった。


顧 況(こ きょう)
(725年 - 814年?)は、中国・唐の詩人。蘇州(江蘇省)の出身。字は逋翁(ほおう)。号を華陽山人、また悲翁という。
粛宗の至徳2戴(757年)の進士。徳宗のときに秘書郎となり、権官の李泌に師事していたが、李泌が宰相となったとき、 自分も昇進すると期待したが、かなり遅れて著作郎に転任したにとどまった。
李泌の死後、弔いもせずに嘲笑的な詩を作ったため、饒州(江西省波陽?陽)司戸参軍に左遷され、 やがて家族を引き連れて茅山(江蘇省句容県の東南)に籠もり、最後は消息不明となったので、仙人の術を得たと伝わる。
今日では『華陽真逸詩』二巻などが残っている。
宋代の呉曾(ごそう)が書いた『能改斉漫録』という書によると、徳宗の貞元三年(787)に十六歳の白居易が初めて長安に赴き、 顧況に面会しました。そのときすでに六十歳を越えていた顧況は、若い白居易の名刺をみて 「長安 米貴(たか)し、居(きょ) 大いに易(やす)からず」と言ったそうです。 だが、白居易が差し出した作品に目を通すや、その詩句に感心し、 「箇(こ)の語を道(い)い得れば、居 亦た何ぞ難(かた)からんや、前言は之れに戯(たわむ)れしのみ」と言って称賛したといいます。



児島高徳(こじまたかのり)
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍したとされる、備前国児島郡林村出身[2]の武将。通称は、三郎、備後三郎で、 備後守とも呼ばれることがあるが正式な官位ではなく単なる通称である。『太平記』中では和田、今木といった苗字で表記される 場合もあり、「児島」を「小島」と書き換える表記も散見される。
元弘元年(1331年)の元弘の乱以降、後醍醐天皇に対して忠勤を励み、南北朝分裂後も一貫して南朝側に仕えた。晩年は出家し、 志純義晴と号したという。正式な法名は志純義晴大徳位。
江戸時代以降、南朝の忠臣として讃えられ、特に皇国史観の下での学校教育において忠臣・児島高徳は絶好の教材となり、 その結果、国民的英雄のひとりとなった。その一方で具体的な活動を示す文献が軍記物語の『太平記』以外にはないために、 近代的考証史学の観点から実在性を否定している学説も根強い。また、同書の編者である小島法師と同一人物とする説や、 高徳を地元の山伏勢力出身と見る説もある。(ウィキペディア)



五老(ごろう)
五老是神話傳説中的五星之精。《竹書紀年》卷上:“率 舜 等升 首山 ,遵河渚, 有五老游焉,蓋五星之精也。”五老君是早期道教尊奉的五位天神






崔群(さいぐん)
(772年-832年),字敦詩。唐貝州武城(今山東武城西北)人。
崔?之子。生於唐代宗大暦七年(772年)[1],貞元八年進士,年僅十九歳,與韓愈為友,貞元十年中賢良方正科。 初為秘書省校書郎。貞元十二年為宣歙觀察使從事。元和元年累遷右補闕。元和二年,召為翰林學士,?官中書舍人。 元和十二年七月,拜中書侍郎、同中書門下平章事。長慶二年,授秘書監。太和五年,拜検校左仆射,兼吏部尚書。 太和六年(832年)八月卒,贈司空。

崔 顥(さい こう)
(704 - 754年)中国盛唐の詩人。汴洲、現・河南省開封市の人。 若い頃は素行が悪く、博打や酒に溺れ、美人を選んでは妻とするが飽きるとすぐ離縁し、4、5回も妻を変えたという。 江南の各地を旅した後、723年(開元11年)に進士に及第。若い頃は軽薄で浮艶な詩を詠んだが、開元年間の後期、 太原(現山西省太原市)の河東節度使の幕僚となる。この時の辺境での経験から、気骨に富む作風へ変わった。 天宝年間の始めごろ、太僕寺の丞となり、尚書省吏部司勲員外郎(従六品上)に至り、754年(天宝13載)に死去。


崔興宗(さい こうそう)
唐人。排行第九。王維内弟(母方のいとこ)。玄宗天寶十一載任右補闕。有別業在藍田,距 川甚近, 與王維、裴迪等時相往還酬唱。 唐詩大辭典修訂本. 生卒年不詳。排行九,王維?弟。 天寶十一載(752)任右補闕,時王維任吏部郎中,同詠《敕賜百官櫻桃》。生平見《唐詩紀事》卷一六、 《唐才子傳》卷二。 《新唐書・宰相世系表二下》載崔恭禮之子興宗,非同一人(據趙殿成考)。 興宗有別業在藍田,距?川甚近,時與王維、裴迪往還唱酬。《全唐詩》存詩5首。 唐???. 崔?宗,

崔国輔(さい こくほ)
唐代の詩人。山陰(浙江省)の出身。 一説に、呉群(江蘇省蘇州市)の出身。
開元14年(726年)の進士。集賢院直学士・礼部郎中などを歴任したらしいが、 天宝年間に御史大夫の王鉷が死罪となったとき、その近親だった為に竟陵(湖北省天門) または晋陵(江蘇省常州市)の司馬に流されたという。

崔 氏(さいし)
杜甫の父は杜閑、母は崔氏。崔氏は李王朝の系譜で太宗の孫と言う。



崔宗之(さいそうし)
崔宗之: 崔日用の子。侍御史、斉国公となった。美少年が杯を手に青空に白目をむけば 、 その輝かしさは美しい木が風に揺られるかのようと歌う。



戴復古(さいふくこ)
南宋1167年~(没年不詳)の詩詞人。字は式之。号は、故郷の南塘の石屏山に隠棲したことに因み、 石屏と称する。天台黄岩(現・浙江省)の出身。江湖派の詩人として有名。
江湖派とは、南宋中期、後期の詩歌流派の一で、進士試験の落第生や野にある知識人で、 「江湖を流離った人々」の意の流派。時の中央の詩壇に対して、下層社会(江湖)の中に出来あがった 下層知識人の詩壇。その名の由来は、陳起が江湖(世間)の作品を集めて『江湖集』をはじめとして、 『江湖×集』『江湖○集』という風に、出版を続けたことによる。 この流派の詩人は、劉過、姜、劉克荘などである。作風は、その社会的立場を反映して、 中央政権や社会の中の矛盾には批判的な面を持ったものを、社会の第一線から身を引いて、 斜に構えた態度であるものが多い。



左 思(さ し)(さいふくこ)
(生没年不明、一説に252年 - 307年頃)中国西晋の文学者。字は太沖。斉国臨?(現山東省?博市) の人。門閥の後ろ盾のない寒門の出身であり、官途は不遇だったが、文才に優れ、代表作「三都賦」 は「洛陽の紙価を高からしむ」の故事の由来となった。妹の左?も詩文の才能があり、 司馬炎の妃となった。
左思は寒門の出身の上、容貌は醜くどもりであったが、学問に励み文章に巧みであったという。
妹の左?が西晋の武帝司馬炎の後宮に入ったので、首都の洛陽に家を移した。魏呉蜀三国の首都を 題材にした「三都賦」の執筆を思い立ち、10年の歳月をかけてこれを完成させた。 完成当初は世人の批判を浴びたが、当時の文壇の大御所である張華にこれを見せると、 張華は班固の「両都賦」や張衡の「二京賦」に匹敵する傑作だと激賞し、 無名の左思に名士の手を借りることを勧めた。左思が名士の皇甫謐に序文を書いてもらうと、 「三都賦」の名声は大いに高まり、以前批判した者たちも手のひらを返して褒め称えたという[2]。 人々が争って「三都賦」を筆写したため、洛陽城内の紙の値段が高騰したという逸話は、 後に「洛陽の紙価を高からしむ」の故事となった。左思と同時代の文学者である陸機も、 同じく「三都賦」の制作を構想していた。陸機は洛陽に上京すると左思の噂を聞いたが、 弟の陸雲に手紙で「田舎者の『三都賦』が出来上がったら、酒瓶の覆いにするのがよかろう」 といって、まるで相手にしていなかった。しかし完成した左思の賦を見るや、その出来映えに脱帽し、 自身の制作を断念したという。
後に権臣の賈謐の招きに応じ『漢書』を講じた。300年、八王の乱で賈謐が趙王司馬倫に誅殺されると、 官職を辞して隠棲し、典籍に没頭した。
303年、河間王司馬?の将軍張方が洛陽で暴虐の限りを尽くすと、左思は家をあげて冀州に避難 し、数年後に病没した。
『隋書』経籍志によると、文集2巻(梁代には5巻、目録1巻)が存在していたとあるが散逸した。 現存する文学作品としては、上述の「三都賦」のほか、寒門出身として当時の貴族社会への 批判を込めた「詠史詩」や「招隠詩」、自分の娘の様子を描いたユニークな内容の「嬌女詩」が 代表作とされる。鍾嶸の『詩品』では最上位の上品に列せられ、劉楨の力強い詩風を受け継ぎ、 諷諭の精神を体得すると評されている。




子夏(しか)
(紀元前507年? - 紀元前420年?)は、孔子の門人、学問を好み孔門十哲の一人とされる。 姓は卜(ぼく)、名は商。子夏は字。衛(河南省)の人、一説に晋の温国(河南省焦作市)出身。
「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」で「不及」と評価された人物である(『論語』先進篇)
魏の文侯に招かれ、その師となった。李克・呉起・西門豹はその学生である。
『礼記』によると、自分の子供が死亡した際にあまりの悲しみに失明した。それを聞き、 同門である曾子が子夏を訪ね、子夏が「なぜ、自分だけこのような不幸に会わなければならないのか」 と嘆くと、「ずっと妻子を放っておいて何事か」と諭した。それに対し「我、過てり(われ、 あやまてり)」と嘆いた。
子游とともに文学(学問のこと)に優れていたとされ、今文経学では六経伝承の淵源を子夏に 求めている。彼の学風からは後の荀子へと受け継がれる。




子虚(しきょ)
漢書の司馬相如傳の「子虚賦」に現われる架空の人物。
子虚賦
楚使子虚使於齊,齊王悉發境内之士,備車騎之衆,與使者出畋。畋罷,子?過詫烏有先生,而亡是公 存焉。坐定,烏有先生問曰:「今日畋樂乎?」子虚曰:「樂。」「獲多乎?」曰:「少。」 「然則何樂?」對曰:「僕樂齊王之欲夸僕以車騎之衆,而僕對以雲夢之事也。」曰:「可得聞乎?」
子虚曰:「可。王車駕千乘,選徒萬騎,畋於海濱,列卒滿澤,罘網彌山。掩兔?鹿,射麋?麟, ?於鹽浦,割鮮染輪。射中獲多,矜而自功,顧謂僕曰:『楚亦有平原廣澤遊獵之地饒樂若此者乎? 楚王之獵孰與寡人乎?』僕下車對曰:『臣,楚國之鄙人也,幸得宿衛十有餘年,時從出遊,遊於後園, 覽於有無,然猶未能?覩也,又焉足以言其外澤者乎?』齊王曰:『雖然,略以子之所聞見而言之。』
「僕對曰:『唯唯。臣聞楚有七澤,嘗見其一,未覩其餘也。臣之所見,蓋特其小小者耳,名曰雲夢。 雲夢者,方九百里,其中有山焉。其山則盤紆?鬱,隆崇???;岑崟參差,日月蔽虧;交錯糾紛, 上干青雲;罷池陂?,下屬江河。其土則丹青赭堊,雌?白坿,錫碧金銀,衆色炫耀,照爛龍鱗。 其石則赤玉?瑰,琳?昆吾,??玄厲,?石??。其東則有蕙圃?蘭,?若射干,???菖蒲,江離?蕪, 諸柘巴且。其南則有平原廣澤,登降?靡,案衍壇曼,?以大江,限以巫山。其高燥則生??苞?,薜莎青?。 其?濕則生藏莨蒹葭,東?彫胡,蓮藕觚蘆,菴?軒芋。衆物居之,不可勝圖。其西則有湧泉清池, 激水推移,外發芙蓉蔆華,?隱鉅石白沙。其中則有神龜蛟?,?瑁??。其北則有陰林巨樹,??豫樟, 桂椒木蘭,蘗離朱楊。???栗,橘柚芬芳。其上則有赤猿??,??孔鸞,騰遠射干。其下則有白虎玄豹, ?蜒??,?象野犀,窮奇??。
「『於是乎乃使專諸之倫,手格此獸。楚王乃駕馴駮之駟,乘彫玉之輿,靡魚須之橈旃,曳明月之珠旗, 建干將之雄戟,左烏號之彫弓,右夏服之勁箭;陽子驂乘,孅阿為御,案節未舒,即陵狡獸。蹴蛩蛩, ?距?,軼野馬,????,乘遺風,射游騏,??倩?,雷動?至,星流霆?。弓不?發,中必決眥,洞胸達掖, ?乎心?,獲若雨獸,?草蔽地。於是楚王乃弭節徘徊,?翔容與。覽乎陰林,觀壯士之暴怒, 與猛獸之恐懼,徼??受?,殫覩衆物之變態。
「『於是鄭女曼?,被阿?,揄紵縞,雜纖羅,垂霧?,襞積??,紆徐委曲,鬱橈谿谷;????,揚?戌削, 蜚?垂?;扶輿猗靡,翕呷萃蔡;下靡蘭蕙,上拂羽蓋;錯翡翠之威?,繆繞玉綏;眇眇忽忽, 若神仙之髣髴。
「『於是乃相與?於蕙圃,??勃?,上乎金?,?翡翠,射??,微?出,孅?施,弋白鵠,連?鵞,雙?下, 玄鶴加。怠而後發,游於清池,浮文鷁,揚旌枻,張翠帷,建羽蓋,罔?瑁,鉤紫貝;?金鼓,吹鳴籟, 榜人歌,聲流喝。水蟲駭。波鴻沸,涌泉起,奔揚會,磊石相?,????,若雷霆之聲,聞乎數百里之外。
「『將息?者,?靈鼓,起烽燧,車案行,騎就隊,?乎淫淫,般乎裔裔。於是楚王乃登雲陽之臺, 泊乎無為,憺乎自持,勺藥之和具而後御之,不若大王終日馳騁,曾不下輿,?割輪?,自以為?。 臣竊觀之,齊殆不如。』於是齊王無以應僕也。」
烏有先生曰:「是何言之過也!足下不遠千里,來?齊國,王悉發境?之士,備車騎之衆與使者出畋, 乃欲戮力致獲以?左右,何名為夸哉!問楚地之有無者,願聞大國之風烈,先生之餘論。 今足下不稱楚王之德厚,而盛推雲夢以為驕,奢言淫樂而顯侈靡,竊為足下不取也。必若所言, 固非楚國之美也。有而言之,是彰君惡;無而言之,是害足下之信。彰君之惡而傷私義,二者無一可, 而先生行之,必且輕於齊而累於楚矣。且齊東渚鉅海,南有琅邪,觀乎成山,射乎之罘,浮渤?, 遊孟諸,邪與肅慎為鄰,右以湯谷為界,秋田乎青丘,??乎海外,?若雲夢者八九,於其胸中曾不蔕芥。 若乃俶儻瑰?,異方殊類,珍怪鳥獸,萬端鱗?,充?其中者,不可勝記,禹不能名,?不能計。 然在諸侯之位,不敢言游戲之樂,苑囿之大;先生又見客,是以王辭而不復,何為無以應哉!」

【書き下し文】
 楚、子虚をして齊に使ひたらしむ。齊王悉く境内の士を發し、車騎の衆を備へて、 使者と出でて畋す。畋罷み、子虚過りて烏有先生に詫る。而も亡是公存せり。
 坐定まり、烏有先生問ひて曰はく、「今日の畋、樂しかりしや?」と。
 子虚曰はく、「樂しかりし。」と。「獲多かりしや?」と。曰はく、「少なかりし。」と。 「然らば則ち何ぞ樂しかりし?」と。對へて曰はく、「僕、齊王の僕に夸るに車騎の衆きを 以てせんと欲し、而るに僕の對ふるに雲夢の事を以てしつることを樂しむ。」と。 曰はく、「得て聞きつべきや?」と。
子虚曰はく、「可なり。王は車千乘を駕し、徒萬騎を選びて、海濱に畋す。列卒は澤に滿ち、 罘網は山に彌れり。
兔を掩ひ鹿を?り、麋を射、麟を?く。鹽浦に?せて、鮮を割きて輪に染る。射中てし獲多く、 矜りて自ら功とす。
顧みて僕に謂ひて曰はく、『楚にも亦た平原廣澤遊獵の地の、饒かに樂しきこと此くの若き者 有りや? 楚王の獵、寡人に孰與ぞ?』と。
僕車より下りて對へて曰はく、『臣は楚國の鄙人なり。幸ひにして宿衛を得たること十有餘年、 時に從ひて出遊し、後園に遊び、有無を覽たり。然れども猶ほ未だ?く覩る能はず。 又、焉くんぞ以て其の外澤を言ふに足らんや?』と。
齊王曰はく、『然りと雖も、略、子の聞き見たらん所を以て言へ。』と。
「僕對へて曰はく、『唯唯。臣聞く、楚に七澤有りと。嘗て其の一を見しも、未だ其の餘を覩ず。 臣の見たる所は、蓋し特り其の小小なる者ならんのみ。名を雲夢と曰ふ。
雲夢は、方九百里。其の中に山有り。其の山は則ち盤紆?鬱、隆崇??たり。岑崟參差として、 日月蔽はれ虧く。交錯糾紛して、上は青雲を干す。罷池陂?として、下、江河に屬す。
其の土は、則ち、丹・青・赭・堊・雌?・白坿・錫・碧・金・銀あり。
衆色炫耀として、照爛として龍の鱗のごとし。 其の石は、則ち、赤玉・?瑰・琳?・昆吾・??・玄厲・?石・??あり。 其の東には、則ち、蕙圃有りて、?・蘭・?・若・射干・?・?・菖蒲・江離・?蕪・諸柘・ 巴且あり。
其の南には、則ち、平原廣澤有りて、登り降り?靡として、案衍壇曼たり。縁らすに大江を以て し、限るに巫山を以てす。
其の高燥には、則ち、?・?・苞・?・薜・莎・青?を生ひたり。 其の?濕には、則ち、藏莨・蒹・葭・東?・彫胡・蓮・藕・觚蘆・菴?・軒芋を生ひたり。衆物、 之に居りて、勝げて圖くべからず。
其の西には、則ち、湧泉清池有りて、激水推し移る。外には芙蓉・蔆華を發し、?には鉅石・白沙 を隱せり。
其の中には、則ち、神龜・蛟・?・?瑁・?・?有り。
其の北には、則ち、陰林有り。其の樹は?・?・豫樟・桂・椒・木蘭・蘗・離・朱楊・?・?・ ?・栗、橘柚芬芳たり。 其の上には、則ち、赤猿・??・??・孔・鸞・騰遠・射干有り。
其の下には、則ち、白虎・玄豹・?蜒・?・?・?象・野犀・窮奇・??有り。
 是に於いてか、乃ち專諸の倫をして、手づから此の獸を格たしむ。
楚王は乃ち馴駮の駟に駕し、彫玉の輿に乘り、魚須の橈旃を靡かせ、明月の珠旗を曳き、干將の 雄戟を建て、烏號の彫弓を左にし、夏服の勁箭を右にせり。
陽子の驂乘して、孅阿が御と為る。
節を案ずること未だ舒びざるに、即ち狡獸を陵ぐ。蛩蛩を蹴み、距?を?み、野馬を軼り、 ??を??り、遺風に乘り、游騏を射る。
??倩?として、雷に動き?に至り、星に流れ霆に?つ。
弓?しく發たれず、中れば必ず眥を決し、胸を洞し掖を達して、心の?を?つ。
獲は獸を雨らすが若く、草を?ひて地を蔽す。
是に於いて、楚王乃ち節を弭して徘徊し、?翔容與として、陰林を覽て、壯士の暴怒すると猛獸の 恐懼するとを觀る。憊れたるを徼り?けたるを受け、殫く衆物の變態を覩る。
 是に於いて、鄭女曼?、阿?を被て、紵縞を揄き、纖羅を雜え、霧?を垂れたり。
襞積??として、紆徐委曲として、鬱橈たる谿谷たり。????として、揚?戌削たり。 ?を蜚ばし?を垂れて、扶輿猗靡として、翕呷萃蔡たり。 下、蘭蕙を靡き、上、羽蓋を拂ふ。翡翠の威?たるを錯え、玉綏に繆繞す。 眇眇忽忽たること、神仙の髣髴たるが若し。
是に於いて、乃ち相與に蕙圃に?す。??勃?として、金?に上る。 翡翠を?ひ、??を射る。微?出でて、孅?施さる。 白鵠を弋み、?鵞を連ね、雙?下り、玄鶴を加ふ。
怠みて後に發し、清池に游ぶ。文鷁を浮かべ、旌枻を揚ぐ。翠帷を張り、羽蓋を建つ。 ?瑁を罔もてとり、紫貝を鉤る。金鼓を?ちて、鳴籟を吹く。榜人の歌ひ、聲流は喝たり。 水蟲の駭き、波鴻は沸き、涌泉の起き、奔揚は會す。 磊石相?ち、????として、雷霆の聲の、數百里の外に聞ゆるが若し。
將に?者を息えんとし、靈鼓を?ち、烽燧を起こす。車は行を案じ、騎は隊に就く。 ?乎として淫淫たり、般乎として裔裔たり。
 是に於いて、楚王は乃ち雲陽の臺に登り、泊乎として為すこと無く、憺乎として自ら持す。 勺藥の和具はりて、而る後、之を御す。
大王の終日馳騁して、曾て輿より下りず、?割輪?して、自ら以て?しみと為すが若くならず。 臣竊かに之を觀るに、齊は殆んど如かず。』と。 是に於いて、齊王以て僕に應ふること無し。



司空 曙(しくうしょ)
唐の詩人。広平(河北省永年)の出身。字は文名または文初。
代宗の大暦年間の初め頃(770年頃)、左拾遺となり、徳宗の貞元初年(785年頃)、剣南西川節度使(成都)の幕僚になった。 潔癖な性格で権臣に媚びず、長沙(湖南省)のあたりに流寓していたこともある。大暦十才子の一人。
現在『司空文名詩集』三巻が残っている。



始皇帝(しこうてい)
(紀元前259年 - 紀元前210年)は、中国戦国時代の秦王(在位紀元前246年 - 紀元前221年)。姓は?(えい)、諱は政(せい)。 現代中国語では、始皇帝(Sh? Huangdi)、または秦始皇(Qin Sh? Huang, チンシュフアン)と称する。 紀元前221年に史上初の中国統一を成し遂げると最初の皇帝となり、紀元前210年に49歳で死去するまで君臨した。
中国統一を成し遂げた後に「始皇帝」と名乗った。歴史上の重要な人物であり、約2000年に及ぶ中国皇帝の先駆者である。 統一後始皇帝は、重臣の李斯とともに主要経済活動や政治改革を実行した。従来の配下の一族等に領地を与えて世襲されていく 封建制から、中央が選任・派遣する官僚が治める郡県制への全国的な転換(中央集権)を行い、 国家単位での貨幣や計量単位の統一、交通規則の制定などを行った。巨大プロジェクトも実行し、万里の長城の建設や、 等身大の兵馬俑で知られる秦始皇帝陵の建設などを、多くの人民に犠牲を払わせつつ行った。 また、法による統治を敷き、焚書坑儒を実行したことでも知られる。



史 思明(し しめい)
唐代の軍人、燕の第3代皇帝。 突厥出身で、安禄山と同郷だったため親しい仲にあった。また、自身も6か国語に通じた教養に通じる人物であったため、 次第に頭角を現していく。幽州節度使の部下であったときに戦功を挙げ、天宝11載(752年)には安禄山の配下となった。
至徳元載(756年)に安禄山が反乱を起こすと、河北で軍を率いて戦い、李光弼や顔真卿率いる唐軍と戦った。 しかし、聖武2年(757年)に安禄山が息子の安慶緒に殺されると安禄山の跡を継いで燕王を称し、 天成3年(759年)には安慶緒を殺害し、さらには長安に迫る勢いを見せたが、順天3年(761年)、 養子を後継ぎにしようとしたために長男の史朝義によって殺された。



司馬懿(しばい)
(179年 - 251年)は、中国後漢末期から三国時代魏にかけての武将・政治家。魏において功績を立て続けて大権を握り、 西晋の礎を築いた人物。字は仲達(ちゅうたつ)。西晋が建てられると、廟号を高祖、諡号を宣帝と追号された。 『三国志』では司馬宣王と表記されている。青龍2年(234年)、諸葛亮が5度目の北伐を敢行してきた(五丈原の戦い)。 この戦いで司馬懿は郭淮、辛?らと共に防衛に徹した。諸葛亮は屯田を行い、 持久戦の構えをとって五丈原で司馬懿と長期に渡って対陣するが病死し、蜀漢軍は撤退した。蜀漢軍が退却したのち、 司馬懿はその陣跡を見、「諸葛亮は天下の奇才だ」と漏らしたという。『漢晋春秋』によると、 司馬懿は撤退する蜀漢軍に追撃をかけようとしたが、蜀漢軍が魏軍に再度攻撃する様子を示したので司馬懿は退却した。 その事で人々は「死せる諸葛、生ける仲達を走らす(死諸葛走生仲達)」と言った (のちに習鑿歯が漢晋春秋にてこのことを「死せる孔明、生ける仲達を走らす」と称し、後年に残る故事成語となった)。 ある人がこの話を司馬懿に報告すると、司馬懿は「生者を相手にすることはできるが、死者を相手にするのは苦手だ」と言った。



司馬 懿(しば い)
(179年 - 251年9月7日)後漢末期から三国時代曹魏にかけての武将・政治家。魏において 功績を立て続けて大権を握り、西晋の礎を築いた人物。字は仲達(ちゅうたつ)。 西晋が建てられると、廟号を高祖、諡号を宣帝と追号された。『三国志』では司馬宣王と 表記されている。
河内郡温県孝敬里出身。司馬防の次子で、楚漢戦争期の十八王の一人である殷王司馬?の 12世孫にあたる。司馬氏は代々尚書などの高官を輩出した名門の家柄で、司馬懿自身幼い 頃から厳格な家風の下に育った。
兄に司馬朗(伯達)が、弟に司馬孚(叔達)、司馬馗(中国語版)(季達)、司馬恂 (中国語版)(顕達)、司馬進(恵達)、司馬通(雅達)、司馬敏(幼達)らがいる。 司馬家の8人の男子は字に全て「達」が付き、聡明な者ぞろいであることから「司馬八達」 と呼ばれた(ただ単に八人の達たちということでなく、「八人の達人」という意味合いに かけている)。妻に張春華、息子に司馬師、司馬昭らが居る。兄の司馬朗と同様に曹操に 出仕した。
司馬懿は若年の頃から聡明で、博覧強記・才気煥発で知られ、優秀な人物が揃っていた 司馬八達の中でも最も優れた人物といわれていた。『晋書』「宣帝紀」によると、 司馬懿は苛烈な性格であったが感情を隠すのがうまく、内心激しい怒りを抱いている 時も表面では穏やかに振る舞ったという。
建安6年(201年)、司馬懿は河内郡で上計掾に推挙された。司馬懿の才能を聞いた曹操に よって出仕を求められるが、司馬懿は漢朝の命運が衰微していることを知り、曹氏に仕える ことを望まず、病気を理由に辞退した。曹操は刺客を放って、「もし驚いて逃げるようで あれば殺せ」と命じたが、司馬懿は臥して動かなかったために難を逃れた。その後曹操が 丞相となり、懿を文学掾に辟して「捕らえてでも連れてくるように」と命令したため、 やむを得ず出仕した。『魏略』によると、曹洪に交際を求められた司馬懿は、訪ねて行くの を恥に思い、仮病を使い杖をついた。恨みに思った曹洪は曹操に告げ口した。 曹操に出仕を求められると、杖を投げ捨て応じたともいう。
出仕当初は文官として公子たちに仕えたが、徐々に軍略の献策などで認められるようになる。 建安20年(215年)に曹操が陽平関の戦いに勝利し漢中を制した際、その勢いで劉備が支配し て間もない巴蜀を平定するように進言したが、曹操は「隴を得て蜀を望む(望蜀)」ことは しない、と言って、この意見を退けたという。
建安22年(217年)、太子中庶子に任じられる。曹操は鋭敏に過ぎる司馬懿を警戒していたが、 曹丕は司馬懿と親しく、何かと彼を庇っていた。司馬懿の方も、軽挙な行いを慎んで曹丕に 仕えたため、絶大な信頼を得るにいたった。この頃、疫病で兄の司馬朗を失う。
建安24年(219年)、関羽が荊州から北上して樊城を陥れようとした。この時、首都の 許昌以南で関羽に呼応する者が相次ぎ、曹操すら狼狽し遷都の議も上がった。 司馬懿は蒋済と共にそれに反対した。孫権勢力を巻き込んで関羽を倒すことを献策し、 見事に成功を収めた。この年、厳格で知られる父の司馬防が死去した。
建安25年(220年)、曹操が死去、曹丕が魏王に即位し、献帝から皇位を禅譲され、 魏の皇帝になった。司馬懿は曹丕に重用され、録尚書事・撫軍大将軍・仮節まで昇進した。 司馬懿は陳羣、呉質・朱鑠と共に曹丕に寵愛され、彼等は曹丕の四友とされた。
黄初7年(226年)、曹丕が死去し、曹叡(明帝)が皇帝に即位した。曹丕が死ぬ際には曹真、 陳羣、曹休と共に曹叡の補佐を託された。曹叡は母后が誅殺されたことで長らく宮廷から 遠ざけられており、臣下たちとはほとんど面識がなかった。このため、即位した 曹叡は父の代からの重臣であった司馬懿や陳羣らを引き続き重用し、政事にあたらせた。 同年、襄陽に侵攻した諸葛瑾、張覇らを徐晃らとともに破り、張覇を斬った。 この功により驃騎将軍に昇進した。
太和2年(228年)、孟達が蜀漢の諸葛亮と内応して魏に叛いた。司馬懿が赴任していた 宛から孟達の任地である上庸までは、通常の行軍で1ヶ月はかかる道程であった。 司馬懿は丁寧な書簡を送って孟達を迷わせた上で、昼夜兼行の進軍を強行し、 わずか8日で上庸までたどり着いた。城を包囲された孟達は、同僚や部下に次々と 離反された。司馬懿はこれを破り、斬首した。この電光石火の対処に諸葛亮ら蜀漢の 中枢は動揺した。その後の街亭の戦いでは『演義』と違い、史実では司馬懿は指揮に 関与してはいない。
太和4年(230年)、大将軍に昇進した。
太和5年(231年)、蜀漢に対する戦線の総司令であった曹真が死んだ。司馬懿はその後任 として張?、郭淮らを従え、諸葛亮と対戦する。司馬懿は局地的に諸葛亮に敗れたが、 蜀漢軍は食糧不足により撤退した。この際、司馬懿は張?に諸葛亮を追撃させたが、 高所に伏兵を置いた蜀軍に弓矢を乱射され、張?は射殺された。『晋書』宣帝紀によれば、 司馬懿は諸葛亮を追撃して大いに破った。『三国志』には、司馬懿が諸葛亮を破ったと いう記述はない。
青龍2年(234年)、諸葛亮が5度目の北伐を敢行してきた(五丈原の戦い)。この戦いで 司馬懿は郭淮、辛?らと共に防衛に徹した。諸葛亮は屯田を行い、持久戦の構えをとって 五丈原で司馬懿と長期に亘って対陣するが病死し、蜀漢軍は撤退した。蜀漢軍が退却した のち、司馬懿はその陣跡を見、「諸葛亮は天下の奇才だ」と漏らしたという。
『漢晋春秋』によると、司馬懿は撤退する蜀漢軍に追撃をかけようとしたが、 蜀漢軍が魏軍に再度攻撃する様子を示したので司馬懿は退却した。その事で人々は 「死せる諸葛、生ける仲達を走らす(死諸葛走生仲達)」と言った(のちに習鑿歯が 漢晋春秋にてこのことを「死せる孔明、生ける仲達を走らす」と称し、後年に残る 故事成語となった)。ある人がこの話を司馬懿に報告すると、司馬懿は「生者を相手にする ことはできるが、死者を相手にするのは苦手だ」と言った。
青龍3年(235年)、蜀漢の馬岱が攻め込んで来たが、配下の牛金に命じて撃退させた。 また、武都の?王・苻双[1]と強端を降伏させた。

逸話[編集]
「狼顧の相」といい、首を180度後ろに捻転させることができたという。この噂を聞きつけた 曹操が、本当か試すためにいきなり司馬懿の後ろから名前を呼んだところ、 真後ろに振り向いたという。『晋書』宣帝本紀では、曹操がこの相を見て「この男性は 遠大な志を抱いている」と警戒し、曹丕に「彼は心中に野望を秘めており、一介の家臣と して終わるつもりはなかろう」と語ったという。ただし、本来「狼顧」というのは 「狼が用心深く背後を振り返るように、警戒心が強く老獪なこと」を指す言葉である。
東晋の明帝は西晋の成立の過程を聞くと「ああ、どうして我が朝が長続きしようか」 と悲嘆したという。
のち、司馬氏の西晋を滅ぼした一人である後趙の石勒は、司馬懿が郭太后を利用したことを、 曹操が献帝を利用したことに引き比べて非難している。「大丈夫(立派な男性)たる者、 磊磊落落(「磊落」の強調)、日月が明るく輝くように物事を行うべきであって、 曹孟徳(曹操)や司馬仲達父子(司馬懿・司馬師・司馬昭)のように、孤児(献帝)や 寡婦(郭太后)を欺き、狐のように媚びて天下を取るような真似は絶対にできない」と、 発言している。
吉田松陰は、君道と臣道を厳別し、その著書講孟箚記(講孟余話)の中で君道の上の 教戒として「曹操・司馬懿、智術を揮ひて一時を籠絡すと云へども、天下後世誰か其の 心を信ずる者あらん。名づけて姦雄と称し、永く乱臣賊子の亀鑑とす。噫、畏るべきかな。 抑操・懿の如き臣あるは、皆人君の罪なり。最も人君の恥なり。況や君に告ぐるの体、 君をして戒懼の心を起さしむるを要とす。何ぞ必ずしも此の章を削り去ることを用いんや。」 と記し、乱臣賊子の見本として挙げ、曹操や司馬懿のような臣下があるということは、 君主自身の罪であり君主にとって最大の恥であるとしている。[4]
司馬懿の現存する詩は、『晋書』に収録された「讌飲詩」一首のみである。
天地開闢 日月重光遭遇際会 畢力遐方将掃逋穢 還過故郷粛清万里 総斉八荒告成帰老  待罪舞陽
中国で売られている三国演義トランプでは、諸葛亮と並んでジョーカーになっている。 小説『三国志演義』後半の主人公格である諸葛亮の最大のライバルとして、 魏国の武将の中では曹操に次いで民間的な知名度は高い。ちなみに、司馬懿はいわゆる 軍師の代名詞である諸葛亮とよく並べられるために、メディアなどで「軍師」と冠される ことが多いが、史実では参謀というより将軍としての活躍のほうが遥かに多い。 また、丞相や相国などといったいわゆる宰相的な官位には生涯一度も就いていない。




司馬炎(しば えん)
西晋の初代皇帝。諡号は武帝。
魏から禅譲を受けて晋を建て、さらに呉を滅ぼして、分裂状態が続いていた中国をおよそ 100年ぶりに統一した。しかし統一後は政治への興味を失い、後の八王の乱の遠因を作った。
魏の有力者であった司馬昭と王元姫(王粛の娘)との間に長男として生まれた[1]。 中撫軍などを歴任した。
若くして「寛恵にして仁厚、沈深にして度量あり」と評され、九品中正制度に基づく郷品を定める際、 その出身地の河内郡では比較の対象者がいないというほどの貴公子であった[1]。 そのため、祖父司馬懿や伯父司馬師の就いた官職を歴任した[1]。
咸熙元年(264年)に司馬昭が晋王になると、その後継者に指名された[1]。当初、 司馬昭は三男の司馬攸を後継者にと考えていた。これは司馬攸が司馬師の養子となっていたためで あり、司馬昭は兄の方の家が司馬氏の正統と考えたからである。しかし重臣の反対により、 咸熙2年(265年)5月には司馬炎が正式に晋王の世子とされている。
同年8月に司馬昭が没すると、晋王・相国の位を継いだ[1]。同年12月には、賈充・裴秀・ 王沈・羊?・荀勗・石苞・陳騫らと計って、元帝に禅譲を迫って皇帝の位を奪い、新王朝を 「晋」と名付け、元号を泰始と改めた[1]。
即位した翌年1月には、一族27人を郡王として各地に封じ、土地と兵力とを与えた[2]。 これは魏が皇族に力と土地をあまり多く与えず、皇族の力が弱かったことが滅亡の原因となったと 考えての対策であった[2]。泰始4年(268年)1月には泰始律令が完成している。
司馬炎の初期治世は重臣に多く学識と礼教を重んじる名望家を配したことと、西晋成立時に民心を 得るために庶民への民爵の賜与を行なっていることが挙げられている[1]。また後漢や魏の皇族の 任官禁止を解除し、曹植の子曹志や諸葛亮の子孫を任用するなど、後漢末期から魏にかけて 戦乱で苦しんだ民情や心情などを考慮して皇族間の友愛、礼教に基づく国家構築などを行な おうとしていた[2]。
咸寧5年(279年)11月から賈充・楊済をそれぞれ主将・副将として呉討伐の詔を発布し、 東西から20万の大軍が大挙して呉を攻めた[3]。翌咸寧6年(280年)2月には晋軍が江陵を陥落させ、 3月には石頭城が陥落して晋による統一を達成した[3](呉滅亡)。
統一後の司馬炎は朝政への興味を失った。また統一を達成したことにより平時体制に戻すとして、 軍隊の縮小も実施された[4]。司馬炎の業績として特筆すべきは太康元年(280年)から始まった 占田・課田法である[4]。
司馬炎は女色にふけったことでも知られる。統一以前の泰始9年(273年)7月には、 詔勅をもって女子の婚姻を暫時禁止し、自分の後宮に入れるための女子を5千人選んだ。 さらに呉を滅亡させた後の太康2年(281年)3月には、呉の皇帝であった孫皓の後宮の5千人を自らの 後宮に入れた。合計1万人もの宮女を収容した広大な後宮を、司馬炎は毎夜、羊に引かせた車に 乗って回った。この羊の車が止まったところの女性のもとで、一夜をともにするのである。 そこで、宮女たちは自分のところに皇帝を来させようと、自室の前に竹の葉を挿し、 塩を盛っておいた。羊が竹の葉を食べ、塩をなめるために止まるからである。 この塩を盛るという故事が、日本の料理店などで盛り塩をするようになった起源とも言われている。 なお、1万人の女性といっても、后などを世話する女官などの数も入っているため、 実際に司馬炎が1万人の女性を相手にしたというわけではない。
後漢末の混乱期から、匈奴・鮮卑といった異民族が中原の地に移住するようになり、 従来の漢人住民と問題を起こすようになっていた。侍御史の郭欽は、統一した機会にこれら 異民族を辺境に戻すべきだと上奏したが、司馬炎はこれに聞く耳を持たなかった[5]。
また、皇太子の司馬衷が暗愚であったため、衆望は司馬炎の12歳年下の同母弟で優秀だった 斉王司馬攸の後継を期待していた[6]。ところが統一を果たした司馬炎は司馬攸に対して 斉への赴任命令を出し、周囲の諫言を封殺した上に司馬攸を支持する派閥を徹底的に粛清した[6]。 司馬攸はこの命令に憂憤し、太康4年(283年)に死去した。この一連の迫害は、 司馬炎は太子の司馬衷が無能で惰弱な性格であり、統一の5年前に洛陽で疫病が流行した際に 司馬炎も重病に倒れたことが、司馬攸排除の動きにつながったとされる[6]。
太康5年(284年)以降は天災が相次ぎ、日食もしばしば起きて人心は荒廃した。 晩年には政治の実権は皇后楊?(最初の皇后であった司馬衷の生母楊艶の同族)の実父である 楊駿に掌握されて、かつての後漢のように外戚専権の様相が再現される予兆もできた[7]。
こうした中、太熙元年(290年)夏4月[8][9]、司馬炎は含章殿において56歳で崩御し、 その遺体は峻陽陵に葬られた。
司馬炎は父・司馬昭の敷いた路線にしたがって晋王朝を創始した。天下を取るまでは英君だったが、 天下を取った後は堕落していく。それが統一後の国家の基盤形成を怠ったことになり、 西晋が早く滅亡する要因ともなった。
反逆の罪を着せられた鄧艾の名誉を回復したり、降伏してきた呉帝孫皓の命を助けるなど温和な 対応をしている。司馬炎は皇帝でありながら売官によって個人的な賄賂を取り、 高官以下官吏に対する賄賂が蔓延し、汚職の風弊を酷いものにした。九品官人法批判で知られる 劉毅は、司馬炎を後漢の桓帝・霊帝と比較して、それ以下だと批判している。とは言え、 司馬炎を面と向かって批判した劉毅が特段の処分を受けていないなど、晩年を除けば言論に対して 温和な態度を取っていた。
また、司馬炎が皇族を各地の王に封じた上で軍権をも与えたことは、かえってこれら皇族間の 争いを誘発することとなり、八王の乱の遠因となった。異民族に対して効果的な対策をしなかった ことも(全く対策しなかったわけではなく、異民族統御官を新設、多数設置して 監護させている[10])、これら異民族が華北で争乱を起こす原因ともなった。 同時に賈妃の嘆願や、聡明との噂がある孫の司馬?に対する皇位継承の望みを託して、 その父である司馬衷を皇太子としたことも、八王の乱以降の混乱を引き起こした原因ともなった。 そして、後宮に大量に女性を集めるといった行動は結果的に民衆の生活を苦しめることにもなった。
司馬炎は一時的に中国を統一したが、その死後は八王の乱で疲弊、孫の愍帝の代で西晋は滅亡し、 司馬昭の弟司馬?の孫、司馬炎の従甥である司馬睿が江南に東晋を建てた。 本格的な統一王朝の出現は楊堅による隋の統一以降である。



司馬相如(しばしょうじょ)
(紀元前179年 - 紀元前117年)中国の前漢の頃の文章家である。蜀郡成都の人。字は長卿(ちょうけい)。 名は、もと犬子(けんし)と言った。
賦の名人として知られ、武帝に仕え、その才能を高く評価された。また妻である卓氏との恋愛も有名である。 司馬相如は、蜀郡の成都の裕福な家に生まれた。若い頃は、書物を読むことを好み、 剣術を習っていた。もともと名は犬子であったが、成長後、戦国時代の趙の将軍である藺相如に憧れて、 相如に改めた。
前漢の当時の官僚体制では、入貲という、飢饉などの際にある一定の穀物やそれに相当する金銭を 納めることで郎となることができた。そのため司馬相如もこの方法によって、郎となり景帝に仕えた。 後、武騎常侍となった。しかし、景帝が文学を好まなかったこともあり、 司馬相如はこの仕事に愛着を持っていなかった。
ある時、景帝の同母弟の梁の孝王は景帝のもとを訪ねてきた際に、自分のもとにいる 鄒陽・枚乗・荘忌(『漢書』では劉荘の諱を避けて厳忌)などの当時の一流の文人・ 学者を連れて来ていた。司馬相如は彼等と出会い、孝王の客になろうと思いたった。そして、 病を理由として官を辞して、景帝のもとを去り、梁へと向かった。司馬相如は梁で孝王の歓迎を受け、 孝王の援助を受けて、先に述べたような文人などと共に住むことが許された。 なお、梁にいた期間に司馬相如の代表作である「子虚の賦」が書かれた。
紀元前144年に孝王が死んだため、司馬相如は故郷の成都に帰った。しかし、実家はすでに貧しく なっており、普通に生活するだけでも困難であった。こういった状況に対して、 司馬相如の友人で臨?県(四川省??市)の県令を務めていた王吉は、臨?県に来るように言った。 友の勧めに従って、司馬相如は臨?県に赴いた。
そして、王吉は臨?県きっての大富豪である卓王孫の家での宴会に司馬相如を連れて行った。 宴もたけなわとなったころ、王吉は司馬相如に琴を披露するように頼んだ。 司馬相如は見事に琴を弾き、宴会に参加していた人たちを魅了した。ところで、 卓王孫には夫に先立たれたために実家に戻ってきた卓文君という娘がいた。 卓文君は司馬相如の奏でる琴の音に魅了され、司馬相如に惚れてしまった。すると、 卓文君のもとに司馬相如からのラブレターが届いた。
卓文君はこのラブレターに感激し、家をこっそり抜け出して、司馬相如と駆け落ちしてしまう。 卓王孫はこのことに激怒し、娘には一切財産を分けないと言った。そこで、 卓文君は自分の所有物を売り払い、臨?の街に酒場を開いた。そこで、卓文君は自らホステスとして 働き、司馬相如は上半身裸で召使いのようにして働いた。卓王孫は自分の娘がこのような仕事を していることを恥じ、親戚などからの勧めもあって、卓文君に召使いを100人、100万銭、 前回の結婚の際の嫁入り道具を与えた。これで、司馬相如は結婚を認められたことになる。 2人は成都に移り住み、土地を買い入れて、地主となった。
ところで、中央では景帝が死に、武帝が皇帝の位についていた。武帝は景帝と違って、 文学を大変好んでいた。あるとき、武帝は「子虚の賦」を読んで、大いに感動し、 「この賦の作者と同じ時代に生きられなかったのは残念だ」とまで言った。武帝は「子虚の賦」が、 ずっと昔の人によって書かれたと思っていたのだ。司馬相如と同郷である側近の楊得意という者が、 「子虚の賦」の作者が今生きている人間で、名を司馬相如というと武帝に教えた。
武帝は早速司馬相如を召した。そのとき、司馬相如は、「子虚の賦」が諸侯のことを書いた 内容であり、天子(皇帝)にたてまつるのにはふさわしくないと言った。 そして、司馬相如は天子にふさわしくなるように「子虚の賦」を改作して、 「天子游獵賦(『文選』では「子虚賦」と「上林賦」に分割。「子虚・上林賦」と称されることが多い。)」 として、武帝にたてまつった。武帝は大いに喜び、司馬相如を郞に復職させた。



シーボルト(Siebold しーぼると)
フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold, 1796年2月17日 - 1866年10月18日)は、ドイツの医師・博物学者。標準ドイツ語での発音は「ズィーボルト」だが、 日本では「シーボルト」で知られている。出島の三学者の一人。
幕末、長崎オランダ商館の医師シーボルトは、楠本瀧(おたきさん)と結婚し、娘イネが生まれました。 しかし、いわゆる「シーボルト事件」でシーボルトは国外追放になり、お瀧さんを想い、 アジサイにHydrangea Otaksaという学名をつけてヨーロッパに広めたといわれています。 日本のアジサイがヨーロッパで品種改良され日本に逆輸入されたので、西洋アジサイとも呼ばれています。 Hydrangeaはギリシャ語のhydro(水)+angeion(容器)の合成語です。水を好む性質を表しています。 梅雨の時期、雨に濡れて咲くアジサイの花、シーボルトとお瀧さんが並んで庭を楽しげに見つめている。 -そんな風景のぬくもりを感じさせませんか。-
 また、シーボルトとお瀧さんの娘のイネさんは3才の時別れた父を想い、19歳の時 、医学を志し日本で最初の産科女医さんになり、明治6年宮内省御用掛として、明治天皇若君の出産に立ち会っています。
 しかし、シーボルトの学名は、現在植物学上使われなくなり、Hydrangea macrophylla form. macrophyllaの学名が用いられて います。macrophyllaとは大きな葉という意味です。また、アジサイを「紫陽花」とも書きますが、紫陽花は、唐の詩人の 白楽天が別の植物に付けた名前を、平安時代の学者、源順(みなもとのしたごう)がアジサイにこの漢字をあてたため誤用が 広まったといわれています。中国では「八仙花」と呼んでいます。
私たちが花と呼んでいる色の付いた部分は「萼」で花びらではありません。花はその中の小さな点のような部分です。
*シーボルト
 江戸時代後期にオランダ東インド会社の日本商館付医員として来日したドイツ人医師。1823年に来日して出島の商館に勤務する 傍ら長崎の郊外の鳴滝に鳴滝塾を開設して、高野長英、伊藤玄ら多数の日本人を蘭学者に育てた。彼自身も、多数の資料を収集し 日本研究を進めた。
  *シーボルト事件
1828年、洋学者(蘭学者)に対する弾圧事件。シーボルトが、幕府天文方の高橋景保らから手に入れた日本略図や、 蝦夷地図、葵の紋服などをオランダに持ち出そうとしたことが発覚した。シーボルトは国外追放、再来日禁止の処分を受け、 高橋景保は死罪、そのほかにもオランダ通詞や洋学者など多数が処罰された。



謝安(しゃあん)
(320年 - 385年)東晋の政治家。字は安石。高家、陳郡謝家の出身。桓温の簒奪の阻止、?水の戦いの戦勝など、 東晋の危機を幾度となく救った。謝?の三男で謝奕、謝据の弟、謝万、謝石、謝鉄の兄。謝尚の従弟。子に謝?。
名族・陽夏謝氏に生まれ、大いに将来を期待されていたが、若い頃は出仕せずに王羲之と交流を深め、清談に耽った。 360年、40歳で初めて仕官し、桓温の司馬となった。やがて桓温から離れて中央に戻り侍中、吏部尚書に就任した。
当時の桓温の勢力は東晋を覆い、桓温は簒奪の野望を見せていて、簡文帝の死後に即位した孝武帝からの禅譲を企てた。 しかしこれに対して謝安は王坦之と共に強硬に反対し引き伸ばし工作を行った。結果、老齢の桓温は死亡、 東晋は命脈を保つことになる。桓温の死後の373年に尚書僕射となり、東晋の政権を握る。
383年、華北を統一した前秦の苻堅は中国の統一を目指して百万と号する大軍を南下させてきた。 謝安は朝廷より征討大都督に任ぜられ、弟の謝石・甥の謝玄らに軍を預けてこれを大破した(?水の戦い)。 戦いが行われていた頃、謝安は落ち着いている素振りを周囲に見せるために、客と囲碁を打っていた。 対局中に前線からの報告が来て、客がどうなったかを聞いたところ、「小僧たちが賊を破った」とだけ言って、 特に喜びをみせなかった。客が帰った後、それまでの平然とした振りを捨てて、喜んで小躍りした。 その時に下駄の歯をぶつけて折ってしまったが、それに気づかなかったという。
この功績により、陽夏謝氏は琅邪王氏と同格の最高の家格とされ、謝安は太保となった。更に謝安はこの勢いを駆って北伐を 計画していたが、皇族の権力者司馬道子に止められる。司馬道子の反対は謝安の功績が大きくなりすぎたことを警戒しての ことであり、謝安は中央を追い出されて広陵歩丘に鎮した。
385年、65歳で病死。死後、太傅の官と廬陵郡公の爵位が追贈された。子の謝?と孫の謝混も引き続き東晋に仕えた。



謝脁(しゃちょう)
(464年 - 499年)は、中国南北朝時代、南斉の詩人。字は玄暉(げんき)。本貫は陳郡陽夏県。 同族の謝霊運・謝恵連とともに、六朝時代の山水詩人として名高く、あわせて「三謝」と称される。 また謝霊運と併称して「二謝」と呼ぶこともあり、その場合は、謝霊運を「大謝」と呼ぶのに対し、 謝?を「小謝」と呼ぶ(ただし「小謝」の呼称は謝恵連を指すこともある)。 宣城郡太守に任じられ、この地で多くの山水詩を残したことから、「謝宣城」とも呼ばれる。 竟陵王・蕭子良の西邸に集った文人「竟陵八友」の一人であり、同じく八友の仲間である沈約・ 王融らとともに「永明体」と呼ばれる詩風を生み出した。
謝?は東晋・南朝を代表する名門貴族・謝氏の出身であるが、傍系の血筋であり、先祖はさして 政界でめざましい活躍をしていない。また彼の父である謝緯(謝述の子)は、謝?が生まれる前の 445年、兄たちが宋の文帝の弟、彭城王劉義康の謀反に荷担したことに連座するも、文帝の 第五女長城公主を妻としていたことでかろうじて死罪を免れ、広州へ流されたという経歴を 持つ人物であった。このように彼の出自は必ずしも官途に有利なものではなかった。
謝?は若い頃から学問を好み、詩文に巧みで名声が高かった。南斉の武帝の永明年間に出仕し、 皇族である豫章王蕭嶷・隨郡王蕭子隆・南斉の重臣王倹らの属官を歴任した。
493年、武帝が死去し、蕭鸞(後の明帝)が実権を握ると、その幕下に招かれ、驃騎諮議参軍・ 記室参軍となって文書の起草をつかさどり、さらには中書省の文書をも管轄することになった。 明帝が即位すると、謝?は明帝の封地であった宣城郡太守に赴任するなど、明帝に大いに信任された。
498年、謝?の妻の父である王敬則が反乱を起こした。王敬則は南斉の武将としてしばしば武勲を重ね、 高帝・武帝の二代にわたり重臣として非常に信頼されていた。しかし、傍系の明帝が即位すると、 先代の重臣だったことを逆に皇帝に警戒され、大司馬・会稽郡太守として朝廷の外に出されてしまった。 明帝は病気で重態に陥ると、王敬則に対する警戒をさらに強めた。これに身の危険を感じた 王敬則も反乱を決断し、娘婿の謝?に協力を呼びかけたのである。しかし謝?は王敬則からの 使者を捕らえ、逆に朝廷に王敬則の反乱を告発した。明帝は謝?を賞賛し、彼を尚書吏部郎に抜擢した。 岳父を告発したという行為は、謝?自身にもさすがに後ろめたいものであり、これによって世間の批判 を受けたため、尚書吏部郎を拝命したのは再三の固辞の末のことであった。また彼の妻はこのことを 恨み、懐に短剣を隠し持って謝?に報復しようとしたため、謝?は彼女に会うのを避けた。 王敬則の敗死に臨んで、謝?は「私は王公を殺したわけではないが、王公は私のせいで死んだのだ」 と嘆いたという。
明帝の跡を継いだ東昏侯は暗君で失政が続いたため、499年、重臣である江?・江祀兄弟は、 これを廃して始安王蕭遙光を擁立しようと謀り、謝?にもその謀議への参加を誘った。 しかし謝?は元々江?を軽んじていたことから参加を拒否し、彼らの計画を他人に漏らしてしまった。 このことを知った蕭遙光・江?らは計画が露見する前に先手を打ち、逆に謝?を捕らえ、 朝政誹謗の罪で告発した。詔勅が下り謝?は処刑された。享年36。
現存する詩は200首余り、その内容は代表作とされる山水詩のほか、花鳥風月や器物を詠じた詠物詩、 友人・同僚との唱和・離別の詩、楽府詩などが大半を占める。
山水詩の分野において、謝?は同族の謝霊運が開拓した山水描写を継承するとともに、それをより 一層精緻なものへと洗練させていった。さらに謝霊運の山水詩が、前代の「玄言詩」の影響を受け、 自然の中から哲理や人生の教訓を引き出そうとすることによって、しばしば晦渋さや生硬さを免れない のに対し、謝?の山水詩は、山水描写と自らの情感とを巧みに融合させた、より抒情性豊かなものと なっている。このような精巧で清澄な描写と抒情性に富んだ風格は、山水詩以外の分野でも発揮されて おり、謝?の詩の基調となっている。
謝?の詩は同時代から高く評価され、「二百年来 此の詩無し」(沈約)や「三日玄暉の詩を誦せざれば、 即ち口の臭きを覚ゆ」(梁の武帝)のように、竟陵八友の間でも特に愛好された。他に少し遅れて 「近世の謝?・沈約の詩、任昉・陸?の筆、斯れ実に文章の冠冕、述作の楷模なり」(梁の簡文帝)、 「詩多くして能なる者は沈約、少なくして能なる者は謝?・何遜」(梁の元帝)などの評価も 残されている。 後世においても、「謝?の詩、已に全篇唐人に似たる者有り」 (宋の厳羽『滄浪詩話』)や「世の玄暉の目して唐調の始と為すは、精工流麗の故を以てなり」 (明の胡応麟『詩藪』)のように、唐詩の先駆として高く評価されている。唐の詩人李白は謝?詩の 清澄さをことに愛好し、自らの詩の中でしばしば謝?の詩に対する敬愛を表明している。



謝霊運(しゃ れいうん )
(385~433) 中国南北朝時代、宋の詩人。晋しんの謝玄の孫。字あざなは宣明。山水を詠じた新詩風を興す。 叛意ありと訴えられて処刑された。著「謝康楽集」など。
中国東晋・南朝宋の詩人・文学者。本籍は陳郡陽夏。魏晋南北朝時代を代表する詩人で、山水を詠じた詩が名高く、 「山水詩」の祖とされる。
(385年(太元10年) - 433年(元嘉10年))は、中国東晋・南朝宋の詩人・文学者。字は宣明。 本籍は陳郡陽夏(現河南省太康県)。魏晋南北朝時代を代表する詩人で、山水を詠じた詩が名高く、 「山水詩」の祖とされる。
六朝時代を代表する門閥貴族である謝氏の出身で、祖父の謝玄は?水の戦いで前秦の苻堅の大軍を 撃破した東晋の名将である。父の謝?(謝慶)が早世したこともあって、祖父の爵位である康楽公を 継いだため、後世では謝康楽とも呼ばれる。族弟の謝恵連の「小謝」に対し、「大謝」と併称され、 後世では南斉の謝?とあわせて「三謝」とも呼ばれる。聡明で様々な才能に恵まれたが性格は傲慢で、 大貴族出身だったことも災いし、後に刑死した。
406年、20歳の時に起家した。420年、東晋に代わって宋が建てられると、爵位を公から侯に降格された。 少帝の時代に政争に巻き込まれ、永嘉郡(現浙江省温州市)の太守に左遷させられるも、 在職1年で辞職、郷里の会稽に帰って幽峻の山を跋渉し、悠々自適で豪勢な生活を送った。 この時に他の隠士とも交流し、多くの優れた詩作を残した。
424年、文帝が即位すると朝廷に呼び戻されて、秘書監に任ぜられ、『晋書』の編纂などに従事した。 その後、侍中に遷った。しかし、文帝が文学の士としてしか待遇しないことに不満を持ち、 病気と称して職を辞し、再び郷里に帰った。
再度の帰郷後も山水の中に豪遊し、太守と衝突して騒乱の罪を問われた。特赦により臨川郡内史に 任ぜられるが、その傲慢な所作を改めなかったことから広州に流刑された。 その後、武器や兵を募って流刑の道中で脱走を計画したという容疑をかけられ、 市において公開処刑の上、死体を晒された。享年48。
『文選』には、代表作である「登池上樓」「石壁精舎還湖中作」「於南山往北山経湖中瞻眺」などの 作品が、39首と2番目に多く採用されている(最多は陸機の52首)。
謝霊運は廬山の慧遠を尋ねた時、遠師に心服して留まった。この時から仏教に造詣を深くし、 慧厳・慧観と共に、法顕訳の『六巻涅槃経』と曇無讖訳の『北本涅槃経』を統合改訂し、 南本『大般涅槃経』を完成させ、竺道生によって提唱された頓悟成仏(速やかに仏と成る事ができる) 説を研究・検証した「弁宗論」などを著した。
また、彼は鳩摩羅什訳出の『金剛般若波羅蜜経』を注釈した『金剛般若経注』なども著している。 なお同名の注釈書としては僧肇が撰著した同名の『金剛般若経注』が最初とされる。 しかし僧肇撰の説には多くの疑問が提出されており、宋代の曇応の『金剛般若波羅蜜経采微』など には「謝霊運曰く」として多く引用され、僧肇の注釈書と類似点が多い。 このことから近代に至っては、僧肇撰とされる「金剛般若経注」が実は謝霊運の著作である 可能性が高いといわれている。彼の著作物に関してはいまだ充分に検証されたものではないため、 今後これらを総合的に検証し直す必要性が望まれている。
もっとも謝霊運は、仏教への造詣はあったものの、その深い奥義を身をもって体現することがなく、 往々にして不遜な態度があったと伝えられることから、仏教徒としての評価は決して 高いものではない。吉田兼好の『徒然草』第108段に「謝霊運は、法華の筆受なりしかども、 心常に風雲の思を観ぜしかば、恵遠、白蓮の交りを許さざりき」とあるように、慧遠の白蓮社に 入ることが許されなかったといわれる[1]。



周 瑜(しゅうゆ)
(175年 - 210年)は、中国後漢末期の武将。字は公瑾(こうきん)。渾名は美周郎。揚州廬江郡舒県(安徽省舒城県)の人。 高祖父は周栄。従祖父は周景。従父は周忠。父は周異。子は周循・周胤・孫登妻。妻は小喬。 建安13年(208年)9月、曹操が荊州に侵攻し劉琮を降伏させた。これを受けて孫権陣営では曹操に降伏するか抵抗するかで 論争が起きた。曹操は兵士数万を有しており、劉表の整備した荊州水軍も手中に治めていたため、 孫権陣営では降伏論者が多数を占めていた。周瑜はその時?陽への使者に出向き呉を留守にしていたが、 主戦論者の魯粛に呼ばれ急いで帰還した。周瑜は曹操を漢の賊と呼び、それへの抗戦を主張し、曹操軍が抱える数々の不利と、 自軍の利を孫権に説いた。これによって孫権は曹操に対抗することを決断した。 孫権は3万の精兵を周瑜や程普らに与え、曹操から逃れてきた劉備と協力して、赤壁の地で曹操軍を迎撃させた。 周瑜の予測通り、この時曹操軍は軍中に疫病を抱えており、一度の交戦で曹操軍は敗退して、長江北岸に引き揚げた。 次に周瑜らは南岸に布陣し、部将黄蓋の進言を採用して、曹操軍艦船の焼き討ちを計画した。 降伏を偽装して接近に成功した黄蓋が、曹操軍の船団に火を放つと忽ち燃え広がり、岸辺の陣営に延焼した。 被害が多数に及んだ曹操軍は、引き返して荊州の南郡に楯籠った(赤壁の戦い)。 周瑜が劉備と再度合流して追走すると、曹操は曹仁と徐晃を江陵の守備に、楽進を襄陽の守備に残し、 自らは北方へ撤退した(「呉主伝」)。



粛宗(しゅくそう)
唐朝の第10代皇帝。当初の諱は?であったが、後に嗣昇、浚、紹と次々と改名を繰り返し、即位時は亨であった。 生母の楊氏は楊貴妃とは別人である。
玄宗の三男として生まれる。長兄の李琮が早世し、皇太子である次兄の李瑛が737年(開元25年)に武恵妃らにより廃位されると、 その翌年皇太子に立てられた。744年(天宝3載)には「享」と諱を改めている。
755年(天宝14載)11月、安史の乱が勃発すると翌年長安に反乱軍が迫ったことを受け玄宗と共に長安を脱出した。 馬嵬(今の陝西省興平市)での兵士らによる反乱が発生、楊貴妃一族の粛清が行なわれると、玄宗は蜀へ避難し、 李享らは安禄山らに対抗すべく北伐を行った。討伐軍は奉天(陝西省乾県)を経て、朔方節度使の駐屯所である霊武 (寧夏回族自治区霊武市)に到着、7月に側近である宦官李輔国の建言を容れ自ら皇帝に即位、至徳と改元した。 これは玄宗の事前の了承を得た即位ではなかったが、玄宗は後にこの即位を認め、自らは上皇となった。
即位後は郭子儀の軍を中心にウイグルの援兵を加えて態勢を整えると、粛宗は鳳翔(陝西省鳳翔県)に親征し反撃に転じた。 757年(至徳2載)に、面倒を見た異母弟の永王李璘が江北地方で勝手に軍勢を動かす行為をしたので、 激怒した粛宗は父・玄宗のもとに参内することを命じたが、永王は兄の勅命に従わなかった。 ついに粛宗は江西采訪使・皇甫?と高適に命じて、討伐させた。粛宗は皇甫?に永王を捕虜とした際に自分のもとに護送することを 命じたが、皇甫?は独断で永王を斬ってしまった。
同年に安禄山が自らの息子安慶緒に殺されると、郭子儀や粛宗の長子の広平王李俶(後に豫と改名)と第3子の越王李係らの 活躍により長安や洛陽を奪還、粛宗は10月、玄宗は同12月にそれぞれ長安に帰還した。 しかし、安慶緒や史思明らの残存勢力はなおも存在しており、唐軍と安史軍の膠着状態が継続した。
758年(乾元元年)、粛宗は第五琦を塩鉄使とし塩の専売制を導入、財政の健全化を図りに国家体制の強化を計画したが、 朝政の実権は皇后張氏や李輔国を初めとする宦官達に掌握されており、自らの政治力を発揮することはできなかった。 その後李輔国は張皇后と主導権を巡る政争を引き起こし、両者に不都合な次子の建寧王・李?に謀反計画を名目に自殺に 追い込むなどの事件も発生し、このころから粛宗は病床に就くことが多くなった。
762年(宝応元年)4月、玄宗が崩御した13日後に、安史の乱を終結することなく粛宗も52歳で崩御した。 粛宗が宦官に擁立された事実は、以降唐朝皇帝の擁立に宦官が関与する慣例を生んだ皇帝であると言われている。






朱褒(しゅくそう)
後漢末期から三国時代にかけての人物。益州??郡(朱提郡)の人。
蜀漢を建国した劉備が没した後、南中地方(益州南部の4郡)において反乱を起こした人物の一人である。
??郡の郡丞だったが、先に反乱を起こしていた有力者の雍?に呼応し、223年夏に自ら太守と称して蜀に反旗を翻した[1]。 以前から越?郡において、蜀に反抗的な姿勢をとっていた高定も、同時期に再び反乱を起こした(「後主伝」)。
朱褒が反乱を起こした理由として、以下のような逸話がある。
諸葛亮は、益州従事の常房(常?)を派遣させた。常房は益州南部一帯での巡察中に、朱褒が異心を抱いていると考え、 その主簿を詰問し斬首した。このため朱褒はこれに怒り、常房を殺害した上で、常房が反乱を企んだため殺害したと誣告した。 この容易ならぬ事態を悟った諸葛亮は、朱褒を懐柔するために常房の息子たちを斬首し、その弟4人を越?郡へ流刑に処して 詫びたが、それでも朱褒の気持ちを変えることはできなかった(「後主伝」が引く『魏氏春秋』)。
ただし、裴松之は「常房(常?)が朱褒によって誣告されたのなら、(諸葛亮ら)為政者は当然この事態を予想する筈で、 なぜ無実な(常房の子の)処刑を命じ、邪悪な連中を喜ばせる必要性があるのか。 これは(後世の)作り話だと見てよいだろう」と否定的な見解を示している。
諸葛亮は、雍?たちを支援する呉に鄧芝を送り、外交関係を修復させた上で(「鄧芝伝」)、 225年春3月に自ら軍を率いて南中に遠征した(「後主伝」・「諸葛亮伝」)。
諸葛亮が李恢の軍と合流すると(「李恢伝」)、膨れ上がった蜀軍を前に雍?たちは動揺、まもなく彼らの間に確執が生じて 、高定の部下が雍?を殺害した(「呂凱伝」)。高定もまた諸葛亮らの軍に敗れ処刑された。ついには朱褒の軍勢も駆逐され、 同年秋に諸葛亮は南中4郡を平定し(「諸葛亮伝」・「後主伝」)、??太守には馬忠を任命した(「馬忠伝」)[2]。




舜(しゅん)
中国神話に登場する君主。五帝の一人。姓は姚(よう/とう。子孫は?水のほとりに住み?(ぎ)を姓とした)、 名は重華(ちょうか)、虞氏(ぐし)または有虞氏(ゆうぐし)と称した。儒家により神聖視され、 堯(ぎょう)と並んで堯舜と呼ばれて聖人と崇められた。また、二十四孝として数えられている。瞽叟の子。商均の父。
舜は??(せんぎょく)の7代子孫とされる。母を早くになくして、継母と連子と父親と暮らしていたが、 父親達は連子に後を継がせるために隙あらば舜を殺そうと狙っていた。舜はそんな父親に対しても孝を尽くしたので、 名声が高まり堯の元にもうわさが届いた。
堯は舜の人格を見極めるために、娘の娥皇と女英の2人を舜に降嫁させた。舜の影響によりこの娘達も非常に篤実となり、 また舜の周りには自然と人が集まり、舜が居る所には3年で都会になるほどだった。
そんな中で舜の家族達は相変わらず舜を殺そうとしており、舜に屋根の修理を言いつけた後に下で火をたいて舜を焼き殺そうとした。 舜は2つの傘を鳥の羽のようにして逃れた。それでも諦めずに井戸さらいを言いつけ、 その上から土を放り込んで生き埋めにしようとした。舜は横穴を掘って脱出した。 この様な事をされていながら舜は相変わらず父に対して孝を尽くしていた。
この事で舜が気に入った堯は舜を登用し、天下を摂政させた。そうすると朝廷から悪人を追い出して百官が良く治まった。 それから20年後、堯は舜に禅譲した。
帝位についた舜は洪水を治めるために禹を採用し、禹はこれに成功した。その後39年間、帝位にあって最後は禹に禅譲して死去した。 なお、舜の子孫は周代に虞に封ぜられている。
南風歌という歌を作ったと言われている。
陳の陳氏の祖とされ、陳からわかれた田斉の祖でもある。
ちなみに白川静は舜は元々帝?の事であって殷の始祖とされていたと言う説を挙げている。



順宗皇帝(じゅんそうこうてい)
唐朝の第13代皇帝。徳宗の長男。
779年に立太子され、805年に徳宗の崩御により即位した。王叔文を翰林学士に任じ、 韓秦、韓曄、柳宗元、劉禹錫、陳諌、凌准、程異、韋執宜ら(二王八司馬)を登用、徳宗以来続いていた官吏腐敗を一新し、 地方への財源建て直し、宦官からの兵権を取り返そうとするなどの永貞革新の政策を行なっている。
だが、即位して間もなく脳溢血に倒れ、言語障害の後遺症を残した。さらに8月には宦官の具文珍らが結託して皇帝に退位を迫り、 即位後7ヶ月で長男の李純に譲位し、自らは太上皇となった。
翌年、病気により46歳で崩御したが、宦官によって殺害されたとも伝えられている。
その在位中の記録として、韓愈の手になる『順宗実録』(『韓昌黎集』外集に所収)が現存する。




蕭 何(しょう か)
(? - 紀元前193年)、秦末から前漢初期にかけての政治家。劉邦の天下統一を支えた漢の三傑の一人。
劉邦と同じく沛県豊の出身で、若い頃から役人をしていた。下役人であったがその仕事ぶりは 真面目で能率がよく、評価されていたという。なお曹参や夏侯嬰はこの時の部下にあたる。
単父の豪族の呂公が敵討ちを避けて沛県に移ってきた。県令は歓迎する宴を開き、 接待のすべてを蕭何に任せた。参加した人があまりに多すぎたため、蕭何は持参が千銭以下の 者は地面に座って貰おうと考えていたところに劉邦が来て、「一万銭」と言った。 これを呂公に取り次ぐと、呂公は玄関まで出向いて迎え入れた。 蕭何は「劉邦は昔から大ぼら吹きだが、成し遂げたことは少ない(だからこのことも本気に されませんよう)」と言ったが、劉邦の人相を非常に評価した呂公は構わず歓待した。 このように、このころは劉邦をあまり高く評価していなかったが、後に劉邦は「豊を立つ時、 蕭何だけが多く銭を包んでくれたのだ」と語っており、目をかけてはいたようである。 実際、この後に劉邦はゴロツキにも関わらず亭長に就任するが、それには蕭何の推挙があった。 また蕭何は秦の圧政下にも民衆の負担が最小限になるよう心配りをしていたため、 民衆からも信望されるようになっていた。
秦末の動乱期になると、反乱軍の優勢さに秦政府から派遣されていた県令が動揺、そこに曹参等 と共に「秦の役員である県令では誰も従わない。劉邦を旗頭にして反乱に参加すべき」と進言。 一旦は受け入れられたものの県令は気が変わって劉邦を城市に入れなかったため、 沛県城でクーデターを起こし県令を殺害、劉邦を後釜の県令に迎えた。いくら人気があるとはいえ、 劉邦は所詮はゴロツキ、盗賊の頭でしかない。住民にとっても一大事である反乱参加と劉邦を その旗頭にすることが、蕭何の後押しあってこそであったろうことは想像に難くないところである。
以降、劉邦陣営における内部事務の一切を取り仕切り、やがて劉邦が項梁、項羽を中心とした 反秦陣営に加わり各地を転戦するようになると、その糧秣の差配を担当してこれを途絶させず、 兵士を略奪に走らせることがなかった。また、劉邦が秦の都咸陽を占領した時には、 他の者が宝物殿などに殺到する中、ただ一人秦の歴史書や法律、各国の人口記録などが保管されて いる文書殿に走り、項羽による破壊の前に全て持ち帰ることに成功した。 これが漢王朝の基礎作りに役立ったと言われている。
紀元前206年、秦が滅亡し、劉邦が漢王に封建されると、蕭何は丞相に任命され、 内政の一切を担当することになる。
それからまもなく夏侯嬰が韓信を推挙してきた。その才能に感じ入った蕭何も劉邦に推挙し、 韓信は召し抱えられたが、与えられた役職が閑職だったために逃げ出すという事件を起こす。 韓信を引き留めるため蕭何は自ら追いかけ、「今度推挙して駄目であれば、私も漢を捨てる」 とまで言って説得する。そして劉邦に韓信を大将軍に就かせるよう推挙した[1] 。劉邦はその進言を受け入れ、大将軍に任命する。韓信は家柄も名声も無く、元は楚の雑兵で、 漢でも単なる一兵卒だった。当然ながら最大級の大抜擢であり、このことからも劉邦の蕭何への 信頼の厚さが伺える。
劉邦が軍勢を率いて関中に入ると、蕭何もこれに従い関中に入る。楚漢戦争が激化し、 劉邦が戦地に出て関中を留守にすると、王太子の劉盈を補佐しながらその留守を守った。 関中においてもその行政手腕は遺憾なく発揮され、関中から戦地に向けて食糧と兵士を送り、 それを途絶えさせることなく劉邦を後方から支え、しかも関中の民衆を苦しめることもなく、 名丞相として称えられた。紀元前202年、楚漢戦争が劉邦陣営の勝利に終わると、戦功第一には、 戦地で戦い続けた将軍らを差し置いて蕭何が選ばれた。劉邦も、蕭何の送り続けた兵糧と 兵士がなければ、そして根拠地である関中が安定していなければ、負け続けても何度も立て 直すことはできず、最終的に勝利することもできなかったことを理解していたのである。
劉邦が皇帝となり、前漢が成立すると、蕭何は戦功第一の?侯に封じられ、引き続き丞相として 政務を担当することとなり、長年打ち続いた戦乱で荒れ果てた国土の復興に従事することとなった。 紀元前196年に、呂后から韓信が謀反を企てていることを知ると、密談を重ねて策謀を用いて 誘い出しこれを討った。韓信は国士無双と称された程の名将であり、慎重でもあったが、 蕭何だけは信用していたために油断したのである。この功績により、臣下としては最高位の 相国に任命され、「剣履上殿[2]」「入朝不趨[3]」「謁賛不名[4]」等の特権を与えられた。
しかし、この頃から劉邦は蕭何にも疑惑の目を向け始めた。これについては楚漢戦争の頃からその 傾向があったため、蕭何もそれを察し、戦争に参加出来る身内を全員戦場へ送りだし財産を国に差し 出したりして、謀反の気が全く無いことを示していた。しかし、劉邦は皇帝となってからは 猜疑心が強くなり、また韓信を始めとする元勲達が相次いで反乱を起こしたことで、 蕭何に対しても疑いの目を向けたのである。長年にわたって関中を守り、民衆からの信望が厚く、 その気になればいとも簡単に関中を掌握できることも、危険視される要因になった。蕭何は部下の 助言を容れて、わざと悪政を行って(田畑を買い漁り、汚く金儲けをした)自らの評判を落としたり、 財産を国庫に寄付することで、一時期投獄されることはあったものの、何とか粛清を逃れることに 成功した。
劉邦の死の2年後、蕭何も後を追うように亡くなり、文終侯と諡されて、子の哀侯蕭禄が後を継いだ。 蕭何の家系は何度も断絶しているが、すぐに皇帝の命令で見つけ出された子孫が侯を継いでいる (後述)。
死に際して後継として曹参を指名している。のちに曹参は、政務を怠っていると非難されたとき、 「高祖と蕭何の定めた法令は明瞭明白で世を治めており、変える必要がありません。我々はあまり 細々とした変更をせず、それをただ守れば良いのです」と時の皇帝に述べ、皇帝もその言葉に 納得している。
漢王朝において、臣下としての最高位である「相国」は一部の例外を除いて蕭何と曹参以外には 与えられず、「それだけの功績のものがいない」として任ぜられることがなかった。
哀侯蕭禄は6年で逝去し、子がなかったので呂后は彼の弟の蕭同[5]を継がせたが、紀元前179年に 蕭同は罪を得て、爵位を奪われた。そこで、蕭何の末子の築陽侯蕭延を継がせた。
定侯蕭延は2年で亡くなり、その子の煬侯蕭遺が継いだ。彼は1年で亡くなり、子がないために その弟の蕭則が継いだ。20年後に?侯蕭則は罪を得て、所領を没収された。
しかし、景帝は詔を下して「大功臣の蕭何の家系を断絶するのは忍びない」として、 蕭則の弟蕭嘉を武陽侯として封じて再興された。彼は7年で逝去し、その子の蕭勝が継いだ。 彼は武帝時代の21年で罪を得て、所領を没収された。しかし、武帝も父同様に詔を下して、 蕭則の子の共侯蕭慶を?侯に封じた。彼は3年で亡くなり、その子の蕭寿成(蕭壽成)が継いだ。 10年で彼は罪を得て、所領を没収された。
宣帝の時代に、詔を発して蕭何の子孫を探し出して、その子孫である釐侯蕭喜を?侯に封じて 三度再興させた。彼は3年で亡くなり、その子の質侯蕭尊が継いだ。彼は5年で亡くなり、 その子の蕭章が継いだが、子がなく兄弟の蕭禹が継いだ。王莽が漢を簒奪して新を樹立すると、 王莽は蕭禹を?郷侯に改めて封じた。王莽が後漢の光武帝によって滅ぼされると、?郷侯も断絶した。
明帝と章帝は詔を下して、蕭何を祀らせた。和帝の時代に、詔を下して、蕭何の子孫を探し当てて、 見つけ出して領地を与えた。このように蕭何の子孫は前漢・後漢にまで繁栄した。
さらに、南朝の斉を建国した蕭道成は蕭何の24世の子孫、蕭道成の族子である梁を建国した 蕭衍も蕭何の25世の子孫であると称していた。





商山の四皓(しょうざんのしこう)
秦の始皇帝の時、国難を避けて商山に匿れた四人の老高士のこと、四皓とは鬚眉皓白、 故にこれを四皓といふ、その四人は、東園公、綺里季、夏黄公、甪里先生で、漢高祖その名を 聞き招聘したが応ぜず、偶々高祖の寵妃戚夫人が上盈太子を廃して自が産んだ趙王如意を立て やうとしたので、太子の生母呂后が之を悲しみ張良を召して之を謀る、張良即ち商山に四皓を 訪ひ其出廬を促したこと、史記留僕世家、前漢書にあり、又、『塵添壒囊鈔』に記す処精しい、 左に之を引く。
四皓と云ふは皆皓の字を付くる名歟、非爾には、皓は皜の字也、又は皞共書く、皜は胡老の友、 白色也と釈せり、四人共に年老いて白髪なる故に是れを四皓と云ふ也、譬へば秦の世の乱を遁れて 商洛山に隠れ居るなり、仍商山の四皓といふ、其の名、園公、甪里先生、綺里季、夏黄公也、 漢の世に出仕ふる故に漢の四皓と云ふ、高祖の嫡男恵帝を太子と定め給ふと云へ共、 愛する戚夫人が子趙王如意をいとほしみて恵帝を捨て如意を太子とせんとし給ひしに、 恵帝の母呂后驚きて張良に云ひ合せ給ふに、張良申して曰く是れゆゝしき大事也、 但高祖の召仕はいやと思食す者四人ありと云へ共、高祖の御心余りに侈りて人をあなどり給ふ 故に漢の臣たらじとて未だ商山に隠居し侍べり、此の事をいみじく口惜く思食せ共不叶して 年を経たり、所詮彼等を何にもして召出して太子の輔佐の臣とし給はゞ、君も動し給はじと 申しければ呂后兎角して招き寄びて太子に付給へり、其の後高祖宴会し給ひけるに太子出給ふ時、 彼の四人伴にありければ、奇みてあれは何人ぞと問ひ給ふに各其の名を謁りけり、其の時高祖大に 驚きて我汝を求むる事年久し、何ぞ今我子の賎きに出仕ふると、四皓が申さく、君は人をあなどり 給ふ故に不仕、太子は其の性穏にして人生の機に足り給へり、然れば率土の皇民皆以て太子の 御為には一命を軽くすべしと承る間、我等も参り仕ふと申しければ、高祖戚夫人に向ひて、 彼の四人已に太子を輔佐す、羽翼更に動じ難しとて、恵帝に定りければ、戚夫人涙を流すと云へり、 是れ併しながら張良が計ごとに出たり。  (塵添壒囊鈔五)







蕭史(しょうし)
簫史鳳台
簫史は、秦の穆公の時の人なり。常に心を澄ましつつ、簫を吹きけり。孔雀、飛び来たりて、羽をかへて舞ひけり。すべて、簫史が声を聞く人、涙をもよほさぬなし。 穆公の女(むすめ)に弄玉といへる人、情け深く、色を知れる心にて、簫史が簫の声にめでて、忍びて逢ひ給ひにけり。二心(ふたごころ)なくて、年月(としつき)を送り迎へけり。 簫史、弄玉に簫を教ふるに、たどる所なく学び得てけり。鳳鳴の曲を吹くに、鳳凰飛び来たりて、かの上に棲みて、これを聞きけり。すなはち鳳台を作られけり。 もろともに台に上(のぼ)りて。月の光の蒼々たる夜、冬の空のものあはれなるに、簫を吹きけり。鳳凰、この二人をいざなひて、遥かに飛び去りにけり。その跡に、鳳女祠を建てられにけり。
  笛の音を雲のいづくに誘ひけむ月に台(うてな)のあとを残して

鳳臺曲(明・張寧)
吹簫來?凰,弄玉偶簫史。音聲迭諧和,形體忽軒舉。
彩雲不復聚,華月照故址。空遺千載名,流落無極止。

 部:典故 故事 蒙求和歌 管絃部第12第2話(172)



焦遂(しょうすい)
唐朝詩人。 事跡 不詳,有口吃,終生布衣。約與李適之同時期,一人能喝酒五斗,?酒時非常健?。



邵雍(しょう よう)
(大中祥符4年12月15日(1012年1月11日) - 熙寧10年7月5日(1077年7月27日))は、中国北宋時代の儒学者。字は堯夫。 百源先生・安楽先生と称された。諡は康節。
范陽県の出身。幼いときに父に従い共城県蘇門山の百源(現在の河南省新郷市輝県市)に移住。若い頃から自負心が強く己の才能を もってすれば先王の事業も実現できるとし、郷里に近い百源のほとりに庵をたてて刻苦勉励した。この間、宋初の隠者の陳摶の系統をひく 李之才(字は挺之)から『易経』の河図洛書と先天象数の学を伝授された。やがて自分の学問の狭さを自覚し、各地を遊歴して土地の 学者に教えを請い見聞を広めたが、道は外に求めて得られないと悟り、帰郷して易学について思索を深めた。39歳頃に洛陽に移住し、 以後亡くなるまでこの地で儒学を教えた。
邵雍は貧しかったが富弼・司馬光・程氏兄弟(程顥・程頤)・張載などの政学界の大物を知己とし、ものにこだわらない豪放洒脱な人柄から 「風流の人豪」ともいわれ、洛陽の老若男女に慈父のように慕われた。晩年に天津橋上で杜鵑(ホトトギス)の声を聞き、 王安石の出現と政界の混乱を予言した逸話は、邵雍の易学の一端をうかがわせる。
著書には『皇極経世書』と詩集『伊川撃壌集』がある。易学としては「1→2→4→8→16→32→64」と進展する「加一倍の法」や、 四季の4、十干の10、十二支の12、一世三十年の30など、中国人になじみの深い数を適宜に掛けあわせる数理計算によって、 万物生成の過程や宇宙変遷の周期などを算出しようとした[1]。数を通して理を考えようとした点は、朱熹の易学に影響を与えたと考えられる。




諸葛 亮(しょかつりょう)
中国後漢末期から三国時代の蜀漢の政治家・軍人。字は孔明(こうめい)。
司隷校尉諸葛豊の子孫。泰山郡丞諸葛珪の子。諡は忠武侯(ちゅうぶこう)。蜀漢の建国者である劉備の創業を助け、 その子の劉禅の丞相としてよく補佐した。伏龍、臥龍とも呼ばれる。今も成都や南陽には諸葛亮を祀る武侯祠があり、 多くの観光客が訪れている。 妻は黄夫人。子は蜀漢に仕え綿竹(成都付近)で戦死した諸葛瞻。 孫には同じく蜀漢に仕え父と共に綿竹で戦死した諸葛尚や、西晋の江州刺史になった諸葛京がいる。 親族として従父(叔父)の豫章太守諸葛玄、兄で呉に仕えた諸葛瑾とその息子の諸葛恪、 弟で同じく蜀漢に仕えた諸葛均などが知られる。一族には、魏に仕えた諸葛誕などがいる。
琅邪郡陽都(現在の山東省臨沂市沂南県)が本貫だが、出生地は不明。身長は8尺(後漢の頃の1尺は23cmで8尺は184cm、 魏・西晋の頃の1尺は24.1cmで8尺は192.8cmになる)。その祖先は前漢元帝の時の司隷校尉の諸葛豊で、父は諸葛珪。 泰山郡の丞(郡の副長官)を務めた人物であるが、諸葛亮が幼い時に死去している。 生母の章氏も同様に幼い時に死去していたが、父は後に後妻の宋氏を娶っている。年の離れた兄には呉に仕えた諸葛瑾、 弟には同じく蜀漢に仕えた諸葛均、他に妹がいる。
まだ幼い頃、徐州から弟の諸葛均と共に従父の諸葛玄に連れられ南方へ移住する。この時の行き先について『三国志』本伝では、 従父・諸葛玄は袁術の命令を受けて豫章太守に任命されるが、後漢の朝廷からは朱皓が豫章太守として派遣され、 その後劉表の元に身を寄せたとなっている。これに対して裴松之注に引く『献帝春秋』では、 朝廷が任命した豫章太守の周術が病死したので劉表が代わりに諸葛玄を任命したが、朝廷からは朱皓が送り込まれ、 朱皓は劉?の力を借りて諸葛玄を追い出し、諸葛玄は逃れたが建安2年(197年)に民衆の反乱に遭って殺され、 首を劉?に送られたとなっている。
その後、諸葛亮は荊州で弟と共に晴耕雨読の生活に入り、好んで「梁父吟」を歌っていたという。 この時期には自らを管仲・楽毅に比していたが、当時の人間でこれを認める者はいなかった。 ただ親友の崔州平(太尉・崔烈の子、崔均の弟)や徐庶だけがそれを認めていたという。 また、この時期に地元の名士・黄承彦の娘を娶ったようである。これは裴松之注に引く『襄陽記』に見える話で、 黄承彦は「私の娘は色が黒くて醜いが、才能は君に娶わせるに足る」と言い、諸葛亮はこれを受け入れた。 周囲ではこれを笑って「孔明の嫁選びを真似てはいけない」と囃し立てたという。 これ以降、不器量の娘を進んで選ぶことを「孔明の嫁選び」と呼ぶようになった。
舅の黄承彦の妻は襄陽の豪族蔡瑁の長姉であり、蔡瑁の次姉は劉表の妻であるため、蔡瑁・劉表は義理の叔父に当たる。 また、諸葛亮の長姉は?祺の妻、次姉は?徳公の息子の妻であり、?徳公の甥の?統も親戚である。
この頃華北では、建安5年(200年)に曹操が袁紹を打ち破って覇権を手中にし、南進の機会を窺っていた。 劉備は袁紹の陣営を離れて劉表を頼り、荊州北部・新野(河南省南陽市新野県)に居城を貰っていた。
諸葛亮は晴耕雨読の毎日を送っていたが、友人の徐庶が劉備の下に出入りして、諸葛亮のことを劉備に話した。 人材を求める劉備は徐庶に諸葛亮を連れてきてくれるように頼んだが、徐庶は 「諸葛亮は私が呼んだくらいで来るような人物ではない」と言ったため、劉備は3度諸葛亮の家に足を運び、 やっと幕下に迎えることができた。これが有名な「三顧の礼」である。裴松之の注によると、 『襄陽記』には、劉備が人物鑑定家として有名な司馬徽を訪ね、司馬徽は「時勢を識るは俊傑にあり」として「伏竜」と 「鳳雛」、すなわち諸葛亮と?統とを薦めたという話が載る。
また『魏略』には、諸葛亮の方から劉備を訪ねたという話が載っていたという。その後に裴松之自身の案語として、 「「出師表」には明らかに劉備が諸葛亮を訪ねたと書いてある。それなのにこんな異説を立てるとは 、実にわけの分らぬ話である」とある。
この時、諸葛亮は劉備に対していわゆる「天下三分の計」を披露し、曹操・孫権と当たることを避けてまず荊州・益州を領有し、 その後に天下を争うべきだと勧めた。これを聞いた劉備は諸葛亮の見識に惚れ込み、諸葛亮は劉備に仕えることを承諾した。 これを孔明の出廬と呼ぶ。
建安13年(208年)、劉表陣営では劉琮が後継となることがほとんど決定的となり、劉琦は命すら危ぶまれていた。 劉琦は自らの命を救う策を諸葛亮に聞こうとしていたが、 諸葛亮の方では劉表一家の内輪もめに劉備共々巻き込まれることを恐れて、これに近寄らなかった。 そこで劉琦は一計を案じて高楼の上に諸葛亮を連れ出し、登った後ではしごを取り外して、諸葛亮に助言を求めた。
観念した諸葛亮は春秋時代の晋の文公の故事を引いて、劉琦に外に出て身の安全を図るよう薦めた。劉琦はこれに従い、 その頃ちょうど江夏(現在の湖北省武昌)太守の黄祖が孫権に殺されており、空いていたこの地に赴任する事にした。 劉琦の兵力は後に劉備たちが曹操に追い散らされたときに貴重な援軍となった。
同年、劉表が死去。その後を予定通り劉琮が継ぐ。諸葛亮は劉備に荊州を取れば曹操に対抗できるとすすめたが、 劉備はこれに難色を示す。まもなく曹操が南下を開始すると、劉琮はすぐさま降伏した。劉備は曹操の軍に追いつかれながらも、 手勢を連れて夏口へ逃れた(長坂の戦い)。
孫権陣営は情勢観察のため劉表の二人の息子への弔問を名目に魯粛を派遣してきていた。 諸葛亮は魯粛と共に孫権の下へ行き、曹操との交戦と劉備陣営との同盟を説き、これに成功した。この際、孫権から 「劉豫州(劉備)はどうしてあくまでも曹操に仕えないのか。」と問われ、諸葛亮は答えた、 「田横は斉の壮士に過ぎなかったのに、なおも義を守って屈辱を受けませんでした。まして劉豫州(劉備)は王室の後裔であり、 その英才は世に卓絶しております。多くの士が敬慕するのは、まるで水が海に注ぎこむのと同じです。 もし事が成就しなかったならば、それはつまりは天命なのです。どうして曹操の下につくことなどできましょうか。」 [1] その後、劉備・孫権の連合軍は曹操軍と長江流域で対決し、勝利した(赤壁の戦い)。
戦後、劉備たちは孫権・曹操の隙を衝いて荊州南部の4郡を占領した。諸葛亮は軍師中郎将に任命され、 4郡の内の3郡の統治に当たり、ここからの税収を軍事に当てた。この頃、諸葛亮と並び称された?統が劉備陣営に加わった。
建安16年(211年)、荊州の次に取る予定であった益州の劉璋より、五斗米道の張魯から国を守って欲しいとの要請が来た。 しかし、その使者の法正は張松と謀って、益州の支配を頼りない劉璋から劉備の手に渡す事を目論んでいた。 劉備は初めこれを渋ったが、?統の強い勧めもあり、益州を奪う決心をした。劉備は?統・黄忠・法正らを連れて益州を攻撃した。 諸葛亮は張飛・趙雲らとともに長江を遡上し、手分けして郡県を平定すると、劉備と共に成都を包囲した(劉備の入蜀)。
建安19年(214年)に益州が平定されると、諸葛亮は軍師将軍・署左将軍府事となる。劉備が外征に出る際には常に成都を守り、 兵站を支えた。また伊籍・法正・李厳・劉巴とともに蜀の法律である蜀科を制定した。
その後、劉備は曹操に勝利し漢中を領有したが、荊州の留守をしていた関羽が呂蒙の策に殺され、荊州は孫権に奪われた。
劉備の養子の劉封が孟達・申儀の裏切りにより曹操軍に敗走して成都に戻ってくると、 劉備は劉封が関羽の援軍に行かなかったことと、孟達の軍楽隊を没収したことを責めた。 諸葛亮は劉封の剛勇さは劉備死後に制御し難くなるだろうという理由から、この際に劉封を除くように進言した 。劉備はその提案に従い、劉封を自殺させた。
建安25年(220年)には曹操が死去し、その子の曹丕が遂に後漢の献帝より禅譲を受けて、魏王朝を建てた。 翌年、劉備はこれに対抗して成都で即位して蜀漢を建て、諸葛亮は丞相・録尚書事となった。
劉備が呉へ進軍を計画し、この戦いの準備段階で張飛が部下に殺されるという事件が起こり、 諸葛亮は張飛が就いていた司隷校尉を兼務する。この戦いは最初は順調に行き、 途中孫権は領土の一部を返還して和睦を行おうとしたが、劉備はそれを聞かず、陸遜の作戦にはまり大敗に終わった(夷陵の戦い)。 この戦いの後、諸葛亮は「法正が生きていれば、殿を説得し、戦を止める事が出来ただろう。仮にそれがかなわなかったとしても、 これ程の大敗にはならなかった筈だ」と嘆いた(法正は建安25年(220年)に死去している)。
劉備は失意から病気が重くなり、逃げ込んだ白帝城で章武3年(223年)に死去する。 死去にあたり劉備は諸葛亮に対して「君の才能は曹丕の10倍ある。きっと国を安定させて、最終的に大事を果たすだろう。 もし我が子(劉禅)が補佐するに足りる人物であれば補佐してくれ。もし我が子に才能がなければ、 君が自ら皇帝となり国を治めてくれ」と言った。これに対し、諸葛亮は、涙を流して、 「私は思い切って手足となって働きます」と答え、あくまでも劉禅を補佐する姿勢を取った。 また、劉備は臨終に際して諸葛亮に向かい、「馬謖は言葉だけで実力が伴わない。故に重要な仕事を任せてはいけない。 君はその事を懸念しておいてくれ」と言い残した。
劉禅が帝位に即くと、諸葛亮は武郷侯・開府治事・益州刺史になり、政治の全権を担った。 諸葛亮は孫権が劉備の死去を聞けばたぶん異心を抱くだろうと深く心配していたが、鄧芝を派遣して孫権との友好関係を整え、 孫権は魏との関係を絶ち、蜀と同盟し、張温を派遣して返礼させた。 さらに、魏に対する北伐を企図する。魏は、諸葛亮が実権を握ったのを見て、華?・王朗・陳羣・許芝、 同族の諸葛璋ら高官が相次いで降伏勧告の手紙を送りつけたが、諸葛亮は返事を出さず後に「正議」を発表し彼らを批判した。
益州南部で雍?・高定らが反乱を起こすが、諸葛亮は建興3年(225年)に益州南部四郡を平定。この地方の財物を軍事に充てた。 この時、七縱七禽の故事があったともいわれるが、本伝には見えない(詳しくは孟獲の項を参照)。
建興5年(227年)、諸葛亮は北伐を決行する。北伐にあたり上奏した「出師表」は名文として有名であり、 「これを読んで泣かない者は不忠の人に違いない」(『文章軌範』の評語)と称賛された。
魏を攻める前年、諸葛亮は、以前魏へ降伏した新城太守の孟達を再び蜀陣営に引き込もうとした。 孟達は魏に降った後、曹丕に重用されていたが、建興4年(226年)の曹丕の死後は立場を失い、危うい状況にあった。 諸葛亮はこれを知ると孟達に手紙を送り、孟達の方も返書を出した。さらに申儀の讒言や司馬懿の疑惑を恐れた孟達は、 魏に反乱を起こそうとした。しかし孟達は司馬懿の急襲を受けて討ち取られた[3]。
翌建興6年(228年)春、諸葛亮は漢中より魏へ侵攻した。魏延は、自らが別働隊の兵1万を率い、 諸葛亮の本隊と潼関で合流する作戦を提案したが、諸葛亮はこれを許可しなかった[4]。 魏延はその後も北伐の度にこの作戦を提案するが、いずれも諸葛亮により退けられている。
諸葛亮は宿将の趙雲をおとりに使って、?を攻撃すると宣伝し、曹真がそちらに向かった隙を突いて、魏の西方の領地に進軍した。 この動きに南安・天水・安定の3郡(いずれも現在の甘粛省に属する)は蜀に寝返った。魏はこの動きに対して張?を派遣した。 諸葛亮は戦略上の要地である街亭の守備に、かねてから才能を評価していた馬謖を任命したが、 馬謖は配下の王平の諫言を無視して山上に布陣し、張?により山の下を包囲され、水の供給源を断たれて敗北した。 街亭を失ったことで蜀軍は進軍の拠点を失い、全軍撤退を余儀なくされた(街亭の戦い)。 撤退時に諸葛亮は西県を制圧して1000余家を蜀に移住させた。
撤退後、諸葛亮は馬謖らを処刑したほか(「泣いて馬謖を斬る」の語源)、自らも位を3階級下げて右将軍になったが、 引き続き丞相の職務を執行した。
同年冬、諸葛亮は再び北伐を決行し、その際「後出師表」を上奏したとされるが[5]、偽作説が有力である。 二度目の北伐では陳倉城を攻囲したが、曹真が侵攻路を想定して城の強化を行わせていたことや、守将の?昭の奮戦により、 陥落できないまま食糧不足となり撤退した。撤退時に追撃してきた魏将王双を討ち取っている(陳倉の戦い)。
翌年(229年)春、第3次の北伐を決行し、武将の陳式に武都・陰平の両郡を攻撃させた。魏将郭淮が救援に向かうが、 諸葛亮が退路を断つ動きを見せると撤退したため、陳式は無事に武都・陰平の2郡を平定した。 この功績により、再び丞相の地位に復帰した。
建興9年(231年)春2月、諸葛亮ら蜀軍は第4次の北伐を行い、魏の祁山を包囲すると別働隊を北方に派遣したが、 張?ら魏軍が略陽まで進軍してくると、祁山まで後退した。司馬懿が率いる魏軍は祁山を開放するために、 司馬懿が諸葛亮の軍を、張?が王平の軍を攻撃したが、撃退された。 蜀軍は局地的に勝利したものの長雨が続き食糧輸送が途絶えたため撤退した。 撤退時に追撃してきた魏の張?を伏兵を用いて射殺している[6]。 食糧輸送を監督していた李平(李厳から改名)は、 糧秣の不足を伝えて諸葛亮を呼び戻させる一方、軍が帰還すると「食料は足りているのになぜ退却したのだろうか」 と驚いたふりをして責任転嫁をはかろうとした。しかし諸葛亮は出征前後の手紙を提出して李平の矛盾をただしたため、 李平は自分の罪を明らかにした。そこで彼を庶民に落として流罪にした。
建興12年(234年)春2月、第5次の最後の北伐を行った。諸葛亮は屯田を行い、 持久戦の構えをとって五丈原で司馬懿と長期に渡って対陣した。しかし、 同時に出撃した呉軍は荊州および合肥方面の戦いで魏軍に敗れ、司馬懿も防御に徹し諸葛亮の挑発に乗らなかった。 諸葛亮は病に倒れ、秋8月(『三国志演義』では8月23日)、陣中に没した(五丈原の戦い)。享年54。
諸葛亮の死後、蜀軍は退却した。この時、魏延は楊儀の指揮下に入ることを拒否して争いを起こしたが、結局楊儀に殺された。 蜀軍が撤退した後、司馬懿はその陣地の跡を検分し、「天下奇才也」(天下の奇才なり)と驚嘆した。
諸葛亮は自身の遺言により漢中の定軍山に葬られた。墳墓は山の地形を利用し作り、棺を入れるだけの小規模なもので、 遺体も着用していた衣服を着せたままで、副葬品は一切入れないという質素なものであった。
諸葛亮が死去したとの報を聞いた李厳(李平)は、「もうこれで(官職に)復帰できる望みは無くなった」と嘆き、 程なく病を得て死去した。同様に、僻地へ追放されていた廖立も、彼の死を知るや、「私は結局蛮民になってしまうだろう」 と嘆き涙を流した。
諸葛亮の死の直後、各地で霊廟を建立したいという願いが出たが、朝廷は礼の制度に背くとして許可しなかった。 また後に成都に諸葛亮の廟を建立すべきだとの意見も提出されたが、劉禅はこれを許可しなかった。 しかし、民衆や異民族は季節の祭りを口実に、諸葛亮を路上で勝手に祀ることがあとを断たなかった。 結局、習隆・向充の上奏を受け、景耀6年(263年)に成都ではなく?陽に廟が建立された[7]。 魏の鍾会は蜀に侵攻した際、諸葛亮の墓の祭祀を行わせた。




岑参(じょぎ)
睦州分水?柏山(今浙江省桐??)人,唐朝官?。 生卒年不詳。幼時與施肩吾一起在龍門寺讀書。徐凝曾于杭州?元寺??牡丹?,白居易看了很激賞, 邀与同?,尽醉而?。元和十五年(820年),與施肩吾同登盧儲榜進士。官至侍郎[1]。以?法著称[2]。



岑参(しんじん)
(715年 - 770年)は中国唐代の詩人。岑嘉州とも称する。詩人・高適と並び称される。
河南省南陽の出身。744年の進士。長く節度使の幕僚として西域にあったが、安禄山の乱があった 757年に粛宗がいた鳳翔にはせ参じて、杜甫らの推挙により右補闕となり、その10月には粛宗に 従って長安に赴く。759年に?州の刺史となり、762年に太子中充・殿中侍御史となり関西節度判官を 兼ね、765年に嘉州の刺史となった。768年、官を辞して故郷に帰ろうとしたが途中で反乱軍に 阻まれて成都にとどまり、その地で没する。享年56。
戦地にあること十余年、その詩は悲憤慷慨するところあり、「識度清遠、議論雅正」と同時代人に 評せられる。著に『岑嘉州集』7巻がある。岑参死後30年に子の岑佐公が遺文を收集し、杜確が 『岑嘉州詩集』8卷を編修した。403首が現存し70余首が辺塞詩、《感旧賦》一篇と《招北客文》 一篇が墓碑銘である。



信陵君(しんりょうくん)
(? - 紀元前244年)東周戦国時代の魏の公子であり、政治家・軍人。三代昭王の末子。姓は姫、 氏は魏、諱は無忌。戦国四君の一人。大国秦によって圧迫を受けた魏を支え、諸国をまとめ上げ 秦を攻めるも、兄王に疑われて憂死した。前漢の魏無知の父と伝わる[1]。
兄が安釐王として立つと、封ぜられて信陵君と名乗る。信陵君は多種多様な客を多数集めて 自分の手元においており、その数は三千人を超えた。
ある時、安釐王と囲碁(双六との説もある)を打っていた所、趙との国境から烽火が上がり、 安釐王は趙の侵攻かと思い慌てたが、信陵君は落ち着いて「趙王が狩をしているだけ」と言った。 安釐王が確かめさせると果たしてその通りであった。信陵君は食客を通じて趙国内にも 情報網を張り巡らしていたので、趙の侵攻ではないと判断したのだが、これ以後の安釐王は 信陵君の力を恐れて、国政に関わらせようとはしなくなった。
そうしているある日、信陵君は門番をしている侯?が賢人と聞き、食客になって貰おうと 自ら出向き贈り物をした。しかし侯?は老齢を理由に断った。信陵君は後日予定の宴席に招待し、 それは侯?も承諾した。その通り、信陵君は宴席を設けたが侯?が居なかったため、 自ら招くべく馬車に乗って街へと出向いた。侯?は自分が行っても信陵君の恥になると一度断った後、 信陵君に勧められ馬車に乗ったが、上席に断りもなく座った。そして途中で止めて欲しいと 言って馬車を降り、肉屋である朱亥と世間話を始めた。その間、信陵君は嫌な顔もせず待っていた。 そして宴席で信陵君は侯?を上席へと座らせた。他の大臣などの客は、汚らしい老人を 信陵君自ら招きいれ、しかも上席にしたことに驚いた。そして侯?に朱亥と世間話をしていた 理由を聞いた。侯?は「信陵君への恩返しである」と答えた。全く訳が解らなかった客が再び問うと、 皆が信陵君をどうでもいい用事で待たせる失礼な爺だと侯?を蔑す一方で待った信陵君の器量を 賞賛する。これは噂となり、国中どころか他国にも伝わり、信陵君の名声が大いに高まるであろうと 答えた。客らは納得し、宴席も大いに盛り上がった。
紀元前258年、長平の戦いにて趙軍を大破した秦軍が、趙の首都邯鄲を包囲した。 安釐王は趙の救援要請に対して、晋鄙を将軍に任じ援軍を出すことは出したが、 そこで秦から「趙の滅亡は時間の問題であり、援軍を送れば次は魏を攻める」と脅されたため、 援軍を国境に留めおいて実際に戦わせようとはしなかった。信陵君の姉は平原君の 妻になっていたので、信陵君に対して姉を見殺しにするのかとの詰問が何度も来た。 信陵君はこれと、趙が敗れれば魏も遠からず敗れることを察していたため、安釐王に対して 趙を救援するように言ったが受け入れられず、しかし見捨てることも出来ぬと信陵君は自分の 食客数百名を率いて自ら救援に行こうとした。
この時、侯?は見送りの群衆の中に居たが、素っ気なかった。信陵君は自分が死地に向かうのに 何だろうか、と態度が気になり、一人引返した。侯?は信陵君に手勢だけでは少数すぎて 犬死となるだけであり、国軍を動かすべきだと説いた。国軍を動かすために、 王の手元から軍に命令を下すための割符を魏王の寵愛する姫に盗ませ[2]、将軍の晋鄙がこれを 疑ったならば、朱亥に将軍を殺させ軍の指揮権を奪うように説いた。
信陵君は国境の城に出向き、割符を見せ、軍を率いていた晋鄙将軍に交代するよう言ったが、 晋鄙はやはり確認のための伝令を出すと言ったため、やむなく朱亥が40斤の金槌で晋鄙を 命令違反として撲殺し、丁重に埋葬した。なお、これに前後して侯?は信陵君がいる方向へ、 自らの命を手向けとするべく自刎した。
信陵君はまず、兵が魏に戻れないことも考え、親子で従軍している兵は親を、兄弟で従軍している 兵は兄を帰し、また一人っ子の兵も孝行させるために帰した。そうして残った兵を率いて戦った。 秦軍を退けることはできたものの、勝手に軍を動かしたことで安釐王の大きな怒りを買うと 解っていたので、兵は自分の命令に従っただけで罪はないとして魏に帰し、自分と食客は 趙に留まった。趙は救国の士として信陵君を歓待し、5城を献上しようとした。 最初は信陵君もそれに応じようとしたが、食客に諭され以後固辞した。
趙に滞在中、信陵君は博徒の間に隠れていた毛公と味噌屋に身を隠していた薛公に、 会って話がしたいと使者を出したが断られた。すると自ら徒歩で彼らのもとへ趣き、 両者と語り合って大いに満足した。しかし平原君はこの事を聞いて信陵君を馬鹿にした。 信陵君は、毛公と薛公には以前から話をしたかっただけであるが、平原君は外面だけを 気にすると考え、平原君との付き合いを止め国外へ去ろうとした。これを聞いた平原君は、 信陵君が居るからこそ趙は秦に攻められていないこともあり、去られては大変と冠を脱いで謝罪した。 これを聞いた平原君の食客達の半数が、身分に関係なく才を処遇する信陵君下に集まったと言う。 紀元前248年、信陵君のいない魏は連年のように秦に攻められ、窮した安釐王は信陵君に帰国する ように手紙を出した。信陵君は疑って帰ろうとしなかったが、毛公と薛公に諌められて魏へ帰国する。 翌年、安釐王と信陵君はお互いに涙して再会した。信陵君は魏の上将軍に就任し、諸国にそれを 知らせると、諸国は一斉に魏へ援軍を送った。そして五ヶ国の軍をまとめて秦の蒙?(蒙恬の祖父)を 破った。趙・魏はもとより他の国も指揮権を委ねた辺り、信陵君の手腕と名声に他国からも信頼が 厚かったことが伺える。そして連合軍はついに函谷関に攻め寄せて秦の兵を抑えた。 これにより信陵君の威名は天下に知れ渡った。客が信陵君に献上した兵法は『魏公子兵法』 と呼ばれた。
函谷関にまで攻め寄せられた秦は窮地に陥り、また信陵君がいる限りは魏を攻められないと考え、 信陵君に殺された晋鄙将軍の下にいた食客を集め、信陵君が王位を奪おうとしているとの 噂を流させた。これにより安釐王は再び信陵君を疑って遠ざけるようになり、鬱々とした信陵君は 酒びたりになり、紀元前244年に過度の飲酒のために死去した。
その後、秦からの侵攻を防ぎ得ずに次々と城を失った魏は、紀元前225年に滅亡する。
なお、信陵君が抱えた食客の中には、のちに漢の功臣の一人となる張耳も含まれていた。
また前漢の初代皇帝である劉邦からも尊敬されており、大梁を通るたびに信陵君の祭祀を行った 劉邦は、信陵君の墓守として5家にその役目を与えた。




隋 文帝(ずい ぶんてい)
中国の統一王朝、隋をおこした人物。北朝の、北周の宣帝の外戚として実権を有し、 581年2月13日に静帝から禅譲(平和裏に位を譲られること)を受けて帝位に就いて 隋王朝を開いた。年号を開皇とし、都の長安を大興城と改めた。楊堅は帝号は文帝、 廟号(死後にあたえられる号)を高祖という。
楊堅は北朝の北魏以来の鮮卑の武人の家に生まれ、父の楊忠は西魏で八柱国十二大将軍の一人として 活躍した。さらに西魏の実権を奪った宇文泰が子を初代皇帝として建国した北周において、 楊忠は随国王(この段階では隋ではなく随の字を用いた)に封じられた。その子楊堅は 西魏の541年に生まれ、北周に仕えて父の随国王を継承、573年に長女が北周の武帝の 皇太子妃となった。
 575年、35歳のとき、水軍3万を率いて黄河を下り、北斉を攻撃し、 579年に北斉を滅ぼし、北周の華北統一に大きな貢献をした。北周の皇太子が15歳で 宣帝として即位すると、楊堅はその外戚として大前疑という最高位についた。 宣帝は淫乱で楊堅の娘以外にも皇后を五人も建てるという暴挙に出て、楊堅を遠ざけたが、 580年ににわかに死去、7歳の静帝が即位すると宮廷は楊堅の強大な武力を 利用しようとしてその復帰を認め、楊堅は丞相として実権を握った。 楊堅の権力に反発した鮮卑尉遅部などの反乱が起こったが、楊堅は漢人有力者の協力の下、 それらを抑えて政権独占を果たした。
楊堅は北周静帝の禅譲を受けて581年に即位し、初代皇帝として604年まで在位した。 北魏の孝文帝から始まった、鮮卑(胡人)と漢人の融合国家(胡漢融合国家)を発展させ、 新たな中国史の時代を築いた人物として、その施策には重要な事項が多い。
 即位の年に開皇律令という律令制度を制定し、北魏以来の均田制・租庸調制や西魏の 府兵制などの軍国体制を継承して完成させたことは重要である。また、科挙をはじめて実施し、 後の中国各王朝の官吏登用制度のもとを築いた。また、中央の三省六部と地方の州県制を整備し、 中央集権体制を作り上げた。
北方では突厥を圧迫して、583年に東西分裂に追い込み、さらに南朝の陳に大攻勢をかけ、 589年に滅ぼし、三国時代から晋の一時的な統一をはさんで南北朝まで約350年にわたった 分裂時代(魏晋南北朝時代)を終わらせ、中国の統一を再現した。
楊堅は後に隋を建国して皇帝となってから、後漢以来の漢人の名門楊氏の子孫であるという 家系をつくったが、事実は鮮卑系であり、北周の宇文泰や後の唐朝を建てた李淵などと同じ、 関隴集団に属していた。関隴とは陝西省(関)・甘粛省(隴)地方のことで、 北魏の時代の六鎮の一つ武川鎮を中心とした鮮卑系及びそれと結んだ土着の漢人 支配層を関隴集団と言った。その中の有力な武将は皇帝一族と婚姻関係を結び、 胡漢融合政権である北魏・西魏・北周の各王朝で八柱国十二大将軍などに任命され、 府兵制の軍隊指揮官として実力を蓄えた。要するに、楊堅は、漢人化した鮮卑系軍人の 出身といってよいであろう。この関隴集団は隋だけではなく、次の唐を建国した李淵も属しており、 北魏・西魏・北周・隋・唐と続いた北朝系の王朝を支えた勢力として注目されている。
文帝には二人の子がいたが兄の太子勇を廃し、北斉攻撃でめざましい働きをした弟広を建てていた。 文帝は604年に重い病にかかった。文帝は独孤皇后が死後、陳の宣帝の娘宣華夫人を 寵愛していた。病身の文帝の側には宣華夫人と皇太子広(後の煬帝)が付き添っていた。 夜明けに夫人が更衣に出たとき、太子広はこれに迫った。夫人はようやく逃れて文帝のもとに 帰ったが、文帝はその顔色が尋常でないのを見てたずねると、夫人ははらはらと涙を流して 「太子無礼なり」と思わず叫んでしまった。文帝は怒って広を皇太子にしたことを悔やみ、 近臣に勇を呼ぶよう言いつけた。それを知った太子広はにわかに腹心を文帝の寝殿に入れ 夫人以下の後宮の人々をすべて退出させた。まもなく事態の急変にぶるぶる震える夫人や 宮人に、文帝の死が伝えられた。その夜、太子広は宣華夫人に密かに手紙を送って一室に 呼び出し、一夜を過ごした。これは『隋書』宣華夫人伝にしるされている。 煬帝として即位した太子広は、まもなく廃太子勇を殺してしまった。 <布目潮?/栗原益男『隋唐帝国』1997 講談社学術文庫 p.44-45>
 この話は、隋を倒した唐の時代に編纂された『隋書』に記されているが、隋書は煬帝を 殊更に悪逆な皇帝だったとして描かれているので、事実では無いという指摘もある。



菅原道真(すがわらみちざね)
承和12年6月25日(845年8月1日) - 延喜3年2月25日(903年3月26日))は、日本の平安時代の貴族、 学者、漢詩人、政治家。参議・菅原是善の三男。官位は従二位・右大臣。贈正一位・太政大臣。
忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて、寛平の治を支えた一人であり、 醍醐朝では右大臣にまで昇った。しかし、左大臣・藤原時平に讒訴(ざんそ)され、 大宰府へ大宰員外帥として左遷され現地で没した。死後天変地異が多発したことから、 朝廷に祟りをなしたとされ、天満天神として信仰の対象となる。現在は学問の神として親しまれる。
小倉百人一首では菅家。
寛平6年(894年)遣唐大使に任ぜられるが、唐の混乱や日本文化の発達を理由とした道真の建議により 遣唐使は停止される。なお、延喜7年(907年)に唐が滅亡したため、 遣唐使の歴史はここで幕を下ろすこととなった。
昌泰2年(899年)右大臣に昇進して、時平と道真が左右大臣として肩を並べた。しかし、 儒家としての家格を超えて大臣に登るという道真の破格の昇進に対して妬む廷臣も多く、 翌昌泰3年(900年)には文章博士・三善清行が道真に止足を知り引退して生を楽しむよう諭すが、 道真はこれを容れなかった[注釈 2]。昌泰4年(901年)正月に従二位に叙せられたが、 間もなく醍醐天皇を廃立して娘婿の斉世親王を皇位に就けようと謀ったと誣告され、 罪を得て大宰員外帥に左遷される。宇多上皇はこれを聞き醍醐天皇に面会してとりなそうとしたが、 醍醐天皇は面会しなかった。また、長男の高視を初め、子供4人が流刑に処された(昌泰の変)。 この事件の背景については、時平による全くの讒言とする説から宇多上皇と醍醐天皇の対立が実際に 存在していて、道真が巻き込まれたとする説まで諸説ある。
左遷後は大宰府浄妙院で謹慎していたが、延喜3年(903年)2月25日に大宰府で薨去し、 安楽寺に葬られた。享年59。




鈴木虎雄(すずきとらお)
1878年〈明治11年〉1月18日 - 1963年〈昭和38年〉1月20日)は、古典中国文学者。新潟県西蒲原郡粟生津村 (のち吉田町、現在は燕市に合併)出身。
父は長善館二代館主鈴木惕軒で、その八男(戸籍上は五男)。一時大橋家の養子となり、大橋姓を称したが、 後に鈴木姓に復した。甥には岩手県知事(官選)を務めた鈴木脩蔵がいる。妻は陸羯南次女・鶴代で、 岳父羯南の著作や詩を収めた文集『羯南文録』(大日社、1938年)を編んでいる。
幼少時は長善館で父惕軒に師事する。上京後、東京英語学校、東京府尋常中学、第一高等中学校で学び、1900年(明治33年)、 東京帝国大学文科大学漢学科卒業。日本新聞社、台湾日日新報社、東京高等師範学校(東京教育大学、筑波大学の前身) 講師・教授などを経て、1908年(明治41年)に新設間もない京都帝国大学文科大学助教授に就任する。 1919年(大正8年)には教授、1938年(昭和13年)に名誉教授。1939年(昭和14年)より帝国学士院会員。 1958年(昭和33年)に文化功労者、1961年(昭和36年)に文化勲章受章。
日本における中国文学・文化研究(中国学)の創始者の一人で、東洋学における京都学派の発足にも寄与した、 著名な弟子に吉川幸次郎と小川環樹らがいる。多くの古典漢詩を訳解を著述し、自身も漢詩を多く作成した。 号を漢詩では豹軒、和歌では葯房と称し「豹軒詩紗」、「葯房主人歌草」などがある。
新聞『日本』では「葯房漫艸」を連載し、病に倒れた正岡子規に代わり短歌撰者を務めた。
晩年には『良寛全集』(東郷豊治編、東京創元社、初版1957年、読売文学賞受賞)の漢詩校閲を行い、最晩年(1962年)に、 私家版で父の詩文集『鈴木惕軒先生年譜』を編んでいる。
追悼文集に『名誉町民 豹軒鈴木虎雄先生』(吉田町教育委員会刊、非売品、1964年)。
生涯にわたり収集した、漢籍を軸とする約14,000冊の旧蔵書は、京都大学文学部図書室に収蔵され、蔵書目録が発刊されている (鈴木文庫目録 正・続編, 1956-68年)。





西王母(せいおうぼ)
中国で古くから信仰された女仙、女神。姓は楊、名は回。
九霊太妙亀山金母、太霊九光亀台金母、西海聖母、西老[1]などともいう。
王母は祖母の謂いであり、西王母とは、西方の崑崙山上に住する女性の尊称である。 すべての女仙たちを統率する聖母。東王父に対応する。
歴史家の陳夢家によれば、殷墟から発掘された甲骨文字の卜辞に「西母」という神が見られ、 それが西王母の前身であるという[2]。
東周時代に書かれたとされる『山海経』の大荒西経によると、西王母は西王母之山または玉山と 呼ばれる山を擁する崑崙之丘に住んでおり、西山経には
「人のすがたで豹の尾、虎の玉姿(下半身が虎体)、よく唸る。蓬髻長髪に玉勝(宝玉の頭飾)を 戴く。彼女は天の勵」
という半人半神の姿で描写されている[3]。また、海内北経には
「西王母は几(机)によりかかり、勝を戴き、杖をつく」
とあり、基本的には人間に近い存在として描写されている[2]。
また、三羽の鳥が西王母のために食事を運んでくるともいい(『海内北経』)、 これらの鳥の名は大鶩、小鶩、青鳥であるという(『大荒西経』)。
春秋時代に形成され、戦国時代に流布された『穆天子伝』によれば、周の穆王が西に巡符して 「西王母之邦」で最高の礼を尽くして彼女に会い、3年間逗留して帰国したという。 この物語での西王母は完全に人間の姿で描かれている。なお、西王母之邦は洛陽から西に 1000キロメートルの位置にあったという。



西施(せいし)
中国,春秋時代末,越国の美女。《荘子》など戦国諸子の書物の中にすでに美女の代表としてその名が見えるが, 彼女の事跡が詳しく記されるのは《呉越春秋》など以後で,現在の民間伝説にいたるまで, その物語は時代とともにふくらんできた。そうした伝説をまとめれば,西施は,姓は施,名は夷光, 浙江省諸曁(しよき)の苧夢(ちよぼう)村の生れ。美人であったため,敗国の辱をすすごうとする 越王句践(こうせん)が呉王夫差(ふさ)のもとに彼女を送りこみ,政治を怠らせようとした。
本名は施夷光。中国では西子ともいう。紀元前5世紀、春秋時代末期の浙江省紹興市諸曁県(現在の諸曁市) 生まれだと言われている。
現代に広く伝わる西施と言う名前は、出身地である苧蘿村に施と言う姓の家族が東西二つの村に住んでいて、 彼女は西側の村に住んでいたため、西村の施→西施と呼ばれるようになった。
越王勾践が、呉王夫差に、復讐のための策謀として献上した美女たちの中に、西施や鄭旦などがいた。 貧しい薪売りの娘として産まれた施夷光は谷川で洗濯をしている姿を見出されたといわれている。 策略は見事にはまり、夫差は彼女らに夢中になり、呉国は弱体化し、ついに越に滅ぼされることになる。
呉が滅びた後の生涯は不明だが、勾践夫人が彼女の美貌を恐れ、夫も二の舞にならぬよう、また呉国の人民も彼女のことを 妖術で国王をたぶらかし、国を滅亡に追い込んだ妖怪と思っていたことから、西施も生きたまま皮袋に入れられ長江に投げられた。 その後、長江で蛤がよく獲れるようになり、人々は西施の舌だと噂しあった。 この事から、中国では蛤のことを西施の舌とも呼ぶようになった。
また、美女献上の策案者であり世話役でもあった范蠡に付き従って越を出奔し、余生を暮らしたという説もある。
中国四大美人の一人と呼ばれる一方で、俗説では絶世の美女である彼女達にも一点ずつ欠点があったともいわれており、 それが西施の場合は大根足であったとされ、常に裾の長い衣が欠かせなかったといわれている。 逆に四大美女としての画題となると、彼女が川で足を出して洗濯をする姿に見とれて魚達は泳ぐのを忘れてしまったという 俗説から「沈魚美人」とあてられる。



清少納言(せいしょうなごん)
康保3年頃(966年頃) - 万寿2年頃(1025年頃))は、平安時代の女流作家、歌人。随筆「枕草子」は有名。
天延2年(974年)、父・元輔の周防守赴任に際し同行、4年の歳月を「鄙」にて過ごす。なお、『枕草子』における船旅の描写は、 単なる想像とは認めがたい迫真性があり、あるいは作者は水路を伝って西下したか。この間の京への想いは、 のちの宮廷への憧れに繋がったとも考えられる。
天元4年(981年)頃、陸奥守・橘則光(965年 - 1028年以後)と結婚し、翌年一子則長(982年 - 1034年)を生むも、 武骨な夫と反りが合わず、やがて離婚した。ただし、則光との交流はここで断絶したわけではなく、 枕草子の記述によれば長徳4年(998年)まで交流があり、妹(いもうと)背(せうと)の仲で宮中公認だったという。 のち、摂津守・藤原棟世と再婚し娘・小馬命婦をもうけた[10]。
一条天皇の時代、正暦4年(993年)冬頃から、私的な女房として中宮定子に仕えた。博学で才気煥発な彼女は、 主君定子の恩寵を被ったばかりでなく、公卿や殿上人との贈答や機知を賭けた応酬をうまく交わし、宮廷社会に令名を残した。 藤原実方(? - 998年)、藤原斉信(967年 - 1035年)、藤原行成(972年 - 1027年)、源宣方(? - 998年)、 源経房(969年 - 1023年)との親交が諸資料から窺える。ことに実方との贈答が数多く知られ、恋愛関係が想定される。
清少納言の名が今日まであまねく知られているのは、残した随筆『枕草子』によるところが大きい。『枕草子』には、 「ものはづくし」(歌枕などの類聚)、詩歌秀句、日常の観察、個人のことや人々の噂、記録の性質を持つ回想など、 清少納言が平安の宮廷で過ごした間に興味を持ったものすべてがまとめられている。
長保2年(1000年)に中宮定子が出産時に亡くなってまもなく、清少納言は宮仕えを辞めた。 その後の清少納言の人生の詳細は不明だが、家集など断片的な資料から、いったん再婚相手・藤原棟世の任国摂津に 下ったと思われ、『異本清少納言集』には内裏の使いとして蔵人信隆が摂津に来たという記録がある。 晩年は亡父元輔の山荘があった東山月輪の辺りに住み、藤原公任ら宮廷の旧識や和泉式部・赤染衛門ら中宮彰子付の 女房とも消息を交わしていたという(『公任集』『和泉式部集』『赤染衛門集』など)。
没年は不明で、墓所が各地に伝承される。


齊之姜(せいのきょう)
衡門(詩経国風:陳風)
豈其取妻  豈に其れ妻を取(めと)るに
  必齊之姜  必らずしも齊の姜ならんや



石崇(せきすう)
249‐300 中国,西晋の官僚。字は季倫。父の石苞は渤海南皮(河北省南皮県)出身の小吏から昇進し魏晋革命に 功績を尽くして大官に至った。石崇も才能に富み,父の恩蔭も加わって出世街道を歩んだ。
外戚賈謐(かひつ)と結託して,その〈二十四友〉の一人となったが,士人としては徳行に欠け, 王愷(おうがい)と奢侈を競った話は有名である。趙王倫らが賈謐を殺すと,倫の権臣孫秀が石崇の 愛妾緑珠を求めたが,石崇はこれを拒んで殺された。没収された財産のなかには奴隷800余人, 水碓(すいたい)30余所が含まれていたという。

『古詩選 新訂中国古典選 入谷仙谷 朝日新聞社』(P.275~83)を参考に王昭君のことに ついて書こう。
王昭君を取り上げて最初に詩を作ったのが,石崇(せきすう)(249~300)で,その詩が 『王明君詞』である。楽府題で,漢と匈奴との交渉史上有名な王昭君のことをテーマにして楽曲を 作ったという。父の石苞は,司馬氏画が魏の帝位を奪って,晋朝を樹立したときの功臣で, 大富豪で,浪費家としても有名。
漢の王明君といえば,王昭君のことである。晋朝の文帝(司馬昭)のいみなを犯すので改めた そうである。漢の元帝時代に匈奴に分裂が起こり,漢に後援を求めた呼韓邪単于(こかんやぜんう) (単于は匈奴の最高君主)が勝った。呼韓邪単于はお礼のため漢の国にやってきたとき, 漢の皇女を妻にほしいといってきた。元帝は,大奥の女官の中から良家の娘, 王昭君を娶(めあわ)せた。昔公王が烏孫に嫁いだときには馬上で琵琶を奏でさせ, 旅路の寂しさを慰めたものだ。明君を送っていくときもそうだったに違いないと, 新しい楽曲を作った所,悲しく切ない響きが強かったので,ことの次第を紙に書き付けたのである。
呼韓邪は大いに喜び王昭君を連れ帰って,「寧胡閼氏(ねいこえんし)」と呼んだ。閼氏は単于 (ぜんう)の正妻の称号である。王昭君は,寧胡閼氏との間に男子一人をもうけた。 寧胡閼氏の死後,匈奴の慣習に従い,次の単于(ぜんう),異腹の息子と結婚し, 二人の女児をもうけた。
以上が『漢書』(92)匈奴伝に記載されている事柄で,石崇(セキスウ)(249~300)は, 『漢書』によって,この『王明君詞』の詩を作ったらしい。後にいろいろと尾びれがついて 物語がふくらんでいったのである。漢の元帝は,多くの宮女を侍らしていたが,側に呼ぶときに 毛延寿という画工に宮女たちの肖像画を描かせ,その中から選んでいた。宮女たちは,画工に 賄賂を贈り,美しく描かせたが,王昭君はプライドが許さず画工に賄賂を贈らなかったために、 醜く描かれた。そこで,一番醜いと思われる王昭君を呼韓邪単于(こかんやぜんう)に 娶わせたのである。元帝があってみると,王昭君は絶世の美人であったが,後の祭であった。 このように話は膨らんでいった。
六朝の人物の逸言逸話を記録した,南朝宋の劉義慶著の『世説新語』(444)という本がある。 この中に王昭君のことが書かれている。引用してみよう。訳は総て小生の拙訳である。


世親(せしん)
インド仏教瑜伽行唯識学派の僧である。世親はサンスクリット名である「ヴァスバンドゥ」の訳名で あり、玄奘訳以降定着した。それより前には「天親」(てんじん)と訳されることが多い。 「婆薮般豆」、「婆薮般頭」と音写することもある。
唯識思想を大成し、後の仏教において大きな潮流となった。また、多くの重要な著作を著し、 地論宗・摂論宗・法相宗・浄土教をはじめ、東アジア仏教の形成に大きな影響を与えた。 浄土真宗では七高僧の第二祖とされ「天親菩薩」と尊称される。
世親の伝記については、真諦訳『婆薮槃豆法師伝』、玄奘『大唐西域記』やその弟子・基の伝える 伝承、ターラナータ『仏教史』中の伝記などがある。
『婆薮槃豆法師伝』によれば、世親は仏滅後900年にプルシャプラ(現在のパキスタン・ペシャーワル) で生まれた。三人兄弟の次男で、実兄は無著(アサンガ)、実弟は説一切有部の ヴィリンチヴァッサ(比隣持跋婆)。兄弟全員が世親(ヴァスバンドゥ)という名前であるが、 兄は無著、弟は比隣持跋婆という別名で呼ばれるため、「世親」という名は専ら本項目で説明する 次男のことを指す。
初め部派仏教の説一切有部で学び、有部一の学者として高名をはせた。ところが、兄・無著の勧めに よって大乗仏教に転向した。無著の死後、大乗経典の註釈、唯識論、諸大乗論の註釈などを行い、 アヨーディヤーにて80歳で没した。
世親の伝記に関する諸伝承は、世親が説一切有部から大乗(唯識派)へと転向したという点で一致する。 しかし近年、説一切有部時代に書いたとされる『阿毘達磨倶舎論』に伝える経量部説が、 『瑜伽師地論』にトレースできることから、「ヴァスバンドゥの有部での得度まで否定する 必要はないにせよ、彼は最初から瑜伽行派の学匠であったと仮定するほうが、 はるかに合理的ではないか」[1]という意見も出されている。


前漢元帝(ぜんかんげんてい)
前漢の第10代皇帝。在位期間前48年1月10日 - 前33年7月8日



宣 帝(せんてい)
宣帝(せんてい、紀元前91年 - 紀元前49年、)は、前漢の第9代[1]皇帝(在位:紀元前74年 - 紀元前49年)。 初め民間に育ち、霍光に擁立されて皇帝となった。
諱は病已(へいい)、即位した後に「病已」では諱を避けにくいことから詢(じゅん)と改名した。 字は次卿。正式な諡号は孝宣皇帝。廟号は中宗。
武帝の曾孫で戻太子劉拠の孫。父は戻太子の子・悼皇(史皇孫)劉進。生母は王氏である。 紀元前91年、巫蠱の乱により、曾祖母(戻太子の母)の皇后・衛子夫、祖父、祖母の史氏、父の史皇孫、母の王氏、 兄と姉が共に処刑された。生後間もない劉病已は投獄されたが丙吉により養育され、 恩赦により解放されると病已は一時的に民間で育てられた。やがて掖廷で養育することとなり、 掖廷令の張賀(張安世の兄)が病已の後見役となり、張安世の息子・張彭祖が学友となる。 彼の住処は長安郊外の尚冠里であった。
紀元前74年、昭帝が崩御し、昌邑王・劉賀が一時即位するが、品行不良を理由に廃立されると、霍光等の推薦により、 皇太后(上官氏)の詔を受け、まずは陽武侯に封じられて間もなく即位した(宣帝)。
昭帝の死から廃帝賀の廃位を経て、宣帝の即位にいたるまでの一連の流れは、霍光の主導によるものであり、 政局は引き続き大司馬大将軍である霍光に委ねられた。
紀元前69年、霍光が死去すると増長、肥大化しつつあった霍氏一族の権力、 特に軍の指揮権を徐々に剥奪し外戚の許氏らの子弟に与え、これに反発した霍光の遺児が反乱を企てると、 これを契機に霍氏一族を処刑した。宣帝廃位後、帝位を襲う予定であった大司馬霍禹は腰斬の刑に処された。 皇后の地位にあった霍氏(霍光の娘)も廃位して幽閉し、霍光の死から2年後に親政を開始した。
親政後の宣帝の政策は法家主義的政治信条に則り、減税や常平倉の設置、国民への爵位の授与、 中央(中書を通じての皇帝への直接の上奏と尚書の権限の縮小)と地方(地方行政を県中心から郡中心へ移行) での行政改革、犯罪を取り締まるための刑罰の強化といった、 国民を休養させつつ中央政府の権力を強めんとする内政重視のものであり、これらの政策が行われた結果、 武帝以降の国内の疲弊を緩和させることに成功した。これらは民間で育ち、民衆の実情を知る宣帝ならではの施策であった。
一方、外政においては、烏孫と連携をとり、西域に進出し、匈奴を弱体、分裂化させ、 紀元前51年には匈奴の呼韓邪単于を降伏させる等、一時期、弱体化していた漢の国勢を復興させることに努めた。 これら内外の政治に於ける成果から、宣帝は前漢中興の祖という評価を受けている。 しかし、中書を通じての直接の上奏は、中書の任にあたった宦官の権力を強めることとなり、 彼等が次の元帝の時代に外戚と組んで政治に大きな影響を及ぼす一因となったことは否めない。
現実主義者であったため、理想主義、懐古主義である儒教を嫌い、 儒教に傾倒する皇太子(後の元帝)とは反りが合わず廃嫡を考えた事があるが、 元帝に後嗣が生まれたことを理由に廃嫡を見送った。




宋 玉(そうぎょく)
戦国時代末の文学者。楚の大夫で,屈原の門下であったといわれるが確かではない。 賦の作者で,屈原に次ぐ者として「屈宋」と並称される。『楚辞』に収められる『九弁』『招魂』や, 『文選 (もんぜん) 』に収められる『風賦』『高唐賦』『神女賦』『好色賦』『対楚王問』などが残っているが, これも多くは後人の作といわれる。



曾子(そう し)
(紀元前505年 - 没年不詳)は、孔子の弟子で、儒教黎明期の重要人物である。諱は参(しん)。字は子輿(しよ)。 父は曾点(子皙)[1]、子に曾申。十三経の一つ『孝経』は、曾子の門人が孔子の言動をしるしたと称されるものである。 また、孔子の孫子思は曾子に師事し、子思を通し孟子に教えが伝わったため、孟子を重んじる朱子学が正統とされると、 顔回・曾子・子思・孟子を合わせて「四聖」と呼ぶようになった。
曾参は魯の武城(現在の山東省臨沂市平邑県武城)出身で、孝の道(親孝行)に優れており、孔子より見込まれ、 『孝経』を著したという説がある。
弟子には『呉子』の著者である呉起がいたが、母の葬儀を上げなかったとして破門している(呉起は曾申に学び、 破門したのは子の曾申ともされる)。
また「曾参、人を殺す」と言う言葉の中に姿を残している。この話は「ある時に曾参の親類が人を殺し、 誰かが誤って曾参の母に「曾参が人を殺した」と報告した。母は曾参のことを深く信じていたのでこれを信用しなかったが、 二度・三度と報告が来ると終いにはこれを信じて大慌てした」といわれる。これは『戦国策』に載っている説話で、 あまりに信じがたい嘘であっても何度も言われると人は信じてしまうと言う意味の言葉だが、 このような説話に使われる事は逆に曾参の人柄と母との間の深い信頼関係が当時の人にとって常識であったと言うことを 示している。
それ以外にも母との絆についての逸話は、曾参が柴刈りに行き留守中に来客が来たものの母が客人をどうもてなせば良いのか わからず、母は曾参の帰宅を促すために自分の指をかみ続けた。すると、曾参の胸が痛み帰宅し客人に気付き曾参が 客人をもてなしたという。これは『二十四孝』に記載されている。



荘子(そうじ)
中国の戦国時代の宋国の蒙(現在の河南省商丘あるいは安徽省蒙城)に産まれた思想家で、 道教の始祖の一人とされる人物である。荘周(姓=荘、名=周)。字は子休とされるが、 字についての確たる根拠に乏しい。曾子と区別するため「そうじ」と濁って読むのが中国文学、 中国哲学関係者の習慣となっている[1]。
荘子については複数のテキストが存在するが、それらの信頼性には様々な疑義があり、 また相互に矛盾する記述もあるため、詳らかでない。たとえば『史記』巻63には荘子の伝があるが、 これは司馬遷が当時の寓言を多く含む『荘子』から引いたものと推定されており、池田知久は 「司馬遷が思想家たちの作ったフィクションを材料にして書いた荘子の伝記」と述べている。 その他、『呂氏春秋』や『荀子』などにも記述が見られるが、いずれも『荘子』の影響を強く受けて いる。[2]
荘子の思想は無為自然を基本とし、人為を忌み嫌うものである。老子との違いは、前者は政治色が 濃い姿勢が多々あるが、荘子は徹頭徹尾にわたり俗世間を離れ無為の世界に遊ぶ姿勢で展開される。
軸となる傾向は徹底的に価値や尺度の相対性を説き、逆説を用い日常生活における有用性などの 意味や意義にたいして批判的である。
こうした傾向を、脱俗的な超越性から世俗的な視点の相対性をいうものとみれば、 従来踏襲されてきた見方であるが、老荘思想を神秘主義思想の応用展開として読むことになる。 他方で、それが荘子の意図であったかはもちろん議論の余地があるが、 近年の思想研究の影響を受けつつ、また同時代の論理学派との関連に着目して、 特権的な視点を設定しない内在的な相対主義こそが荘子の思想の眼目なのであり、 世俗を相対化する絶対を置く思想傾向にも批判的であるという解釈もなされている。
荘子の思想を表す代表的な説話として胡蝶の夢がある。「荘周が夢を見て蝶になり、蝶として大いに 楽しんだ所、夢が覚める。果たして荘周が夢を見て蝶になったのか、 あるいは蝶が夢を見て荘周になっているのか。」この説話の中に、無為自然、 一切斉同の荘子の考え方がよく現れている。
近年では、方法としての寓話という観点や、同時代の論理学派や言語哲学的傾向に着目した 研究もあらわれている。
著書とされる『荘子』(そうじ)は、西晋の郭象が刪訂した内篇七篇、外篇十五篇、雑篇十一篇の 構成のものが現在に伝わっている。これらのうち内篇のみが荘子本人の手による原本に近いもの とされ、外篇・雑篇は弟子や後世の手によるものと見られている[3]。
荘子「内篇」は逆説的なレトリックが随所に満ち満ちており、多くの寓話が述べられ、 読者を夢幻の世界へと引きずり込む。
荘子は孔子を批判しているとされているが、文章をよく読むと孔子を相当重んじており、 儒家の経典類もかなり読んだ形跡がある。このことから、古来より、荘子は儒家出身者ではないか という説があり、内容も本質的には儒教であると蘇軾が『荘子祠堂記』に於いて論じているほどである。 白川静は孔子の弟子顔回の流れを汲むのではないかと推定している。
老荘思想が道教に取り入られ老荘が道教の神として崇められる様になっているが、 老荘思想と道教の思想とはかけ離れているとされている。しかし、これに反対する説[誰?]もある。
老子と荘子の思想が道教に取り入られる様になると、荘子は道教の祖の一人として崇められるように なり、道教を国教とした唐代は、皇帝玄宗により神格化され、742年に南華真人(なんかしんじん)の 敬称を与えられた。また南華老仙とも呼ばれた。著書『荘子』は『南華真経(なんかしんきょう)』と 呼ばれるようになった。『三国志演義』の冒頭に登場する南華老仙は荘子をさしている。


宋之問(そうしもん)
(656年?-712年あるいは713年)は中国初唐の詩人。字は延清。?州弘農(現河南省、『旧唐書』より) あるいは汾州(現山西省、『新唐書』より)の人。沈?期とともに則天武后の宮廷詩人として活躍し、 「沈宋」と併称され、近体詩の律詩の詩型を確立した。
675年に進士となる。690年、楊炯とともに習芸館学士となる。則天武后の寵臣である張易之兄弟に 取り入り、尚方監丞として『三教珠英』の編集に参加した。 705年、中宗が復位して張易之が失脚すると、その一味として沈?期・杜審言らとともに嶺南に 左遷され、宋之問は滝州(広東省)に流された。翌706年、ひそかに脱出して洛陽へ逃げ帰った。
洛陽では張沖之の家に匿われていたが、張沖之が朝廷に陰謀を企てていることを密告して、 その功績で罪を許されて鴻臚主簿になる。太平公主の推薦により考功員外郎に抜擢され、 修文館学士を兼ねた。中宗の宮廷詩人として再び活躍するが、709年、収賄の罪で越州 (現浙江省紹興市)の長史に左遷された。710年、睿宗が即位すると、 さらに欽州(現広西チワン族自治区)に流され、玄宗即位後の先天年間に「獪険盈悪」の罪に より自殺を命じられた。
学問深く風采も立派であったと伝えられるが、品性は陋劣、パトロンの張易之の書いた詩賦は すべて宋之問の代作であったという。劉希夷が作った「代悲白頭翁」 の中の「年年歳歳花相似、歳歳年年人不同」の句を所望して断られ、希夷を暗殺させたという話も ある(元の辛文房『唐才子伝』などより)。越州に流されていた時には地方官としての評判は良く、 作った詩は都に流行し、人びとは争って愛唱したともいわれる。


曹 植(そう しょく/そう ち)
(192年 - 232年)は、中国後漢末期から三国時代にかけての人物。魏の皇族。豫州沛国?県 (現在の安徽省亳州市)の出身。陳王に封じられ、諡が思であったことから陳思王とも呼ばれる。 唐の李白・杜甫以前における中国を代表する文学者として、「詩聖」の評価を受けた。 才高八斗(八斗の才)・七歩の才の語源。建安文学の三曹の一人。 漢詩の詩型の一つである五言詩は、後漢の頃から次第に制作されるようになるが、それらは無名の 民衆や彼らに擬した文学者が、素朴な思いを詠った歌謡に過ぎなかった。しかし後漢末建安年間から、 それまでの文学の主流であった辞賦に代わり、父や兄、または王粲・劉楨らの建安七子によって、 個人の感慨や政治信条といった精神を詠うものとされるようになり、後世にわたって中国文学の 主流となりうる体裁が整えられた。彼らより後に生まれた曹植は、そうした先人たちの成果を吸収し、 その表現技法をさらに深化させた。
曹植の詩風は動感あふれるスケールの大きい表現が特徴的である。詠われる内容も、 洛陽の貴公子の男伊達を詠う「名都篇」や、勇敢な若武者の様子を詠う「白馬篇」のように 勇壮かつ華麗なもの、友人との別離を詠んだ「応氏を送る」二首や、 網に捕らわれた雀を少年が救い出すという「野田黄雀行」、異母弟とともに封地へ帰還することを 妨害された時に詠った「白馬王彪に贈る」、晩年の封地を転々とさせられる境遇を詠った 「吁嗟篇」などのように悲壮感あふれるもの、「喜雨」・「泰山梁甫行」など庶民の喜びや悲しみに 目を向けたものなど、先人よりも幅広く多様性に富んでいる。梁の鍾嶸は、 『詩品』の中で曹植の詩を最上位の上品に列し、その中でも「陳思の文章に於けるや、 人倫の周孔(周公旦・孔子)有るに譬う」と最上級の賛辞を送っている。
なお、曹丕から「七歩歩く間に詩作せよ」、と命じられて詠んだという逸話(『世説新語』 文学篇より)で有名な「七歩詩(中国語版)」は、現在真作としない見方が有力である。 また彼の最高傑作ともいわれる「洛神の賦」は、曹丕の妃である甄氏への恋慕から作ったという 説もあるが[6]、疑わしい。


曹 操(そうそう)
曹 操(そう そう、永寿元年(155年) - 建安25年1月23日(220年3月15日)は、中国後漢末の武将、政治家。詩人、 兵法家としても業績を残した。字は孟徳(もうとく)、幼名は阿瞞また吉利。沛国?県(現在の安徽省亳州市。 また河南省永城市という説もある)の人。
後漢の丞相・魏王で、三国時代の魏の基礎を作った。廟号は太祖、謚号は武皇帝。後世では魏の武帝、魏武とも呼ばれる。
曹操は「槊を横たえて詩を賦す[30]」と後世に言われたように、政治・軍事に多忙な中、多くの文人たちを配下に集めて文学を 奨励すると同時に、自身もすぐれた詩人であった。彼は建安文学の担い手の一人であり、 子の曹丕・曹植と合わせて「三曹」と称される。曹操は軍隊を率いること30数年間、昼は軍略を考え、夜は経書の勉強に励み、 高所に登れば詩を作り、詩ができると管弦にのせ音楽の歌詞にしたという[31]。その記述の通り、現存する曹操の詩は、 いずれも楽府という音楽の伴奏を伴った歌詞であり、代表的な作品として『文選』27巻 樂府上 樂府二首[32]に収録された 下に記す「短歌行[33]」が有名である。
對酒當歌 人生幾何 譬如朝露[34] 去日苦多
慨當以慷 憂思難忘 何以解憂 唯有杜康[35]
(後略)
? 『昭明文選』27巻 樂府上 樂府二首 短歌行[36]
操の詩に関する後世の評価には、梁の鍾嶸『詩品』下巻 魏武帝魏明帝[37]の「曹公古直 甚有悲涼之句」 (古直にして、甚だ悲涼の句)、明の周履靖の「自然沈雄」、陸時雍の「その言、鋒を摧(くだ)く斧の如し」、 清の沈徳潜の「沈雄俊爽、時に覇気露わす」などがある。また、沈徳潜は曹操の詩には漢の空気が残り、 曹丕以後は魏の作品であると記している。中国文学研究者の松本幸男は、曹操以後に従軍文学と言うべき作が多いと指摘している。 現存する彼の詩作品は多くはないが、そこには民衆や兵士の困苦を憐れむ気持ちや、乱世平定への気概が感じられる。表現自体は簡潔なものが多いが、スケールが大きく大望を望んだ文体が特徴である。 改革開放の父、鄧小平は、三度目の復活を果たした1977年7月、「志在千里 壯心不已」という心境をもらした。 老いてなお進取の意気込みを示した言葉は、曹操の「?出夏門行」龜雖壽[38](208年頃の作品)という楽府からの引用である。

曹 丕(そうひ)
三国時代の魏の初代皇帝。父曹操の勢力を受け継ぎ、後漢の献帝から禅譲を受けて王朝を開いた。著書に『典論』がある。 曹操と卞氏(武宣皇后)との長子として生まれ、8歳で巧みに文章を書き、騎射や剣術を得意とした。 初めは庶子(実質的には三男)の一人として、わずか11歳で父の軍中に従軍していた。 建安2年(197年)に曹操の正室の丁氏が養子として育て、嫡男として扱われていた異母長兄の曹昂(生母は劉氏)が戦死すると、 これがきっかけで丁氏が曹操と離別する。次兄の曹鑠も程なく病死し、 一介の側室でしかなかった生母の卞氏が曹操の正室として迎えられた。 以後、曹丕は曹操の嫡子として扱われるようになる。やがて曹丕は文武両道の素質を持った人物に成長することとなった。 『三国志』魏書によれば、曹丕は茂才に推挙されたが、出仕しなかった。 曹操の下で五官中郎将として副丞相となり、曹操の不在を守るようになった。 建安22年(217年)に曹操から太子に正式に指名される。通説ではこの時に弟の曹植と激しく後継争いをしたと言われるが、 実際にそうだったかは怪しまれる。むしろ、兄弟の側近たちによる権力闘争であったという方が正確であろう。 建安24年(219年)には、曹操不在時に魏諷の反乱未遂計画を鎮圧した。 建安25年(220年)に父が逝去すると、魏王に即位し丞相職を受け継ぐ。王位についたばかりの頃、 私兵四千家あまりを統率して孟達が魏に帰伏し、大いに喜び孟達を厚遇した。当時、大勢の臣下のうちで、 孟達への待遇があまりに度はずれであり、また地方の鎮めの任を任すべきでないと考えるものがあった。 これを耳にすると、「私が彼の異心なきことを保証する。これも例えてみれば、蓬の茎で作った矢で蓬の原を射るようなものだ (毒を以て毒を制すの意)」といった。 その後、献帝に禅譲を迫って皇帝の座に即いた。ただし、表向きは家臣達から禅譲するように上奏し、 また献帝から禅譲を申し出たのを曹丕は辞退し、家臣達に重ねて禅譲を促されるという形を取った。 18回辞退したのちに、初めて即位した。ここで後漢が滅亡し、三国時代に入ることとなる。 文帝は内政の諸制度を整え、父から受け継いだ国土を安定させた。特に陳羣の進言による九品官人法の制定は、 後の世に長く受け継がれた。

則天武后(そくてんぶこう)
生年 武徳6年(623年)?没年 神龍元年11月26日(705年12月16日)。在位期間 690年10月16日 - 705年2月22日。 中国史上唯一の女帝。唐の高宗の皇后となり、後に唐に代わり武周朝を建てた。諱は照(?)。 日本では則天武后(そくてん ぶこう)と呼ばれることが多いが、 この名称は彼女が自らの遺言により皇后の礼をもって埋葬された事実を重視した呼称である。 一方最近の中国では、彼女が皇帝として即位した事実を重視して「武則天」と呼ぶことが一般的になっている。 その他、唐の第二代皇帝太宗に媚娘と号され、第三代皇帝高宗には「昭儀」と号され、尊号「天后」を受けた。 武周建国以降は、聖母神皇、聖神皇帝、則天大聖皇帝、金輪聖神皇帝、越古金輪聖神皇帝、慈氏越古金輪聖神皇帝、 天冊金輪聖神皇帝などがある。



息夫人(そくふじん)
『春秋左氏伝』荘公十年と荘公十四年に伝があり、息夫人は陳の?公(れいこう)の公女で、 姫姓(きせい)の息侯に嫁いで息?(そくき)となります。その美貌を知った楚の文王が 息(淮水中流にあった小国)をだまし討ちにして、息?を楚都の郢(えい)に連れ去りました。 息夫人は文王とのあいだに二子を成しますが、楚王と口をききません。
息夫人,春秋時期息國國君的夫人,出生於陳國(今河南淮陽縣)的?姓世家,陳國國君有二女, 長女已嫁蔡哀侯,次女嫁息侯。蔡娶在先,息娶在後。因嫁於息國(今河南息縣)又稱息?, 後楚文王以武力得之。息夫人?氏有?世之貌,眼如秋水,臉似桃花,麗若芙蓉,雅若蕙蘭, 站如臨風弱竹,行如仙子凌雲。又稱爲“桃花夫人”。



疏 廣(そこう)
疏広、老欲帰故郷、乞骸骨。上以其年篤老許之、加賜黄金二十斤。広既帰郷里、日令家設酒食、請族人故旧、与相娯楽。 居歳余、広子孫窃謂広所愛信者曰、子孫希比君時頗為財、今日飲食、廃且尽。宜自夫子歓説君買田宅。 以閑暇時即言是。広曰、我老耄不念子孫哉。顧自有旧田盧。令子孫勤力其中、足以供衣食。今復増益之、以為?余、 但教子孫怠惰耳。賢而多財即損其志、愚而多財即益其過。又此金者、聖主所以恵養老臣也。故楽与郷党宗族、共饗其賜、 以尽吾余日、不亦可乎。族人悦服

疏広、老いて故郷に帰らんと欲し、骸骨を乞ふ。上、其の年の篤老なるを以て之を許し、黄金二十斤を加賜す。 広、既に郷里に帰り、日に家をして酒食を設けしめ、族人故旧を請ひて、与に相ひ娯楽す。居ること歳余、広の子孫、 窃かに広の愛信する所の者に謂ひて曰く、子孫、君の時に比(およ)びて頗る財を為すを希ふ、今日飲食し、 廃し且つ尽きんとす。宜しく夫子から君に田宅を買ふことを歓説すべし。閑暇の時を以て即ち是を言ふ。広曰く、 我、老耄して子孫を念じざらんや?顧ふに自ら旧田盧有り。子孫をして力を其の中に勤めしむれば、以て衣食を供するに足る。 今、復た之を増益して、以て?余を為さば、但だ子孫に怠惰を教ふるのみ。賢にして財多ければ即ち其の志を損じ、 愚にして財多ければ即ち其の過を益す。又、此の金は、聖主の所以老臣を恵養する所以なり。故に郷党宗族と与に楽しみて、 共に其の賜を饗し、以て吾が余日を尽くすも、亦た可ならずや?族人悦服す。

乞骸骨:辞任、致仕を求める慣用句


蘇舜欽(そ しゅんきん)
(1008年 - 1048年)は、北宋時代の政治家・文学者。字は子美。仁宗の慶暦8年に亡くなった。歳は41であった。
開封の出身。父は蘇耆。参知政事であった蘇易簡の孫でもある。若い頃から世を慷慨し、軍事論を好み大志があった。 初めは父の推挙により太廟斎郎に任命され、景祐年間(1034年 - 1038年)に進士に合格し、知長垣県をへて大理評事となった。 康定年間(1040年 - 1041年)、河東に地震があったときに蘇舜欽は上疏し当時の政治の欠陥を論じて范仲淹に認められ、 集賢校理となり進奏院を監督し、時の宰相・杜衍の娘を娶るまでになった。
「公銭を用いて妓楽を召し、賓客をもてなした」という理由で、おもに范仲淹の反対派により弾劾され、蘇州に流遇することになる。 水石を買って「滄浪亭」を造り、自らも「滄浪翁」と号して読書につとめ、憤りを詩にあらわした。のちに湖州の長吏となり、 その地で没する。
天聖年間(1023年 - 1031年)に多くの学者が修飾の多い美文を書いていた中で、河南の穆修とともに古体による詩を書き、 欧陽脩の賞賛を得た。草書にも優れていたという。
著作に『蘇学士文集』16巻、『聞見雑録』、『滄浪集』がある。



蘇軾(そ しょく)
(景祐3年12月19日(1037年1月8日) - 建中靖国元年7月28日(1101年8月24日))は、中国北宋の政治家としてもかなりの活躍をしたが、 宋代きっての文豪としてもあらゆるジャンルで輝かしい業績をあげた。また、ほかの芸術の分野においても書家、画家として優れ、 音楽にも通じていた。
東坡居士と号したので、蘇東坡(そとうば)とも呼ばれる。字は子瞻(しせん)。また、坡公・坡仙などと呼ばれ敬慕されていた。 諡は文忠公。蘇洵の長男で、弟は蘇轍であり、この3人に韓愈・柳宗元・欧陽脩・曽鞏・王安石を加えた8人を「古文」の 唐宋八大家という[1]。子に蘇邁・蘇?・蘇過・蘇遯ら。曾孫は蘇公弼(威州刺史)、玄孫娘に耶律楚材の夫人 (蘇公弼の娘で、耶律鋳の生母)がいる。
眉州眉山県(現在の四川省眉山市東坡区)の出身[2]。8歳で道士張士簡の塾に入り勉学に励み、13歳で弟の蘇轍と共に劉巨という人の 門徒となり作詩を学んだ[3]。また20歳までの間に経史に博通しており、賈誼や陸贄の書を好んでは、 『荘子』を読んで痛く感銘を受けたとされている[4][5]。
嘉祐2年(1057年)22歳のときに弟の蘇轍とともに進士となる[2]。このときの科挙は、欧陽脩が試験委員長を務め、当時はやりの文体で書かれた答案は全て落とし、 時流にとらわれない達意の文章のみ合格させるという大改革を断行した試験であり、蘇軾・蘇轍・曽鞏の3名のみ合格した[1]。 合格後、地方官を歴任し、英宗の時に中央に入る。この時期に親子三人で唱和し作成した「南行集」は、杜甫や梅堯臣の詩を学び五言古詩が 多く収録されている。しかし現存しておらず、50巻の詩集(合註本)の巻一に収める42首が面影を残しているのみである[6]。 治平3年(1066年)に父の蘇洵が亡くなってからは、政界から一度離れ故郷に帰って喪に服す。再び政界に復帰したのは煕寧2年(1069年)、 蘇軾34歳であった[7]。
次代の神宗の時代になると、唐末五代の混乱後の国政の立て直しの必要性が切実になってきた[8]。その改革の旗手が王安石であり、 改革のために「新法」と呼ばれる様々な施策が練られた[8]。具体的には『周礼』に説かれる一国万民の政治理念すなわち万民を斉しく 天子の公民とする斉民思想に基づき、均輸法・市易法・募役法・農田水利法などの経済政策や、科挙改革や学校制度整備などの 教育政策が行われた[8]。蘇軾は、欧陽脩・司馬光らとともにこれに反対したため[9]、2度にわたり流罪を被り辺鄙な土地へ 名ばかりの官名を与えられて追放された[2]。
最初の追放は元豊2年(1079年)蘇軾44歳で湖州知州の時代である[2]。国政誹謗の罪を着せられて逮捕され、厳しい取り調べを受ける事になる。 この時、御史台の取り調べの際に蘇軾が残した供述書は、後に「烏台詩案」と呼ばれ、問題とされた蘇軾の作品への彼自身の解釈が 述べられている。この「烏台詩案」を書き残した時は死を覚悟していたが、神宗の特別の取り計らいで黄州へ左遷となった[2]。
左遷先の土地を東坡と名づけて、自ら東坡居士と名乗った。黄州での生活は足かけ5年にも及び、経済的にも自ら鋤を執って 荒地を開墾するほどの苦難の生活だったが、このため彼の文学は一段と大きく成長した[2]。流罪という挫折経験を、 感傷的に詠ずるのではなく、彼個人の不幸をより高度の次元から見直すことによって、たくましく乗り越えようと努めた[2]。 平生の深い沈思の結果が、彼に現実を超越した聡明な人生哲学をもたらした[2]。この黄州時代の最大の傑作が『赤壁賦』である。 赤壁は、三国時代の有名な古戦場であり、西暦208年、呉と蜀の連合軍が、圧倒的な数を誇る魏の水軍を破ったことで知られる[2]。 ただし合戦のあった赤壁は、黄州から長江を遡った南岸の嘉魚県の西にあり、蘇軾が読んだ赤壁は実際の古戦場ではない。 史跡を蘇軾が取り違えたのではなく、古くからそこを合戦の場だとする民間伝承があったと思われる[2]。
元豊8年(1085年)に神宗が死去し、哲宗が即位すると、幼い哲宗に代わって宣仁太后高氏の垂簾朝政が8年間続く。 彼女の後押しも有って旧法党の官僚は要職に就き、元豊9年(1086年)に司馬光は宰相となる。蘇軾も同時期に名誉を回復され50歳で 中央の官界に復帰し、中書舎人・翰林学士などを経て、礼部尚書まで昇進した[10]。新法を全て廃止する事に躍起になる宰相・司馬光に対して、 新法でも募役法のように理に適った法律は存続させるべきであると主張して司馬光と激しく論争し、次第に旧法派の内部の分裂が 見られるようになる。
司馬光の死後は対立が先鋭化し、蘇軾・蘇轍兄弟を中心にした蜀党(四川派)と、程頤・程顥兄弟の洛党(洛陽派)、 朔党(北方派)の三つの派閥が党争を起こす事になる。蘇軾は保守派に対し公平な批判的意見を述べたことにより、攻撃の的とされ、 地方と朝廷を転々として逃れていた。宣仁太后高氏の寵愛があっても確固たる地位につかなかったのはこのことが原因であったのだ[11]。
紹聖元年(1094年)に再び新法派が力を持つと蘇軾は再び左遷され(この時59歳)、恵州に流され、さらに62歳の時には 海南島にまで追放された[10]。二度目の追放である。黄州時よりもより高い役職に就いていた為、 左遷時の罰も重かった。それでも飽き足りなかった朝廷側は、場所をさらに恵州から昌化軍(現在の海南島西部)に移した。 熱帯で異民族の黎(ロイ)族がいる環境で一層侘しい生活を送る[12]。
66歳の時、哲宗が死去し、徽宗が即位するにおよび、新旧両党の融和が図られると、ようやく許された。提挙玉局観という 名誉職を授けられたが、都に向かう途中病を得て、常州で死去した。しかし、この苛酷な運命にあっても、彼の楽天性は強靭さを失わず、 中国文学史に屹立する天性のユーモリストであった[10]。
蘇軾の伝記は、蘇軾の死後まもなく弟の蘇轍が書いた長文の墓誌銘「亡兄子瞻端明墓誌銘」が最も確実な資料である。 『宋史』巻338の列伝は、ほぼこの墓誌銘に基づく[13]。
詩人として
蘇軾は北宋代最高の詩人とされ、その詩は『蘇東坡全集』や注釈が充実している『蘇軾全集校注』に纏められている。 通釈は主に『蘇東坡 漢詩大系 第17巻』(近藤光男訳、集英社、初版1964年)による。
詩風
生涯で二度左遷を味わい、新法党に対する批判者扱いとされていた蘇軾は、自身の考えをあからさまに述べることが出来なかった 期間が長かった。しかし、実際の詩文を読んでみると、柔軟でしなやかであり、芯が強い。強く生き貫こうとする志が表れているのである[14]。
また蘇軾は、自然を好み自然(造物)に自身の心情を託している。宋代に入り自然描写を含んだ詩が多く出てきているが、 擬人法を用いて早い時期から習得し成立させていたのが蘇軾であった。擬人法の先例として、次の句が挙げられる[15]。
蘇軾と弟・蘇轍
蘇軾と蘇轍は兄弟愛に溢れた人物たちであった。父蘇洵と兄弟で都に上京してから、同じ科挙合格者として政治の世界に入った。 時には兄の地方役職の赴任の際に70キロ先まで見送りをし[16]、またある時には支持していた旧法党が崩れ、兄弟ともに左遷を味わう[17]。 蘇軾は人生で多くの詩を残しているが、その多くは弟に向けた離別詩が多い。
蘇軾と王安石
蘇軾の散文や詩は柔軟でしなやかであり、芯が強いのが特徴である。一方で、同時代に活躍し政治的にも対立をしていた王安石の散文は、 明快で硬質な文体であった。人生も文体の特徴も正反対な両者は交わることのない関係に思われるが、詩文を通じた交流が有った。 要職を退いた後の王安石は蘇軾に対して以下の七言絶句を送っている。
北山 北山輸緑漲横陂 直塹回塘艶艶時 細數落花因坐久 緩尋芳草得歸遲
書家として
書家としても著名で、米?・黄庭堅・蔡襄とともに宋の四大家と称される。蘇軾ははじめ二王(王羲之と王献之)を学び、 後に顔真卿・楊凝式・李?を学んだ。代表作に、「赤壁賦」(せきへきのふ)・『黄州寒食詩巻』などがある。 『黄州寒食詩巻』(こうしゅうかんじきしかん、『寒食帖』(かんじきじょう)とも)は、元豊5年(1082年)47歳のとき、 自詠の詩2首を書いた会心の作で、この2首は何れも元豊5年春、寒食節(清明節の前日)を迎えたときの詩である。 縦33cmの澄心堂紙に行書で17行に書いたもので、「年」・「中」・「葦」・「帋」の字の収筆を長くして変化を出している。 落款はないが、黄庭堅の傑作といわれる跋(『黄州寒食詩巻跋』)があり、両大家の代表作をあわせ見ることができる貴重な作品である。
画家として
絵画の分野において士夫画の提唱者であり、自身も墨竹画をよくした。現存する自筆作品は限られるが、絵画に関して論じた文章や 詩を多く残している。その代表的な作品として『浄因院画記』・『伝神記』・『??谷偃竹記』などがある。 また、題跋詩や題画詩にも蘇軾の絵画に対する思想がみえる。「書?陵王主簿所画折枝二詩」に「画を論ずるに形似を以てするは、 見児童と隣す」とあるように、画の「形似」ではなくその内の精神性に重きをおいていた。 蘇軾と思想を共にした人物には文同・黄庭堅・米?・華元などがいる。なかでも最も影響を受けたと思われるのが、 その従兄弟であり画竹の師でもあった文同である。蘇軾は文同の画について「與可の竹を画く時、竹を見て人を見ず」と評した。 また、王維の詩について「詩中に画あり、画中に詩あり」と評している。
居士(禅信奉者)として
東坡居士と呼ばれ始めたのは、黄州左遷時からである。左遷や貶謫の波乱の中、この状況をプラスに作用させ、禅的境地に磨きをかけた。 蒙古チンギス・カンの宰相、耶律楚材こと湛然居士は、「しばしば東坡を真人中の竜と称せり」[22]と述べており、 道元禅師は「筆海の真竜なりぬべし」[23]と評価している[24]。蘇軾は廬山の偈に、「溪声は便ちこれ広長舌、 山色豈に清浄身にあらざらんや。」と述べている。初めから仏教に通じていたわけではなかったが、生死を透脱するためにすべての 大地を悟りの導く門として扱うことにより、愁いや痛みを払いのけた。度を超す程仏典に浸ったこともあり、 “唐代に香山(白楽天)有り、宋代に子瞻有り。”と言われた[25]。 
備考
蘇軾は墨石の収集に熱心で、名墨・珍墨があると聞けば高麗にまで使いを出すほどであり、同じく収集家だった黄庭堅から名墨を 強奪したエピソードも残されている[33]。集めるだけでは満足できなくなった蘇軾は、人里離れた松林に小屋を建てて墨の自作に挑戦したが、 失敗し山火事を起こしている。しかし、失敗しても諦めなかった蘇軾は、後に「海南松煙墨」という名墨を完成させている[33]。
中華料理のポピュラーな品目である「東坡肉」(トンポーロー、ブタの角煮)は、彼が黄州へ左遷させられた際に 豚肉料理について詠じた詩からつけられたという。
蘇軾の死後、蔡京が握ると旧法党の弾圧が再び行われて遺族は困窮に悩まされていたが、かつて蘇軾の部下であった高? (物語『水滸伝』では最大の悪役とされている)は蘇軾から受けた恩義に報いるために秘かに遺族を支援していたという。


蘇 秦(そ しん)
(? - 紀元前317年?)中国戦国時代の弁論家。張儀と並んで縦横家の代表人物であり、諸国を遊説して合従を 成立させたとされる。
以下は『史記』蘇秦列伝における事跡である。
洛陽の人。斉に行き、張儀と共に鬼谷に師事し、縦横の術を学んだ。数年間諸国を放浪し、困窮して帰郷した 所を親族さえも嘲笑され、発奮して相手を説得する方法を作り出した。最初に周の顕王に近づこうとしたが、 蘇秦の経歴を知る王の側近らに信用されず、失敗した。次に秦に向かい、恵文王に進言したが、 受け入れられなかった。当時の秦は商鞅が死刑になった直後で、弁舌の士を敬遠していた時期のためである。
その後は燕の文公に進言して趙との同盟を成立させ、更に韓・魏・斉・楚の王を説いて回り、戦国七雄のうち 秦を除いた六国の間に同盟を成立させ、六国の宰相を兼任した。この時、韓の宣恵王を説いた際に、 後に故事成語として知られる「鶏口となるも牛後となることなかれ」という言辞を述べた。
趙に帰った後、粛侯から武安君に封じられ、同盟の約定書を秦に送った。以後、秦は15年に渡って東に侵攻 しなかった。蘇秦の方針は秦以外の国を同盟させ、それによって強国である秦の進出を押さえ込もうとする もので、それらの国が南北に縦に並んでいることから合従説と呼ばれた。
合従を成立させた蘇秦は故郷に帰ったが、彼の行列に諸侯それぞれが使者を出して見送り、さながら王者の ようであった。これを聞いて周王も道を掃き清めて出迎え、郊外まで人を出して迎えた。故郷の親戚たちは 恐れて顔も上げない様であった。彼は「もし自分にわずかの土地でもあれば、今のように宰相の印を持つことが できたろうか」と言い、親族・友人らに多額の金銭を分け与えた。
合従解体後は燕に仕えたが、国内での立場が微妙になったために斉に移った。その目的は斉の国力を弱め、 燕の利益を図ることにあった。斉では?王に取り立てられたが、そのため対立者により暗殺されてしまう。 蘇秦は死ぬ直前に?王に対して「私が死んだら私の遺体に対し車裂きの刑に処し、『蘇秦は燕のために斉で 謀反を企てた』としてください。そうすれば私を殺した者が出てくるでしょう」と言った。?王は蘇秦の遺言に 従うと、蘇秦を殺した者が自首してきたので捕らえて処刑した。
張儀列伝によると、張儀を秦に送ったのも蘇秦の魂胆で、秦による趙への出兵を張儀に止めさせる狙いがあった。
史記の記述における矛盾[編集]
上記は史記によるものだが、後世の研究において矛盾が指摘されている[1]。たとえばこの時期に、 趙の君主は王号を称していなかった。また秦の進出も魏までに留まっており、それより東方の燕や斉には 秦の脅威は及んでいなかった。
司馬遷が史記を執筆した時代は蘇秦より200年以上後であり、また秦の始皇帝の焚書坑儒によって大量の資料が 失われていた。そのため秦の記録と趙世家だけが司馬遷の依拠した資料であり、東方の情報が欠乏していた。 そこで秦での張儀の活動については詳しくわかるが、東方で活動した蘇秦については事績が曖昧になった。 さらに司馬遷自身が「世間では蘇秦の異聞が多く、異なる時代の事件をみな蘇秦の事績に附会している」 としている。従って司馬遷は蘇秦の事績の復元を乏しい資料によって行ったのだが、その編集を誤ったと 考えられている。
1973年、湖南省長沙市の馬王堆漢墓から、『戦国縦横家書』(日本語訳:工藤元男 朋友書店  ISBN 9784892810336)という司馬遷の時代より古い書物が発見された。これに基づいて蘇秦の事績は大幅に 修正された。
蘇秦は張儀よりも後の時代に活躍した人であった。その時代、斉は燕の領土を奪い、秦と並ぶ二大強国と なっていた。そこで諸国はこの2国のどこと同盟するかという対応に迫られた。また燕は斉への復讐を企てていた。 この時に燕に登用されたのが蘇秦であり、斉への使者となった。さらに斉でも外交官となって合従のために 奔走するが、実は燕のために斉と趙の離間を図っていた。その結果、まず紀元前288年に燕・斉・趙・韓・魏の 5国が合従して秦を攻めたが、5ヶ国連合軍は退却した。次に紀元前284年には今度は燕・趙・魏・韓・楚の 5ヶ国が合従して斉を攻撃し、燕は復讐を果たすのである。
淮南子[編集]
『淮南子』詮言訓では「公孫龍粲於辭而貿名,鄧析巧辯而亂法,蘇秦善説而亡國。」と列記され、 その智謀(弁論術)がかえって国をほろぼした例として批評されている。


蘇廷(そてい)
李白が二十歳になったとき、都で礼部尚書(正三品)をしていた蘇廷(そてい)が左遷され、 成都にあった益州大都督府の長史(次官)になって赴任する際李白と遭遇します。 蘇廷は 李白の才能を認めるも部下として採用はしませんでした。



蘇 轍(そてつ)
(1039年3月17日(宝元2年2月20日) - 1112年10月25日(政和2年10月3日))は、 中国・北宋の文人で官僚。蘇洵の次子、蘇軾の三歳下の弟にあたる。字は子由。潁浜遺老と号す。 唐宋八大家の一人に数えられる。
眉州眉山(四川省眉山市東坡区)の出身。1057年、19歳の時に兄とともに進士に及第し、 商州軍事推官となるが父・蘇洵を首都で養うこととし、兄・蘇軾が任地(鳳翔府)から帰ってきて はじめて大名(河北省大名県)推官となる。神宗の時に三司條例司の属官となったが、 王安石の青苗法に反対して河南推官に転出させられ、斉州掌書記をへて著作佐郎となる。 いわゆる「烏台の詩案」で兄の蘇軾が罪を得たときに連座して、監?州塩酒税・知績渓県に 落とされる。
哲宗が即位して召されて秘書省校書郎となり、右司諫・起居郎・中書舎人・戸部侍郎と累進し、 翰林学士となり権吏部尚書・御史中丞・尚書右丞をへて門下侍郎まで昇進した。 しばしば上書直言したが、帝の意にかなわず知汝州(河南省)に左遷される。 袁州の知とされたが赴任先に着く前に朝議大夫に落とされ、南京をへて?州に到る。 化州別駕・雷州安置・循州安置(広東省)、徽宗に代が替わっても永州・岳州(湖南省) と地方回りをさせられていたが、大中大夫に復帰させられ、提挙鳳翔上清・太平宮として 許州に移った。崇寧年間(1102年-1106年)に官を辞め、許州に室を築き、潁浜遺老と称し 交友を絶ち、終日黙座して経史諸子を研究すること十年にして74歳で没する。 端明殿学士を追贈され、南宋の淳熙年間に文定と諡される。
著作
蘇轍の詩は兄・蘇軾にはおよばないが鷹揚淡泊にして、沈静簡潔な人柄をあらわすと評される。 また書を能くした。
著作として、『集』50巻・『後集』24巻・『三集』10巻・『應詔集』12巻・『詩集傳』20巻・ 『春秋集解』12巻・『論語拾遺』1巻・『孟子解』1巻・『古史』60巻・『龍川略志』10巻・ 『別志』8巻・『道徳経解』2巻などがある。
また、兄・蘇軾を慕っており、人生において兄に関わる作品を残してきた。 その中でも、兄が亡くなり遺骸を葬る際に、長文の墓誌銘「亡兄子瞻端明墓誌銘」を書いている。



蘇東坡(そとうば)
中国北宋の詩人・政治家。四川省生。名は軾、字は子瞻、東坡は号。文人として世に知られる。
詩文を通じて、その作品の力強さは、人間愛の深さ、不屈の意志、激しい正義感など、人間としての偉大さに発するといわれる 。画は枯木・竹石・寒林を得意とし、書は若年に王羲之、晩年には顔眞卿を学んだ。政治家としては、 いずれの党派に対しても常に批判的立場をとった。徽宗元年(康和3)歿、66才。
景祐3年12月19日(1037年1月8日) - 建中靖国元年7月28日(1101年8月24日))
中国北宋代の政治家、詩人、書家。東坡居士と号したので、蘇東坡(そとうば)とも呼ばれる。字は子瞻(しせん)。 蘇洵の長子、弟は蘇轍であり、この3人に韓愈・柳宗元・欧陽脩・曽鞏・王安石を加えた8人を「古文」の唐宋八大家という[1]。 子に蘇邁、蘇?、蘇過、蘇遯ら。曾孫は蘇公弼(威州刺史)、玄孫娘に耶律楚材夫人(蘇公弼の娘、耶律鋳の生母)がいる。
蜀(四川省)眉州眉山(眉山市)の出身である[2]。嘉祐2年(1057年)22歳のときに弟・蘇轍とともに進士となる[2]。 このときの科挙は、欧陽脩が試験委員長を務め、当時はやりの文体で書かれた答案は全て落とし、時流にとらわれない 達意の文章のみ合格させるという大改革を断行した試験であり、蘇軾、蘇轍、曽鞏の3名のみ合格した[1]。 合格後、地方官を歴任し、英宗の時に中央に入る。しかし次代の神宗の時代になると、唐末五代の混乱後の国政の立て直しの 必要性が切実になってきた[3]。その改革の旗手が王安石であり、改革のために「新法」と呼ばれる様々な施策が練られた[3]。 具体的には『周礼』に説かれる一国万民の政治理念すなわち万民を斉しく天子の公民とする斉民思想に基づき、 均輸法・市易法・募役法・農田水利法などの経済政策や、科挙改革や学校制度整備などの教育政策が行われた[3]。 蘇軾は、欧陽脩・司馬光らとともにこれに反対したため[4]、2度にわたり流罪を被り辺鄙な土地へ名ばかりの官名を与えられて 追放された[2]。最初の追放は元豊2年(1079年)蘇軾44歳で湖州の知事時代である[2]。国政誹謗の罪を着せられて逮捕され、 厳しい取り調べを受け、彼自身も一旦死を覚悟したが、神宗の特別の取り計らいで黄州(湖北省黄州区)へ左遷となった[2]。 左遷先の土地を東坡と名づけて、自ら東坡居士と名乗った。黄州での生活は足かけ5年にも及び、経済的にも自ら鋤を執って 荒地を開墾するほどの苦難の生活だったが、このため彼の文学は一段と大きく成長した[2]。流罪という挫折経験を、 感傷的に詠ずるのではなく、彼個人の不幸をより高度の次元から見直すことによって、たくましく乗り越えようと努めた[2]。 平生の深い沈思の結果が、彼に現実を超越した聡明な人生哲学をもたらした[2]。この黄州時代の最大の傑作が『赤壁賦』である。 赤壁は、三国時代の有名な古戦場であり、西暦208年、呉と蜀の連合軍が、圧倒的な数を誇る魏の水軍を破ったことで知られる[2]。 ただし合戦のあった赤壁は、黄州から長江を遡った南岸の嘉魚県の西にあり、蘇軾が読んだ赤壁は実際の古戦場ではない。 史跡を蘇軾が取り違えたのではなく、古くからそこを合戦の場だとする民間伝承があったと思われる[2]。
元豊8年(1085年)に神宗が死去し、哲宗が即位して旧法党が復権すると、蘇軾も名誉が回復され、50歳で中央の官界に復帰し、 翰林学士などを経て、礼部尚書まで昇進した[5]。新法を全て廃止する事に躍起になる宰相・司馬光に対して、 新法でも募役法のように理に適った法律は存続させるべきであると主張して司馬光と激しく論争したことから旧法派の内部でも 孤立する。更に紹聖元年(1094年)に再び新法派が力を持つと蘇軾は再び左遷され、恵州(現在の広東省)に流され、 さらに62歳の時には海南島にまで追放された[5]。66歳の時、哲宗が死去し、徽宗が即位するにおよび、 新旧両党の融和が図られると、ようやく許されたが、都に向かう途中病を得て、常州(現在の江蘇省)で死去した。 しかし、この苛酷な運命にあっても、彼の楽天性は強靭さを失わず、中国文学史に屹立する天性のユーモリストであった[5]。



孫 権(そんけん)
三国時代の呉の初代皇帝。字は仲謀。長命で帝位に昇る相があるとされ、三国時代の君主の中で最も長命した。 なおよく並べられる曹操・劉備とは(父孫堅が同世代なので)およそ1世代下にあたる。 208年(建安13年)には父の仇である黄祖を討ち取った。同年、曹操が大軍を率いて南下してくると、 孫氏軍閥は抗戦か降伏かの決断を迫られた。「近ごろ罪状を数えたてて罪びとを討伐せんとし、軍旗が南に向ったところ、 劉琮はなんら抵抗も示さず降伏した。今度は水軍八十万の軍勢を整えて、将軍(あなた)とお会いして呉の地で狩猟[4]を いたそうと思う。」孫権はこの手紙を受け取ると群臣たちに示したが、震え上がり顔色を変えぬ者はなかった。 [5]豪族の集合体である孫氏軍閥の性質から、帰順派(張昭・秦松等)が多勢を占める中、孫権は抗戦派(周瑜・魯粛等) の意見及び孫権に救援を求めるために魯粛に随行する形で劉備から派遣された諸葛亮の説得により開戦を決断した。 孫権は刀を抜くと前に置かれた上奏文を載せるための案(つくえ)を斬りつけて、「部将や官吏たちの中に、 これ以上、曹操を迎え入れるべきだと申す者がおれば、この案(つくえ)と同様になるのだ。」と言った。 [6]かくして孫権は劉備と同盟を結び、曹操と戦うこととなった。周瑜らは同年の赤壁の戦いで、黄蓋の火攻めにより曹操の 水軍を大いに破る。

孫秀(西晋)(そん しゅう)
孫秀 (孫呉) - 三国時代呉の皇族。 孫秀 (西晋) - 西晋の政治家。中書令。 司馬倫の寵臣[編集]
彼の家は代々五斗米道を奉じており、孫秀もまたその道徒であった。
若くして琅邪郡の小吏となった。彼は狡猾・貪淫であり、自らの自慢ばかりしていたので、 黄門郎潘岳はその人となりを憎み、幾度も鞭打って辱めたという。
琅邪王司馬倫が赴任すると、孫秀は言葉巧みに媚び諂ってその信頼を得るようになった。 そして、文書を代行して作成するようになると、司馬倫はその文才を称えた。
277年8月、司馬倫が趙王に改封されるに及んで、孫秀もまた戸籍を趙に移し、侍郎に任じられた。 その後も司馬倫の下で昇進を重ね、その謀略を預かった。
290年9月、司馬倫が関中の守備に就くと、孫秀もまたこれに付き従った。294年、 司馬倫は関中を混乱させて?・羌の反乱を招いてしまった。296年5月、朝廷は司馬倫を更迭し、 代わりに梁王司馬?(司馬倫の兄)に関中を任せた。雍州刺史解系は弟の解結と共に、 司馬倫の謀略を担当する孫秀を処刑し、挙兵した?・羌に謝罪するべきだと主張した。 朝廷の第一人者であった司空張華はこの事を司馬?に伝えると、司馬?もまた同意した。 孫秀の友人辛冉は司馬?へ「?・羌は勝手に反したまでであり、これは孫秀の罪ではありません」 と述べ、司馬?に許しを請うと、孫秀の死罪は免じられた。その後、司馬倫が洛陽に召喚されると、 孫秀もこれに従った。
司馬倫と孫秀は当時権勢を誇っていた賈謐を始めとした賈氏一派に取り入ると、 司馬倫に録尚書事や尚書令の地位を与えるよう求めたが、張華と尚書裴?は共にこれに反対したので、 過去の一件もあって孫秀は張華を強く憎んだ。張華もまた孫秀らが変事を起こすのを恐れ、 武庫で火事が起こった時は兵を配置して守備を固めてから火事の消火に当たる程であった。
297年、孫秀は以前からの恨みから解系を讒言し、解系は陥れられて免官となった。
299年12月、賈南風は皇太子司馬?を忌み嫌っており、罪をでっち上げて廃立して庶民に落とし、 300年1月には許昌宮に幽閉した。
3月、右衛督司馬雅・常従督許超はかつて東宮に仕えていたので、皇太子廃位に大いに憤った。 彼らは殿中中郎士猗らと共に賈南風を廃して皇太子の復位を目論み、強大な兵権を握る司馬倫に 協力を仰ごうと思い、孫秀へ「中宮(皇后)は凶悪無道であり、賈謐らと共に太子を廃しました。 今、陛下には後継がおらず国は危険な状態にあり、大臣が事を起こそうとしています。 趙王(司馬倫)は中宮に仕え、賈謐・郭彰と親しくしているので、太子の廃位は趙王も 加担していると思われています。このままでは必ず禍が起きるでしょう」と述べ、 協力を持ち掛けた。孫秀はこれに同意して司馬倫に伝えると、司馬倫もまた賛同し、 通事令史張林と省事張衡らに命じて政変の際には内応するよう準備させた。たが、孫秀は裏では 密かに司馬倫へ「太子は聡明で剛猛な人物です。もし東宮に帰還できでも、誰かの制御を受けたり はしないでしょう。明公(司馬倫)は元々賈后(賈南風)と結託していたのは誰もが知るところで あり、今回太子のために大功を立てたとしても、太子は明公が周囲の圧力によりやむなく 協力したぐらいにしか思わず、明公に対する怨みは無くなっても感謝することなどないでしょう。 むしろ、今後もし過失があったらそれを口実に誅殺される恐れすらあります。 ここはわざと決起を遅らせ、賈后が太子を害するのを待つべきです。その後、 太子の仇をとるという大義名分で賈后を廃せば、禍を除いた上に更に大きな志を得ることも 可能でしょう」と勧めると、司馬倫は同意した。孫秀は司馬雅らが皇后を廃して太子を迎え 入れようとしていると言う噂を流すと、賈南風は各所に配置していた宮婢からこの情報を入手し、 驚愕した。同時に、孫秀は賈謐らに「急ぎ太子を除いて衆望を絶つべきかと」を進言すると、 賈南風は遂に謀殺を決め、黄門孫慮に命じて司馬?を殺害させた。
孫秀は夜に司馬雅を張華の下に派遣して「今や社稷は危険な状態であります。 趙王はあなたと共に朝廷を正し、覇者の事業を為そうと考えておられます」と告げた。だが、 張華は孫秀らが必ずや簒奪をなすであろうと確信しており、この申し出を拒絶した。
4月3日、孫秀らは右衛?飛督閭和・梁王司馬?・斉王司馬冏と共に政変を決行し、 賈氏一派を尽く捕らえて賈南風を落として建始殿に幽閉した。司馬倫は帝位簒奪の野心を抱いて いたので、孫秀と謀議して朝廷で声望がある者やかねてより怨みがある者を除くことにした。 これにより、張華・裴?・解系・解結らが逮捕され、三族皆殺しとなった。側近の劉振・ 董猛・孫慮・程拠らも処刑され、張華・裴?の取り巻きとみなされた者多数が罷免された。
権力を掌握[編集]
司馬倫は自ら符節を持って都督中外諸軍事・相国・侍中となり、権力を手中に収めると、 孫秀もまた大郡に封じられて中書令に任じられ、兵権を握った。文武百官で封侯された者は 数千人にも及び、みな司馬倫の指示を仰ぐようになったが、司馬倫は凡庸な人物であったので、 実際には孫秀が政治を運用して百官を動かした。その為、その威権は朝廷において顕かとなり、 衆望は次第に司馬倫ではなく孫秀の下に集まるようになった。
衛尉石崇の甥である欧陽建は司馬倫と仲が悪く、石崇もまた司馬倫と孫秀を嫌っていた。 ある日、孫秀は石崇の愛妾緑珠が美女だと知って譲るよう要求したが、石崇は拒否したので 孫秀はこれを深く怨んだ。
中護軍・淮南王司馬允(恵帝の弟)と斉王司馬冏は司馬倫が分を弁えずに好き勝手振る舞っている のに不平を抱いていた。また、司馬允は司馬倫と孫秀が異謀を抱いていると知り、 排斥を目論んで秘かに決起兵を養った。孫秀らはそれを察知して、これを大いに警戒した。
8月、孫秀らは謀議し、司馬允を太尉に昇格させて中護軍の兵権を奪おうとしたが、 司馬允は病と称して太尉の任を辞退した。孫秀は御史劉機を派遣し、詔と偽って司馬允の印綬を 奪い取ってその配下を逮捕させると、大逆不敬の罪で司馬允を弾劾した。司馬允は詔が孫秀の 筆跡だと知ると激怒して劉機を捕えようとしたが、劉機は隙を見て逃走したのでその部下2人を 処刑した。司馬允は司馬倫と孫秀の討伐を掲げ、淮南兵と中護軍の兵700人を率いて相国府を攻撃し、 司馬倫は追い詰められたが、司馬督護伏胤が寝返って司馬允を斬り殺したので、 乱は鎮圧された・子の秦王司馬郁・漢王司馬迪を始め、数千人が連座して処刑された。また、 かつて辱めを受けていた潘岳と、折り合いの悪かった石崇・欧陽建も謀反に加担したとでっち 上げられて一族皆殺しとなり、石崇の財産は没収された。石崇が嘆いて「我に罪などない。 奴輩(孫秀)の目的は我が家の財産だ」と言ったが、延尉は「財が禍を成すと知っているのに、 なぜ早く手放さなかったのだ。これは自業自得といえよう」と言い放った。
孫秀は司馬冏の存在も警戒し、許昌へ出鎮させて中央から遠ざけた。
孫秀が司馬倫に九錫を下賜するよう恵帝に上奏すると、百官で敢えて異議を唱える者はいなかった。 しかし、吏部尚書劉頌は「かつて、漢は魏に九錫を下賜し、魏もまた晋に九錫を下賜しましたが、 それはあくまで特例であり、これを平時の制度としてはなりません。周勃・霍光は功績多大な身 でありましたが、九錫は与えられておりません」と反対すると、司馬倫の側近張林は怒り 「劉頌は張華と結託していた。処刑すべきだ!」と述べたが、孫秀は「張華と裴?を処刑した事で、 既に民衆の信望は損なわれている。そのうえで劉頌まで殺すべきではない」と反対すると張林は 同意し、劉頌は光禄大夫に任じられた。司馬倫に九錫が下賜されると、孫秀は侍中・輔国将軍・ 相国司馬に任じられ、右率である事はこれまで通りであった。
ある人は孫秀へ「散騎常侍楊準・黄門侍郎劉逵は梁王司馬?を頼みとし、司馬倫を誅殺しようとして おります」と告げた。この時、天文が異常を見せていた事もあり、孫秀は司馬?を丞相に任じて 司徒府に住まわせ、楊準・劉逵を地方へ左遷した。
孫秀の子孫会は当時20歳で射声校尉の任にあったが、恵帝の娘河東公主を娶った。 公主は母の喪から1年たっていなかったが、構わず聘礼を行った。孫会の身体は矮小で容貌は醜く、 出で立ちは下等な召使いのようであったという。かつて、孫会は富家の子として城西で馬を売って いたが、その彼が公主を娶ったと聞き、百姓はみな驚愕したという。
11月、孫秀は恵帝に新しい皇后を立てようと思った。羊献容の外祖父である孫?は孫秀と同族であり 彼の子の多くが孫秀と親交が有ったので、皇后に立てられた。
301年1月、司馬倫の意を受け、孫秀は帝位簒奪の準備を進め、腹心に諸軍を統率させて各地に配した。 また、牙門趙奉に命じて宣帝(司馬懿)の神語であると称して「東宮(相国府)の司馬倫は速やかに 西宮(禁中)に入るように」と宣言させた。また、宣帝は果たされると、孫秀は侍中・中書監・ 驃騎将軍に任じられ、儀同三司の特権を与えられた。さらに司馬倫は孫秀を厚遇するようになり、 かつて文帝司馬昭が相国だった時に住んでいた内庫に住まわせた。政事は孫秀が専断するようになり、 事の大小にかかわらず、すべて孫秀の許可を得てから実行に移された。司馬倫が詔を下した時は 孫秀がいつも改変し、取捨を行って自ら青紙に書き写して詔書とした。朝に出された勅命が夜には 変えられた事が3・4度に及び、百官の異動も流水のように頻繁に行われた。
孫秀は国家の大権を掌握すると、欲しいままに奸謀をなし、多くの忠臣・良将を殺して私欲を 満たしたという。司隷従事游顥と殷渾は反目し合っており、殷渾は游顥の奴僕である晋興を引き込み、 彼に游顥が反乱を企んでいると孫秀へ告げさせた。孫秀は詳細を確認せずに游顥と 襄陽中正李邁を捕らえて殺害し、晋興を厚遇して部曲督に取り立てた。こうした事が幾度かあり、 洛陽の君子は生きているだけで喜びを感じるようになった。
孫秀は同じく側近の張林と以前より関係が悪く、表面上はお互い尊重し合っていたが、 裏では妬み合っていた。また、張林は自らに開府の特権が与えられなかったことを恨み、 太子司馬?に手紙を書いて「孫秀は専権して人心を失っており、功臣も全て小人で朝廷を乱し ております。まとめて誅殺すべきです。」と勧めた。だが、司馬?はこの手紙を司馬倫に見せると、 司馬倫は孫秀に渡した。孫秀は張林を逮捕するよう司馬倫に進言すると、司馬倫は同意した。 司馬倫は華林園に宗室を集めて会合を開くと、張林を招集させた。孫秀は王輿に乗って入殿すると、 張林を捕らえて三族と共に誅滅した。
最期[編集]
当時、斉王司馬冏・成都王司馬穎・河間王司馬?がそれぞれ強兵を擁して地方を治めており、 孫秀は司馬冏らが謀反を企んでいる事を知っていたので、これを深く憂慮して三王の補佐を名目に 司馬倫の臣下を派遣し、その将軍や郡守とした。同時に、司馬冏を鎮東大将軍に、 司馬穎を征北大将軍に任じ、さらに将軍府を開く事を認め、儀同三司の特権を与えて懐柔を謀った。
だが、司馬冏は監視役として派遣された管襲を殺害すると、孫秀討伐を掲げて挙兵し、 成都王司馬穎・河間王司馬?・常山王司馬乂・南中郎将新野公司馬?に使者を送って協力を呼びかけ、 各地の将軍や州郡県国にも決起の檄文を送り「逆臣孫秀が趙王を誤らせた。共に誅討しようで はないか。命に従わない者は三族を誅す」と宣言した。司馬穎・司馬乂・司馬?・司馬?はみなこれ に呼応した。
三王(司馬冏・司馬穎・司馬?)が挙兵したと聞いて孫秀は驚愕し、司馬冏の上書を偽造して 「正体不明の賊に攻撃を受けており、我が軍は脆弱であり守ること敵わず、朝廷から援軍を 派遣していただきますよう。」と書き換え、司馬倫は許昌にいる司馬冏を救援するという 名目で兵を動員した。上軍将軍孫輔・折衝将軍李厳に七千人を与えて延寿関から進ませ、 征虜将軍張泓・左軍将軍蔡?・前軍将軍閭和に九千人を与えて?阪関から進ませ、 鎮軍将軍司馬雅・揚威将軍莫原に八千人を与えて成皋関から進ませ、三軍を南下させて司馬冏の 北上を防いだ。東平王司馬楙を使持節・衛将軍・都督諸軍に任じて三軍を統率させた。
孫秀は毎日家中に各種祭祀器具を飾り付け、呪いによって勝利を得ようとして、巫術の文章を制作し、 巫覡に戦の日を選ばせた。孫秀は巫祝を信じており、怪異の類を信用していたという。
孫秀は司馬馥・司馬虔にも兵を与えて諸軍を援護させようとしたが、彼らは恐れて応じなかった。 司馬虔はかねてより劉輿と仲が良かったので、孫秀は劉輿に説得させて応じさせた。 孫秀の子孫会が将軍士猗・許超と宿衛兵(近衛軍)三万を率いて司馬穎に対抗し、 京兆王司馬馥と広平王司馬虔に八千人を与えて孫会軍の後援とした。
皇帝軍は当初は優勢であったが、味方同士の不和や油断により、次第に劣勢となっていった。 孫秀は三方の軍が危機に陥っている事を知っていたが、「既に司馬冏軍を破り、司馬冏を生け捕りに した」と嘘の発表を行い、衆人を惑わして朝廷の百官に祝賀させた。
司馬冏らの挙兵以後、百官や諸将は司馬倫と孫秀を殺害して天下に謝罪しようと思い、 隙を機会を窺うようになった。孫秀はこれを恐れて中書省から外に出なくなり、 後に河北軍が全て敗れたという報告が届くと、深く憂慮してなす術が無かった。 義陽王司馬威は孫秀へ、尚書省と八座(六曹尚書と尚書令、尚書僕射)と今後の対応につい て論議するよう勧めると、孫秀はこれに従った。また、四品官以下の子弟で在15歳以上の者を 洛陽城内にかき集めると司隸の所に集結させると、皇帝軍の出征に従軍させた。だが、内外の 各軍はみな孫秀を殺害しようと考えており、司馬威は禍を恐れて崇礼門を出て自宅に帰った。
孫会・許超・士猗等が敗北を喫して洛陽に逃げ戻ると、孫秀と対策を練った。 ある者は残兵を集めて再戦するよう主張し、ある者は宮殿を焼き払って従わない者を殺し、 司馬倫を連れて南に逃げて荊州を守る孫?や宛を守る孟観を頼るよう主張し、 ある者は船で東に逃げて海に入るよう主張したが、結局決断出来なかった。
7日、左衛将軍王輿と尚書広陵公司馬?が営兵700人余りを率いて南掖門から宮中に入ると、 勅命を下して諸将へ宮門を押さえるよう命じ、三部司馬が内から応じた。政変を知った孫秀は 中書省の南門を閉めたので、王輿は兵士に壁を乗り越えさせ、さらに家屋を焼き払った。 孫秀は恐れて許超・士猗と共に逃亡を図るも、左衛将軍趙泉に斬り捨てられ、見せしめとされた。 司馬倫の側近は尽く誅殺され、司馬倫もまた金?城に幽閉された後に殺害された。 司馬倫は最期に「孫秀が我を誤らせた!孫秀が我を誤らせた!」と慟哭したという。


太公望(たいこうぼう)
呂尚(りょ しょう)は、紀元前11世紀ごろに活躍した周の軍師、後に斉の始祖。
姓は姜、氏は呂、字は子牙[2]もしくは牙[3]、諱は尚とされる[4]。軍事長官である師の職に就いていたことから、 「師尚父」とも呼ばれる[3][注 1]。謚は太公。斉太公、姜太公の名でも呼ばれる。一般には太公望(たいこうぼう) という呼び名で知られ、釣りをしていた逸話から、日本ではしばしば釣り師の代名詞として使われる[5]。
歴史上重要な人物にも拘らず、出自と経歴は数々の伝説に包まれて実態がつかめない存在である[4]。 殷代の甲骨文に呂尚の領国である斉の名前は存在するものの、周初期の史料に呂尚に相当する人物の名前を記録したものは 確認されていない[6]。
『史記』斉太公世家では、東海のほとりの出身であり、祖先は四岳の官職に就いて治水事業で禹を補佐したとされている[4][7]。 一族の本姓は姜氏だったが、支族は呂(現在の河南省南陽市西部)や申(現在の陝西省と山西省の境)の地に移住し、 土地名にちなんだ呂姓を称したという[4][3]。元は屠殺人だった、あるいは飲食業で生計を立てていたとする伝承が存在する [2][3]。
また周に仕える以前は殷の紂王に仕えるも紂王は無道であるため、立ち去り諸侯を説いて遊説したが認められることがなく、 最後は西方の周の文王のもとに身を寄せたと伝わる[8]。周の軍師として文王の子武王を補佐し、殷の諸侯である方の進攻を防い だ[9]。殷の王である帝辛(受王、紂)を牧野の戦いで打ち破り、軍功によって営丘(現在の山東省?博市臨?区)を中心とする 斉の地に封ぜられる[10]。
営丘に赴任後、呂尚は隣接する莱の族長の攻撃を防いだ。『史記』によれば、呂尚は営丘の住民の習俗に従い、 儀礼を簡素にしたという[7]。営丘が位置する山東は農業に不適な立地だったが、漁業と製塩によって斉は国力を増した[4]。 また、斉は成王から黄河、穆稜(現在の湖北省)、無棣(現在の河北省)に至る地域の諸侯が反乱を起こした時、 反乱者を討つ権限を与えられた[11]。死後、丁公が跡を継いだ。呂尚は没時に100歳を超えていたという[11]。
しばしば呂尚は部族集団の長とみなされ、周と連合して殷を滅ぼした[12]、もしくは周軍の指揮官として殷を攻撃したと 解される[4]。呂尚が属する姜氏は周と婚姻関係があったと推定する意見もある[4][13]。
春秋初期に強国となった斉は、自国の権威を高めるために始祖である呂尚の神格化を行った[14]。 呂尚の著書とされる『六韜』と『三略』は唐代に重要視され、731年に玄宗によって呂尚と前漢の張良を祀る太公廟が各地に 建立された[15]。760年に粛宗から武成王を追贈され、太公廟は武成王廟と呼ばれるようになり[15]、 文宣王孔子とともに文武廟に祭祀された。明の時代に入ると、洪武帝は周の臣下である呂尚を王として祀るのは 不適当であるとして、武成王廟の祭祀を中止させた[15]。
呂尚が文王に仕えた経緯については、『史記』に3つの逸話が紹介されている。 しかし、いずれの逸話も信憑性に疑問がもたれている[16]。
文王は猟に出る前に占いをしたところ、獣ではなく人材を得ると出た。狩猟に出ると、落魄して渭水で釣りをしていた 呂尚に出会った。二人は語り合い、文王は「吾が太公[注 2]が待ち望んでいた人物である」と喜んだ。 そして呂尚は文王に軍師として迎えられ、太公望と号した。3つの逸話の中で一般に知られているのは、 この説である[17]。陝西省宝鶏には太公望が釣りをしたという釣魚台があり、観光地となっている。
元々呂尚は殷に仕えていたが、帝辛の悪行に反発して殷を出奔した。諸侯の元を遍歴した後、文王に仕える。
呂尚は東方の海浜に隠棲していたが、周の臣下で旧知の仲である散宜生と?夭の誘いで?里で拘禁されていた文王に会おうとした。 呂尚は帝辛に美女と財宝を贈ることを提案し、文王を釈放させた後、周に仕官した。
呂尚は、後世の兵法と周の権謀術数を論じる人間の尊敬の対象とされた[3]。兵法書『六韜』は呂尚の著書とされたが、 『六韜』は後代の人間による著作であり、実際に書かれた時期は戦国末期以降と考えられている[18]。 また、呂尚は『三略』の著者にも仮託されている[2]。
後秦の王嘉が編集した『拾遺記』に収録されている有名な説話として、呂尚が斉に封ぜられた時に昔別れた妻がよりを 戻そうと来たがこれを拒んだ話がある(「覆水盆に返らず」)[2]。『漢書』に収録された朱買臣の逸話など、 中国には類似するエピソードが多く存在する[19]。
明代の学者・謝詔が著した「風月夢」第十回には「姜太公釣魚願者上鉤」という句があらわれる[20]。


太宗 李世民(たいそう りせいみん)
598年1月28日-649年7月10日 在位期間 626年9月4日 - 649年7月10日 唐朝の第2代皇帝。高祖李淵の次男で、隋末の混乱期に父の李淵を補佐して主に軍を率いて各地を転戦、群雄を滅ぼし、 後に玄武門の変にて兄の李建成を殺害し皇帝に即位した。貞観の治と言う、唐王朝の基礎を固める善政を行い、 中国史上最高の名君の一人と称えられる。

代宗(だいそう)
代宗(だいそう)は、唐朝の第11代皇帝。粛宗の長男。姓諱は李 俶(り しゅく)、のち李 豫(り よ)。
生母呉氏の実家は有力な貴族であったが、謀反の嫌疑により誅滅された。このような血統を引いた李豫であったが、 祖父である玄宗に素質を認められ、広平王に封ぜられた。粛宗が皇帝として即位すると兵馬大元帥に任じられ、 郭子儀らと共に安慶緒により占拠されていた長安や洛陽などを奪回した。このとき回?族を援軍として招き入れていたことが、 後々の外患の原因の一つとなっていく。また、安史の乱の残党勢力討伐のために河北三鎮などの節度使の援助を求めたことから、 節度使の権力を増長させてしまうことになった。
758年(乾元元年)、粛宗の皇后張氏と宦官の李輔国により立太子され、762年に玄宗と粛宗が相次いで崩御すると 皇帝として即位した。しかし、朝政は李輔国が掌握していた。国政を自ら掌握しようとした代宗は、宦官である程元振を抜擢、 謀反を理由に李輔国を誅殺した。だがこの粛清も、結局は程元振が朝政を掌握したに過ぎず、続いて重用された宦官である 魚朝恩の場合も同様であった。このような内廷での粛清は、宦官の権力増大の原因といわれている。
外交面では763年(広徳元年)に、吐蕃の侵攻により長安を一時的に奪われ、章懐太子李賢の孫の李承宏(中国語版、英語版) (在位:763年11月18日 - 763年11月30日)が帝位に据えられる事件が発生している。 これは宦官が軍権をも握り、武将の軍功への論功を抑制するなど、武官を冷遇したため辺境防備が弱体化した結果である。
その後、代宗は財政再建のために塩の専売化を初めとする様々な政策を実行したが、抜本的な財政健全化は実現しなかった。

高倉天皇(たかくらてんのう)
応保元年9月3日(1161年9月23日) - 治承5年1月14日(1181年1月30日))は、 平安時代末期の第80代天皇(在位:仁安3年2月19日(1168年4月9日) - 治承4年2月21日(1180年3月18日))。 諱は憲仁(のりひと)という。 後白河天皇の第7皇子。母は皇太后平滋子(建春門院)。安徳天皇、後鳥羽天皇らの父。
母・平滋子は平清盛の妻・平時子の異母妹であり、政界の実力者・清盛の義理の甥にあたる事に加えて、 当時政治方針を巡って対立した二条天皇によって院政停止状態に置かれていた後白河院の不満から、 まだ皇子のなかった二条天皇の後継に擁立する動きがあり、誕生直後の9月15日、叔父の平時忠と清盛の弟・ 平教盛は二条天皇により解官されている。永万元年(1165年)7月に二条天皇が崩御すると、 その死後に立てられた六条天皇(二条天皇の子、高倉天皇からみて甥)の3歳の年長であるにも関わらず、 仁安元年(1166年)10月10日、皇太子に立てられた。2年後の仁安3年(1168年)2月19日、六条天皇をわずか5歳(満3歳) で退位させ、8歳で天皇として擁立された。政務は父・後白河院が院政を敷いた。
承安2年(1172年)、平清盛と時子の娘(つまり従姉に当たる)平徳子(後の建礼門院)を中宮に迎える。 治承2年(1178年)11月12日、中宮・徳子に皇子(のちの安徳天皇)が誕生し、同年12月15日には皇子を早々に皇太子とした。
翌治承3年(1179年)11月、父・後白河院と舅・清盛の政治的対立が深まり、治承三年の政変によって後白河院が 事実上の幽閉状態に置かれると、高倉天皇自ら政務をとった。翌治承4年(1180年)2月、 平清盛の孫にあたる安徳天皇に皇位を譲り、院政を開始するが間もなく病に倒れた。
後白河院と平氏の圧力に悩まされ続けた天皇とされてきたが、近年の研究では平氏一門と組んで政治を推し進める 意図を持っていたとの説や後白河院がこれを嫌って自分の皇子(天皇の異母弟)を天皇の養子にして 譲位させようとしていたとする説も出ている[1]。色白で美しい容姿であり、その人柄は多くの廷臣から慕われていたという。




卓文君(たくぶんくん)
司馬相如との熱烈な恋愛で知られいる。漢の成帝の時代に、四川の巨商卓王孫の娘として生まれ、16歳にして ある男に嫁いだ。しかし、すぐに死に別れ、父親の家に戻っていたとき、客分として宴会に招かれていた司馬相如の琴の音に 感じ入り、たちまちに恋におちた。父の反対を押し切り、司馬相如とともに駆け落ちした。
貧乏な二人は生活の資を得るために、酒屋を開き、そこで卓文君もけなげに客をもてなす仕事をした。父親はそんな娘の姿を 目にして考えを改め、娘ら夫婦に相応の資金を与えた。
卓文君は司馬相如との熱烈な恋愛で知られ、中国史上もっとも愛に忠実な女性だったということに なっている。
卓文君は漢の成帝の時代に、四川の巨商卓王孫の娘として生まれた。16歳にしてある男に嫁いだが すぐに死に別れ、父親の家に戻っていたとき、客分として宴会に招かれていた司馬相如の琴の音に 感じ入り、たちまちに恋に陥った。卓文君は恋情の炎に包まれるまま、父の反対を押し切り、 司馬相如とともに駆け落ちしたのであった。
貧乏な二人は生活の資を得るために、酒屋を開き、そこで卓文君もけなげに客をもてなす仕事をした。 父親はそんな娘の姿を目にして考えを改め、娘ら夫婦に相応の資金を与えたのである。
後に司馬相如は文才を以て武帝に認められ、要職に出世した。これも妻の力によるものだったと、 中国人は今でも考えている。
日本には山内一豊の妻が、夫の出世を助ける才女として巷間に伝わっている。 卓文君は国を異にするとはいえ、才女としての大先輩格といえるのである。
山内一豊が浮気をしたかどうかは知らぬが、司馬相如は他の女に心を奪われて、 妻を悲しませたことがあった。その折に、妻の卓文君が作ったという詩が、今に伝えられている。

白頭吟
                           皚如山上雪  皚たること山上の雪の如く
  皎若雲間月  皎たること雲間の月の若し
  聞君有兩意  聞く君に兩意有りと
  故來相決絶  故に來りて相ひ決絶せんとす
  今日斗酒會  今日 斗酒の會
  明旦溝水頭  明旦 溝水の頭
  徘徊御溝上  御溝の上に徘徊すれば
  溝水東西流  溝水 東西に流る

私の身が潔白で二心ないことは山上の雪のようですし、清く明らかな気持ちは雲間に浮かぶ 月のようです、ところがあなたには他に思う人があると聞きました、それゆえ私はお別れを申しに 来たのです(皚、皎:ともに白く明らかなさま、)
今日こうしてあなたと別れの杯を交わす私は、明日には溝水のほとりをさまよう身となっていま しょう、そのお堀の上をさまよう私をよそに、お堀の水は淡々と流れるのでしょう(頭:ほとり、)

  淒淒復淒淒  淒淒として復た淒淒たり
  嫁娶不須啼  嫁娶に啼くを須ひず
  願得一心人  願はくは一心の人を得て
  白頭不相離  白頭まで相ひ離れざらん
  竹竿何嫋嫋  竹竿 何ぞ嫋嫋たる
  魚尾何徒徒  魚尾 何ぞ徒徒たる
  男兒重意氣  男兒 意氣を重んず
  何用錢刀爲  何ぞ錢刀を用ふるを爲さん

私は悲しい気持ちでいっぱいです、ですが決して声を出して泣いたりはいたしますまい、 私の願いは真心を持った人とともに、白髪になるまで添い遂げることでした (淒淒:物悲しいさま、不須啼:泣くには及ばない、)
あなたの垂らす釣り糸の竹竿はなんとしなやかなことでしょう、その釣り糸に釣られて魚が 集まってきたのですね、男たるもの意気が大事、お金など何の役にも立たないのですよ、 (嫋嫋:しなやかなさま、徒徒:動き回るさま、錢刀:古代の小刀、金銭として用いられた)



伊達 政宗(だて まさむね)
 出羽国と陸奥国の戦国大名・伊達氏の第17代当主。仙台藩初代藩主。
伊達氏第16代当主・伊達輝宗と正室最上義守の娘・義姫(最上義光の妹)の間に生まれた嫡男。
秀吉が吉野で歌会を開き武将達はそれぞれ詩歌を詠んだ時、政宗が最も和歌に精通し優れていた。 そのため秀吉も「鄙の華人」と褒め讃えた。詩才に関して、司馬遼太郎は短編小説『馬上少年過ぐ』の中で、 歴史上高名な武将のものとしては古代中国の曹操にも比肩すべきものとしており、政治家としての側面には その詩心が反映されていないことも二人の共通点であるとしている。 晩年の政宗が残した漢詩に『酔余口号』という作品がある。幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明し、 隻眼となったことから後世独眼竜と呼ばれた。
馬上少年過 世平白髪多 残躯天所赦 不楽是如何
馬上少年過ぐ 世平らかにして白髪多し 残躯天の赦す所 楽しまずんば是いかん/楽しまずして是を如何にせん
前半の三句は「若い頃は馬に乗って戦場を駆け抜けたが、世は太平になり自分にも白髪が増えた。 天に与えられた余生が残ってはいるが」と解釈できるものの、最後の句は「楽しまずんば是いかん (これを楽しまずしてどうしようか)」あるいは「楽しまずして是を如何にせん (楽しいとは思えないのはどうしたことか)」と全く違う2通りの訓みと解釈ができてしまう。 政宗自身がどちらともとれるように作った可能性もあるが、政宗の残した大きな謎となっている。



菩提達磨(だるま)
菩提達磨(ぼだいだるま、中国語: ?摩、サンスクリット語: ????????, bodhidharma、ボーディダルマ)は、 中国禅宗の開祖とされているインド人仏教僧である。達磨、達磨祖師、達磨大師ともいう。 「ダルマ」というのは、サンスクリット語で「法」を表す言葉。達摩との表記もあるが、 いわゆる中国禅の典籍には達磨、古い写本は達摩と表記する。画像では、眼光鋭く髭を生やし耳輪を 付けた姿で描かれているものが多い。
弟子の曇林(中国語版)が伝えるところによると、南インドのタミル系パッラヴァ朝において 国王の第三王子として生まれ、中国で活躍した仏教の僧侶。5世紀後半から6世紀前半の人で、 道宣の伝えるところによれば南北朝の宋の時代(遅くとも479年の斉の成立以前)に 中国にやって来たとされている。中国禅の開祖。『景德傳燈?』によれば釈迦から数えて28代目と されている。インドから中国南方へ渡海し、洛陽郊外の嵩山少林寺にて面壁を行う。 確認されているだけで曇林、慧可の弟子がいる。彼の宗派は当初楞伽宗 (りょうがしゅう、楞伽経にちなむ)と呼ばれた。彼の事績、言行を記録した語録とされるものに 『二入四行論』などがある。
菩提達磨についての伝説は多いが、その歴史的真実性には多く疑いを持たれている。 南天竺国香至王の第三王子として生まれ、般若多羅の法を得て仏教の第二十八祖菩提達磨 (ボーディダルマ)になったということになっているが、最も古い菩提達磨への言及は 魏撫軍府司馬楊衒之撰『洛陽伽藍記』[1](547年)にあり、全ての達磨伝説はここに始まるとも いわれている。
時有西域沙門菩提達摩者、波斯國胡人也。起自荒裔、來遊中土。
見金盤炫日、光照雲表、寶鐸含風、響出天外。歌詠讚歎、實是神功。自云,年一百五十?、 歴渉諸國、靡不周遍、而此寺精麗、閻浮所無也。
極佛境界、亦未有此、口唱南無、合掌連日。 洛陽城内伽藍記巻第一(永寧寺の条)
時に西域の沙門で菩提達摩という者有り、波斯(ペルシア)国の胡人也。起ちて荒裔(はるか)なる 自(よ)り中土に来遊す。
〈永寧寺塔の〉金盤日に炫(かがや)き、光は雲表に照り、宝鐸の風を含みて天外に響出するを見て、 歌を詠じて実に是れ神功なりと讚歎す。
自ら年一百五十歳なりとて諸国を歴渉し、遍く周らざる靡(な)く、而して此の寺精麗にして 閻浮所(諸仏の国)にも無い也。極物・境界にも亦(ま)た未だ有らざると云えり。 此の口に南無と唱え、連日合掌す。
また、『二入四行論』が達磨に関する最も古い語録で達磨伝説の原型であるとともに達磨の思想を 伝えるとされている。
普通元年(520年)、達磨は海を渡って中国へ布教に来る。9月21日(10月18日)、広州に上陸。 当時中国は南北朝に分かれていて、南朝は梁が治めていた。
この書では梁の武帝は仏教を厚く信仰しており、天竺から来た高僧を喜んで迎えた。 武帝は達磨に質問をする。
帝問うて曰く「朕即位して已来、寺を造り、経を写し、僧(僧伽、教団)を度すこと、勝(あげ)て紀す可からず(数え切れないほどである)。何の功徳有りや」
師曰く「並びに功徳無し」
帝曰く「何を以て功徳無しや」
師曰く「此れ但だ人天(人間界・天上界)の小果にして有漏の因なり(煩悩の因を作っているだけだ)。影の形に随うが如く有と雖も実には非ず」
帝曰く「如何が是れ真の功徳なるや」
答曰く「浄智は妙円にして、体自ずから空寂なり。是の如き功徳は世を以て(この世界では)求まらず」
帝又問う「如何が是れ聖諦の第一義なるや」
師曰く「廓然(がらんとして)無聖なり」
帝曰く「朕に対する者は誰ぞ」
師曰く「識らず(認識できぬ・・・空だから)」
帝、領悟せず。師、機の契(かな)はぬを知り
武帝は達磨の答を喜ばなかった。達磨は縁がなかったと思い、北魏に向かった。後に武帝は後悔し、 人を使わして達磨を呼び戻そうとしたができなかった。
達磨は嵩山少林寺において壁に向かって9年坐禅を続けたとされているが、 これは彼の壁観を誤解してできた伝説であると言う説もある。壁観は達磨の宗旨の特徴をなしており、 「壁となって観ること」即ち「壁のように動ぜぬ境地で真理を観ずる禅」のことである。 これは後の確立した中国禅において、六祖慧能の言葉とされる『坐禅の定義』[3]などに 継承されている。
大通2年12月9日(529年1月4日)、神光という僧侶が自分の臂を切り取って[4]決意を示し、 入門を求めた。達磨は彼の入門を認め、名を慧可と改めた。この慧可が禅宗の第二祖である。 以後、中国に禅宗が広まったとされる。[5]
永安元年10月5日(528年11月2日)に150歳で遷化したとされる[6]。一説には達磨の高名を 羨んだ菩提流支と光統律師に毒殺されたともいう[7]。諡は円覚大師[8]。
その没後には道教の尸解に類した後日譚が伝わるが、中国の高僧伝にはしばしば見られる はなしである[要出典]。それは達磨の遷化から3年後、北魏の使者として[要出典]西域からの帰途に あった宋雲がパミール高原の葱嶺という場所で達磨に出会ったというものである[8]。 その時、達磨は一隻履、つまり履き物を片方だけ手にして歩いており、宋雲が「どこへ行かれるのか」 と問うと達磨は「インドに帰る」と答えたという[8]。また「あなたの主君はすでにみまかっている」 と伝えたというのである[要出典]。宗雲は帰国してからこのことを話してまわった[8]。 帰朝した宋雲は、孝明帝の崩御を知る[要出典]。孝荘帝が[要出典]達磨の墓を開けてみると、 棺の中には一隻履のみが残されていたという[8]。
達磨により中国に禅宗が伝えられ、それは六祖慧能にまで伝わったことになっている。 さらに臨済宗、曹洞宗などの禅宗五家に分かれる。日本の宗教にも大きな影響を及ぼした。
禅宗では達磨を重要視し、「祖師」の言葉で達磨を表すこともある。禅宗で「祖師西来意」 (そしせいらいい:達磨大師が西から来た理由)と言えば、「仏法の根本の意味」ということである。
達磨が面壁九年の座禅によって手足が腐ってしまったという伝説が起こり、 玩具としてのだるまができた。これは縁起物として現在も親しまれている。





竹林の七賢(ちくりんのしちけん)
3世紀の中国・魏(三国時代)の時代末期に、酒を飲んだり清談を行なったりと交遊した、下記の七人の称



阮籍(げんせき)・嵆康(けいこう)・山濤(さんとう)・劉伶(りゅうれい) ・阮咸(げんかん)・向秀(しょうしゅう)・王戎(おうじゅう)
阮籍が指導的存在である。その自由奔放な言動は『世説新語』に記されており、 後世の人々から敬愛されている。7人が一堂に会したことはないらしく、 4世紀頃からそう呼ばれるようになったとされる。隠者と言われることがあるが、 多くは役職についており、特に山濤と王戎は宰相格の高官に登っている。日本では 竹林の七賢というと、現実離れしたお気楽な発言をする者の代名詞となっているが、 当時の陰惨な状況では奔放な言動は死の危険があり、事実、嵆康は鍾会の讒言によって陥れられ、 死刑に処せられている。彼らの俗世から超越した言動は、悪意と偽善に満ちた社会に対する 慷慨(憤り)と、その意図の韜晦(目くらまし)であり、当時の知識人の精一杯で命がけの 批判表明と賞される。
魏から晋の時代には、老荘思想に基づき俗世から超越した談論を行う清談が流行した。 『世説新語』には、彼ら以外の多く人物について記されているが、彼ら以後は、 社会に対する慷慨の気分は薄れ、詩文も華美な方向に流れた。


中宗(ちゅうそう)
唐の第4代・第6代皇帝。諱は顕。
高宗の七男として生まれる。当初は周王に封じられたが、後に英王に改封された。 同母兄である李弘の急死と李賢の廃立の後、代わって立太子され、高宗の崩御により即位した。
即位後、生母である武則天に対抗すべく、韋皇后の外戚を頼った。具体的には韋后の父である韋玄貞 (元貞)を侍中に任用する計画であったが、武則天が信任する裴炎の反対に遭う。 計画を反対された中宗は怒りの余り、希望すれば韋元貞に天下を与えることも可能であると発言した。 この発言を理由に、即位後わずか54日で廃位され、湖北に流された。
代わって同母弟の李旦(睿宗)が即位したが、690年に廃立され、武則天が自ら即位して 武周時代を迎えた。その末期の699年、李顕は武則天により再び立太子され、 705年に大臣や将軍に迫られた武則天は李顕に譲位し、唐の国号を復活させた。
中宗は韋后を非常に信任し、朝政に参加させ、その父を王に封じた。 また韋后との間にもうけた安楽公主もまた朝政に参加させた。安楽公主は自ら皇太女、 さらには皇帝となることを狙い、韋后もまた武則天に倣い帝位を求めた。
710年、韋后の淫乱な行為が告発されると、韋后は追及を恐れ、安楽公主と共に中宗を毒殺し、 末子重茂(殤帝)が擁立された。しかしその1ヵ月後、李旦の息子・李隆基(玄宗) により韋后と安楽公主は殺害され、殤帝は廃位された。中宗は定陵に埋葬された。


張 謂(ちょう い)
(711年? - ?)は、中国・唐の詩人。河内(河南省沁陽市)の出身。字は正言。初めは嵩山にこもって読書し、大志を抱いていた。 天宝2年(743年)、進士に及第、節度使の幕下に加わって西域に従軍した。 大暦初年(770年頃)には潭州(湖南省長沙市)刺史となり、大暦7年(772年)には礼部侍郎に至って、科挙の試験を司った。




張 説(ちょうえつ)
(667年(乾封2年) - 730年(開元18年))は、中国唐代の政治家である。字は道済(説之)。
667年に洛陽で生まれる。本籍は范陽(河北省)であるが、河東(山西省)に移住し、数代前に再び 移住して洛陽に出た。688年に科挙に第2階級で合格して太子校書郎となり、以降、文官、 武官として順調にキャリアを重ね、工部侍郎、同中書門下平章事、中書令、按察使、節度使を歴任し、 3度も宰相となった。
703年9月、魏元忠を疎んじた張易之、張昌宗の兄弟が武則天に魏元忠が謀反を企んでいると誣告した。 張説は官位を餌に偽証を求められたが、告発は虚偽のものであり魏元忠は無実であると主張して 欽州に流罪となった。 このことから後に中宗や玄宗の信頼を得た。
713年には、玄宗に刀を送って太平公主に対する挙兵を決断させ、その功績で燕国公に封じられた。
また、詩人としても名を成し、作品として『張説之文集』がある。子に、張均、張?、張?がいる。



張 諤(ちょうがく)
景龍中,進士の第に登り,仕へて陳王掾と為る。岐王範雅,儒士を好む。 諤,閻朝隠,劉庭琦,鄭?等と与に皆な之が遊に従ひて詩を賦し,酒を飲む。 後,坐して山荏の丞に貶めらる。詩,十二首。



張 儀(ちょう ぎ)
(? - 紀元前309年)は、中国戦国時代の遊説家・政治家。魏の人。蘇秦と共に縦横家の代表的人物とされ、 秦の宰相として蘇秦の合従策を連衡策で打ち破り、秦の拡大に貢献した。
恥辱[編集]
張儀は若い頃、蘇秦と共に鬼谷子に学び、その後諸国を遊説したが、中々受け入れてもらえず、 楚の大臣に従って宴会に出た時には窃盗の疑いをかけられ袋叩きにあったことまである。傷だらけの 張儀は妻に対し「舌はまだついているか?」と聞き、ついていると返答されると「舌さえあれば十分だ」 と答えたと言う。
その後も不遇だった張儀はすでに趙で出世していた蘇秦を頼って行った。しかし予期に反して大いに 侮辱されたため、発奮した張儀はこの屈辱をばねに秦に仕官する事が出来た。だが、この時仕官に 必要だった資金は蘇秦がひそかに出したものだった。燕と趙を同盟させた蘇秦は、張儀が秦で出世して 同盟が定着するまで趙を攻めないよう秦王に働きかけさせるためにわざと張儀を侮辱したのである。 人からその話を聞いた張儀は感じ入り「蘇君が在命のうちは自分にはなにもできない」とへりくだった。
秦の宰相[編集]
張儀はその後、魏を討ち、上郡・少梁を獲得した功績で宰相となった。しかし魏が斉に接近するように なると、魏に仕官して魏の宰相となり、このまま秦に攻撃されても他国が頼むに足らないことを説き、 秦と魏の同盟を成立させることで連衡を成功させ、再び秦の宰相となった。この際、かつて張儀を袋叩きに した楚の宰相に対し、「あなたはかつて私を疑い、ひどい目にあわせたが、今度は本当にあなたの城を 奪ってやる。」との文を送りつけたと言われている。
紀元前316年、蜀に内紛が起きたのでこれに乗じるべきかと恵文王に問われた時に張儀は韓を攻めて、 周を恫喝し、天下に号令すべきと説いたが、恵文王は司馬錯の献言に従い蜀を占領した。
楚への復讐[編集]
紀元前313年、張儀は対楚工作に入り、楚に対し商・於の地六百里四方を割譲するから、斉との同盟を 破棄して欲しいと申し入れた。楚の懐王は喜んでこれに応じ、斉との同盟を破棄して、将軍に秦に領土 を受け取りに行かせたが、張儀は六里四方の土地を割譲すると言った。これに楚の将軍は約束は六百里 だと猛烈に抗議するが張儀はとぼけて相手にしなかった。
懐王は大いに怒り、秦に対し出兵したが、大敗する(藍田の戦い)。その後、秦から楚に土地を割譲 する事で和睦しようという交渉が持ちかけられたが、懐王は「土地など要らぬ。張儀の命が欲しい」と言い、 これに答えて張儀は楚に行った。張儀には生還する策があった。懐王の寵姫に人を使って「秦は張儀の 命を救うために懐王に財宝と美女を贈るつもりです。もしそうなったらあなたへの寵愛はどうなるで しょうな」と言わせ、不安に思った寵姫は懐王に張儀を釈放する事を願ったので懐王は張儀を釈放した。 こうして張儀は強国である斉と楚の同盟を崩した上で楚を叩き、和睦にも成功することで合従を崩した。
その後、恵文王が死に、張儀とは不仲であった太子が即位し武王となった。張儀は誅殺を恐れ、 策があるからと言って魏に逃げ、魏の宰相となって一年後に没した。



張九齢(ちょうきゅうれい)
(678年 - 740年) 韶州曲江(広東省)の出身。702年に進士に及第し、寒門の出ではあったが宰相の張説に認められて校書郎・右拾遺・中書侍郎を 歴任し、玄宗時代の733年以降は尚書右丞相の任にあたった。
のち、李林甫や楊国忠らと衝突し、荊州(湖北省)に左遷され、 官を辞した後は故郷に帰り文学史書に親しんだ。
安禄山の「狼子野心」を見抜き、「誅を下して後患を絶て」と玄宗に諫言した人 としても知られる。
「開元」最後の賢相」として名声高く、孟浩然や王維に希望を託されたこともある。
王夫之はその『讀通鑑論』のなかで「貞観の時には才臣はいたが、清廉な者はいなかった。ただ開元の時に出た宋璟・盧懐慎・ 張九齢は清貞という徳を以て宰相に昇った。張九齢は清にして和、名声を追わず富を絶ち、朝廷に廉恥の心を知らせ、開元の世を 盛んにした」と絶賛している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E4%B9%9D%E9%BD%A2



趙匡胤(ちょう きょういん)
北宋の初代皇帝(在位:960年2月4日 - 976年11月14日)。廟号は太祖。
河北省固安県の人。父は後唐の禁軍将校であった趙弘殷(後周の武清軍節度使・太尉を追贈され、 宋で宣祖の廟号を追贈された)。 母は杜氏。次男として洛陽に生まれる。 後漢の初め頃には不遇の身であり各地を転々としていたが、襄陽のある寺の老僧に勧められ、 後に後周の太祖となる後漢の枢密使郭威の軍に身を投じる。
後周の世宗が即位すると近衛軍の将校となる。北漢の軍を迎え撃った高平の戦いにおいては、 左翼の軍勢が敗走して後周軍が危機に陥る中、趙匡胤は同僚を励まし、北漢軍の前衛を打ち破る 活躍をして、後周に勝利をもたらした。
世宗の南唐征伐に従軍し、南唐の節度使であった皇甫暉・姚鳳らを自ら虜にする功も立てる。 その後、揚州を攻めていた同僚の韓令坤が南唐の援軍を前に撤退を求めてくると、 世宗より援軍として派遣され、「もしも逃げる者があれば、その足を斬る」と督戦し、 韓令坤らの必死の防戦の末、南唐軍万余りの首級を挙げることに成功した。 その後も趙匡胤は次々と南唐の城砦を抜いた。
趙匡胤の威名を恐れた南唐の李璟は趙匡胤と世宗の間を裂こうと、趙匡胤に手紙と白金3千両を 贈るが、趙匡胤はすべて世宗に献上して、君臣の間に亀裂は生じなかった。
世宗が崩御して、わずか7歳の恭帝が即位すると、これに付け込んだ北漢の軍勢が来寇する。 その迎撃の軍を率いる最中、陳橋駅で幼主に不安をもった軍士により、皇帝の象徴である黄衣 を着せられて皇帝に冊立される(陳橋の変)。趙匡胤は軍士たちに自分の命令に従うをことを 確認させ、恭帝と皇太后の符氏、及び諸大夫に至るまで決して危害を加えないこと、 そして官庫から士庶の家に至るまで決して侵掠しないことを固く約束させた上で、 帝位に即くことに同意した。開封に戻った趙匡胤は恭帝から禅譲を受けて正式に皇帝となり、 国号を宋と改めた。
その後、各地に割拠する諸国を次々に征服していったが、残るは呉越と北漢のみとなり 天下統一が目前に迫った976年、50歳で急死した。その死因については古来、弟の太宗により 殺害されたという説(千載不決の議)が根強い。
崩御の翌年である太平興国2年(977年)正月に太祖の廟号が贈られ、英武聖文神徳皇帝と諡された。
諡は大中祥符元年(1008年)8月に真宗によって啓運立極英武睿文神徳聖功至明大孝皇帝と改められた[2]。 趙氏の出自
趙匡胤自身は遠祖は?郡の人である前漢の名臣・趙広漢の末裔を自称していたが 、このことは早くから疑問視されていた。例えば江戸時代の林羅山は『寛永諸家系図伝』序において、 「蜀漢の劉備が中山靖王の子孫だといったり、趙匡胤が趙広漢の末裔だといったりしているのは 途中の系図が切れていて疑わしい。戦国武将の系図にも同様の例が多い」とわざわざ引き合いに 出しているほどである。
岡田英弘は、趙匡胤は?郡(河北省固安県、北京市の南)の人であるが、?郡は唐朝時代はソグド人 やテュルク系人や契丹人が多く住む外国人住地であり、例えば安禄山は范陽の人で、 母はテュルク系人であり、?郡を根拠に唐朝に反乱を起こしたが、趙匡胤の父の趙弘殷は後唐の 荘宗の親衛隊出身であり、後周の世宗の親衛隊長になったが、趙匡胤は後周の世宗の親衛隊長から 恭帝に代わり宋朝皇帝となったように、テュルク系人の後唐の親衛隊或いは出自に 問題の後周の親衛隊長からして、趙氏は北族の出身であろうと述べている[3]。
政策
戦乱が続いた五代十国時代の反省を受け、趙匡胤は軍人の力を削ぐことに腐心した。 唐代から戦乱の原因になっていた節度使の力を少しずつ削いでいき、最後には単なる名誉職にした。 この時、強引に力で押さえつけるようなことをせず、辛抱強い話し合いの末に行った。 趙匡胤の政治は万事がこのやり方で、無理押しをせず血生臭さを嫌った。また、 科挙を改善して殿試を行い始め、軍人の上に官僚が立つ文治主義を確立した。 科挙が実質的に機能し始めたのは宋代からと言われる。ただ、趙匡胤の布いた 文官支配体制はその後、代を経るごとに極端に強化され、そのことが軍事力の低下と 官僚間の派閥争いを激化させる要因となり、北宋および南宋の弱体化と滅亡の要因となったことは 否めない。
趙匡胤は、自身が軍人であったにも拘らず文治主義を進め、唐末以来の戦乱の時代に終止符を打った。 中国の歴代王朝においては、夏王朝から西晋に至るまで、項羽の行いを例外として、 前王朝の血統を尊重し滅ぼすことはなかった。しかし西晋滅亡以降においては、 王朝交替のたびに、前王朝の君主と一族は皆殺しにされるか、殺されないまでも 幽閉するのが通例となった。しかし趙匡胤は、前王朝の後周の柴氏を尊重し貴族として 優遇したばかりか、降伏した国の君主たちをも生かして、その後も貴族としての地位を保たせている。 柴氏は300年にわたって家が保たれ、士大夫は朝廷において活発に議論をした (『水滸伝』に登場する侠客で後周皇室の子孫・柴進の設定はこの一事を踏まえたものと 考えられている)。
趙匡胤は中国歴代皇帝の中でも評価が高く、清代に執筆された小説『飛竜全伝』の主人公としても 知られる。
趙匡胤の評価
『宋史』は、堯・舜、殷の湯王、周の武王以降の、相次ぐ乱世で荒廃した社会を救う、 四聖人に匹敵する才の持ち主として高く評価している。
建国してから藩鎮の兵権を奪い、贓吏(賄賂を貪る官吏)を処刑するなど綱紀を取り締まって 乱世の再発を防ぎ、農業と学問を奨励、刑罰の軽減など行い、泰平の世を築いた偉大な 創業の君主であり、趙匡胤の在位17年間が宋王朝300年の繁栄をもたらしたものとする。
趙匡胤はたびたび「父母が病にかかっても顧みないものは罰する」「父母と財産を異とするもの は罰する」など、唐末五代の戦乱で荒廃した秩序を建て直しを図った詔を出しており、 『宋史』は唐末五代の戦乱の時代に荒廃した道徳や文化を建て直した宋王朝は、 漢・唐に比べても劣らないものとしている。
趙匡胤にまつわるエピソード
騎射が得意で、悪馬を馴らそうと勒を付けずに乗馬しようとしたが、城門に頭をぶつけて 落馬したことがあった。目撃者達は首が折れて死んでしまったかと思っていると、 趙匡胤はすぐさま起き上がり馬を追っていったが、一つも傷がなかったという。 (『宋史』 本紀第一 太祖一)
世宗の後唐征伐の最中、父の趙弘殷が夜中に趙匡胤に城の開門を求めたが、 「親子の関係といえども城門の開閉は公務である」と言い、城門を開けなかった。 そして趙弘殷は朝になってようやく入城することができた。
以下のことなどから、無駄な殺生を嫌っていたことがわかる。 かつて自分の君主であった 恭帝を禅譲後も鄭王として遇し、恭帝が死ぬと喪服を着けて10日間政務をとりやめ、 皇帝として葬を執り行った。
亡国の君主である孟昶・李煜・劉鋹らを処刑せずに侯として遇した。
南唐征服の際には曹彬らに「落城の際には決して殺戮を行なうな」と訓令した。
陳橋の変の際、王彦昇が禅譲を妨げようとした副都指揮使の韓通を勝手に殺したことを責め、 助命したものの、節鉞(征伐の将軍に与える割符)を決して与えることはなく、 さらに韓通に中書令を追贈し、厚く葬った。
王全斌が後蜀を滅ぼした際に降兵2万7千を虐殺し、蜀の財貨を奪うなどを行ったことを咎め、 蜀征伐の功にもかかわらず降格処分にした。
呉越の銭俶(趙弘殷を避諱し、銭弘俶から改名)が自ら来朝した時、宰相以下の百官はみな 、銭俶を捕らえ、その国土を奪うことを請うたが、趙匡胤は取り合わなかった。 銭俶が帰国する際、群臣の銭俶を捕らえるように求めた上表文を持たせ、帰国の途中これを 見た銭俶は感動し、後に国土を献じたという。
南漢の最後の君主劉鋹は、好んで毒酒をもって臣下を毒殺していたことがあった 。降伏後、趙匡胤の巡幸に従った時、趙匡胤より酒杯を勧められると、自身を 毒殺しようとしてるのではないかと疑い、泣いて「臣(私)の罪は許されるものでありませんが、 陛下は私を殺さないでいてくれました。どうか開封の庶民として泰平の世を過ごさせてください。 どうかこの酒杯を飲ませないでください」と言った。これに対し、趙匡胤は笑って 「自分は人を厚く信頼している。どうして汝だけ信じないことがあろうか」と言い、 その酒杯を飲み、新しく酒を酌み劉鋹に飲ませたという。
建国当初、しばしばお忍びで出かけたことをある臣下に諫められたことがあったが、 「自分は天命が下ったので天子になったのであり、世宗が部将の中で顔が広く耳が大きい 者を次々に殺していたが、自分は(そのような容貌であるのに)世宗の側にずっと侍していたが、 殺されることはなかった」と言い、ますますお忍びで出かけることが増えた。 さらに諌める者がいると、「自分は天子なのだから、自分の好きなようにさせろ。 お前に指図されるいわれはない。」といったという(『宋史』本紀第三 太祖三)
ある日、政務をやめて不快そうに座っていたので、側近がその理由を尋ねると、 「天子であることは簡単なことだといえるだろうか? ある事案を早合点して誤って決して しまったから、不快なのである」と答えたという。
節約を旨としており、娘の魏国長公主が肌着にカワセミの羽を装飾に使っているのを見て、 戒めて二度とさせなかった上、「お前は富貴な身分として育った。そのことの有難味を思いなさい」 と説教したという。また、後蜀の最後の君主であった孟昶が杯に宝飾を凝らしているのを見て、 これを取りあげて砕き、「お前は杯を七宝で飾っているが、何の器で飲食する気なのだ。 そのようなことをしているから国を亡ぼしたのだ」と叱咤したという。
晩年は読書を好み、『書経』を読んで嘆いて「古の帝王の堯・舜の世の中は4人の悪人を 追放するだけであったが、今の世の中は法が網のように密である」と言った。
弟の趙匡義(後の太宗)が病気にかかると自ら薬を煎じて飲ませ、近臣に「弟は龍虎のように 堂々としており、生まれた時に異兆があった。後日必ず泰平の世の天子となるだろう。 ただ福徳の点では私に及ばない。」と語ったという
石刻遺訓
石刻遺訓は、趙匡胤が石(鉄という説もあり)に刻んで子孫に伝えた遺言で、宋朝の皇帝が 即位する際、必ずこれを拝み見ることが慣わしとなっていた。ただし、その存在は秘中の 秘とされ、ごく一部の宮中の人間にのみ伝えられた以外は、宰相ですら知らなかったという。 金軍の侵入で王宮が占領された際に発見され、初めてその存在が明るみに出た[4]。
そこに刻まれていた遺訓の内容は以下の2条である(『宋稗類鈔』巻一「君範」[5][6]、 陶宗儀『説郛』によれば、正確には3つあり、第3条は上の2条を子孫代々守れという内容であった)。
趙匡胤に皇位を譲った柴氏一族を子々孫々にわたって面倒を見ること。
言論を理由に士大夫(官僚/知識人)を殺してはならない。
この2つの遺訓が歴代の宋王朝の皇帝たちによって守られたことは、南宋が滅亡した 崖山の戦いで柴氏の子孫が戦死していること、政争で失脚した官僚が処刑されず、 政局の変化によって左遷先から中央へ復帰していること(例:新法旧法の争いでの司馬光や 対金講和派の秦檜など)が証明している。趙匡胤の優れた人間性が後の宋王朝の政治に 反映されたことを、この石刻遺訓は物語っている(陳 1992)。



張 旭(ちょうきょく)
張 旭(ちょう きょく、生没年不詳)は中国・唐代中期の書家。字は伯高。呉郡(現在の江蘇省蘇州市)出身。 官は左率府(さそつふ、警備にあたる官庁)の長史(総務部長)になったことから張長史とも呼ばれた。
草書を極めるとともに、従来規範とされて来た王羲之と王献之、いわゆる「二王」の書風に真正面から異を唱え、 書道界に改革の旋風を巻き起こすきっかけとなった。
詳しい経歴は不詳であるが、地元(現在の常熟市)で官位を得たあと長安に上京、官吏として勤めながら顔真卿・杜甫・賀知章 らと交わり書家として活動していた。
張旭はその書に対する態度に関しても、また生活態度に関しても、実に型破りな人物であった。
李肇の『唐国史補』によると、かつて公孫大娘という舞姫による剣器の舞を目にし、草書の筆法を悟るヒントを得たという。 「張旭の草書 筆法を得て、後ち崔?・顔真卿に伝ふ。旭の嘗て曰く、『始め吾 公主・担夫を見て路を争ひ、 而して筆法の意を得る。後ち公孫氏の剣器を舞ふを見て、而して其の神を得る』と」。後年、杜甫は公孫大娘の弟子の 李十二娘による舞を目にし、「観公孫大娘弟子舞剣器行」と題した詩に詠んでいる。 その序によると、「昔者、呉人・張旭、草書の書帖を善くし、数々嘗て?県に於て公孫大娘の西河の剣器を舞ふを見、 此れより草書長進す」といっている。
このことは、同時代の書家からすればどだい型破りな話であった。当時の書道界は六朝以来、王羲之・王献之親子の「二王」の 書法を尊んでおり、書家はまず「二王」の書から学んで書を体得するのが普通だったからである。
また欧陽脩の『新唐書』の伝によると、「酒を嗜み、大酔する毎に、呼叫・狂走して、乃ち筆を下し、 或いは頭を以て墨に濡らして書く。既に醒めて自ら視るに、以て神と為し、復た得る可らざるなりと。 世 『張顛』と呼ぶ」と伝え、その書は「狂草」と呼ばれた。前述の「飲中八仙歌」によれば王や貴族の前ですらそうした 行動をいとわなかったと詠まれている。李白はまた後年、若き草書の達人・懐素を詠んだ「草書歌行」の中で、 「張顛は老死して数ふるに足らず、我が師は此の義 古へに師せず」と評している。
これらの伝説には多分に誇張があるにしても、彼が権威を嫌い、ものともしない型破りな人物であったことは 事実だったようである。このことが彼自身やその書作をそれまでの書道界の「常識」への叛逆と挑戦へと向かわしめたと思われる。
なお、彼の書は、あまりにも急進的すぎるため杜甫などごく親しい人以外には受け入れられなかったようだが、 彼の登場により「二王」一辺倒の書道界に一石が投じられ、のちの顔真卿ら改革派の書家が台頭するに至ったと考えられる。
なお、顔真卿・李陽冰は彼の弟子と言われているが真偽のほどは定かではない。



趙 炅(ちょうけい)
宋の太宗(たいそう)。北宋の第2代皇帝(在位:976年11月15日 - 997年5月8日)。 太祖趙匡胤の弟。諱は元は匡義であったが、兄帝の名を避諱して光義、 即位してからは炅[注釈 1]に改めた。
後晋の天福4年(939年)に浚儀県(開封市)の官舎で、趙弘殷の三男として生まれる。 子供のころから傑出しており、学問を好んだ。父の弘殷は匡義のために、淮南を征伐した際、 州や県を占領しても財貨には一切目もくれず、古書を探して匡義に贈ったという。 兄・趙匡胤が後周の将軍であった頃から常に協力し続け、趙普らと主導した陳橋の変の際に 匡胤を擁立する時も、中心となって匡胤の説得に当たった。
太祖が即位後、晋王に封じられ、序列は宰相より上に置かれた。太祖が親征を行うと、 大内點検(近衛軍の将軍にあたる)や東都(都の開封のこと)留守に任じられるなど、 太祖の右腕として重責を担った。太祖が死去してから、当然息子が後を継ぐところを 弟の太宗が即位したことには、非常に不可解な点が多く、「千載不決の議」と呼ばれ、 太宗による暗殺説も消えなかった。また、後に太祖の長子趙徳昭を自殺させ、 太祖の次子の趙徳芳が981年に不可解な死を遂げた後に自らの息子の趙恒を太子としたことは、 正統論の厳しい宋においては常に糾弾の声が絶えなかった。
978年には独立勢力であった泉州の節度使陳洪進が領土を納め、呉越の銭俶も両浙の13州を献上し 、翌年の979年に北漢を滅ぼし、中国の再統一を達成した。その余勢を駆って遼から 燕雲十六州の回復を狙って親征の軍を起こして進撃するが、高粱河において敗れ、 開封に撤退した。また980年にはベトナムの黎桓を討つが、遠征軍は敗退した。
内政面では太祖の路線を踏襲し、軍事力を重視せず、科挙による文官の大量採用を行い、 監察制度を整えることで、それまでの軍人政治から文治主義への転換に成功した。
997年、崩御した。
太宗の評価
『宋史』は、太宗の治世中に陳洪進・銭俶らの群雄を統合し、北漢を討って中華をほぼ統一したことを 高く評価している。その治世中には北漢や遼、ベトナム、西夏などの相次ぐ戦役や、黄河の決壊や 蝗害などの天災が起こったものの、民衆が反乱を起こさなかったのは、太宗の倹約と慈を旨とした 政治のおかげだとしている。
ただ、本来なら先代の太祖が死んだ時、年が変わるのを待って改元するべきであったこと、 太祖の子の趙徳昭が自殺してしまったこと、先代の皇后であった宋后の喪を行わなかったこと などは非難されてもやむを得ないことだとしている。また、太祖の死と自身の帝位継承、 その後に起きた太祖の次子・趙徳昭や実弟・趙廷美(中国語版)への対応から 千載不決の議と呼ばれる議論が起きている。
太宗の逸話
『水滸伝』の宋江のモデルは太宗であるという説が古くからあり、森鴎外が『標新領異録』 で触れている他、東京大学教授の大塚秀高も同様の説を唱えている。
対日本観
雍熙元年(984年)3月[1][2]、太宗は入宋した日本の使者である僧の奝然を厚遇し、 紫衣を賜り、太平興国寺に住まわせた。引見した際、日本の国王(天皇)は代々一家が世襲し (万世一系)、その臣下も官職を世襲していると聞き、嘆息して
「島夷(日本、東の島の異民族/蛮族)であると言うのに、彼ら(天皇家)は万世一系であり、 その臣下もまた世襲していて絶えていないという。これぞまさしく古の王朝の在り方である。 中国は唐李の乱(李克用による禅譲)により分裂し、五代は王朝こそ継承したが、 その期間は短く、臣下も世襲できる者は少なかった。我が徳は太古の聖人に劣るかもしれないが、 常日頃から居住まいを正し、治世について考え、無駄な時を過ごすことはせず、 無窮の業を建て、久しく範を垂れ、子孫繁栄を図り、臣下の子等に官位を継がせることこそが 我が願いである」(此島夷耳 乃世祚遐久其臣亦継襲不絶 此蓋古之道也 中国自唐李之乱寓縣分 裂梁周五代享歴尤促 大臣世冑鮮能嗣続 朕雖徳慙往聖常夙夜寅畏講求治本不敢暇逸建無窮之業 垂可久之範 亦以為子孫之計 使大臣之後世襲禄位此朕之心焉)
と宰相に言った。(『宋史』日本伝)
太宗は、皇帝のみならず臣下も下克上なしに続く王朝(理想上における太古の王朝) を目指していたことがわかる。




張 芝(ちょうし)
後漢時代の書家。字は伯英。敦煌酒泉(甘粛省)の人。父は太常になった名臣である。幼少の頃より学問にはげみ、 朝廷から推挙されたが辞して就かなかった。生涯仕官せず、世を避けた潔白の士として生涯を終えた。
張芝は平生から書を好み、家にある白絹はすべて文字を書いたのちに練って漂白した。また池に臨んで字を書き、 池の水が真っ黒になったという逸話も有名である。
書は崔?、杜度を師として学び、とりわけ草書にすぐれた。世間は張芝の書を珍重し、 わずかな切れ端でも棄てることなく保存したという。張芝の草書は骨力を具え、表現が豊かであると評され、草聖と称された。



趙 飛燕(ちょう ひえん)
(? - 紀元前1年)は前漢成帝の皇后。元名を宜主と称した。 正史である『漢書』での趙飛燕に関する記述は非常なものであるが、稗史においては美貌を以って記述されており、 優れた容姿を表現する環肥燕?の燕痩が示すのが趙飛燕である(環とは楊貴妃の事、幼名・玉環による)。 その出生は卑賤であり、幼少時に長安にたどり着き、号を飛燕とし歌舞の研鑽を積み、その美貌が成帝の目にとまり 後宮に迎えられた。後宮では成帝の寵愛を受け、更に妹の趙合徳を昭儀として入宮されることも実現している。 成帝は趙飛燕を皇后とすることを計画する。太后の強い反対を受けるが前18年12月に許皇后を廃立し、 前16年に遂に立皇后が実現した。前7年、成帝が崩御すると事態が一変する。成帝が急死したことよりその死因に疑問の声が上がり、 妹の趙合徳が自殺に追い込まれている。こうした危機を迎えた趙飛燕であるが、自ら子がなかったため哀帝の即位を支持、 これにより哀帝が即位すると皇太后としての地位が与えられた。しかし前1年に哀帝が崩御し平帝が即位すると支持基盤を失った 趙飛燕は、王莽により宗室を乱したと断罪され皇太后から孝成皇后へ降格が行われ、更に庶人に落とされ間もなく自殺した。



張 良(ちょう りょう)
(? - 紀元前186年)、秦末期から前漢初期の政治家・軍師。字は子房。諡は文成。劉邦に仕えて多く の作戦の立案をし、劉邦の覇業を大きく助けた。蕭何・韓信と共に漢の三傑とされる。 劉邦より留(現在の江蘇省徐州市沛県の南東)に領地を授かったので留侯とも呼ばれる。 子には嗣子の張不疑と少子の張辟彊がいる。
祖父・張開地は韓の昭侯・宣恵王・襄王の宰相を務め、父・張平は釐王・桓恵王の宰相を務めていた。 『史記索隠』では、その祖先は韓の公族であり、周王室と同じ姫姓であったが、 秦による賊探索から逃れるために張氏に改名したことになっている。
父の張平が死んでから20年が経った後、秦が韓を滅ぼした。その時にはまだ張良は年若く、 官に就いていなかった。韓が滅びたのは紀元前230年で、普通20歳にもなれば成人であり、 父が死ぬ間際に生まれた訳でなければ張良も官位に就いているはずである。 しかし滅亡寸前の国なので、20歳を過ぎてなお官に就けなかったということもあり得るため、 韓が滅亡した時点で20代前半とも考えられる。また、項伯よりも年下との記述がある (「項羽本紀」)。
祖国を滅ぼされた張良は復讐を誓い、全財産を売り払って復讐の資金とした。弟が死んでも、 費用を惜しんで葬式を出さなかったという。
張良は同志を求めて東へ旅をし、倉海君という人物に出会い、その人物と話し合って屈強な力士を 借り受け、紀元前218年頃に始皇帝が巡幸の途中で博浪沙(現在の河南省新郷市原陽県の東)を 通った所を狙った。方法は重さ120斤(約30kg)という鉄槌を投げつけ、始皇帝が乗った車を 潰すというものであった。しかし鉄槌は副車に当たってしまって暗殺は失敗に終わり、 張良たちは逃亡した。
始皇帝は自らを暗殺しようとした者に怒り、全国に触れを回して捕らえようとした。 そこで張良は偽名を使って下?(現在の江蘇省徐州市の東の?州市)に隠れた。
ある日、張良が橋の袂を通りかかると、汚い服を着た老人が自分の靴を橋の下に放り投げ、 張良に向かって「小僧、取って来い」と言いつけた。張良は頭に来て殴りつけようかと思ったが、 相手が老人なので我慢して靴を取って来た。すると老人は足を突き出して「履かせろ」と言う。 張良は「この爺さんに最後まで付き合おう」と考え、跪いて老人に靴を履かせた。老人は笑って 去って行ったが、その後で戻ってきて「お前に教えることがある。5日後の朝にここに来い」と言った。
5日後の朝、日が出てから張良が約束の場所に行くと、既に老人が来ていた。老人は「目上の人間と 約束して遅れてくるとは何事だ」と言い「また5日後に来い」と言い残して去った。5日後、張良は 日の出の前に家を出たが、既に老人は来ていた。老人は再び「5日後に来い」と言い残して去って 行った。次の5日後、張良は夜中から約束の場所で待った。しばらくして老人がやって来た。 老人は満足気に「おう、わしより先に来たのう。こうでなくてはならん。その謙虚さこそが大切 なのだ」と言い、張良に太公望の兵法書を渡して「これを読めば王者の師となれる。13年後に お前は山の麓で黄色い石を見るだろう。それがわしである」と言い残して消え去ったという。
後年、張良はこの予言通り黄石に出会い、これを持ち帰って家宝とし、張良の死後には一緒に 墓に入れられたという。
この「黄石公」との話は伝説であろうが、張良が誰か師匠に就いて兵法を学んだということは 考えられる。また、太公望の兵法書というものを『六韜』だと考える向きもあるが、 現存する『六韜』の成立年代は魏晋代と考えられているので、少なくとも張良が読んだ書物は、 現存する『六韜』ではないと見られる。
また、この下?での逃亡生活の時に、項羽の叔父項伯が人を殺して逃げ込んできたので、 これを匿まっている。
陳勝・呉広の乱が起こると、張良も兵を集めて参加しようとしたが、100人ほどしか集まらなかった。 その頃、陳勝の死後に楚王に擁立された楚の旧王族の景駒が留にいたので、参加しようとした途中、 劉邦に出会い、これに合流したという。
張良は自らの将としての不足を自覚しており、それまでも何度か大将たちに出会っては自らの 兵法を説き、自分を用いるように希望していたが、聞く耳を持つ者はいなかった。 しかし劉邦は張良の言うことを素直に聞き容れ、その策を常に採用し、実戦で使ってみた。 これに張良は「沛公(劉邦)はまことに天授の英傑だ」と思わず感動したという。
劉邦はその後、景駒を敗走させた項梁の下に入って一方の軍を任されるようになる。項梁は新しい 旗頭として懐王(後の義帝)を立てた。そこで張良は韓の公子であった横陽君の韓成を韓王に 立てるように項梁に進言した。項梁もこれを認めて成を韓王とし、張良をその申徒 (『史記集解』に拠れば司徒のこと)に任命した。
その後、韓王成に従い、千人ほどの手勢を引き連れて旧韓の城を攻めて占領するが、すぐに兵力に 勝る秦によって奪い返された。正面から当たる不利を悟った張良は遊撃戦に出た。 そこに劉邦が兵を引き連れてやって来たので、これに合流し、旧韓の城を十数城攻め取り 、韓を再興した。
その後、張良は主君の韓王成を城の一つに留めると、自らは劉邦に従って秦へ攻め上り、 秦の東南の関である武関に至った。劉邦はすぐに攻めかかろうとしたが、張良は守将が 商人出身であることに目をつけ、買収して関を開かせ、相手が油断したところで襲撃して 守将を殺し、最小の被害で関中に入った。
関中に入った劉邦は、秦王の子嬰の降伏を受けて秦の首都咸陽に入城した。帝都のきらびやかさに 驚いた劉邦はここで楽しみたいと思い、樊?にここを出て郊外に宿営しようと諫められても 聞こうとしなかった。そこで張良は「秦が無道を行なったので、沛公は咸陽に入城できました。 それなのにここで楽しもうとするのは秦と同じでしょう」と劉邦を諫め、「忠言は耳に逆らえども 行いに利あり、毒薬[1]は口に苦けれども病に利あり、と申します」と再び諌言した。 劉邦はその諌言を素直に受け容れて、咸陽を出た。
その頃、東で秦の大軍を打ち破った項羽は、東の関である函谷関に迫っていたが、 既に劉邦が関中に入り、自分を差し置いて関中の王のようにしているのを見て激怒し、 函谷関を打ち破って関中へ入り、劉邦を攻め殺そうとした。
その日の夜、旧友の項伯が項羽の陣営から張良の下にやって来て「私と一緒に逃げよう」と誘った。 だが張良は「私は韓王のために沛公をここまで送って来たのです。今、こういう状況だからといって 逃げるのは不義です」と言って断り、項伯を劉邦に会わせた。劉邦は項伯と姻戚関係を結ぶ約束をし、 項羽に対して釈明をしてもらえるよう頼み込んだ。項伯の釈明により項羽の怒りはやや収まり、 項羽と劉邦は会談を行うことになった。これが鴻門の会である。鴻門の会で劉邦は命を狙われたが、 張良や樊?の働きによって危機を逃れている。
その後、項羽は根拠地の彭城(現在の徐州市)に帰り、反秦戦争の参加者に対する論功行賞を行った。 これにより劉邦は巴蜀・漢中の王となる。劉邦が巴蜀へ行くに当たり、張良は桟道を焼くように 進言した。桟道とは、蜀に至る険しい山道を少しでも通り易くするために、木の板を道の横に 並べたものである。とりあえずの危機は去ったものの、劉邦はまだ項羽に警戒されており、 何かの口実で討伐されかねなかった。道を焼いて通行困難にすることで謀反の意思がないことを示し、 同時に攻め込まれたり間者が入り込めないようにしたのである。
劉邦が巴蜀へ去った後、張良は韓王成の下へ戻る。だが、項羽は韓王成が劉邦に味方したことを 不快に思い、成を手許にとどめて韓に戻らせようとしなかった。そこで張良は項羽に 「漢王は桟道を焼いており、大王に逆らう意図はありません。それより斉で田栄らが背いています」 との手紙を出し、項羽はこれで劉邦に対する疑いを後回しにして、直ちに田栄らの討伐に向かった。 だが結局、項羽は韓王成を韓へは返そうとせず、最後には范増の進言で彭城で韓王成を処刑した。 范増はかねてから劉邦を脅威に思っており、もし劉邦が東進してくれば恩義のある韓がまず協力する だろうと見たのである。このために張良は官職を辞して、間道を通じて逃亡して、 すでに東進した劉邦と再会し、劉邦は張良の進言で亡き韓王成の遺体を丁重に埋葬して、 韓王成の族子の信を探し出して、これを成信侯に封じた。張良はそれまでは劉邦にとって 客将であったが、以後は正式に参謀として劉邦に仕えることになった。
劉邦はその後関中を占領し、東へ出て項羽の本拠地・彭城を占領するが、項羽の軍に破られて逃亡し、 ?陽(河南省?陽市)で項羽軍に包囲された。
包囲戦の途中、儒者?食其が「項羽はかつての六国(戦国七雄から秦を除いた)の子孫たちを殺して、 その領地を奪ってしまいました。大王がその子孫を諸侯に封じれば、みな喜んで大王の臣下になるでし ょう」と説き、劉邦もこれを受け容れた。その後、劉邦が食事をしている時に張良がやって来たので、 ?食其の策を話した。張良は「(こんな策を実行すれば)陛下の大事は去ります」と反対し、 劉邦が理由を問うと、張良は劉邦の箸をとって説明を始めた。張良は
「昔、湯王や武王が桀や紂の子孫を諸侯に封じたのは、彼らを制する力があったからです。今、 大王に項羽を制する力がありますか? これが一つ目の理由です」
「武王は殷に入ると賢人商容の徳を褒め、捕えられていた箕子を釈放し、比干の墓を修築しました。 大王にこのようなことができますか? これが二つ目の理由です」
「武王は財を放って困窮の者を援けました。大王にはできますか? これが三つ目の理由です」
「武王は殷を平定すると武器を捨てて戦をしないことを天下に示しました。 今、大王にこれができますか? これが四つ目の理由です」
「武王は戦に使う馬を華山の麓に放ち、戦が終わったことを天下に示しました。 今、大王にこれができますか? これが五つ目の理由です」
「武王は兵糧を運ぶ牛を桃林に放ち、輸送が必要ないことを天下に示しました。今、 大王にそれができますか? これが六つ目の理由です」
「かつての六国の遺臣たちが大王に付き従っているのは、何か功績を挙げていつの日か恩賞の 土地を貰わんがためです。もし大王が六国を復活させれば、みな大王の下を去り故郷へと帰って、 それぞれの主君に仕えるようになるでしょう。大王は誰と天下を争うおつもりですか?  これが七つ目の理由です」
「もし、その六国が楚に脅かされ、楚に従うようになってしまったら、大王はどうやって 六国の上に立つおつもりですか? これが八つ目の理由です」
と答えた。劉邦は食べていた食事を吐き出し「豎儒(じゅじゅ=儒者を馬鹿にする言葉。 ?食其のこと)に大事を潰されるところだった!」と慌てて策を取り止めた。
紀元前203年、劉邦と項羽は?陽の北の広武山で対陣したが、食料が切れたので、 和睦して互いにその根拠地へと戻ることになった。
ここで張良は陳平と共に、退却する項羽軍の後方を襲うよう劉邦に進言した。項羽とその軍は 韓信と彭越の活躍もあって疲弊しているが、戻って回復すればその強さも戻ってしまう。 油断している今を置いて勝機はない、と見たのである。劉邦はこれを受け入れ 、韓信と彭越の2人の武将も一緒に項羽を攻めるように命令した。しかし、韓信と彭越はやって来ず、 劉邦は固陵で項羽軍に敗れた。
張良は劉邦に「韓信・彭越が来ないのは恩賞の約束をしていないからです」と答えた。 劉邦は「彼らには十分禄は出している。韓信は斉王にしてやった」と言うも、張良は 「韓信は肩書きだけで斉の地を与えたわけではありません。彭越も補給路を断つなどの 活躍をしましたが、肩書きの一つでも与えましたか? それに、彼らも漢楚が争っているからこそ 価値があるとわかっているので、争いが終わってしまえば自分たちはどうなるかと不安なのです」 と返した。なおも納得ができない劉邦が「では、恩賞が少ないからと言って我々を見捨て、 漢が滅びればどうなる? 彼らも滅びてしまうではないか。それに天下が定まらない状況で 恩賞など出せるか」と問うと、張良は「彼らは漢が滅びるとは思っていません。 功績と恩賞が見合っていないと思っているのです。先の戦で大王は天下の半分を お取りになりました。それは一体誰のおかげですか? 大王の『恩賞は天下が定まってから』 というお考えはよく理解できますが、天下の人々には『劉邦は天下の半分を取りながら恩賞を 出し惜しんでいる』としか見えません。私は大王が物を惜しんでいないのはよく存じております 。しかし、天下の人々にもそう見えなければ意味がありません。だから彼らも、恥じること も悪びれることもなく動かなかったのです」と答えた。
これに劉邦も納得し、両者に対して戦後も韓信を斉王に、彭越を梁王に封じる約束をし、 喜んだ両者の軍を合わせて項羽軍を垓下に包囲し、項羽を討ち取った(垓下の戦い)。
遂に項羽を滅ぼした劉邦は皇帝に即位し(高祖)、臣下に対して恩賞を分配し始めた。 張良は野戦の功績は一度もなかったが、「謀を帷幄のなかにめぐらし、千里の外に勝利を決した」 と高祖に言わしめ、3万戸を領地として斉の国内の好きな所に選べといわれた。しかし張良は辞退して 「私はかつて陛下と初めてお会いした留をいただければ、それで充分です」と答え、留に封ぜられ、 留侯となった。
高祖は功績が多大な家臣を先に褒賞し、後の者はそれから決めようとしていた。ところが あちらこちらで家臣らが密談をしているところを目撃した。高祖が張良に彼らは何を話しているのかと 聞いたところ、張良は「彼らは謀反を起こす相談をしているのです」と答えた。 驚いた高祖が理由を問うと、「今までに褒賞された人は、蕭何や曹参など陛下の親しい人ばかりです。 天下の土地全てでも彼ら全てに与えるだけはなく、彼らも忠義などではなく恩賞を求めて仕えてきた のです。彼らは陛下に誅殺されるのではないかと恐れ、ならば謀反を起こそうかと密談しているのです」 と答えた。高祖が対策を問うと、張良は「功績はあるが陛下が一番憎んでおり、それを皆が知っている のは誰ですか」と聞いた。高祖は「雍歯だ。昔に裏切られ大いに苦しませられ、 殺したいほど憎い。だが功績があるから我慢している」と答えた。張良は「ならば雍歯に先に 恩賞を与えれば、皆は安心しましょう」と進言し、高祖がその通りに雍歯の恩賞を発表すると、 皆は「あの憎まれている雍歯ですら賞されたのだから、自分にも恩賞が下るに違いない」と安堵し、 あちこちの密談はぴたりと止んだ。
洛陽を都にしようとしていた高祖に対し、劉敬(婁敬)が長安を都とするよう進言した際には、 張良も洛陽の短所(周囲が開けているため、攻められやすく守り難い)と長安の利点 (天険に囲まれ防衛が容易)を述べて劉敬に賛成し、長安に決定させた。
張良は元々病弱であったが、体制が確立されて以後は病気と称して家に籠るようになった。 その中で導引術の研究に取り組み、穀物を絶って特殊な呼吸法で体を軽くし、神仙になろうとした。
しかし、高祖の死期が近づくと、劉邦の愛妾・戚氏がその子・劉如意を皇太子にしようと画策 し始める。劉邦もその気になったため、既に皇太子に立てられていた劉盈(後の恵帝)とその 母・呂雉は危機感を抱いて、長兄の呂沢を留に派遣させて、張良に助言を求めてきた。 張良の助言を聞いた呂沢は妹に報告した結果、高祖がたびたび招聘に失敗した高名な学者たち、 東園公、?里先生、綺里季、夏黄公[2] を劉盈の師として招くように助言し、 これらの学者たちは劉盈の師となった。
高祖はたびたび招聘しても応じなかった彼らが劉盈の後ろに居ることに驚き、何故か聞いた。 彼らは「陛下は礼を欠いており、我らは辱めを避けるため応じませんでした。ですが、 皇太子殿下は徳も礼も備えており、人民も慕っているとのこと。なので参内したのです」 と言った。高祖は劉盈を改めて認め、皇太子の更迭は取り止められた。
呂雉は張良に恩義を感じており、特殊な呼吸法で体を軽くしようとしていることを聞いて 「人生は一回しかなく、短く儚いものなのです。なぜ留侯(張良)はご自身を苦しめられる のですか?」と述べて、張良に無理してでも食事を摂らせたので、張良は仕方なく呂雉の言うとおりに 食事を摂った。
高祖の死の9年後の紀元前186年に死去し、文成侯と諡された。子の張不疑が後を継いだ。
死後、子の不疑が留侯の地位を継いだ。張不疑は紀元前175年に不敬罪で侯を免じられ、 領地を没収された。その後、『漢書』「高恵高后文功臣表」によると、張良の玄孫の子である 張千秋が、宣帝時代に賦役免除の特権を賜った。また『後漢書』「文苑伝」によると 張良の後裔に文人の張超が出た。このほか、益州の人で、後漢の司空張晧、その子で広陵太守の 張綱、その曾孫で蜀の車騎将軍の張翼らが張良の子孫を称している(『後漢書』張晧伝・ 『三国志』張翼伝)。
張良の容姿は司馬遷曰く「婦人好女の如し」だと言う。その頭脳から出る策は軍事に留まらず、 劉邦の事績のほぼ全ての領域にわたっており、「張良がいなかったら劉邦は天下を取れなかった」 というのは衆目の一致するところといえる。韓信・蕭何においても同じことが言え、 これら英傑を使いこなしたことが、自身の言う通り劉邦の偉大さと言える。家臣の偉大さが 主君の偉大さを照らし、主君の偉大さが家臣の偉大さを照らすこの関係を、後世の人々は君臣関係の 理想としてたびたび引き合いに出した。
また最高の知略の臣、王佐の才という代名詞としても度々使われており、特に三国時代の 曹操が荀彧を「我が子房が来た」と喜んで迎えたのが有名である。
張良の優れた軍師ぶりは日本にも伝わっており、江戸時代に描かれた張良の肖像画が何枚も 残っている。




儲光羲(ちょこうぎ)
(707ー約760),唐代詩人。充州(今屬山東)人。一説通州(今江蘇鎮江)人。玄宗開元進士,官監察禦史。 安祿山陷長安時曾受偽職。後被貶,死於嶺南。現存「儲光義詩」。



儲光羲(ちょこうぎ)
(706年-760年),潤州延陵(今常州市金壇區白塔鎮)人,[1]唐代詩人。
神龍二年(706年)出生,[2]開元十四年嚴迪榜進士,與崔國輔、?毋潛同年進士[3]。唐玄宗時任小官, 一度離任隱居終南山,後又復出,天寶十五載升遷至監察御史。安史之亂期間,被迫出任偽職。 平亂之後,以罪貶官南方,寶應元年(762年)遇赦,[4]不久卒。[5]
詩風屬於王孟山水田園詩派,蘇轍稱儲光羲高處似陶淵明[6]。
儲光羲的詩風質樸,比較側重描寫田園生活的閒適,詩作有《樵夫詞》、《釣魚灣》、《田家即事》、 《田家雜興》等。錢鍾書?到:「蘇轍稱讚參寥的詩酷似儲光羲,參寥回答?:某平生未聞光羲名, 況其詩乎?」[7]
儲光羲的詩多以寫田園山水而著名。如<田家即事>、<同王十三維偶然作>、<牧童詞>、<釣魚灣>、 <田家雜興>等,風格樸實,?在含蓄,能?寓細緻?密的觀察於渾厚的氣韻之中,其詩在展現出田園風光 的同時,也展現出了詩人的?村之情,表現出作者親身體驗過?村的感受。生活氣息濃厚, 讓人感覺真實。[8]
唐代殷?編選《河嶽英靈集》讚譽儲光羲的詩集「格高調逸,趣遠情深,削盡常言,挾、風雅之跡, 浩然之氣」;並高度評價儲光羲,可以和王昌齡相提並論,認為「兩賢氣同體別」, 都是展現並且繼承曹植、劉楨、潘岳、陸機的詩風。宋代蘇轍亦推崇儲光羲。
《四庫全書總目》?:他的詩「源出陶潛,質樸之中,有古雅之味,位置於王維、孟浩然間,殆無愧色。」 清代沈德潛《?詩?語》?:「陶詩胸次浩然,其中有一段淵深朴茂不可到處。唐人祖述者,王右丞有其 清腴,孟山人有其閒遠,儲太祝有其樸實,韋左司有其沖和,柳儀曹有其峻潔, 皆學焉而得其性之所近。」



陳 鴻(ちんこう)
生没年不詳。中国、中唐の史学者、小説作者。805年(永貞1)に進士に合格、歴史書『大統記』を書き、尚書主客郎中になった。 806年友人の白居易(はくきょい)および王質夫(おうしつふ)と(ちゅうしつ)(陝西(せんせい)省)の仙遊寺に遊び、 玄宗(げんそう)と楊貴妃(ようきひ)のロマンスを語り合い、『長恨歌伝(ちょうごんかでん)』を書いた。 『長恨歌伝』は「長恨伝」ともいい、王質夫が白居易に勧めて長編物語詩『長恨歌』をつくらせたあと、 陳鴻にその解説として書かせたものである。内容は、愛する元献皇后や武淑妃(ぶしゅくひ)を失って落胆していた玄宗は、 楊玄(ようげんえん)の娘を貴妃に冊立(さくりつ)して寵愛(ちょうあい)する。楊一族は権勢を振るい、 ことに楊国忠は宰相となって専横の行為が多く、ついに安禄山(あんろくざん)の乱を引き起こす。玄宗は成都に亡命の途中、 馬隗亭(ばかいてい)で軍人に迫られて貴妃を殺す。乱後、玄宗は貴妃を忘れられず、道士に彼女の魂を捜させる。 伝言と証拠の金の釵(かんざし)と螺鈿(らでん)の盒子(ごうす)を得た玄宗はいよいよ悲しみに暮れる、という筋。[内山知也]



沈傳師(ちんでんし)
(777年-835年[1])字子言。??(今江??州)人,祖籍??郡武康?(今浙江省湖州市德清?), 唐?法家。
沈??是沈?家曾?,沈既濟之子。唐德宗?元二十一年進士[2],登制科乙第,?官太子校?郎、?左拾?、 左??,元和十二年為翰林学士[3]、中?舍人、湖南?察使等職。宝?元年(825年)拜官至尚?右丞、 吏部侍郎,“更二?十年,无??入?家”。大和二年(828年),外放江西觀察使、宣歙?察使[4]。 ?思称其“才行有余”[5]。四年(830年)九月,至宣州,七年(833年)四月回京任職, 終官吏部侍郎,九年(835年)去世,?吏部尚?。有子沈?。
沈傳師工書法,米?推崇道:“如?游天表,虎踞溪旁,精神自若,骨法清虚。”一日米?游湘西 道林岳麓寺時,將沈氏所?的《游道林岳麓寺?》?走,揚帆而去。寺僧急向官府告?, 方得以追回。朱?文?他“正、行?皆至妙品。存于翠?、爽快??,如??学仙,骨?神健、??然欲?霄云”[6]。



陳 琳(ちん りん)
(? - 建安22年(217年))は、中国後漢末期の文官。建安七子の1人。字は孔璋。 徐州広陵郡射陽県の出身。
はじめ何進に仕え、主簿を務めた。何進が宦官誅滅を図り諸国の豪雄に上洛を促したとき、 これに猛反対している。何進の死後は冀州に難を避け、袁紹の幕僚となる。官渡の戦いの前、 袁紹が中原全土に配した曹操打倒の檄文を書いた。曹操は、この檄文を読み「ここに書かれた 曹操という人物像を考えると、読んだわし自身も怒り心頭に発する」と評している。
?城が陥落し、曹操の前に引き立てられた際、陳琳は曹操にこの檄文を読まされた。その内容は 曹操のみならず、その父や祖父までをも痛烈に批判するものだったが、曹操はこの檄文を 誉めた上で「なぜわしの祖父や父まで辱めたか」と尋ねた。陳琳は「引き絞った矢は射ぬわけには いきませぬ」と答えたため、曹操から許されたという逸話がある。
その後は曹操に仕え、建安22年(217年)に疫病に罹って病死した。曹丕は彼のことを 「文章は雄健だが、やや繁雑である」と評している。
唐の呉融は「陳琳墓」なる詩を作り(全唐詩巻685)、「筆先をほしいままにし自分の利益を得たが、 あの世でどの面を提げて袁公にまみえるのか」と、その変節を非難している。




鄭注(てい ちゅう)
(? - 835年)は、中国・唐代の官僚。本姓は?氏で、後に名門の鄭氏を称した。絳州翼城県 (山西省翼城県)の出身。
改姓していることでも判るように、生家は下賎の階層であった。多芸多才で陰険狡猾な性格をして おり、人心を察するに敏であった。大和8年(834年)に、宦官の王守澄に見出されて、 太僕卿となり、御史大夫を兼ねた。官に就くと、その権勢を笠に、私腹を肥やす事に励んだ。
文宗や李訓と謀って、宦官を一掃しようとして、鳳翔節度使となって、その兵力を用いて宦官を除 こうとした。が、その約に先立って、李訓が挙兵したため、ことは失敗に終わり、 鄭注も鳳翔(陝西省鳳翔県)で殺害された。



丁令威(ていれいい)
丁令威はもと遼東のひとであった。道の教えを霊虚山(今の安徽省懐遠付近の霊山)で学んだという。 後に変化して鶴となり、遼東に帰った。
さて、遼東の街の城門前には石で作られた大きな記念柱(「華表」)があり、丁令威の化した鶴は、そこに止まったのである。 すると、何も知らない若者が、これはよき獲物なり、と弓をとって射ようとしたそうだ。
それに気づいた鶴は飛び立ち、空中を何度か旋回して、歌っていわく、

有鳥有鳥丁令威(鳥あり鳥あり 丁令威
去家千年今始帰(家を去りて千年 今はじめて帰る)
城郭如故人民非(城郭はもとの如きも人民は非なり)
何不学仙冢塁塁(何ぞ仙を学ばざる 冢塁々たるに)

鳥がやってきた、鳥がやってきた、それはわたし、丁令威。
家を出てから千年、仙道を学んで今はじめて帰ってきたが、
町はいにしえと似ているが、ひとびとはまったく違っている
どうして仙道を学ばずに、みんな次々と死んでしまったのだろう。

歌い終えるとついに高く天に舞い上ってそのまま見えなくなってしまった・・・。

今、遼東には「丁」という姓の一族が遺っているが、彼らの言い伝えでは、その先祖に仙人となって昇天したひとがいたという。 ただし、その名前までは伝わってはいない。その「丁」氏の仙人が、この丁令威であったのだろうか、どうであろうか。

丁令威 (晋・陶淵明「捜神後記」)




杜宇(とう)
長江流域に蜀という傾いた国(秦以前にあった古蜀)があり、そこに杜宇という男が現れ、農耕を指導して蜀を再興し、 自ら帝王となり「望帝」と呼ばれた。後に、長江の氾濫を治めるのを得意とする男に帝位を譲り、「望帝」は山中に隠棲した。 望帝杜宇が死したとき、その霊魂はホトトギスに化身し、農耕を始める季節が来るとそれを民に告げるために鳴いた。 杜宇の化身したホトトギスの鳴き声は鋭かったという。また、後に蜀が秦によって滅ぼされてしまったことを知った杜宇の 化身であるホトトギスは嘆き悲しみ、「不如帰去」(帰り去くに如かず=帰りたい)と、血を吐くまで鳴いたという。 ホトトギスのくちばしが赤いのはそのためだ、と言われるようになった。ホトトギスの激情的なさえずりは、 和歌に多く詠まれている。

陶 淵明(とう えんめい)
(365年興寧3年ー427年元嘉3年)中国魏晋南北朝時代、東晋末から南朝宋の文学者。字は元亮。または名は潜、字は淵明。
死後友人からの諡にちなみ「靖節先生」、または自伝的作品「五柳先生伝」から「五柳先生」とも呼ばれる。
潯陽柴桑(現江西省九江市)の人。郷里の田園に隠遁後、自ら農作業に従事しつつ、日常生活に即した詩文を多く残し 、後世「隠逸詩人」「田園詩人」と呼ばれる。
陶淵明の四言詩「子に命(なづ)く」によると、その祖は神話の皇帝、帝堯(陶唐氏)に遡るという。 祖先は、三国呉の揚武将軍・陶丹であり、陶丹の子で東晋の大司馬・長沙公の陶侃は曽祖父にあたり、 祖父の陶茂は武昌太守となったというが、詳しい事は不明である[3]。母方の祖父には孟嘉がいる。 いずれも門閥が重視された魏晋南北朝時代においては、「寒門」と呼ばれる下級士族の出身であった。 陶淵明は393年、江州祭酒として出仕するも短期間で辞め、直後に主簿(記録官)として招かれたが就任を辞退する。 399年、江州刺史・桓玄に仕えるも、401年には母の孟氏の喪に服すため辞任。404年、鎮軍将軍・劉裕に参軍(幕僚) として仕える[4]。これらの出仕は主に経済的な理由によるものであったが、いずれも下級役人としての職務に耐えられず、 短期間で辞任している。405年秋8月、彭沢県(九江市の約90km東)の県令となるが、80数日後の11月には辞任して帰郷した[5]
。 以後、陶淵明は隠遁の生活を続け二度と出仕せず、廬山の慧遠に師事した周続之、 匡山に隠棲した劉遺民と「潯陽の三隠」と称された。隠棲後の出来事としては、408年、火事にあって屋敷を失い、 しばらくは門前に舫う船に寝泊りする[6]、411年、住まいを南村に移すも[7]、 同年、隠遁生活の同士であった従弟の陶敬遠を喪う[8]、という事があった。 この間も東晋および劉裕が建国した宋の朝廷から招かれたがいずれも応じなかった。 427年、死去。享年63[1]。その誄(追悼文)は、友人で当時を代表する文人の顔延之によるものであった。

作例
九日閑居・并序
魏晋:陶渊明
余閑居,愛重九之名。秋菊盈園,而持醪靡由,空服九華,寄懷於言。

世短意常多, 斯人樂久生。
日月依辰至, 舉俗愛其名。
露淒暄風息, 氣澈天象明。
往燕無遺影, 來雁有餘聲。
酒能?百慮, 菊爲制頽齡。
如何蓬廬士, 空視時運傾。
塵爵恥虚罍, 寒華徒自榮。
歛襟獨閒謠, 緬焉起深情。
棲遲固多娯, 淹留豈無成。

世 短くして  意 常に多く,
斯(こ)の人  久生を 樂(この)む。
日月  辰(とき)に 依(よ)りて 至るも,
俗を 舉(あ)げて  其の名を 愛す。
露 淒(しげ)くして  暄風(けんぷう) 息(や)み,
氣 澈(す)みて  天象 明かなり。
往きし燕は  遺影 無く,
來たれる雁は  餘聲 有り。
酒は能(よ)く  百慮を (はら)ひ,
菊は  頽齡(たいれい)を 制すと 爲(な)す。
如何(いか)んぞ  蓬廬(ほうろ)の士,
空く  時運の傾くを 視(み)んや。
塵爵(ぢんしゃく)は  虚罍(きょらい)に 恥ぢ,
寒華は  徒(いたづ)らに 自ら 榮ゆ。
襟を 歛(をさ)め  獨り 閒謠せば,
緬焉(めんえん)として  深情 起る。
棲遲(せいち)  固(もと)より 娯(たのしみ) 多く,
淹留(えんりゅう)すれど  豈(あ)に 成る 無からんや。



桃花夫人(とうかふじん)
息夫人


董京(とうけい)
《抱朴子》内篇・卷十五《雜應》 洛陽有道士董威輦,常止白社中,了不食,陳子敘共守事之,從學道積久,乃得其方,云以甘草、 防風、莧實之屬十許種搗為散,先服方寸匕,乃呑石子大如雀卵十二枚,足辟百日,輒更服散, 氣力顏色如故也。
《晉書》卷九十四《隱逸傳・董京傳》 董京字威輦,不知何郡人也。初與隴西計吏俱至洛陽,被髮而行,逍遙吟詠,常宿白社中。


(唐)高宗(とう こうそう)
唐朝の第3代皇帝。太宗の第9子。母は長孫皇后。皇帝ではなく天皇の称号を使用したことでも知られている。
父太宗の晩年に、皇太子であった同母長子の李承乾と第4子の魏王李泰が内訌を理由に共に廃立された。 母方の伯父の長孫無忌の進言もあり、第9子の李治が代わって皇太子に立てられ、太宗の死にともない皇帝に即位した。 太宗に溺愛された異母兄の呉王李恪(隋の煬帝の外孫でもあった)を擁立する動きが見られたため、 長孫無忌は呉王に謀反の嫌疑をかけて自殺に追い込み、一族を処刑した。
668年、新羅と共同(唐・新羅の同盟)して、隋以来敵対関係にあった高句麗を滅亡させる(唐の高句麗出兵)。 こうして新羅を除く朝鮮半島を版図に収め、安東都護府を設置、唐の最大版図を獲得したが、 676年に新羅が朝鮮半島全土を統一(唐・新羅戦争)すると、朝鮮半島経営を放棄した。
この時期になると、外戚の長孫氏が皇后である武氏の一派によって追放され、 代わって武后が政治の実権を掌握するようになっていた。このため高宗は武后廃立を計画したが、失敗する。 後に丹薬による中毒で眼病を患い、唐の実権は完全に武后により掌握された。このような状況の中683年に崩御した。
病気がちであった高宗は、政治において主導権を発揮することはなく、最初は外戚の長孫氏、 後に皇后の武氏に実権を握られ続けた皇帝であった。


唐汝詢(とうじょじゅん)
唐詩集註. 巻之1-7 / 李攀竜 選 ; 蒋一葵 註 ; 唐汝詢 觧 ; 宇鼎 纂 ; 顕常 集補

杜康(とこう)
古代中国では儀狄(ぎてき)と杜康(とこう)という酒の神がいたが、 後者に由来 して良い酒を造った者に杜康という氏を授けたことに由来するとする説である。 京都の ... 音としては刀自(とじ)を継ぎ、杜康の字をそれに宛てるようになったとする説である。

杜 審言(と しんげん)
645年(貞観19年) - 708年(景龍2年))は中国・唐代(初唐)の詩人。 襄州襄陽(現在の湖北省襄陽市)の人。字は必簡。西晋代の杜預の子孫に当たり、杜依芸の子。 子に杜閑・杜并ら、孫に杜甫がいる。 670年(咸亨元年)進士となり、隰城県(河南省)の尉となった。自らの才能を恃むところ頗(すこぶ)る強く 、大胆な放言をしては周囲から憎悪されていた。また、杜審言は立場が上の人間に対する態度は弱く、 武則天に召し出された時には、必要以上に媚び諂って感謝するという有様であった。しかし、詩を絶賛されたり、 李?・崔融・蘇味道らと共に「文章四友」と呼ばれるなど、その才能は認められていた。 705年(神龍元年)頃、武則天の寵臣・張易之らと親しくしていたために左遷され、峰州(ベトナム近く)に流された。 その後、都に戻って国子館主簿・修文館直学士になり、病死した。死に際しても見舞いに来た友人の宋之問らに 「わたしの才能が今まで君達を押さえ込んできたが、これからわたくしが死ぬからにはさぞ喜ばしかろう」 などと言い放ったという。


盗跖(とうせき)
盗跖もしくは盗蹠(とうせき)は、中国の古文献に登場する春秋時代・魯国(一説には黄帝時代)の盗賊団の親分。 九千人の配下を従えて各地を横行し、強盗略奪を欲しいままにしたといい、しばしば盗賊の代名詞のように語られる。
「荘子」雑編 盗跖篇:盗跖と孔子の問答。盗跖の悪評を聞いた孔子は「奴は弁舌が達者だから、行かないほうがよい」 との警告を聞かず、盗跖に理非を説いて改心させようと出かけてゆく。しかしかえって盗跖に完膚なきまでに論破され、 ほうほうの態で逃げ帰り「虎のひげを撫でに行き、虎にあやうく喰われかけた」とため息をつく。
雜篇盜跖第二十九
人上壽百歳,中壽八十,下壽六十,除病痩死喪憂患,其中開口而笑者,一月之中不過四五日而已矣。

桃葉(とうよう)
王獻之の情人。
相傳東晉書法家王羲之之七子王獻之,常於此渡口迎接他的愛妾桃葉渡河。當時?秦淮河水面寬廣, 桃葉渡處水深湍急,遇有風浪,若擺渡不慎,常會翻船。桃葉?次擺渡心裡害怕, 為此王獻之為?作了一首《桃葉歌》
此後,為紀念王獻之,遂把他當年迎接桃葉的渡口命名為桃葉渡。

徳宗皇帝(とくそうこうてい)
唐朝の第12代皇帝。代宗の長男。
父代宗が即位すると大元帥に任じられ、安史の乱の終息に務めた。
764年(広徳2年)皇太子となり、779年(大暦14年)代宗の崩御にともない即位した。 即位後は唐の財政再建に尽力し、楊炎の進言に従って両税法を施行し税制面の改革に着手した。 また節度使を抑制するために兵力削減や世襲禁止などの抜本的な改革を行なおうとしたが節度使の反発を招き、 河朔三鎮・河南二鎮反乱により長安を追われてしまった。このため784年に『罪己詔』を発して、 節度使に対する不介入を約束した上で混乱を収束した。徳宗の改革は短期間で失敗に終わり、 さらなる財政的に困難な状況を生み出した。そして節度使の権力は更に強まり、唐の権力は一層の弱体化に見舞われた。
徳宗の治世は両税法の改革などから中興の治と称されているが、具体的な成果は乏しい。 ただし後世の憲宗による節度使抑制の成功は、徳宗時代の失敗の教訓が活かされた結果とも言われる。



徳富蘇峰(とくとみそほう)
(とくとみ そほう、1863年3月14日(文久3年1月25日) - 1957年(昭和32年)11月2日)は、明治から昭和戦後期にかけての 日本のジャーナリスト、思想家、歴史家、評論家。『國民新聞』を主宰し、大著『近世日本国民史』を著したことで知られる。 蘇峰は号で、本名は猪一郎(いいちろう)。字は正敬(しょうけい)。筆名は菅原 正敬(すがわら しょうけい)、 大江 逸(おおえ いつ、逸郎とも)。雅号に山王草堂主人、頑蘇老人、蘇峰学人、銑研、桐庭、氷川子、青山仙客、伊豆山人など。 生前自ら定めた戒名は百敗院泡沫頑蘇居士(ひゃぱいいんほうまつがんそこじ)。 小説家の徳冨蘆花は弟である。
1863年3月14日(文久3年1月25日)、肥後国上益城郡杉堂村(現熊本県上益城郡益城町上陳)の母の実家(矢嶋家)にて、 熊本藩の一領一疋の郷士・徳富一敬の第五子・長男として生れた[1][2][3]。徳富家は代々葦北郡水俣で惣庄屋と代官を兼ねる家柄であり、 幼少の蘇峰も水俣で育った。父の一敬は「淇水」と号し、「維新の十傑」[注釈 1] のひとり横井小楠に師事した人物で、 一敬・小楠の妻同士は姉妹関係にあった。一敬は、肥後実学党の指導者として藩政改革ついで初期県政にたずさわり、 幕末から明治初期にかけて肥後有数の開明的思想家として活躍した[1][4]。
蘇峰は、8歳まで水俣(浜村、通称居倉)[5] に住んでおり、1870年(明治3年)の暮れ、8歳の頃に熊本東郊の大江村に引き移った[6]。 1871年(明治4年)から兼坂諄次郎に学んだ。読書の力は漸次ついてきて、『四書』『五経』『左伝』『史記』『歴史網鑑』『国史略』 『日本外史』『八家文』『通鑑網目』なども読み、兼坂から習うべきものも少なくなった。1872年(明治5年)には熊本洋学校[7] に入学したが、 年少(10か11歳)のため退学させられ、このことはあまり恥辱でもなかったが、大変不愉快な思いを憶えたという[8]。 その後1875年(明治8年)に再入学する。この間、肥後実学党系の漢学塾に学んでいる。熊本洋学校では漢訳の『新約・旧約聖書』などにふれて 西洋の学問やキリスト教に興味を寄せ、1876年(明治9年)、横井時雄、金森通倫、浮田和民らとともに熊本バンド(花岡山の盟約)の 結成に参画、これを機に漢学・儒学から距離をおくようになった[2][9]。
熊本洋学校閉鎖後の1876年(明治9年)8月に上京し、官立の東京英語学校に入学するも10月末に退学、京都の同志社英学校に転入学した。 同年12月に創設者の新島襄により金森通倫らとともに洗礼を受け[2]、西京第二公会に入会、洗礼名は掃留(ソウル)であった[1]。 若き蘇峰は、言論で身を立てようと決心するとともに、地上に「神の王国」を建設することをめざした[1]。
1880年(明治13年)、学生騒動に巻き込まれて同志社英学校を卒業目前に中退した[注釈 2]。蘇峰は、こののち東京で新聞記者を 志願したが志かなわず、翌1881年(明治14年)、帰郷して自由党系の民権結社相愛社に加入し、自由民権運動に参加した。 このとき蘇峰は相愛社機関紙『東肥新報』の編集を担当、執筆も寄稿してナショナリズムに裏打ちされた自由民権を主張している[2]。
1882年(明治15年)3月、元田永孚の斡旋で入手した大江村の自宅内に、父・一敬とともに私塾「大江義塾」を創設する。 1886年(明治19年)の閉塾まで英学、歴史、政治学、経済学などの講義を通じて青年の啓蒙に努めた[2]。その門下には宮崎滔天や 人見一太郎らがいる[注釈 3]。
大江義塾時代の蘇峰は、リチャード・コブデンやジョン・ブライトらマンチェスター学派と呼ばれるヴィクトリア朝の自由主義的な思想家に学び、馬場辰猪などの影響も受けて平民主義の思想を形成していった[10]。 蘇峰のいう「平民主義」は、「武備ノ機関」に対して「生産ノ機関」を重視し、生産機関を中心とする自由な生活社会・経済生活を基盤 としながら、個人に固有な人権の尊重と平等主義が横溢する社会の実現をめざすという、「腕力世界」に対する批判と生産力の強調を含む ものであった[10]。これは、当時の藩閥政府のみならず民権論者のなかにしばしばみられた国権主義や軍備拡張主義に対しても批判を加えるもの であり、自由主義、平等主義、平和主義を特徴としていた。蘇峰の論は、1885年(明治18年)に自費出版した『第十九世紀日本の青年及其教育』 (のちに『新日本之青年』と解題して刊行)、翌1886年(明治19年)に刊行された『将来之日本』[11] に展開されたが、 いずれも大江義塾時代の研鑽によるものである[2][注釈 4]。彼の論は、富国強兵、鹿鳴館、徴兵制、国会開設に沸きたっていた 当時の日本に警鐘を鳴らすものとして注目された。
蘇峰は1886年(明治19年)の夏、脱稿したばかりの『将来之日本』の原稿をたずさえ、新島襄の添状を持参して高知にあった 板垣退助を訪ねている。原稿を最初に見せたかったのが板垣であったといわれている[12] [注釈 5]。同書は蘇峰の上京後に田口卯吉の 経済雑誌社より刊行されたものであるが、その華麗な文体は多くの若者を魅了し、たいへん好評を博したため、蘇峰は東京に転居して 論壇デビューを果たした[9][14]。これが蘇峰の出世作となった。
1887年(明治20年)2月には東京赤坂榎坂に姉・初子の夫・湯浅治郎の協力を得て言論団体「民友社」を設立し、月刊誌『国民之友』 を主宰した。この誌名は、蘇峰が同志社英学校時代に愛読していたアメリカの週刊誌『The Nation』から採用したものだといわれている[15]。
民友社には弟の蘆花をはじめ山路愛山、竹越與三郎、国木田独歩らが入社した。『国民之友』は、日本近代化の必然性を説きつつも、 政府の推進する「欧化主義」に対しては「貴族的欧化主義」と批判、三宅雪嶺、志賀重昂、陸羯南ら政教社の掲げる国粋主義(国粋保存主義) に対しても平民的急進主義の主張を展開して当時の言論界を二分する勢力となり、1888年(明治21年)から1889年(明治22年)にかけては、 大同団結運動支援の論陣を張った。また、平民叢書第6巻として『現時之社会主義』[注釈 6]を1893年(明治26年)に発刊するなど 社会主義思想の紹介もおこない、当時にあっては進歩的な役割をになった[9][17]。
その一方で蘇峰は1888年(明治21年)、森田思軒、朝比奈知泉らとともに「文学会」の発会を主唱した。会は毎月第2土曜日に開かれ、 気鋭の文筆家たちが酒なしで夕食をともにし、食後に1人ないし2人が文学について語り、また参加者全員で雑談するという会合で、 坪内逍遥や森?外、幸田露伴などが参加した[18]。
1890年(明治23年)2月、蘇峰は民友社とは別に国民新聞社を設立して『國民新聞』を創刊し、以後、明治・大正・昭和の3代にわたって オピニオンリーダーとして活躍することとなった[2]。さらに蘇峰は、1891年(明治24年)5月には『国民叢書』、1892年(明治25年)9月には 『家庭雑誌』、1896年(明治29年)2月には『国民之友英文之部』(のち『欧文極東(The Far East)』)を、それぞれ発行している[1]。 このころの蘇峰は、結果として利害対立と戦争をしか招かない「強迫ノ統合」ではなく、自愛主義と他者尊重と自由尋問を基本とする 「随意ノ結合」を説いていた[10]。蘇峰は、『國民新聞』発刊にあたって、
当時予の最も熱心であったのは、第一、政治の改良。第二、社会の改良。第三、文芸の改良。第四、宗教の改良であった。『蘇峰自伝』
と記している[18]。
蘇峰は1891年(明治24年)10月、『国民之友』誌上に「書を読む遊民」を発表している。そこで蘇峰は、中学校(旧制)に進学せず、 地方の町村役場で吏員となっている若者や小学校の授業生(授業担当無資格教員)となっている地方青年に、専門的な実業教育を施して 生産活動に参画せしむるべきことを主張している[19]。
一方では1889年(明治22年)1月に『日本国防論』、1893年(明治26年)12月には『吉田松陰』を発刊し、1894年(明治27年)、 対外硬六派に接近して第2次伊藤内閣を攻撃し[注釈 7]、日清戦争に際しては、内村鑑三の「Justification of Korean War」を 『国民之友』に掲載して朝鮮出兵論を高唱した。蘇峰は、日清開戦におよび、7月の『国民之友』誌上に「絶好の機会が到来した」と書いた (「好機」)。それは、今が、300年来つづいてきた「収縮的日本」が「膨脹的日本」へと転換する絶好の機会だということである[21]。 蘇峰は戦況を詳細に報道、自ら広島の大本営に赴き、現地に従軍記者を派遣した[注釈 8]。 さらに蘇峰は、参謀次長・川上操六、 軍令部長・樺山資紀らに対しても密着取材を敢行している。同年12月後半には『国民之友』『國民新聞』社説を収録した 『大日本膨脹論』を刊行した[23]。
従軍記者として日清戦争後も旅順にいた32歳の蘇峰は、1895年(明治28年)4月のロシア・ドイツ・フランスによるいわゆる三国干渉の報に接し、 「涙さえも出ないほどくやしく」感じ[24]、激怒して「角なき牛、爪なき鷹、嘴なき鶴、掌なき熊」と日本政府を批判し、 国家に対する失望感を吐露した[14]。
蘇峰は、
この遼東還付が、予のほとんど一生における運命を支配したといっても差支えあるまい。この事を聞いて以来、予は精神的にはほとんど 別人となった。これと言うのも畢竟すれば、力が足らぬわけゆえである。力が足らなければ、いかなる正義公道も、半文の価値もないと 確信するにいたった。『蘇峰自伝』
と回想している[25] [注釈 9]。
遼東半島の還付(三国干渉)に強い衝撃を受けた蘇峰は、翌1896年(明治29年)より海外事情を知るための世界旅行に出かけた。 同行したのは国民新聞社社員の深井英五であった。蘇峰は、渡欧する船のなかで「速やかに日英同盟を組織せよ」との社説を『国民之友』 に掲載した[15]。その欧米巡歴は、ロンドンを皮切りにオランダ、ドイツ、ポーランドを経てロシアに入り、モスクワでは文豪レフ・トルストイを 訪ねた[注釈 10]。その後、パリに入ってイギリスに戻り、さらにアメリカ合衆国に渡航している[10]。ロンドンでは、『タイムズ』や 『デイリー・ニューズ』などイギリスの新聞界と密に接触し、日英連繋の根回しをおこなっている[15]。このころから蘇峰は、 平民主義からしだいに強硬な国権論・国家膨脹主義へと転じていった。
帰国直後の1897年(明治30年)、第2次松方内閣の内務省勅任参事官に就任、従来の強固な政府批判の論調をゆるめると、反政府系の人士より、 その「変節」を非難された[14][注釈 11]。
蘇峰は「予としてはただ日本男子としてなすべきことをなしたるに過ぎず」と述べているが、田岡嶺雲は蘇峰に対し「一言の氏に寄すべきあり、 曰く一片の真骨頂を有てよ。説を変ずるはよし、節を変ずるなかれと」と記して批判し[28]、堺利彦もまた「蘇峰君は策士となったのか、 力の福音に屈したのか」とみずからの疑念を表明した[10]。
1898年(明治31年)には『国民之友』の不買運動がおこり、売り上げは低迷した。蘇峰は、この年の8月『国民之友』のみならず『家庭雑誌』 『欧文極東』も廃刊して、その言論活動を『國民新聞』に集中させた。なお、蘇峰の政治的姿勢の変化については、有力新聞を基盤として 政治家と交際し、政界や官界に影響力を持った政客として活動することで政治を動かそうとしたとして肯定的な評価もある[29]。
蘇峰はこののち山縣有朋や桂太郎との結びつきを深め、1901年(明治34年)6月に第1次桂内閣の成立とともに桂太郎を支援して、 その艦隊増強案を支持し続け、1904年(明治37年)の日露戦争の開戦に際しては国論の統一と国際世論への働きかけに努めた。戦争が始まるや、 蘇峰の支持した艦隊増強案が正しかったと評価され、『國民新聞』の購読者数は一時飛躍的に増大した[15]。しかし、1905年(明治38年)の 日露講和会議の報道では講和条約(ポーツマス条約)調印について、
図に乗ってナポレオンや今川義元や秀吉のようになってはいけない。引き際が大切なのである。
と述べて、唯一賛成の立場をとったことから、国民新聞社は御用新聞、売国奴とみなされ、9月5日の日比谷焼打事件に際しては約5,000人もの 群衆によって襲撃を受けた[15]。社の印刷設備を破壊しようとする暴徒と社員が社屋入り口付近でもみ合いとなり、駆けつけた日比野雷風が 抜刀してかろうじて撃退している[30]。
1910年(明治43年)、韓国併合ののち、初代朝鮮総督の寺内正毅の依頼に応じ、朝鮮総督府の機関新聞社である京城日報社の監督に就いた。 『京城日報』は、あらゆる新聞雑誌が発行停止となった併合後の朝鮮でわずかに発行を許された日本語新聞であった[31][注釈 12]。
翌1911年(明治44年)8月24日には貴族院勅選議員に任じられている[32]。前年5月には大逆事件の検挙が始まり、1911年(明治44年) 1月には幸徳秋水ら24人に死刑判決が下った。弟の蘆花は、桂太郎首相に近い蘇峰に対し幸徳らの減刑助命の忠告をするよう求めたが、 処刑の執行は速やかにおこなわれたため、間に合わなかった[33]。
1912年(明治45年)7月30日、明治天皇崩御。蘇峰は明治天皇の死について、
国家の一大秩序は、実にわが明治天皇の御一身につながりしなり。国民が陛下の崩御とともに、この一大秩序を見失いたるは、 まことに憐むべきの至りならずや。
と言及している[34]。
1913年(大正2年)1月の第一次護憲運動のさなか桂太郎の立憲同志会創立趣旨草案を執筆している[注釈 13]。 『國民新聞』は 大正政変に際しても第3次桂内閣を支持したため、「桂の御用新聞」と見なされて再び襲撃を受けた[1]。『蘇峰日誌』などによれば、 このとき国民新聞社社員は活字用の溶解した鉛まで投げて群衆に抵抗し、社員のなかの1名はピストルを発射、それにより少なくとも死者1名、 重傷者2名を出し、更に日本刀による応戦で負傷者多数が生じている[36]。
蘇峰は、同年10月の桂の死を契機に政界を離れ、以降は「文章報国」を標榜して時事評論に健筆をふるった[9]。1914年(大正3年)の 父・一敬の死後は『時務一家言』『大正の青年と帝国の前途』を出版して『将来之日本』以来の言論人に立ち返ることを約した[1]。
第一次世界大戦のさなかに書かれた『大正の青年と帝国の前途』のなかで蘇峰は、特徴的な「大正の青年」について、模範青年、 成功青年、煩悶青年、耽溺青年、無色青年の5類型を掲げて論評しており、「金持ち三代目の若旦那」のようなものだと言っている。 日清・日露の両戦争に勝利した日本は、独立そのものを心配しなくてはならないような状況は見あたらないから、彼らに創業者 (維新の青年)のようにあれと求めても無理であり、彼らが「呑気至極」なのもやむを得ない、と述べたうえで、むしろ国際競争の なかで青年を呑気たらしめている国家のあり方、無意識的に惰性で運行しているかのような国家のあり方が問題なのであり、 国家は意識的に国是を定めるべきだと主張した[37]。
1915年(大正4年)11月、第2次大隈内閣は異例の新聞人叙勲をおこなっている。蘇峰は、このとき黒岩涙香、村山龍平、本山彦一らとともに 勲三等を受章した[38]。なお、蘇峰の『國民新聞』は立憲政友会に対しては批判的な記事を掲載することが多く、それは第1次西園寺内閣時代の 1906年(明治39年)にさかのぼるが、「平民宰相」となった原敬が最も警戒すべき新聞として敵視していたのが『國民新聞』であった[39]。 二個師団増設問題の解決をめぐって互いに接近したこともあったが、1918年(大正7年)の原内閣成立後も、原は『國民新聞』 に対する警戒を解かなかった[40][注釈 14] [注釈 15]。
1918年(大正7年)5月、蘇峰は「修史述懐」を著述して年来持ちつづけた修史の意欲を公表した[1]。同年7月、55歳となった蘇峰は 『近世日本国民史』の執筆に取りかかって『國民新聞』にこれを発表、8月には京城日報社監督を辞任した。『近世日本国民史』は、 日本の正しい歴史を書き残しておきたいという一念から始まった蘇峰のライフワークであり[43]、当初は明治初年以降の歴史について 記す予定であったが、明治を知るには幕末、幕末を知るには江戸時代が記されなければならないとして、結局、織田信長の時代以降の 歴史を著したものとなった[44]。『近世日本国民史』は、東京の大森(現大田区)に建てられた「山王草堂」と名づけた居宅で執筆された。 山王草堂には、隣接して自ら収集した和漢の書籍10万冊を保管した「成簀堂(せいきどう)文庫」という鉄筋コンクリート造、地上3階、 地下2階の書庫が建てられた[44]。
1923年(大正12年)には10巻を発表した段階で『近世日本国民史』の業績が認められ、帝国学士院の恩賜賞を受賞した[45]。 この年は9月1日に関東大震災が起こっているが、その日神奈川県逗子にいた蘇峰は、周囲が津波に襲われるなか、庭先で『近世日本国民史』 の執筆をおこなっている[44]。
1925年(大正14年)6月、蘇峰は帝国学士院会員に推挙され、その任に就いた。また、同年、皇室思想の普及などを目的とする施設 「青山会館」が、蘇峰の寄付によって東京・青山に完成している。
ジャーナリスト・評論家としての蘇峰は、大正デモクラシーの隆盛に対し、外に「帝国主義」、内に「平民主義」、両者を統合する 「皇室中心主義」を唱え、また、国民皆兵主義の基盤として普通選挙制実現を肯定的にとらえている[46]。1927年(昭和2年)、 弟の蘆花が死去。1928年(昭和3年)には蘇峰の「文章報国40年祝賀会」が青山会館で開催されている。
帝国学士院会員としては、1927年(昭和2年)5月に「維新史考察の前提」、1928年(昭和3年)1月に「神皇正統記の一節に就て」、 1931年(昭和6年)10月には「歴史上より見たる肥後及び其の人物」のそれぞれについて進講している[1]。
なお、関東大震災後に国民新聞社の資本参加を求めた根津嘉一郎が副社長として腹心の河西豊太郎をすえると根津と河西のあいだに 確執が深まり、1929年(昭和4年)、蘇峰は自ら創立した国民新聞社を退社した[47]。その後は、本山彦一の引きで大阪毎日新聞社・ 東京日日新聞社に社賓として迎えられ、『近世日本国民史』連載の場を両紙に移している。
1931年(昭和6年)、『新成簀堂叢書』の刊行を開始した。同年に起こった満州事変以降、蘇峰はその日本ナショナリズムないし 皇室中心主義的思想をもって軍部と結んで活躍、「白閥打破」[注釈 16]、「興亜の大義」、「挙国一致」を喧伝した。
1935年(昭和10年)に『蘇峰自伝』、1939年(昭和14年)に『昭和国民読本』、1940年(昭和15年)には『満州建国読本』をそれぞれ刊行し、 この間、1937年(昭和12年)6月に帝国芸術院会員となった。1940年(昭和15年)9月、日独伊三国軍事同盟締結の建白を近衛文麿首相に提出し、 太平洋戦争の始まった1941年(昭和16年)12月には東條英機首相に頼まれ、大東亜戦争開戦の詔書を添削している。
1942年(昭和17年)5月には日本文学報国会を設立してみずから会長に就任、同年12月には内閣情報局指導のもと大日本言論報国会が設立されて、 やはり会長に選ばれた。前者は、数多くの文学者が網羅的、かつ半ば強制的に会員とされたものであったのに対し、後者は内閣情報局職員の 立会いのもと、特に戦争に協力的な言論人が会員として選ばれた。ここでは、皇国史観で有名な東京帝国大学教授・平泉澄や、 京都帝国大学の哲学科出身で京都学派の高山岩男、高坂正顕、西谷啓治、鈴木成高らの発言権が大きかった[49]。
1943年(昭和18年)4月に蘇峰は、三宅雪嶺らとともに東條内閣のもとで文化勲章を受章した。この年に蘇峰は80歳となり、 三叉神経痛や眼病を患うようになったが、『近世日本国民史』の執筆は病気をおして継続している[44][注釈 17]。 1944年(昭和19年)2月には『必勝国民読本』を刊行した。
1945年(昭和20年)7月にポツダム宣言が発せられたが、蘇峰は受諾に反対。昭和天皇の非常大権の発動を画策したが、実現しなかった。 1945年(昭和20年)9月、自らの戒名を「百敗院泡沫頑蘇居士」とする。戦前の日本における最大のオピニオンリーダーであった蘇峰は、 終戦後にA級戦犯容疑をかけられたが、老齢と三叉神経痛のためにGHQにより自宅拘禁とされ、後に不起訴処分が下された。公職追放処分を 受けたため、1946年(昭和21年)2月23日に貴族院勅選議員などの公職を辞して静岡県熱海市に蟄居した。また同年には戦犯容疑を かけられたことを理由に、言論人として道義的責任を取るとして文化勲章を返上した。1948年(昭和23年)12月7日、妻の静子が死去。 熱海に蟄居となったこのころの蘇峰は、さかんに達磨画を描いている。
蘇峰は終戦後も日記を書き続けており[注釈 18]、その中で、昭和天皇について「天皇としての御修養については頗る貧弱」、 「マッカーサー進駐軍の顔色のみを見ず、今少し国民の心意気を」などと述べている[注釈 19]。
1951年(昭和26年)2月、終戦以来中断していた『近世日本国民史』の執筆を再開し、1952年(昭和27年)4月20日、ついに全巻完結した。 『近世日本国民史』は、史料を駆使し、織田信長の時代から西南戦争までを記述した全100巻の膨大な史書であり、1918年(大正7年)の 寄稿開始より34年の歳月が費やされている。高齢のため、98巻以降は口述筆記された[44]。平泉澄の校訂により時事通信社で刊行されたが、 100巻のうち24巻は生前の発刊に至らず、全巻の刊行は没後の1963年(昭和38年)、孫の徳富敬太郎の手によってなされた[44]。
1952年(昭和27年)9月『勝利者の悲哀』『読書九十年』を出版、1954年(昭和29年)3月から1956年(昭和31年)6月まで 『読売新聞』紙上に明治・大正・昭和の人物評伝として「三代人物史伝」を寄稿した。『勝利者の悲哀』では、近代アメリカ外交を批判 すると同時に日本人にも反省を求めている。なお、「三代人物史伝」は蘇峰の死後、『三代人物史』と改題されたうえで刊行された。
1957年(昭和32年)11月2日、熱海の晩晴草堂で死去。享年95(満94歳没)。絶筆の銘は「一片の丹心渾べて吾を忘る」。 葬儀は東京の霊南坂教会でおこなわれた。墓所は東京都立多磨霊園にある。
思想家、言論人としての蘇峰は、その思想の振幅が大きく、行動が変化に富み、活動範囲も多岐にわたるため、その全体像をつかむのは 容易ではない[14]。蘇峰自身も、
維新以前に於いては尊皇攘夷たり、維新以降に於いては自由民権たり、而して今後に於いては国民的膨張たり。
と述べている(「日本国民の活題目」、『国民の友』第263号)。それについて、「変節漢」あるいは時流便乗派という否定的な評価が あることも事実であり、終戦後の1946年(昭和21年)に同志社大学学長となった田畑忍は蘇峰に向かって「どうぞ先生、 もう一度民主主義者になるような、みっともないことをしないでください」と述べたという[52]。
それに対し、松岡正剛は、敬虔なクリスチャン、若き熊本の傑物、平民主義者、国民主義者、皇室中心主義者、大ジャーナリスト、 文章報国に生きた言論人、そのいずれでもあったが、しかし、そのなかのどれかひとつに偏った人ではなかった、 そして、歴史の舞台の現場から退くということのなかった人であると評価している[10]。
戦前における国権主義的な言論活動については評判が悪く、戦後の日本史学界では、上述の蘇峰「日本国民の活題目」にみられるような 情勢判断こそが近代日本のアジア進出さらには軍国主義の台頭を許した元凶ではないかとする見解が少なくない[10]。
その一方で、久恒啓一は蘇峰が人びとにあたえた影響力の大きさを「影響力の広さ×影響力の深さ×影響力の長さ」で示すならば、 蘇峰は近代日本社会にきわめて大きな影響をあたえた人物にほかならないとしている[14]。
近代日本思想史を語るうえで重要な、三国干渉後の「蘇峰の変節」については、今日では仮に軽挙妄動の部分があったとしても決して 蘇峰自身の内部では思想上の変節ではなかったとする評価が力を得ており、こうした見解は海外の研究者であるジョン・ピアーソン(1977年)、 ビン・シン(1986年)によって示されている。すなわち、かれらは蘇峰はむしろ時勢に即して最良の歴史的選択を構想し続けた思想家であり、 上述「日本国民の活題目」における判断は、変化する時代の潮流のなかで、その時々において最も妥当なものでなかったかと論じ、 むしろ、日本人がどうして蘇峰のこうした判断を精緻化する方向に向かわなかったのかに疑義を呈している[10]。
歴史家としての名声は山路愛山とならび、特にその史論が高く評価される[9]。
史書『近世日本国民史』は民間史学の金字塔と呼ぶべき大作である。蘇峰は歴史について、こう語っている[53]。
所謂過去を以て現在を観る、現在を以て過去を観る。歴史は昨日の新聞であり、新聞は明日の歴史である。
従つて新聞記者は歴史家たるべく、歴史家は新聞記者たるべしとするものである。
近世日本国民史』は、第1巻「織田氏時代 前編」から最終巻までの総ページ数が4万2,468ページ、原稿用紙17万枚、文字数1,945万2,952文字におよび、ギネスブックに「最も多作な作家」と書かれているほどである[44]。『近世日本国民史』の構成は、 緒論…織田豊臣時代〔10巻〕
中論…徳川時代〔19巻〕・孝明天皇の時代〔32巻〕
本論…明治天皇時代の初期10年間〔39巻〕
の計100巻となっており、とくに幕末期の孝明天皇時代に多くの巻が配分されている[10]。
蘇峰は、全体の3分の1近くをあてるほど孝明天皇時代すなわち幕末維新の激動に格別の意義を探っていた。 しかし蘇峰は、「御一新」は未完のままあまりに短命に終息してしまったとみており、日本の近代には早めの「第二の維新」 が必要であると考えた。それゆえ、蘇峰の思想には平民主義と皇国主義が入り混じり、ナショナリズムとグローバリズムとが結合した。 なお、この件について松岡正剛は、蘇峰はあまりにも自ら立てた仮説に呑み込まれたのではないかと指摘している[10]。
> 蘇峰は執筆当初、頼山陽の『日本外史』(22巻、800ページ)を国民史の分量として目標としていた。しかし、結果的には林羅山・林鵞峰の 『本朝通鑑』(5,700ページ)や徳川光圀のはじめた『大日本史』(2,500ページ)の規模を上まわった[44]。
> 『近世日本国民史』の最終巻は西南戦争にあてられている。その後の日本が興隆にむかったため西郷隆盛は保守反動として 片づけられがちであるが、蘇峰は西郷をむしろ「超進歩主義者」とみており、一身を犠牲にした西郷率いる薩摩軍が敗北したことによって、 人びとは言論によって政権を倒す方向へと向かったとしている[54]。
杉原志啓によれば、アナキストの大杉栄が獄中で読みふけっていたのが蘇峰の『近世日本国民史』であり、同書はまた、正宗白鳥、 菊池寛、久米正雄、吉川英治らによっても愛読されていた。松本清張は歴史家蘇峰を高く評価しており、遠藤周作も『近世日本国民史』 はじめ蘇峰の修史には感嘆の念を表明していたという[55]。
> 蘇峰は、『近世日本国民史』を執筆しながら「支那では4,000年の昔から偉大な政治家がたくさんいた。日本は政治の貧困のために 国が滅びる」として、同書完成のあかつきには支那史(中国史)を書きたいとの意向を示していたという[50]。
蘇峰は死ぬまで昭和維新、日本国憲法第9条、朝鮮戦争等のそれぞれの事象について、つねに独自の見解、いわば「蘇峰史観」をもっていた。 その意味で蘇峰は松岡正剛によれば、日本近現代史においてはきわめて例外的な「現在的な歴史思想者」であったとしている[10]。
蘇峰が1916年(大正6年)に発表した『大正の青年と帝国の前途』の発行部数は約100万部にのぼった。当時のベストセラー作家だった 夏目漱石の『吾輩は猫である』は、1905年(明治38年)から1907年(明治40年)に出版し、1917年(大正6年)までに1万1,500部 (初版単行本の大蔵書店版)であるから、その影響力の大きさがわかる[15]。
蘇峰は朝比奈知泉、福地源一郎(桜痴)、陸羯南などと同様、当時のメディアをリードした傑出した編集者であり記者であったが、 その本質は政客的存在に近いものであった。社内では経営権をもち、創立者でもあることから広汎な自律性と裁量権を有するが、 ゆえに一方で経営上・編集上の責任を負い、場合によっては政界の力を必要することもあった[56]。逆言すれば、蘇峰・桜痴・羯南らは、 いわばみずから組織をつくりあげたことで政治的存在となったのであり、後年の「番記者」のごとく既存の組織に属することによって 活動して自らの地位を築いたのではなかった[57]。当時にあっては、「国民新聞の蘇峰」というよりは「蘇峰の国民新聞」だったのである。 その意味で、蘇峰らは「純粋な新聞界の住人というよりは政界と新聞界の両棲動物で、現住所は政界に近い」[56] と評される[注釈 20]。 しかし蘇峰は、生涯にわたって、みずから一記者であることを「記す者」という本来の意味において誇りに思っていた[10]。
蘇峰は、新聞・雑誌のみならず、講演者としても活躍した。日本各地で数多くの講演をおこない、数百人、場合によっては1,000人を こえる聴衆を集め、つねに盛況だったといわれる[14]。
蘇峰の交友範囲は広く、与謝野晶子、鳩山一郎、緒方竹虎、佐佐木信綱、橋本関雪、尾崎行雄、加藤高明、斎藤茂吉、土屋文明、 賀川豊彦、島木赤彦らの名前を掲げることができる[44]。また、後藤新平[12]、勝海舟、伊藤博文、森?外、渋沢栄一、東条英機、 山本五十六、正力松太郎、中曽根康弘とも交遊があった。そこにイデオロギーや職業の違いはなく、あらゆるジャンル、 年代の多様な人びとと親しく交際した。『近世日本国民史』の執筆に際しても、当時存命であった山縣有朋、勝海舟、伊藤博文、 板垣退助、大隈重信、松方正義、西園寺公望、大山巌らに直接取材し、かれらのことばを詳細に紹介している[44]。
親交のあった人の多くは蘇峰の高い学識に敬意をあらわした。与謝野晶子は、蘇峰について2首の短歌を詠んでいる[44]。
わが国のいにしへを説き七十路(ななそじ)す 未来のために百歳もせよ
高山のあそは燃ゆれど白雪を 置くかしこさよ先生の髪
神奈川県二宮町にある徳富蘇峰記念館には、蘇峰にあてた4万6,000通余の書簡が保管されており、差出人は約1万2,000人にわたっている[59]。 『近世日本国民史』でも多くの書簡が駆使されて歴史や人物が描かれており、蘇峰自身、『蘇翁言志録』(1936年)において、
ある意味に於いて、書簡はその人の自伝なり。特に第三者に披露する作為なくして、只だ有りのままに書きながしたる書簡は、 其人の最も信憑すべき自伝なり。
と述べるように、書簡を大切なものと考えていた[12]。
蘇峰自身も手紙魔であり、朝食前に20本もの書簡を書いていたというエピソードがある[14]。
徳富蘇峰記念館所蔵の書簡は、高野静子によってまとめられ、『蘇峰とその時代-そのよせられた書簡から』(1988年)、 『続 蘇峰とその時代-小伝鬼才の書誌学者 島田翰』(1998年)が出版されている。前者には、勝海舟、新島襄、徳富蘆花、坪内逍遥、 森鴎外、山田美妙、内田魯庵、中西梅花、幸田露伴、森田思軒、宮崎湖処子、志賀重昂、佐々城豊寿、酒井雄三郎、小泉信三、 松岡洋右、中野正剛、大谷光瑞などからの、後者には、島田翰、与謝野晶子、与謝野鉄幹、吉屋信子、杉田久女、夏目漱石、 竹崎順子(伯母)、徳富久子(母)、徳富静子(妻)、矢島楫子(叔母)、潮田千勢子、植木枝盛、依田學海、野口そ恵子、 吉野作造、滝田樗陰、麻田駒之助、菊池寛、山本実彦、島田清次郎、賀川豊彦などからの書簡が、それぞれ紹介されている。 また、平成22年(2010年)には同じ作者により『蘇峰への手紙―中江兆民から松岡洋右まで』として出版された。 祖父は辛島鹽井の高弟で津奈木手永御惣庄屋の徳富美信。美信は鶴眠と号し、肥後を訪れた頼山陽に会っている。
父は幕末維新期に肥後で開明思想家として活躍した徳富一敬で、藩政改革に際し雑税免除の大減税令を発した人物である。 他地域では一敬のおこなった「肥後の大減税」を目標に百姓一揆が起こっている。一敬は93歳の長寿をまっとうした。 一敬は横井小楠の第一の門弟であり、坂本龍馬が小楠を訪ねた時にも同席し、その様子を書き留めている。父方の伯父に一義、 高廉、昌龍、伯母にますも、はるがいる。
母久子は上益城郡杉堂の矢嶋家出身で、禁酒運動家として活躍した。久子は91歳まで生きている[60]。久子の姉・順子(竹崎順子) は熊本女学校(現熊本フェイス学院高等学校)の設立者で熊本における女子教育の先駆者、妹のつせ子(津世子)は横井小楠の妻で、 同志社大学の基礎をきずいた海老名みや子の母である。禁酒・廃娼を主張して婦人矯風会を設立した矢嶋楫子も久子の妹で、 久子は楫子の矯風運動を支援している[61]。久子たち姉妹の兄である矢嶋源助は小楠の第二の門弟であり、 順子の夫である竹崎律次郎もまた小楠の門弟であった。姉妹の長姉である藤島茂登子は熊本藩士藤島昌和の妻で、 富山県・千葉県の官選知事を務めた藤島正健の母である。
妻は静子(旧姓は倉園)。蘇峰は妻思いで知られ、講演など全国どこへ行くのにも彼女を同伴したといわれる[44]。
子は、静子とのあいだに男子は太多雄、萬熊(万熊)、忠三郎、武雄、女子は逸子、孝子、久子、直子、盛子、鶴子がいる。 鶴子は一時期蘇峰の弟蘆花の養女となった。
蘇峰の長男・太多雄は、弟の萬熊・武雄らと共に東京府立第一中学校卒業。1912年(明治45年)に海軍兵学校を卒業し (海兵40期)海軍士官となるが、1931年(昭和6年)9月9日、42歳で亡くなっている[60]。最終階級は海軍中佐。
太多雄には3男2女がいたが、太多雄の死後は蘇峰が父親代わりとなり、太多雄の未亡人・美佐尾を援け、5人の孫の教育をした。
長女・静子は日本女子大学を卒業した後、当時海軍政務次官であった松山常次郎の長男・望と婚姻した。
長男の敬太郎は府立一中から海軍兵学校に進み海軍大尉で終戦を迎える。
次男の剛二郎は東京大学農学部に進み、戦後宮崎大学農学部教授となる。
三男の太三郎は陸軍幼年学校から陸軍航空士官学校に進み陸軍少尉で満州で終戦を迎える。
二女の久子はお茶の水女子大学を卒業後、1954年(昭和29年)に当時熊本大学専任講師であった法政大学名誉教授で カント学者の浜田義文と婚姻した。
弟は小説家の徳冨蘆花(詳細後述)。姉の初子は政治家の湯浅治郎の後妻となった。初子は、日本で初めて男女共学による 教育を受けた女性で、叔母同様、禁酒・廃娼運動家として活動した。治郎と初子との間には昆虫学者の湯浅八郎らが生まれている。 初子の上に、常子、光子、音羽の姉がおり、蘆花のほかに夭逝した弟・友喜がいた。 女性解放運動家の久布白落実は姪、日本組合基督教会の指導者海老名弾正は遠戚にあたる。

杜 閑(と せき?)
杜甫の父は杜閑(とせき)、母は崔(さい)。母崔は杜甫 の幼少時に亡くなり、杜甫は叔母のもとで育てられました。
杜閑(682-741),唐修文?直学士杜審言幼子,“??”杜甫的生身父?。生于唐高宗永淳元年(682年),?元五年(717年)??城尉, ?元二十年(732年)左右擢?奉天令,?元二十五年(737年)前后擢?朝?大夫?州司?。先世襄?祖(祖父)杜依????令,徙河南,至杜??奉天令,又居京兆杜陵。


杜甫 (とほ )
(712‐770)中国,盛唐の詩人。字は子美。先祖は長安南郊少陵の出で,杜少陵とも呼ばれる。 西晋の文人将軍杜預の3代目という。祖父杜審言(645?‐708?)は〈五言律詩〉の確立に功績を残した初唐の詩人で, 杜甫も〈吾が祖 詩は古えに冠たり〉と誇り,その影響を強く受けた。唐王朝が繁栄から衰退,統一から崩壊へ向かう 激動の時代を生きた彼は,社会の混乱や民衆の惨状をみずからの苦痛として深刻に表現した。 時代の実相を余すところなく歌った数々の作品が,詩による歴史〈詩史〉と称され,彼自身もまた人類最高の詩人〈詩聖〉と 敬われたゆえんである。


杜牧 (とぼく )
803年(貞元19年) - 853年(大中6年)、晩唐期の詩人。京兆府(中国語版)万年県 (現陝西省西安市)の人。字は牧之。号は樊川(はんせん)。
晩唐の繊細な技巧的風潮を排し、平明で豪放な詩を作った。風流詩と詠史、時事諷詠を得意とし、 艶麗と剛健の両面を持つ。七言絶句に優れた作品が多い。杜甫の「老杜」に対し「小杜」と呼ばれ、 また同時代の李商隠と共に「晩唐の李杜」とも称される。祖父に中唐の歴史家・杜佑を持ち、 詩人の杜荀鶴は庶子と言われる。ほか李白や韓愈、柳宗元からも影響を受けた。
長安の名門階級に生まれるが、出生時には既に衰退の途中であった。祖父の杜佑は唐の裁判所の 長官で、「通典」と呼ばれる百科事典の編纂に携わる。父は杜従郁。828年、25歳で進士に及第。 官吏となる。文学奨励会で編者の第一人者となる。数ヵ月後、洪州(現・南昌市)(翌年から宣城) の監督長官である沈伝師(中国語版)の側近となった[1]。833年、31歳の時に揚州(現・揚州市)の 淮南節度使牛僧孺の幕下に入り、書記を勤めた。このころ詩作を始める。揚州在任の3年間、 毎晩妓楼に通い、風流の限りを尽くしたと言われる。835年、検閲官に任命され長安に戻ったが、 王朝内部では彼の友人の李訓(英語版)や鄭注らと宦官が派閥闘争に明け暮れていた。 自らは洛陽への転任を申し出て認められたため、その年の暮れに起こった甘露の変を 回避できたとされる[2]。
以後各地で多くの官職を歴任するが、政変のため中央での出世は得られなかった。837年には失明した 妹を介護世話するために揚州に戻り、その後兄も連れて宣州に向かった。最高位の左大臣や 史書部上官の不正を弾劾する役職に指名され、長安に戻った。840年、配膳局の副長官に、 翌年には検閲委員会副長官に任命される。その後黄州・池州・睦州の刺史を歴任するが、 杜牧はこの処遇に不満を持ち、李徳裕を非難した。彼は自分の経歴や処遇への不満を詩に表し始めた[3] 。
848年に勲功部の副長官に任命された彼は中央に戻り、史書部上官の時の功績を表彰される。 849年には吏部の副長官となった。850年には依願して湖州の刺史となるが、門下省、 ついで中書省の舎人となる。ところがその年病に倒れ、翌年(太陽太陰暦)に亡くなった。
漢詩のほか、賦や中国の古典散文にも長けていた。歴史的な名所や神秘的な情景を描いた繊細で 叙情的な絶句を得意としていた。ほかに離別や退廃、無常観などを描く詩もある。 彼は古典的な形と口語的な語法や語順、言葉遊びなどを組み合わせたスタイルを用いた。 彼はまたストーリー性のある長編の詩や孫子の注釈も書いている。江南の風景を絵画のように 表現した「江南春」、揚州での、風流才子としての姿を描いた「遣懐」、反実仮想的と 言われる詩風をよく反映している。また垓下の戦いに敗れた項羽(前232 - 202)が、 烏江まで逃れてきた時のことを詠い「捲土重来」の語の元ともなった「題烏江亭」がよく 知られている。賦では「阿房宮賦」が有名。
晩唐を代表する詩人で人気も高い杜牧であるが、盛唐を重視し、中唐・晩唐の詩を批判する 明の古文辞派の文学観を反映した『唐詩選』には1篇も選ばれていない。


富岡鉄斎(とみおか てっさい)
(1837年1月25日〈天保7年12月19日〉- 1924年〈大正13年〉12月31日)は、明治・大正期の文人画家、儒学者、教員。
日本最後の文人と謳われる。歴史学者・考古学者の富岡謙蔵は長子。
京都(三条通新町東)法衣商十一屋伝兵衛富岡維叙の次男として生まれる。幼名は不明。猷輔を通称とし、のちに道昴・道節と称し、明治のはじめ頃、一時名を鉄斎としたが、しばらくのち百錬に改名。字を無倦、号を鉄斎。別号に鉄人、鉄史、鉄崖など。
耳が少し不自由であったが、幼少の頃から勉学に励んだ。はじめ富岡家の家学である石門心学を、15歳頃から大国隆正に国学や勤王思想を、岩垣月洲らに漢学、陽明学、詩文などを学ぶ。
尼僧の大田垣蓮月が少年であった鉄斎を侍童として育て、人格形成に大きな影響を与える[1][2]。
安政2年(1855年)18歳頃に、女流歌人大田垣蓮月尼に預けられ薫陶を受ける。翌年、南北合派の窪田雪鷹、大角南耕に絵の手ほどきを受け、南画を小田海僊に、大和絵を浮田一蕙に学んだ。
文久元年(1861年)には長崎に遊学し、長崎南画派の祖門鉄翁、木下逸雲・小曽根乾堂らの指導を受けた。
翌2年、山中静逸と出会いをきっかけに、画業で生計を立て始めた。この頃私塾を開設。藤本鉄石・板倉槐堂・江馬天江・松本奎堂・平野国臣らと交遊した。
維新後の30歳から40代半まで大和国石上神宮や和泉国大鳥神社の神官(宮司)を務めた。この頃、大和国の式内社加夜奈留美命神社を復興している。
座右の銘である「万巻の書を読み、万里の道を往く」を実践し、日本各地を旅した。明治7年(1874年)には、松浦武四郎との交流から北海道を旅し、アイヌの風俗を題材にした代表作「旧蝦夷風俗図」を描いている。
30歳で中島華陽の娘と結婚。長女が生まれるが妻とは死別。のちに再婚し長男を授かる。明治14年(1881年)、兄伝兵衛の死に伴い京都薬屋町に転居し、終の住処とする。
教育者としても活躍し、明治2年(1869年)、私塾立命館で教員になる。
1875年(明治8年)には山梨県甲府市を来訪する[3]。滋賀県(近江国)に本家があり、甲府柳町(甲府市中央四丁目)に醸造所と営業所を構えていた野口家(十一屋)と鉄斎は交流があり、明治8年と1890年(明治23年)に山梨県を訪れている[3]。明治8年には南北朝時代の南朝の皇族・尹良親王の足跡を訪ねて長野県飯田市に滞在し、駒ヶ根から高遠を経て山梨県へ入り、韮崎市経由で甲府へ至る[3]。同年7月19日には富士山へ登頂し、7月21日に甲府へ戻ると8月5日まで滞在し、甲府市酒折の酒折宮へ参拝した。その後、市川大門(市川三郷町市川大門)で名望家の依田孝宅を訪ねると山梨県を後にし、鎌倉・東京を経て京都へ帰る[3]。
明治23年の旅では同年4月に京を経つと6月まで東京へ滞在し、八王子駅まで鉄道を利用し、八王子から甲府まで馬車・徒歩で旅し、天目山や景徳院など武田家ゆかりの地を訪れた[3]。さらに再び酒折宮を参拝すると、6月14日に甲府柳町の野口家に到着している。山梨県滞在中は恵林寺や昇仙峡など史跡・名勝を訪れている[3]。
野口家の当主・野口正忠(柿村)は鉄斎をはじめ数多くの文人と交流し、蒐集した美術資料は十一屋コレクション(山梨県立美術館所蔵)と呼ばれる。また、野口家と同じく甲府城下の横近習町(甲府市中央二丁目)に店を構える呉服商・大木家の当主である大木喬命は正忠や鉄斎が明治8年の旅で訪れた依田孝と交流があり、喬命も数多くの美術資料を蒐集した[3]。大木家の美術資料は大木家資料(大木コレクション)と呼ばれ、「甲斐猿橋図」など多くの鉄斎作品を含んでいる[3]。
明治26年(1893年)、京都市美術学校で教員に就任し、明治37年(1904年)まで修身を教える。
明治42年(1909年)2月20日、吐血して胃潰瘍と診断される。胃潰瘍を病んだ後は食事にも工夫をこらし、それまでは鰻と蕎麦、小芋を好み、調理も辛みの煮付けを好んだとされるが、70歳以降は熱粥を常食とした[4]。
大正13年(1924年)大晦日、持病であった胆石症が悪化。京都の自宅にて没する。享年89。
画業は歳を重ねるごとに次第に認められ、京都青年絵画研究会展示会の評議員(1886年)、京都美術協会委員(1890年)、京都市立日本青年絵画共進会顧問(1891年)、帝室技芸員(1917年6月11日[5])、帝国美術院会員(1919年)と、順風満帆だった。この間の明治29年(1897年)に田能村直入・谷口藹山らと日本南画協会を発足させ南画の発展にも寄与しようとした。また今尾景年を通して橋本雅邦と知己となり、明治関東画壇との交流も深まった。
鉄斎は多くの展覧会の審査員となったが、自らは一般の展覧会に出品することはあまりなかった。明治30年(1897年)以降、自らが評議員である日本南画協会に定期出品している。賛助出品という形で、大正9年(1920年)聖徳太子御忌千三百年記念美術展に「蘇東坡図」を出している。また大正11年(1922年)、大阪髙島屋で個展を開催している。
「最後の文人」と謳われた鉄斎は、学者(儒者)が本職であると自認し、絵画は余技であると考えていた。また、「自分は意味のない絵は描かない」「自分の絵を見るときは、まず賛文を読んでくれ」というのが口癖だったという。その画風は博学な知識に裏打ちされ、主に中国古典を題材にしているが、文人画を基本に、大和絵、狩野派、琳派、大津絵など様々な絵画様式を加え、極めて創造的な独自性を持っている。彼の作品は生涯で一万点以上といわれる。80歳を過ぎてますます隆盛で、色彩感覚の溢れる傑作を描いた。生涯を文人として貫き、その自由で奔放な画風は近代日本画に独自の地位を築き、梅原龍三郎や小林秀雄らが絶賛。日本のみならず世界からもいまなお高い評価を受けている。
兵庫県宝塚市の清荒神清澄寺の「鉄斎美術館」と、西宮市の「辰馬考古資料館」に多くの作品が収蔵されている。



巴御前(ともえごぜん/ともゑごぜん、鞆絵御前とも)
平安時代末期の信濃国の女性。女武者として伝えられている。
軍記物語『平家物語』の『覚一本』で「木曾最期」の章段だけに登場し、木曾四天王とともに 源義仲の平氏討伐に従軍し、源平合戦(治承・寿永の乱)で戦う大力と強弓の女武者として 描かれている。「木曾殿は信濃より、巴・山吹とて、二人の便女[2]を具せられたり。 山吹はいたはり[3]あって、都にとどまりぬ。中にも巴は色白く髪長く、容顔まことに優れたり。 強弓精兵、一人当千の兵者(つわもの)なり」と記され、宇治川の戦いで敗れ落ち延びる義仲に従い、 最後の7騎、5騎になっても討たれなかったという。義仲は「お前は女であるからどこへでも逃れて 行け。自分は討ち死にする覚悟だから、最後に女を連れていたなどと言われるのはよろしくない」 と巴を落ち延びさせようとする。巴はなおも落ちようとしなかったが、再三言われたので 「最後のいくさしてみせ奉らん(最後の奉公でございます)」と言い、大力と評判の敵将・ 御田(恩田)八郎師重が現れると、馬を押し並べて引き落とし、首を切った。その後巴は鎧・甲を 脱ぎ捨てて東国の方へ落ち延びた所で物語から姿を消す。
八坂流の『百二十句本』では、巴を追ってきた敵将を返り討ちにした後、義仲に落ちるように 言われ、後世を弔うことが最後の奉公であると諭されて東へ向かい行方知れずとなったとされ、 『長門本』では、落ち延びた後、越後国友杉に住んで尼となったとされる。
最も古態を示すと言われる『延慶本』では、幼少より義仲と共に育ち、力技・組打ちの武芸の 稽古相手として義仲に大力を見いだされ、長じて戦にも召し使われたとされる。京を落ちる義仲勢が 7騎になった時に、巴は左右から襲いかかってきた武者を左右の脇に挟みこんで絞め、 2人の武者は頭がもげて死んだという。粟津の戦いにて粟津に着いたときには義仲勢は5騎になって いたが、既にその中に巴の姿はなく、討ち死にしたのか落ちのびたのか、その消息はわからなく なったとされている。
『源平盛衰記』では、倶利伽羅峠の戦いにも大将の一人として登場しており、横田河原の戦いでも 七騎を討ち取って高名を上げたとされている(『長門本』にも同様の記述がある)。 宇治川の戦いでは畠山重忠との戦いも描かれ、重忠に巴が何者か問われた半沢六郎は 「木曾殿の御乳母に、中三権頭が娘巴といふ女なり。強弓の手練れ、荒馬乗りの上手。 乳母子ながら妾(おもひもの)にして、内には童を仕ふ様にもてなし、軍には一方の大将軍して、 更に不覚の名を取らず。今井・樋口と兄弟にて、怖ろしき者にて候」と答えている。敵将との組合 いや義仲との別れがより詳しく描写され、義仲に「我去年の春信濃国を出しとき妻子を捨て置き、 また再び見ずして、永き別れの道に入ん事こそ悲しけれ。されば無らん跡までも、このことを 知らせて後の世を弔はばやと思へば、最後の伴よりもしかるべきと存ずるなり。疾く疾く 忍び落ちて信濃へ下り、この有様を人々に語れ」と、自らの最後の有様を人々に語り伝えることで その後世を弔うよう言われ戦場を去っている。落ち延びた後に源頼朝から鎌倉へ召され、 和田義盛の妻となって朝比奈義秀を生んだ[4]。和田合戦の後に、越中国礪波郡福光の石黒氏の 元に身を寄せ、出家して主・親・子の菩提を弔う日々を送り、91歳で生涯を終えたという 後日談が語られる。
『源平闘諍録』では、樋口兼光の娘とされている。
なお、『覚一本』では年齢は記されていないが、『百二十句本』では22,3歳、 『延慶本』では30歳ばかり、『長門本』では32歳、『源平盛衰記』では28歳としている。
巴御前が登場するのは軍記物語の『平家物語』『源平盛衰記』のみであり、当時の一次史料や 鎌倉幕府編纂書の『吾妻鏡』には、その存在は確認されない。女武将であるという物語の記述は 史実としては疑問があり、文学的脚色である可能性が高い。『平家物語』における巴御前の 記述は至って簡略で義仲との関係も書かれていないが、より後の時代に書かれた『源平盛衰記』 において大きく人物像が書き加えられている。
ただし、『吾妻鏡』に越後の城氏の一族である坂額御前の健闘により討伐軍に大被害が生じたと の記事があり、当時の甲信越地方の武士の家庭では女性も第一線級として通用する戦闘訓練を受け ている例は存在する。鎌倉時代にあっては、女性も男性と平等に財産分与がなされていたことからも、 女性であれ認められていた。
富山県南砺市の他にも、神奈川県横須賀市、長野県木曽郡木曽町、新潟県上越市など各地に巴御前の 墓とされるものが現存する。



杜佑(と ゆう)
(735年(開元23年) - 812年(元和7年))は、中国・唐代の歴史家。字は君卿、諡は安簡。
京兆府万年県(陝西省西安市)の名族、杜氏の生まれである。曾祖父は荊益二州の都督府長史、 祖父は右司員外郎・詳正学士、父の杜希望は鴻臚卿、恒州刺史等を歴任し、右僕射を追贈された。 孫は晩唐の詩人として名高い杜牧である。
科挙によらず家格による恩蔭によって登用され、地方では嶺南節度使、淮南節度使、中央では 御史大夫、司徒同平章事などの要職を歴任する。
憲宗に重用され、行政面では、宰相の楊炎を輔佐し、両税法の施行に関して尽力している。 太傅を追贈された。
『政典』30巻(開元末年、劉秩撰)の欠を補って、大暦元年(766年)より30年余りを費やして 『通典』200巻を著した。その他、『理道要訣』、『賓佐記』、『管氏指略』などの著書があったと されるが、定かではない。


杜 預(と よ)
222年-284年)は、中国三国時代から西晋時代の政治家・武将・学者。魏・西晋に仕えた。 字は元凱。諡は成。慣用的には「どよ」とも読まれてきた。祖父は杜畿。父は杜恕。子は杜耽・杜錫。 傅玄の『傅子』によると、その遠祖は史記で“酷吏”と評された前漢の御史大夫の杜周である。 その子で父と同じ御史大夫を務めた杜延年は、父や弟と共に南陽郡の杜衍県(河南省南陽市)から 茂陵(陝西省興平市)に移住した。後に杜延年が更に杜陵(陝西省西安市)に移住したため、 子孫は代々ここに居住することとなった。唐代の詩聖杜甫は彼の子孫に当たる。




二喬(にきょう)
二喬とは、中国の三国時代に登場した大喬(大橋)と小喬(小橋)の姉妹のこと。正確には「江東の二喬」。


正史では橋公(演義では喬玄)の娘で、姉・大喬(正史では大橋)と妹・小喬(正史では小橋)の姉妹。本名ではなく、 姉という意味で大を用い「『大』喬」であり、妹という意味で小を用い「『小』喬」と呼ばれる。
二人とも絶世の美女として有名で、孫策軍が皖城を占領した際に捕虜となり、その縁で大喬は孫策の妻に、小喬は周瑜の妻となった。 その際、周瑜が「『江東の二喬』は確かに美女だが、我等を夫にできる二人も幸せであろう」と言ったという逸話がある。
小説『三国志演義』では、赤壁の戦いの前に曹操が銅雀台で二喬を侍らかせたいと諸葛亮が周瑜に聞かせて激怒させ、 赤壁の戦いの開戦を決断させた。
小喬(しょうきょう、Xi?o Qiao、生没年不詳)は、
中国後漢末期の女性。喬公の娘。姉は大喬。周瑜の妻妾。
正史では喬公の娘で周瑜の妻としか記述がない。『三国志』周瑜伝に記述がある。
199年12月、姉と共に皖城を占領した孫策軍の捕虜となり、周瑜の妻妾の一人に加えられた。裴注の『江表伝』には、 孫策が小橋を娶った周瑜に「喬公のふたりの娘は故郷を失うことになったが、われわれを婿にすることができたのだから満足だろう」 と言ったという。婚姻直後に姉や袁術・劉勲の妻子らと共に呉郡へ送致された。周瑜との間に子がいたかは不明である。
小説『三国志演義』においては、いわゆる「毛宗崗本」など一部の版本において姓を「喬」に改められ、小喬と称される。 「沈魚落雁閉月羞花」ほどの絶世の美女とされており、二人合わせて、江東の二喬[1]と呼ばれたことになっている。 妻となった経緯は語られていない。孫策の死後、夫と一緒に孫権を補佐している。赤壁の戦いでは、曹操が二喬を奪おうとしていることを 諸葛亮からほのめかされた周瑜が、これに激怒して開戦を決意したことにされている。夫の死後、諸葛亮の哀悼文では、 似合いの夫婦を賛美する。
唐の杜牧の詩『赤壁』という詞では「東風不與周郎便、銅雀春深鎖二喬(当時周瑜は東風の助けがなかったら、二喬は銅雀台[2]に入っていた)」 と詠まれ、二喬の名に触れている。また、北宋の詩人の蘇軾の『念奴嬌』(小題「赤壁懐古」)という詞では「遙想公瑾当年、小喬初嫁了、 雄姿英発、羽扇綸巾、談笑間、檣櫓灰飛煙滅(遙かに想ふ公瑾(周瑜の字)の当年、小喬初めて嫁した。周瑜の雄姿は凛凛として、 羽扇綸巾。周瑜が談笑の間の短い時間で、敵艦隊を灰と煙にした)」と詠われている。
『庸庵筆記』では、聡明で優しい美女の一人として名が挙がる。
京劇『鳳凰二喬』では喬婉(きょうえん)という名で登場する。
大橋(だいきょう、Da Qiao、?-200年?)は、 中国後漢末期の女性。父は橋公。妹は小喬。孫策の妻妾。
正史では「大橋」とされ、橋公の娘で孫策の妻としか記述されていない。『三国志』周瑜伝によれば、199年12月、妹と共に皖城を占領した 孫策軍の捕虜となり、孫策の妻妾の一人に加えられた。裴注の『江表伝』には、孫策が小橋を娶った周瑜に「橋公のふたりの娘は 故郷を失うことになったわけだが、われわれを婿どのにすることができたのだから満足だろうよ」と言ったという。しかしその後、 四カ月足らずで孫策が死亡、所生の子供の記録もない。孫策の妾にされた直後、袁術・劉勲の妻子らと共に呉郡へ送致された後の消息は 一切不明である。
野史『庸庵筆記』では、複数の魅力を併せ持つ女性の一人として名が挙がる。なお、夫の死後の数カ月後に亡くなったと伝承される。
小説『三国志演義』においては、いわゆる「毛宗崗本」など一部の版本において姓を「喬」に改められ、「沈魚落雁閉月羞花」ほどの 絶世の美女とされている。妻となった経緯は語られていない。孫策臨終の際、喬夫人の名前で登場し、遺命により姑である呉夫人を養う。 赤壁の戦い時に諸葛亮が周瑜に対し、曹操が二喬を奪おうとしているとほのめかしたため、周瑜が激怒し開戦を決意させたように描かれている。




梅堯臣(ばいぎょうしん)
(1002~1060)、字は聖兪(せいゆ)。宣州宣城(安徽省宣城)の人。出身地宣城の 古名にちなんで宛陵先生(えんりょうせんせい)とも、また最終の官職から梅都官(ばいとかん) ともいう。若い時、叔父の梅詢に詩文を学び、高官の叔父の恩蔭で官に就いた。 天聖九年(1031)、河南(洛陽)の主簿となったとき銭維演に才能を認められ、欧陽修・尹洙らと 知りあった。その後、地方官を転々とし、至和三年(1056)、欧陽修らの推薦で進士出身の 待遇をうけ、国士監直講に任命された。翌年、欧陽修のもとで科挙の試験官をつとめ、 蘇軾・曽鞏らの俊才を合格させた。やがて尚書都官員外郎に進んだが、まもなく病没した。 その詩は平淡を旨とし、日常的なさまざまなことがらをうたって、宋初の西崑体の詩風が 彼及び友人の蘇舜欽に至って一変したといわれる。彼は当時の華麗な詞藻を追求する 「西崑体」に反対し、詩は「意新語工」であるべきだと主張した。欧陽修は、彼の詩風が 「清麗」「平淡」であることを称賛した。彼は蘇舜欽と名声を等しくし、当時の人は 「蘇梅」と並び称した。彼は北宋の傑出した詩人で、宋初の詩歌革新運動を積極的に推進し、 大きな影響を及ぼした。『宛陵先生(文)集』がある。

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梅 堯臣(ばい ぎょうしん、1002年(咸平5年) - 1060年(嘉祐5年)4月25日)は、中国北宋中期の詩人で官僚政治家。 字は聖兪。宣州宛陵県(現在の安徽省宣城市宣州区)の人。その出身地から梅宛陵・宛陵先生とも呼ばれる。 またその最終の官名が尚書都官員外郎であったため、梅都官と呼ばれる。その詩風は宋詩の基礎をつくった。
1002年、梅譲の、おそらく庶子として生まれる。母の名は束氏と張氏の2つが伝わっている。梅家は代々官僚とは無縁の家柄だったが、 叔父(梅譲の弟)の梅詢が例外的に翰林侍読学士という高官に就いていた。13歳になるとその梅詢のもとで詩文を学んだと思われる。 26歳、太子賓客謝濤の娘と結婚する。唐代のような世襲貴族が存在しない宋代にあって、官僚政治家を輩出する各家は、 婚姻による結びつきにより新たに名族を作り出しつつあった。謝家は欧陽脩・王安石・黄庭堅などとつながる名家であり、 謝氏と結婚した梅堯臣の前途は洋々かと思われた。しかし梅堯臣は科挙に及第することなく、29歳のとき、梅詢の功績にあやかる 任子という制度によって官途に就いた。宋代の官僚任用制度の基本は科挙であり、イレギュラーな任子を官僚のスタートとして選んだ 梅堯臣の官僚人生は、その出世のスピードが妻に「鮎魚(なまず)が竹竿を上るように」まどろっこしいと嘆かせるほど不遇で、 生涯貧困を余儀なくされる。
役職としてまず太廟斎郎(皇帝の廟堂の係官)に就き、ほどなく桐城県(安徽省)の主簿(県知事の補佐官)を経て、 30歳のとき河南(洛陽)の主簿に転じた。そこで洛陽留守(市長)で当時の文壇の重鎮であった銭惟演に詩才を激賞され、 その紹介で多くの文人・詩人と知り合う。生涯の親友であり文学の同志であり、パトロンともなった欧陽脩ともこのとき出会う。 さらに河陽(河南省)主簿、徳興県(江西省)の県令(県知事)、建徳県(安徽省)・襄城県(河南省)の知県(県知事)、 呉興(浙江省)の監税官など地方官を転々としたが、1044年7月7日、43歳のとき、呉興監税官を全うして都?京に帰る途中、 高郵(江蘇省)の船の中で妻謝氏を亡くし、同月のうちに符離(安徽省)で次男十十をも喪う。この一大事がその詩作に新たな 作風を与えることとなる。2年後に都官員外郎?渭の娘と再婚した。
その後も忠武軍節度判官(河南省許州の総督の属官)・鎮安軍節度判官(河南省陳州の総督の属官)など地方官を勤め、 1049年には父梅譲の死による服喪などがあり、低い官位のままで生活は苦しかったが、1048年、国士博士(国立大学教授)、 1051年、同進士出身を賜り、太常博士になった。進士は科挙の中でも最も尊ばれたコースであり、これにより50歳にしてようやく 梅堯臣の未来も大きく拓けたかに見えた。いったん永斉倉(?京の北の永斉渠という運河のほとりにあった穀物倉庫)の監督に転じ、 母束氏の喪に服した後、1057年、欧陽脩らの推薦によって中央での官である国子監直講(国立大学教授)になり、 翌年、科挙の知貢挙(試験委員長)となった欧陽脩のもとで小試官(試験官)となった。このとき及第した者のなかには 蘇軾・蘇轍兄弟、曾鞏がいる。
1060年、尚書屯田司員外郎・刑部都官員外郎に至ったが、4月17日、当時都に流行した疫病に倒れ、同月25日、59歳で亡くなった。 このとき在住していた?京城東の?陽坊は庶民が住む下町で、大官が車馬を連ねて弔問に訪れるのを見て、近所の人々が驚いたと 欧陽脩による墓誌銘が伝えている。長男に梅増、夭折した次男十十、ほか女子2名がいた。
詩風
詩を作るにあたって梅堯臣は平淡を旨とした。これは晩唐から流行していた西崑体の、華麗な表現に主眼を置き過ぎ難解になりがちな 詩風に反対するものである。また身近なことを題材に詩を詠んだのも特徴のひとつである。例えば、犬猫から蝿やミミズなどの 小動物、農具など生活に身近な物を詠んだりと、今まで誰も用いなかったようなものを題材とする詩が多く、 何でもかんでも詩にしてしまったという具合である。さらにそれらの題材に仮託して、詩の中である事物に対する議論が行われている。 また地方官勤めが長かったため、世の矛盾に対して辛辣な批判を述べる社会派の詩も多い。
このような梅堯臣の詩風は、「かめばかむほど味が出る」と評されたが、その平淡さゆえに派手さがなくわかりにくいなどの批判がある。 そのためか漢詩にある種の優美さを求める日本の読者にはあまり人気がない。
宋代詩の系列では蘇舜欽とともに「蘇梅」と並称されている。


裴 迪(はい てき)
(716-?)盛唐の詩人。関中 (陝西省) の人。字は不詳。蜀州刺史,尚書郎になった。 王維のもう川 (もうせん) 荘の近くに住んで親交があり,唱和した詩 29首が残っている。


伯夷・叔斉(はくい・しゅくせい)
古代中国・殷代末期の孤竹国(現在地不明、一説に河北省唐山市周辺)の王子の兄弟である。高名な隠者で、 儒教では聖人とされる。
一説には二人の姓は子、氏は墨胎、伯夷の諱は允・字は公信、叔斉の諱は智・字は公達で、夷・斉はそれぞれの諡であるとされる。 なお、伯・叔は共に長幼の序列を示す字である。
伯夷が長男、叔斉は三男である。父親から弟の叔斉に位を譲ることを伝えられた伯夷は、遺言に従って叔斉に王位を継がせようと した。しかし、叔斉は兄を差し置いて位に就くことを良しとせず、あくまで兄に位を継がそうとした。そこで伯夷は国を捨てて 他国に逃れた。叔斉も位につかずに兄を追って出国してしまった。国王不在で困った国人は次男を王に立てた。
流浪の身となった二人は周の文王の良い評判を聞き、周へむかった。しかし、二人が周に到着したときにはすでに文王は亡く なっており、息子の武王が、呂尚を軍師に立て、悪逆で知られた帝辛(殷の紂王)を滅ぼそうと軍を起こし、 殷に向かう途中だった。二人は道に飛び出し、馬を叩いて武王の馬車を止め「父上が死んで間もないのに戦をするのが孝と言え ましょうか。主の紂王を討つのが、仁であると申せましょうか!」と諌めた。周囲の兵は怒り2人を殺そうとしたが、 呂尚は「手出しをするな!正しい人たちだ」と叫び、2人を去らしめた。
戦乱ののち殷は滅亡し、武王が新王朝の周を立てた後、二人は周の粟を食べる事を恥として周の国から離れ、 首陽山に隠棲して山菜を食べていたが、最後には餓死した。死に臨んで、下の詩を残したとされる。
「采薇の歌」餓死の直前に作ったとされる。武王が紂王を放伐して天下を制したことを非難し、太古の有徳の王を懐かしんだ歌。 詩経には載っておらず、逸詩といわれる。
西山に登り 采薇をとる
暴を以て暴に易え その非を知らぬ
農・虞・夏忽焉として没す 我いずくにか適帰せん
于嗟徂かん 命の衰えたるかな

首陽山に登り 山菜をとって暮らそう
暴によって暴にかわり、その非に気づかない
神農や舜帝、禹王[1]の世は今はない。 いずこに行けばよいのか
ああ、もうおしまいだ。 天命も衰えた

史記「伯夷列伝」
伯夷、叔齊,孤竹君之二子也。父欲立叔齊,及父卒,叔齊讓伯夷。伯夷曰:「父命也。」遂逃去。叔齊亦不肯立而逃之。 國人立其中子。於是伯夷、叔齊聞西伯昌善養老,盍往歸焉。及至,西伯卒,武王載木主,號為文王,東伐紂。 伯夷、叔齊叩馬而諫曰:「父死不葬,爰及干戈,可謂孝乎?以臣?君,可謂仁乎?」左右欲兵之。太公曰: 「此義人也。」扶而去之。武王已平殷亂,天下宗周,而伯夷、叔齊恥之,義不食周粟,隱於首陽山,采薇而食之。及餓且死, 作歌。其辭曰:
「登彼西山兮,采其薇矣。以暴易暴兮,不知其非矣。神農、虞、夏忽焉沒兮,我安適歸矣?于嗟徂兮,命之衰矣!」
遂餓死於首陽山。



白居易(はくきょい)
772年(大暦7年) - 846年(会昌6年))は、中唐の詩人。字は楽天。号は酔吟先生・香山居士。弟に白行簡がいる。
772年、鄭州新鄭県(現河南省新鄭市)に生まれた。子どもの頃から頭脳明晰であったらしく、5~6歳で詩を作ることができ、 9歳で声律を覚えたという。
彼の家系は地方官として役人人生を終わる男子も多く、抜群の名家ではなかったが、安禄山の乱以後の政治改革により、 比較的低い家系の出身者にも機会が開かれており、800年、29歳で科挙の進士科に合格した。35歳で??県(ちゅうちつけん、 陝西省周至県)の尉になり、その後は翰林学士、左拾遺を歴任する。このころ社会や政治批判を主題とする「新楽府」を 多く制作する。
815年、武元衡暗殺をめぐり越権行為があったとされ、江州(現江西省九江市)の司馬に左遷される。 その後、中央に呼び戻されるが、まもなく自ら地方の官を願い出て、杭州・蘇州の刺史となり業績をあげる。 838年に刑部侍郎、836年に太子少傅となり、最後は842年に刑部尚書の官をもって71歳で致仕。74歳のとき自らの詩文集 『白氏文集』75巻を完成させ、翌846年、75歳で生涯を閉じる。
55才のとき、洛陽の香山(洛陽の龍門石窟の向こう側の山で、夏はとても涼しそう)に退隠した。晩年は仏教に帰依し、 自分で「香山居士」の名をつけた。
白楽天(白居易)には、一男四女の子どもがいたそうですが、奥さんと1人の女の子の名前をお教えください。 『漢詩選10 白居易』(集英社)により 女 金鑾 女 阿亀 女 阿羅 男 阿崔の4人の子の名前はわかりました。



潘 岳(はん がく)
(247年 - 300年)は、西晋時代の文人。字は安仁。中牟(河南省)の人。
陸機と並んで西晋時代を代表する文人。また友人の夏侯湛と「連璧」と称されるほど 、類稀な美貌の持ち主としても知られている。『世説新語』によると、潘岳が弾き弓を持って 洛陽の道を歩くと、彼に出会った女性はみな手を取り合って彼を取り囲み、彼が車に乗って 出かけると、女性達が果物を投げ入れ、帰る頃には車いっぱいになっていたという。
潘岳の作る文章は修辞を凝らした繊細かつ美しいもので、特に死を悼む哀傷の詩文を得意とした。 愛妻の死を嘆く名作「悼亡」詩は以降の詩人に大きな影響を与えた。
祖父は安平太守の潘瑾。伯父は後漢の献帝が魏の曹操(太祖武帝)に魏公と九錫を与えたときに、 「冊魏公九錫文」を草した人物として知られる潘勗である。父は琅邪内史の潘?。
12歳の時に西晋の外戚である楊氏出身の楊肇に才能を認められ、後年には楊氏の女を妻に娶る。
楊氏没落後も、楊氏のライバルであった賈氏の賈謐に才能を惜しまれ、「賈謐二十四友」 として引き立てられた。しかし、この時石崇とともに賈謐に追従する様はいささか過度であり、 「後塵を拝す」の故事を生んだ。
新たに後ろ盾となった賈氏も、司馬倫のクーデターの際に一族皆殺しにされた。 司馬倫の側近の孫秀は、かつて潘岳の家の召使いをしていたことがあり、潘岳に虐待されたことを 恨んでいた。潘岳はその後、司馬允がクーデターを起こし失敗した際に、孫秀の讒言で共謀して いたと見なされ、友人の石崇などと共に処刑された。
中国,西晋の文学者。けい陽 (けいよう) 中牟 (河南省) の人。字,安仁。幼時から神童の名が高く, 最初,司空大尉賈充 (かじゅう) の部下となり,その後秀才となって諸官を歴任したが, 趙王司馬倫が政権を握ったとき,父の旧部下の孫秀に中傷されて一族もろとも殺された。 南方出身の陸機とともに「潘陸」,また甥の潘尼 (はんじ) と「両潘」と並称される。 徹底した技巧主義者で,妻の死をいたんだ代表作『悼亡詩』など感覚的な哀傷の詩や, また山水詩にすぐれた作品を残している。非常な美貌の持主として,古来美男子のたとえに しばしば用いられる。

潘岳の妻楊氏は、洛陽の徳宮里で亡くなりました。潘岳はその時の気持ちを 「悼亡詩」 に書いています。この詩が書かれた時期は定かではありませんが、この詩に書かれている通り、 潘岳は妻へのやさしい気持ちを終生持ちつづけていたに違いありません。妻が亡くなった時、 潘岳はすでに50を越え、官界での2度の挫折を経て、いま三度官途についた彼でしたが、 もはやこの世界にどれほどの期待を持てるはずもないことは、いやというほど承知していた はずでした。そのような状況で、妻の死が彼にいかに大きな打撃を与えることになったかは、 想像にあまりあります。身も世もない悲嘆に埋没する他に、彼はほとんどすべを知らなかったのです。
 「悼亡詩」3首は、最愛の妻の死を悲しむ連作の詩で、有機的な構成になっています。 第1首が晩春、第2首が秋、第3首が冬 をそれぞれ季節としています。ただし、 必ずしもそれらの各季節に作られたというわけではなく、1種の舞台装置としての仮構と 見るべきでしょう。しかし「悼亡詩」は妻の死を悲しむ詩でありながら、妻の生前の姿の 具体的描写は一切なされず 、潘岳自らの姿にあくまでも固定されています。同様に、 潘岳が自分の子どもを亡くした時に書いた「弱子を傷む辞」も、子どものイメージをたどろう とするよりも、父たる己の嘆きを中心としたものでした。このようなことから、潘岳の 徹底して 自己中心的 だった姿勢がうかがえます。しかし、それだけにまた虚飾や誇張におおわれることのない、 もっとも真率な自己主張であったのも、事実です。
 妻の死は、夫である潘岳にいい知れぬ不幸をもたらしましたが、彼の哀傷の文学は、 「悼亡詩」3首によって声価を確定的なものにしました。庇護者・岳父・親友・嬰児と、 愛する人々を失うたびに綴られてきた哀悼の文辞は、その枠を結集するかのように、 「悼亡詩」という精華を生んだのである。しかも、今度は哀誄のような本来死者のために あてられた文体ではなく、より普遍的な文学形式である詩の形によって。彼以前にも、 夫に先立たれた妻の気持ちを代作した詩はあったが、自分の妻の死をテーマにした作品は 未曾有である。それは、いわば最大の不幸によってあがなわれた 最高の傑作 でした。

悼亡詩三首 其一     悼亡詩(とうぼうし)三首 其の一  西晋・藩岳

 荏 苒 冬 春 謝    荏苒(じんぜん)として冬と春とが謝(さ)り
寒 暑 忽 流 易    寒暑 忽(たちま)ち流易(りゅうえき)す
 之 子 帰 窮 泉    之(この)の子 窮泉(きゅうせん)に帰(き)し
 重 壌 永 幽 隔    重壌(ちょうじょう)は永(なが)く幽隔(ゆうかく)す
 私 懐 誰 克 従    私懐(しかい) 誰(たれ)か克(よ)く従わん
 淹 留 亦 何 益    淹留(えんりゅう)するも亦(ま)た何の益かあらん
 ? 俛 恭 朝 命    ?俛(びんべん)として朝命を恭(つつ)しみ
 回 心 反 初 役    心を回(めぐ)らせて初役(しょえき)に反(かえ)る
 望 廬 思 其 人    廬(ろ)を望みて其(そ)の人を思い
 入 室 想 所 歴    室(しつ)に入(い)りて歴(へ)し所を想う
 幃 屏 無 髣 髴    幃屏(いへい)に髣髴(ほうふつ)たること無きも
 翰 墨 有 余 跡    翰墨(かんぼく)には余跡(よせき)有り
 流 芳 未 及 歇    流芳(りゅうほう) 未(いま)だ歇(や)むに及ばず
 遺 挂 猶 在 壁    遺挂(いかい)は猶(な)お壁に在り
悵 ? 如 或 存    悵?(ちょうきょう)として存すること或るが如く
 周 遑 ? 驚 惕    周遑(しゅうこう)として?(うれ)えて驚惕(けいてき)す
如 彼 翰 林 鳥    彼(か)の林に翰(と)ぶ鳥の
 双 棲 一 朝 隻    双棲(そうせい) 一朝(いっちょう)にして隻なるが如し
 如 彼 游 川 魚    彼(か)の川に游(およ)ぐ魚(うお)の
 比 目 中 路 析    比目(ひもく) 中路(ちゅうろ)に析(さ)かるるが如し
 春 風 縁 隙 來    春風(しゅんぷう) 隙(げき)に縁(よ)りて来たり
 晨 霤 承 簷 滴    晨霤(しんりゅう) 簷(のき)を承(う)けて滴(したた)る
寝 息 何 時 忘    寝息(しんそく) 何(いず)れの時にか忘(わす)れん
 沈 憂 日 盈 積    沈憂(ちんゆう) 日(ひ)に盈積(えいせき)す
 庶 幾 有 時 衰    庶幾(こいねが)わくは時有りて衰(おとろ)うること
 荘 缶 猶 可 ?    荘缶(そうふ) 猶(な)お撃(う)つ可(べ)し

〈意味〉荏苒…月日が移り行くさま。 謝…過ぎ去る。流易…移り変わる。 之子…この人。亡き妻。  窮泉…黄泉。冥土。 淹留…長くとどまる。 ?俛…つとめて~する。気力を振り絞って、努力する。  初役…喪に服する前の勤め。旧職。 廬…簡素な家。 遺挂…壁などに掛けてある遺品。  悵?…気が抜けてぼうっとする様。 周遑…慌てふためくさま。  驚惕…驚きおそれる。  比目…伝説上の比目魚のこと。一目しかない比目魚は二匹並んで泳ぐことから夫婦仲の良いこと のシンボル。  晨霤…朝滴り落ちる雨だれ。 荘缶…荘子は妻が死んだとき、 人の一生は大自然の循環であり、悲しむことではないと歌を歌って缶(ほとぎ、 陶器の盆)を叩いたことから。「荘子」至樂篇にみえる故事。

○五言俳律。
(簡訳)月日は流れて、冬と春が過ぎ去り、寒さ暑さもたちまちのうちに変わってしまった。 愛しい妻は、奥深い黄泉路に行き、幾重にも重なる土が二人を遠く隔ててしまった。 私の妻への思いなど、誰が理解してくれよう。いつまでもぐずぐずしていても、何の甲斐もない。 私は気力を振り絞って、朝廷の命令をありがたくお受けし、心を取り直してもとの勤めに戻ることにした。 そこで、家を見まわして亡き妻のことを思い、部屋に入って二人で過ごした日々を思い出す。 室内のとばりや衝立(ついたて)にはもはや妻の影さえないが、筆や墨の周りには書き散らした文字が残っている。 彼女の着物に焚きこめた香りはまだ消えやらず、遺品は今なお壁に掛けたままになっている。 頭がぼうっとして、妻がまだそこにいるような気になり、はっと慌てふためき、悲しみおそれるありさまだ。 さながら、あの林に飛び交う鳥の、二羽のつがいがある日突然一羽になったような心地。 流れに泳いでいる魚の、目を並べて泳ぐ二匹が中途で引き裂かれたのに似る。 春風が壁の隙間から吹き込んできた。朝の雨だれが、軒から滴り落ちている。 寝たり休んだりしているときでも、妻を忘れる時があるだろうか。深い愁いは日に日に積り積もっていくばかり。 願わくは、いつか悲しみが消える時の来ること、その時には荘子のように、盆を叩いてうたをうたおう。

なんと切ない詩でしょう。一つ一つの言葉から藩岳の妻に対する愛情が胸に迫ってきます。
残念ながら、藩岳の妻については名前など詳しいことは何も分かっていません。
三首連作の其の一だけの紹介ですが、補足で、其の一は妻の死の悲しみをこらえて、 元の勤めに復職する直前の晩春、其の二は秋夜の嘆きを、其の三は妻が亡くなってから 一年になる冬の悲しみを詠っています。
この藩岳の詩から、亡くなった妻を悼む「悼亡詩」が三首連作で作ることが後世の典型となった ことを付け加えておきます。教師のヒマつぶし


樊素(はんそ) 小蛮(しょう ばん)
樊素は歌がうまく、小蛮は舞いが得意であったので、白居易が家妓として好んでいた女性です。



范 増(はん ぞう)
(生年不詳 - 紀元前204年)は、秦末期の楚の軍師。居巣(現在の安徽省巣湖市)の人。 『史記』によると項羽からは亜父(あふ または あほ、父に亜ぐの意)と呼ばれ敬愛されたが、 権謀術数に振り回されたことにより、最終的には項羽から離れて憤死した。
奇策を立てることを好んだ。若い頃から誰にも仕えずに暮らしていた。陳勝・呉広の乱で項梁が 挙兵した時、既に70歳前後になっていたが、彼の元を訪れて「かつての楚の懐王の子孫を楚王として 立てるべきだ」と進言した。項梁はこれを採用して心(後の義帝)を探し出し、祖父と同じ懐王を 名乗らせて擁立した[1]。
項梁が秦の章邯軍によって戦死した後、項羽は(跡を継いで総大将となった宋義の指揮下に入って) 秦に攻められている趙の救援に向かい、沛公劉邦は別働隊を率いて関中入りを目指した。 この時、懐王より「最初に関中に入った者を関中王とする」との約束が交わされた。項羽は途中で 進軍の方針を巡って宋義と対立し、これを斬って軍の指揮権を掌握し、章邯軍を打ち破って関中へ 向かう。
しかし、その間に咸陽一番乗りの手柄は劉邦に奪われてしまった。劉邦が咸陽で略奪などを行わな かったことが喧伝され、このとき范増は、「金と女を好むゴロツキだった劉邦がこのような行動を するのは、天下を狙う大望有るゆえ」と察知し、劉邦を殺すよう項羽に進言した。項羽も最初は 激怒して劉邦を殺そうとしていたが、叔父の項伯のとりなしにより、劉邦と面談することにした。 有名な「鴻門の会」である。
この会の途中で、范増は幾度も項羽らに劉邦暗殺を行うように示唆したが、張良や項伯や樊?などに 妨げられ、また項羽も決断できなかったため、結局劉邦を生きて帰らせてしまう。会の後で、 范増は暗殺すべき劉邦をむざむざ生かした項羽の判断を悔しがり「豎子、ともに謀るに足らず!」 (小僧とは一緒に謀を行うことができない!)と叫び、劉邦から贈られた玉斗を叩きつけて壊した (豎子とは項羽を指す)。
その後、項羽が秦を滅亡させて諸将を封建する際には、「劉邦は危険だ」と主張して辺境の地 (漢中)へ追いやり(これが左遷の故事となる)、また劉邦が討って出てきた場合に備え、 秦の故地である関中には章邯ら旧秦の将軍たちを配置した。劉邦に縁と恩義がある韓王成は、 協力する可能性が高いため項羽に進言して殺させた。
だが、劉邦は韓信を得ると関中へ攻め入って章邯らを滅ぼし、楚漢戦争が激化。范増も項羽を 支えるものの、項羽は?陽の包囲戦(?陽の戦い)の際に劉邦配下の陳平が仕掛けた離間計にかかり、 范増と鍾離?らの忠誠を疑い、軍をあまり動かさなくなった。これに怒った范増は、項羽に 「天下の形勢はおおむね定まりました。後は君王(項羽)自ら行ってください」と引退を宣言。 帰郷する途中で背中に膿が溜まる病気にかかり憤死した。紀元前204年のことである[2]。 范増の死後に項羽は?陽を攻めて落としたものの、劉邦には逃げられてしまう。そして范増を失った ことは、項羽軍から張良、陳平に対抗できる知謀の士が失われた事を意味し、その後の項羽は、 いくら戦闘に勝っても劉邦を滅ぼすことができず、最終的には范増の死から2年後の垓下の戦いで 大敗して、烏江で自害することになった。
項羽に亜父と呼ばれ敬愛されたが、肝心要での進言が容れられず、最後は離れることになる。 正しく韓信が語った項羽の「婦人の仁」が士を離れさせたのである。劉邦は皇帝就任時、 「自分は張良・蕭何・韓信を使いこなせたが、項羽は范増ひとりすら上手く使いこなせなかった。 これが項羽の滅亡した原因である」と語った。范増の進言を聞かなかった項羽は劉邦によって身を 滅ぼすこととなり、范増の危惧は的中したのである。



范 仲淹(はん ちゅうえん)
范 仲淹(はん ちゅうえん、989年10月1日(端拱2年8月29日) - 1052年6月19日(皇祐4年5月20日))は、 中国の北宋の政治家・文人。字は希文。諡は文正。唐の同鳳閣鸞台平章事の范履冰の末裔にあたる。
蘇州呉県の出身。2歳の時に父を失って母が長山県の朱氏に再嫁したのでその姓に従い、名を説と改めたが、 成長して生家を知るとともに本姓にもどした。応天府に行って苦学し、1015年(大中祥符8年)に進士に 及第して広徳軍司理参事となり晏殊に薦められて秘閣校理となり、つねに天下のことを論じて 士大夫の気節を奮いたたせていた。仁宗が親政の時にあたって中央で採用され吏部員外郎となったが、 宰相の呂夷簡に抗論して饒州に左遷された。以後、彼を支持した余靖・尹洙・欧陽脩も次々と朝廷を去り、 自らを君子の朋党と称した。1038年に李元昊が西夏をたてると、転運使として陝西をその侵攻から防ぎ 辺境を守ること数年、号令厳明にして士卒を愛し、羌人は仲淹が龍図閣直学士であることから 「龍図老子」と呼び、夏人は戒め合ってあえて国境を侵すことなく「小范老子、胸中自ずから数万甲兵あり」 と恐れはばかった。そうした功績により諫官をしていた欧陽脩が推薦し枢密副使・参知政事となった。 仲淹は富弼とともに上奏して、1.黜陟を明らかにし、2.僥倖を抑え、3.貢挙を精密にし、4.長官を厳選し、 5.公田を均一にし、6.農桑を厚くし、7.武備を修め、8.恩信を推し、9.命令を重んじ、10.徭役を減ずる、 などの十策を献じ施政の改革を図ったが、当時はすでに朋党の争いが弊害をあらわしており彼の案も悦ばれず、 河東陝西宣撫使として出向し戸部侍郎などを歴任した。潁州に赴任する途上で没する。兵部尚書を追贈された。

宋代士風の形成者の一人で、六経・易に通じ常に感激して天下を論じ一身を顧みなかったという。 散文に優れ『岳陽楼記』(岳陽楼の記)中の「天下を以て己が任となし、天下の憂いに先んじて憂え、 天下の楽しみにおくれて楽しむ(先憂後楽、後楽園の由来)」は特に名高い。著書に『范文正公詩余』 『范文正公集』24巻がある。



范 蠡(はんれい)
范蠡(はん れい 生没年不詳)は、中国春秋時代の越の政治家、軍人である。 氏は范、諱は蠡、字は少伯。越王勾践に仕え、 勾践を春秋五覇に数えられるまでに押し上げた最大の立役者とされている。
范蠡がどこで生まれたのか、どのような経緯で越の允常(勾践の父)に仕えるようになったのか、 彼の経歴による明確な確証がない。
隣国の呉王闔閭は伍子胥・孫武らの補佐を受けて強勢を誇っていた。越王允常は范蠡の補佐で 国力を伸ばしていた。 しかし紀元前496年に允常が逝去し、太子の勾践が父の後を継いだ。允常の訃報を聞いて喪中に 服している越に対して、 闔閭は出る杭を先んじて叩いてしまおうと判断し、?李の戦いを起こして攻め込んできた。しかし、 ?李(現・浙江省嘉興市)で、 范蠡はこれに対して奇計を持って迎えた。その奇計と言うのは決死隊(『左伝』では罪人。 こちらが正確か)を集めて敵の目の 前まで行かせてそこで自ら首をはねさせると言う物で、呉軍が仰天している隙を付いて越軍は呉軍を 撃破した。 越の武将霊姑孚が射た矢で片足を破傷したのが原因で闔閭は陣没し、太子の夫差が立った。
夫差は伍子胥の補佐を受け、越への復讐(臥薪)を狙い、それを知った勾践は今のうちにと呉を 叩こうと出兵しようとしたが 、范蠡はこれを諌めた。しかし勾践は聴かずに出兵し、大敗してしまった。勾践は夫差に対し 平身低頭で命乞いをし、 更に家臣の中の文種は夫差の側近伯?(?は喜否)に賄賂を贈って夫差に勾践を助けるように吹き 込んだ。 この時に伍子胥は勾践を殺す事を強弁したが、夫差はこれを取り上げず、勾践を解放し夫差の 馬役人にさせた(嘗胆)。
国に戻った勾践は国政を范蠡に任せようとするが、范蠡は「軍事なら種(文種)は臣に及びませんが、 政治にかけては臣は種に及びません」と応え、文種を推薦した。勾践は范蠡・文種の補佐を受け、 復讐を狙っていたが、 表面的には夫差に対し従順な姿勢を見せて、夫差を油断させた。更に范蠡は伯?に賄賂を送り、 伍子胥の悪口を夫差に吹き込ませて離間を狙った。思惑通り、伍子胥は夫差に誅殺され、 夫差を止める者はいなくなった。 夫差は調子に乗って北へ出兵して天下の事を争おうとし、越の事など気に止めなくなった。
夫差は呉軍の大半を率いて北の会盟に出かけて、国許を守るのは太子・友とごく僅かの兵になった。 勾践はその隙を衝こうとして、范蠡に訊ねた。范蠡は 「よいでしょう」 とこたえた。 そこで越は大軍を発し、 一気に呉を襲い、太子を殺して呉を占領した。夫差は慌てて引き返してきた。勾践は、 「まだ呉の全土を占領するには力が不足している」と判断し、一旦和睦した。 その後も夫差は無理に北へ出兵して国力を消耗した。四年後、越は呉に決戦を挑み、 遂に夫差を姑蘇山に追い詰めた。 夫差は降伏して命乞いしたが、范蠡は後顧の憂いを断つべく殺すよう進言した。勾践は殺すことは ためらい、 舟山群島に島流しにしようとしたが、その命令を受けた夫差は自殺した。
悲願が達成されて有頂天になる勾践を見て、范蠡は密かに越を脱出した。范蠡は文種への手紙の中で 「私は『狡兎死して走狗烹られ、高鳥尽きて良弓蔵(かく)る』(狡賢い兎が死ねば猟犬は煮て食われてしまい、 飛ぶ鳥がいなくなれば良い弓は仕舞われてしまう)と聞いています[1]。 越王の容貌は長頸烏喙(首が長くて口がくちばしのようにとがっている)です。こういう人相の 人は苦難を共にできても、 歓楽はともにできないのです。どうして貴方は越から逃げ出さないのですか」と述べた。
そこで文種は災いを避けるため病と称して出仕しなくなったが、文種に謀反の疑いありと讒言する 者が現われた。 勾践は文種に剣を贈り、「先生は私に呉を倒す7つの秘策があると教えて下さいました。 私はそのうちの3つを使って呉を滅ぼしました。残り4つは先生のところにあります。 私のために先生は亡くなった 父王のもとでその秘策をお試し下さい」と伝え、文種は自殺した。
范蠡は夫差の軍に一旦敗れた時に、夫差を堕落させるために絶世の美女施夷光(西施(せいし))を 密かに送り込んでいた。 思惑通り夫差は施夷光に溺れて傲慢になった。夫差を滅ぼした後、范蠡は施夷光を伴って斉へ逃げた。
越を脱出した范蠡は、斉で鴟夷子皮(しいしひ)と名前を変えて商売を行い、巨万の富を得た。 范蠡の名を聞いた斉は范蠡を宰相にしたいと迎えに来るが、范蠡は名が上がり過ぎるのは不幸の 元だと財産を 全て他人に分け与えて去った。 斉を去った范蠡は、かつての曹の国都で、今は宋領となっている 定陶(山東省陶県)に移り、 陶朱公と名乗った。ここでも商売で大成功して、巨万の富を得た。老いてからは子供に店を 譲って悠々自適の暮らしを 送ったと言う。陶朱公の名前は後世、大商人の代名詞となった(陶朱の富の故事)。
このことについては、史記の「貨殖列伝」に描かれている。
浙江省諸曁市内に陶朱山がある。




畢卓(ひったく)
晋書巻四十九列伝第十九畢卓
畢卓(生没年不詳)は字を茂世といい、新蔡郡鮦陽県の人である。畢諶の子。 官吏としては功績がなかったが、本列伝に記載されている隣の酒を盗み飲みしたことと 酒の船に乗りたいといったことの二つの事跡で歴史に名を残した人物。 後世酒飲みの例としてよく詩文に引用された。平南将軍の温嶠の長史となり、在官中に卒した。 畢卓字茂世,新蔡?陽人也。父諶,中書郎。卓少希放達,爲胡毋輔之所知。太興末,爲吏部郎, 常飲酒廢職。比舍郎釀熟,卓因醉夜至其甕間盜飲之,爲掌酒者所縛,明旦視之,乃畢吏部也, 遽釋其縛。卓遂引主人宴於甕側,致醉而去。
畢卓は字を茂世といい、新蔡郡?陽県の人である。父の畢諶は中書郎であった(1)。 畢卓は若い頃から心の思いのままに生き、ものにこだわらない生き方をしようと望んでおり、 〔その生き方を〕胡毋輔之に認められた。太興年間の末、吏部郎となった。常に酒を飲んで 仕事をしなかった。隣の男のこしらえたどぶろくが発酵して熟した。畢卓は酔っぱらって、 夜になってから隣の家のどぶろくの酒かめの間に入りこみ、盗み飲みをやって、 酒の管理人に縛られてしまった。あくる朝になって酒泥棒をみてみると、 なんとまあ畢吏部どのであったので、あわてて縛を解いた。畢卓はあろうことか主人と 酒がめの側で宴会を始め、酔っ払ってから帰った。(2)。
卓嘗謂人曰:「得酒滿數百斛船,四時甘味置兩頭,右手持酒杯,左手持蟹螯,拍浮酒船中, 便足了一生矣。」及過江,爲温嶠平南長史,卒官。
畢卓はかつて人に語ったことがある。「酒を得て数百斛の船に満たし、四季折々の旨いものを 頭の両側に置いて、右手に酒の杯を持ち、左手にカニのはさみを持って、 手足をばたつかせながら(3)酒の船の中を泳いでおれば、一生満足して送れるなあ」と(4)。 東晋が成立すると、畢卓は平南将軍温嶠の長史となった。その官のまま卒した。


卑弥呼(ひみこ)
(生年不明 - 247年あるいは248年頃)は、『魏志倭人伝』等の中国の史書に記されている倭国の王 (女王)。邪馬台国に都をおいていたとされる。封号は親魏倭王。
「魏志倭人伝」によると卑弥呼は邪馬台国に居住し(女王之所都)、鬼道で衆を惑わしていたという (事鬼道、能惑衆)。この鬼道や惑の意味には諸説あり正確な内容は不明だが、魏志倭人伝で 「輒灼骨而卜、以占吉凶」(骨を焼き、割れ目を見て吉凶を占う)とあるように卜術を能くする 巫女(シャーマン)であった可能性が高い。ただし中国の史書には、黎明期の中国道教のことを 鬼道と記している例もある。
福岡県糸島の平原遺跡から八咫の鏡と同じ直径の大型内行花文鏡5枚を始め大量の玉類や装身具が 出土していることから原田大六は被葬者は太陽神を崇める巫女であったとしたが、 魏志倭人伝における伊都国の重要な役割から、卑弥呼は伊都国に繋がる系統の巫女であった 可能性がある。
既に年長大であり、夫はいない(年已長大、無夫壻)、弟がいて彼女を助けていたとの伝承がある (有男弟佐治國)。王となってから後は、彼女を見た者は少なく(自爲王以來、少有見者)、 ただ一人の男子だけが飲食を給仕するとともに、彼女のもとに出入りをしていた(唯有男子一人、 給飲食、傳辭出入)。宮室は楼観や城柵を厳しく設けていた(居處宮室・樓觀、城柵嚴設)。
卑弥呼が死亡したときには、倭人は直径百余歩(この時代の中国の百歩は日本の二百歩に相当する) もある大きな塚を作り、奴婢百余人を殉葬したとされている(卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、 殉葬者奴婢百餘人)。塚の大きさが直径で記されているところから、円墳ないしそれに近い形状で あったと考えられる。
『三國志』(三国志)の卷四 魏書四 三少帝紀第四には、正始四年に「冬十二月倭國女王俾彌呼遣使奉獻」とある。


広瀬淡窓(ひろせ たんそう)
天明2年4月11日(1782年5月22日) - 安政3年11月1日(1856年11月28日))は、 江戸時代の儒学者で、教育者、漢詩人でもあった。豊後国日田の人。淡窓は号である。 通称は寅之助のちに求馬(もとめ)。諱は建。字は廉卿あるいは子基。当初の号は別号は青渓。 死後、弟子たちにより文玄先生とおくり名されたという。末弟に広瀬旭荘、弟・広瀬久兵衛の 子孫に、日田市長、衆議院議員だった広瀬正雄、その子息の広瀬勝貞は現大分県知事。 豊後国日田郡豆田町魚町の博多屋三郎右衛門の長男として生まれる。少年の頃より聡明で、 淡窓が10歳の時、久留米の浪人で日田代官所に出入りしていた松下筑陰に師事し、詩や文学を 学んだが、淡窓が13歳のときに筑陰が佐伯藩毛利氏に仕官したため師を失う[1]。16歳の頃に 筑前国の亀井塾に遊学し亀井南冥・昭陽父子に師事したが、大病を患い19歳の暮れに退塾し帰郷。 病は長引き、一時は命も危ぶまれたが肥後国の医師・倉重湊によって命を救われる。 その後、病気がちであることを理由に家業を継ぐのを諦めて弟の久兵衛に店を任せ、 一度は医師になることを志すが、倉重湊の言葉によって学者・教育者の道を選ぶ。
文化2年(1805年)には豆田町にある長福寺の一角を借りて初めの塾を開き、これを後の桂林荘・ 咸宜園へと発展させた。咸宜園は淡窓の死後も、弟の広瀬旭荘や林外、広瀬青邨等以降10代の 塾主によって明治30年(1897年)まで存続、運営された。塾生は日本各地から集まり、 入門者は延べ4,000人を超える日本最大級の私塾となった。
淡窓は晩年まで万善簿(まんぜんぼ)という記録をつけ続けた。これは、良いことをしたら 白丸を1つつけ、食べすぎなどの悪いことをしたら1つ黒丸をつけていき、白丸から黒丸の 数を引いたものが1万になるようにするものだった。1度目は67歳(1848年)に達成し2度目の 万善を目指して継続していたが73歳の8月頃で記録が途絶えている[1]。淡窓は安政3年(1856年) に死去。享年75。
淡窓には眼の病があり、目を使いすぎると腫れてしまうことから、あまり眼を使いすぎると 中年以降には失明してしまう、と医者に言われたことから、経書の本文のみを読書するようになる。 注釈を無視する代わりに自分なりの解釈を行ったため、淡窓独自の思想を生むこととなった。
淡窓の指針である「敬天」とは、人間は正しいこと、善いことをすれば天[注 1]から報われるとする。 淡窓の説くこの応報論は「敬天思想」といわれ、近年まで主な研究対象になっていた。 最近は主に、実力主義教育を採った組織としての咸宜園研究や、淡窓自身の漢詩研究になっている。




伏義(ふくぎ)
紀元前3350年~紀元前3040年)は古代中国神話に登場する神または伝説上の帝王。?羲・包犠・庖犠・伏戯などとも書かれる。 伏義、伏儀という表記も使われる。三皇の一人に挙げられる事が多い。姓は鳳(?)姓。兄妹または夫婦と目される女媧と同様に 、蛇身人首の姿で描かれる。伏羲の号には、縄の発明者葛天氏も含まれる。また、現在の中国では、 中華民族人民の始祖として崇拝されている。
『易経』繋辞下伝に天地の理(ことわり)を理解して八卦を画き、結縄の政に代え、蜘蛛の巣に倣って鳥網や魚網を発明し、 また魚釣りを教えたとされる。漢字が黄帝の史官蒼頡によって開発される以前の文字に関する重要な発明とされる。 また漢代に班固が編纂した「白虎通義」によると、家畜飼育・調理法・漁撈法・狩り・鉄製を含む武器の製造を開発し、 婚姻の制度を定めたとある。
中国古典論者の聞一多が雲南省を中心に説話を採集した。それによると、伏羲と女媧の父がかつて自身が閉じ込め、 自分の子供たちによって解放された雷公と戦ったが、雷公が洪水を起こして攻めたために二人を残して人類が滅亡してしまう。 兄妹は雷公を助けた時に彼からもらった種を植えて、そこから生った巨大な瓢箪の中に避難して助かり、 結婚して人類を伝えたとある。聞一多は、伏羲が時に庖羲とも書かれる点に注目し、伏羲とは方舟を指しており、 女媧がこれに乗って洪水の難を逃れたのではと推論している。
伏羲は女媧と同じく中国少数民族の苗族が信奉した神と推測されており、洪水神話は天災によって氏族の数が極端に減少して しまった出来事が神話に反映したと言われている。



武元衡(ぶ げんこう)
(758年 - 815年)は、中国・唐の詩人。河南?氏(こうし、河南省偃師の南)の出身。字は伯蒼。
徳宗の建中4年(783年)の進士。徳宗に才能を認められ、比部員外郎・右司郎中・御史中丞を歴任。 順宗朝では権臣・王叔文に従わなかった為、降職されたが、憲宗の元和2年(807年)には門下侍郎・同中書門下平章事(宰相) に至った。同年、宰相のまま剣南西河節度使に任ぜられて蜀に赴き、7年間、蜀に滞在した。 淮西節度使(河南省汝南)・呉元済が反乱を起こした時、憲宗から全てを委任されて討伐を画策したが、 呉元済派の朝臣の放った刺客に暗殺された。
『武元衡集』三巻がある。作品に、『嘉陵駅(かりょうえき)』(七言絶句)がある。


藤原清河(ふじわらきよかわ)
奈良時代の公卿。藤原北家の祖である参議・藤原房前の四男。唐名は河清かせい。 官位は従三位・参議、贈従一品。
遣唐大使として入唐し、阿倍仲麻呂と唐朝に仕えたが、暴風や安史の乱により日本への帰国は叶わず、 在唐のまま死去した。
天平12年(740年)従五位下に叙爵し、翌天平13年(741年)に中務少輔に任ぜられる。 天平15年(743年)に正五位下、天平17年(745年)に正五位上と、聖武朝にて順調に昇進して、 天平18年(746年)には従四位下に至る。天平勝宝元年(749年)孝謙天皇の即位に伴い参議に任じられ、 兄・永手に先んじて公卿に列した。
天平勝宝2年(750年)第12次遣唐使の大使に任じられる。なお、副使には大伴古麻呂と吉備真備が 任じられた。天平勝宝4年(752年)閏3月に出発にあたり清河は節刀を拝し、正四位下に叙される。 同年、難波津から出航するが、出航を前にして清河が詠んだ和歌が『万葉集』に残っている[1]。 遣唐使一行は唐に到着すると、長安に入って玄宗に謁見し、君子人なりと称賛された。 また特進の称号を授けられている。翌天平勝宝5年(753年)正月に朝貢諸国の使節による朝賀に出席。 その席上、日本の席次は西畔(西側)第二席で吐蕃の次であったが、新羅が東畔第一席で日本より 上席だった事に抗議、新羅と席を交替させて日本の面目を保っている[2]。
同年12月に清河ら遣唐使一行は、在唐35年にも及び唐の高官になっていた阿倍仲麻呂を伴って 帰国の途につく。日本への渡航を望む鑑真一行も乗船を希望したが、唐が鑑真の出国を禁じたため 清河は乗船を拒否した。しかし副使の大伴古麻呂が独断で鑑真を自身の乗る第二船に乗せる。 11月に遣唐船4隻は揚州を出航し、清河の乗る第一船から第三船までが阿児奈波島(現在の沖縄本島) まで到達する。半月程の島への滞在を経て12月に3隻は出航するが、第一船は出航時に座礁してしまう。 その後、奄美島を目指して再び出航するが[3]、結局逆風に遭い唐南方の驩州(現在のベトナム北部) に漂着する。土人の襲撃を受け、ほとんどの船員が殺害され船も壊されるが、 清河と仲麻呂は僅に身をもって逃れた[4]。一方、鑑真を乗せた第二船等他の3隻は無事日本へ 帰国している。天平勝宝7歳(755年)清河と仲麻呂は長安に帰着。 清河は河清と名を改めて唐朝に出仕する事になり、秘書監になった。
天平宝字3年(759年)清河を迎えるため高元度を大使とする迎入唐使が渤海国経由で入唐した。 しかし当時の唐は安史の乱で争乱状態だったため、行路の危険を理由に唐朝は清河の帰国を 許さなかった[5]。清河の帰国が許されなかった事情については、唐の高官として仕官していたため、 あるいは唐側がこの遣唐使節を通じて日本側に対して安史の乱で消費した兵器の 補充を要請しており[6]、この要請を実現させるための抑留であったとする見方もある[7]。 天平宝字7年(763年)日本では清河を在唐大使のまま常陸守に任じ、天平宝字8年(764年)には 従三位に昇叙している。
その後、二度の遣唐使の派遣中止等もあり、清河は帰国出来ないまま在唐十余年に及ぶ。 この間、天平宝字4年(760年)渤海使・高南申が清河の作成した上表文を淳仁天皇に献上[8]、 さらに神護景雲4年(770年)新羅使・金初正が清河と仲麻呂の作成した故郷の親族向けの書信を 大宰府に持参する等[9]、清河が帰国を熱望していた事が推察される[10]。 なお、宝亀5年(774年)にも新羅使・金三玄が清河の作成した書簡を大宰府にもたらせている[11]。
宝亀6年(776年)約15年ぶりに遣唐使が派遣される事となり、佐伯今毛人が遣唐大使に任命される[12]。 翌宝亀7年(777年)光仁天皇が節刀を授ける際に、清河に対して帰朝の命令と?100疋・細布100端・ 砂金大百両を与える旨が記された書簡が託された[13]。この遣唐使は当初任命された大使・副使全員が 辞任・更迭により交替する等混乱を極めるが、宝亀8年(777年)7月に大使代行の小野石根ら 第16次遣唐使が入唐、翌宝亀9年(778年)正月に長安に入る。しかし、時期は不明ながら清河は唐で 客死しており、日本への帰国は叶わなかった。清河が没した際、唐からは?州大都督の 称号が贈られている。なお、清河は唐の婦人と結婚して喜娘という娘を儲けており、 同年11月に喜娘は遣唐使に伴われて来日する[14]。この遣唐使の復命を通じて清河の客死が 朝廷に伝えられたらしく、宝亀10年(779年)2月になって清河に対して従二位の贈位がなされている。 その後、遣唐使の派遣が行われる都度、客死した清河を悼んで、延暦22年(803年)正二位、 承和3年(836年)従一品の贈位が行われた。


武帝(ぶてい)
前漢の第7代皇帝。平陽公主(中国語版)ら3人の同母姉がいる。彼の治世下で、 前漢は最盛期を迎える。
景帝の十男(九男とも)として生まれ、魔除けのためにあえて悪字を用いた「?」(てい、ブタの意) の幼名を与えられる。4歳の時、膠東王(山東省にあった王国)[1]に封ぜられた。 先に皇太子に立っていた栗夫人(中国語版)が生んだ長兄の劉栄(栗太子・臨江閔王) を押しのけて16歳で即位した。即位に当たって太皇太后の竇氏(中国語版)の意向が強く 働いていたために、即位当初は竇氏が実権を握っていた。皇后は伯母の館陶公主 (中国語版)劉嫖(景帝の同母姉)が産んだ陳皇后(元勲・陳嬰の孫の堂邑侯陳午の娘)である (このいとこ同士の夫婦の仲は険悪で、祖母の竇太皇太后が亡くなると、 近侍の張湯の助言で離縁した)。
呉楚七国の乱により有力な封王が倒れたことで、武帝は中央集権への移行を目指した。 諸侯王が自分の領地を子弟に分け与えて列侯に封建するのを許し、これは推恩の令と呼ばれる。 これにより諸侯王の領土は細分化された。
また、郷挙里選の法と呼ばれる官吏任用法を採用した。これは各地方郷里の有力者とその地方の 太守が話し合って当地の才能のある人物を推挙するもので、武帝は特に儒教の教養を身につけた 人物を登用した
また董仲舒の献策により五経博士を設置し、儒教を官学とした[2]。
これらの体制と文景の治による多大な蓄積を背景に、宿敵匈奴への外征を開始した。 高祖劉邦が冒頓単于に敗れて以来、漢はその孫の軍臣単于が君臨する匈奴に対して低姿勢で 臨んでいたが、武帝は反攻作戦を画策する。
かつて匈奴に敗れて西へ落ちていった大月氏へ張騫を派遣し、大月氏との同盟で匈奴の挟撃を狙った。 同盟は失敗に終わったものの、張騫の旅行によりそれまで漠然としていた北西部の情勢が はっきりとわかるようになった事が後の対匈奴戦に大きく影響した。
武帝は衛青とその甥の霍去病の両将軍を登用して、匈奴に当たらせ、幾度と無く匈奴を打ち破り、 西域を漢の影響下に入れた。更に李広利に命じて、大宛(現/中央アジアのフェルガナ地方)を征服し、 汗血馬を獲得した。また南越国に遠征し、郡県に組み入れ、衛氏朝鮮を滅ぼして楽浪郡を初めとする 漢四郡を朝鮮に置いた。
これらの成果により前漢の最大版図を築き、武帝の治世は前漢の全盛期と賞される。 高祖にすら成し遂げられなかった匈奴打倒を達成した武帝は泰山に封禅の儀式を行って、 自らの功績を上天に報告した。


文 王(周)(ぶんのう)
文王(ぶんのう、ぶんおう、紀元前1152年 - 紀元前1056年)は、中国の周朝の始祖。姓は姫、諱は昌。 父は季歴、母は太任(中国語版)であり、?仲および?叔が兄である。周の創始者である武王の父にあたる。 「寧王」とも呼ばれる[1]。
文王は商(殷)に仕えて、三公(特に重要な三人の諸侯)の地位にあり、父である季歴の死後に周の地を受け継ぎ、 岐山のふもとより本拠地を?河(渭河の支流である。湖南省の?水とは字が異なる)の西岸の豊邑(正しくは豐邑。後の長安の近く) に移し、仁政を行ってこの地を豊かにしていた。
この時の商王は帝辛 (紂王) であった。ある時に昌と同じく三公の一人、九侯と鄂侯が残酷な殺され方をした事で思わず ため息をついたが、これを辛のやり方に不満があると崇侯虎(英語版)に讒言された昌は?里(中国語版)(ゆうり) に幽閉された。同時に人質となっていた長男の伯邑考が、辛に煮殺されて、その肉を刻まれてその汁を賜り、 昌はそれを飲食したと伝わる[2]。
昌は幽閉された時期に、周易を書いた。その後、昌は財宝と領地を辛に献上して釈放され、西伯(西の統括をする諸侯の事) に任じられた[3]。
国許に帰った昌は辛に目を付けられないようにしながら仁政を行った。ある時に虞と?という小国が互いの間の紛争の調停を 頼むために周にやってきたが、周の人民はあぜを譲り合い、老人を敬する気風があったので、 自分たちが些細な事で争っている事に二つの国の君主は恥じてしまい、昌に面会せずに国許に帰った。
その後、領土を広げ、また呂尚を軍師に迎え、北方遊牧民族の犬戎・密須(中国語版)や諸侯国の?(中国語版)を征伐した。 晩年には政敵の崇侯虎を討伐して、その領土の豊(現在の陝西省西安市近郊)を併呑した。 辛の無道に見切りを付けた諸侯は昌を頼るようになったが、昌は最後まで商の臣下としてあり続けた。
昌の死後、次子の武王が文王の積み上げた物を基盤として商を倒し、周王朝を立てた。武王は昌に対し文王と追号した。 後世、特に儒家からは武王と並んで聖王として崇められ、為政者の手本となった。



房 琯(ぼうかん)
(696年-763年)字は次律,河南の人。則天の時の平章事,融の子にして門蔭を以て弘文生に補せらる。
開元中,明皇,将に岱岳に封ぜんとするや,?,封禅書を撰し,以て献ず。張説,其の才を奇とし,秘書省校書郎を授く。
又た応に県令に任ずるに堪ふべく,挙げられて盧氏の令と為る。尋ついで監察御史を拝す。天宝初め,主客員外に遷り,
憲部侍郎に累かさぬ。明皇,蜀に幸す。?,独り馳せて行在に赴く。上,大に悦ぶ。即日,文部尚書同平章事を拝す。
左相韋見素等と霊武を冊して奉じ,因て時事を陳ぶ。言詞慷慨,粛宗,之れが為に容を改む。持節充招討節度等使に詔す。
後,賀蘭進明の搆ふ所により相を罷め,尋いで?ヒン州刺史に貶めらる。詩,一首。



鮑叔(ほうしゅく)
中国春秋時代の斉の政治家。姓は?、氏は封地から鮑、諱は牙、字は叔。鮑叔牙とも。桓公に仕えた。
鮑叔の祖先は?姓の国杞の公子で、斉に仕えて鮑の地を与えられた事から、鮑氏を名乗るようになる。
鮑叔は若い頃に管仲と親しく交わっていた。彼は管仲と共に商売を行っていたが、管仲が大損失を出しても商売には 時勢があるとして決して咎めず、また、多大な利益を上げても、貧乏な管仲の為にその利益のほとんどを与えていた。 鮑叔のこの厚情に管仲は「私を生んだのは父母だが、私を知る者は鮑叔である」と大恩を感じていた。 この事から後世の人は二人の厚い友情を管鮑の交わりと呼んで大いに称えた。 この後鮑叔は、 釐公の子の公子小白に仕えるようになるが、小白の兄の襄公の圧迫を避ける為に、小白と共に?に亡命した。 その後、襄公が暗殺されると、斉では後継者争いが起こり、?から戻ってきた小白と公子糾が争ったが、 鮑叔の活躍により小白が勝利し斉君となった。
公子糾に味方をした魯から公子糾の臣、管仲と召忽を受け取り桓公に仕えさせようとした。 召忽は公子糾が死んだ事を知り自害するが管仲を仕えさせる事に成功する。
桓公は管仲を宰相として覇者となったが、鮑叔は管仲をよく助けてともに政治にあたった。 史記には、人々は桓公を覇者に押し上げた管仲よりも、管仲の力量を見抜き信頼し続けた鮑叔を称えた、とある。



鮑 照(ほうしょう)
鮑照(ほう しょう、414年?(義熙10年) - 466年(泰始2年))は、中国南北朝時代、宋の詩人。 字は明遠。本籍地はもと上党郡(現在の山西省長治市)、後に東海郡(現在の江蘇省漣水県、または山東省?城県)に移る。 最後の官職である「前軍参軍」にちなみ、後世「鮑参軍」と呼ばれる。宋の文帝の元嘉年間を代表する詩人として、 同時期に活躍した謝霊運・顔延之と併称して「元嘉三大家」の1人に数えられる。妹の鮑令暉も詩人として知られる。
寒門の貧しい家柄に生まれる。元嘉年間に臨川王劉義慶に認められ国侍郎・太学博士・中書舎人となる。 後に荊州刺史・臨海王劉子?のもとで前軍参軍となった。466年、劉子?が反乱を起こして敗死すると、 鮑照もその混乱の中で殺害された。
現存する詩は241首と六朝時代の詩人としては比較的多く残っている。楽府詩を得意とし、それに仮託して寒門出身ゆえの 人生の不遇や艱難を詠う内容が多い。典故にもとづいた旧来の表現に拘泥せず、好んで新奇な語を用い、 風景や自らの感慨を力強くダイナミックな調子で詠う作風が特徴である。 そうした作風は、同時代において通俗的で典雅さに欠けると批判されることもあったが、 後世の唐代の詩人に大きな影響を与えた。唐の詩人杜甫は、李白の詩才を「清新なるは 廋開府、俊逸なるは 鮑参軍」 (「春日 李白を憶ふ」)と鮑照になぞらえて称えている。



穆王(ぼくおう)
 周朝の第5代王。在位期間 前985年? - 前940年
昭王の子であり、昭王が楚への遠征途上で行方不明になったことより仮に王位に即位、 その後に昭王の死が判明したので正式に即位した。
彼は中国全土を巡るのに特別な馬(穆王八駿)を走らせていたと言われる。すなわち、土を踏まないほど速い「絶地」、 鳥を追い越す「翻羽」、一夜で5,000km走る「奔霄」、自分の影を追い越す「越影」、光よりも速い「踰輝」と「超光」、 雲に乗って走る「謄霧」、翼のある「挟翼」の8頭である。穆王はこの馬を駆って犬戎ら異民族を討った。
また、司寇(司法官の長)である呂侯に命じて『呂刑』と呼ばれる刑法を定めて社会の安定を図ろうとしたが、 その3千と言われる罪状の多さに却って諸侯や民衆の反感を買った。
また彼は西の彼方にある、神々が住むとされた崑崙山にも立ち寄り西王母に会い、西王母が後に入朝したと言う。 このことは穆天子伝としてまとめられている。神話、伝説の要素を多く含む中国最古の旅行記である。


穆公 (秦)(ぼくこう しん)
中国春秋時代の秦の第9代公。繆公とも。
徳公(第6代)の子で成公(第8代)の弟。兄弟相続により秦公となる。隣国晋の献公の娘を娶り、 その時に侍臣として百里奚が付いてきた。穆公は百里奚を召抱え、以後は百里奚に国政を任せるように なった。
紀元前651年に晋の献公が死ぬと、後継争いで晋国内は騒乱状態となった。晋の公子夷吾は晋公の座に 着くために穆公に援助を要請した。穆公は夷吾の兄重耳の方を人格的に好んでいたが、 重耳が辞退したことと、英邁の誉れ高い重耳に比べると出来の悪い夷吾を晋公に推せば何かと自分に 有利になると踏んで、夷吾を晋に入れて恵公とした。この時に恵公は穆公に礼として領土の割譲を 約束していた。しかし晋に入った恵公は約束を破り、晋国内で悪政を行った。
紀元前647年、晋は不作になり、食糧が不足したために秦へ援助を要請した。家臣たちは領土割譲の 約束を破った恵公に何で食糧を送ってやる必要があるかと反対したが、穆公は「恵公の事は憎んで いるが、民に罪は無い」と言い,晋に大量の食糧を送った。その翌年に今度は秦が不作となった。 穆公は晋へ援助を要請した。しかし恵公は食糧を送らず、逆に好機ととらえて秦に攻め込んできた。 これにさすがの穆公も激怒し、翌年に出兵して晋軍と韓原で激突し、大勝して恵公を捕虜とした。 凱旋して帰ってきた穆公は恵公を祭壇で生贄にしようと思っていたが、恵公の姉である妃に止められた。 そこで恵公の太子圉を人質にして、恵公の帰国を許した。
紀元前641年、度重なる土木工事で増築して、国家自体が疲弊した同族の梁を滅ぼした。
紀元前638年、晋で恵公が重病となると圉は晋に逃げ帰った。度々の背信に怒った穆公は楚にいた 重耳を迎え入れて、共に兵を出して重耳を文公とした。
紀元前624年、文公没後の晋を討ってこれを大いに破り、西戎を討って西戎の覇者と認められた。
紀元前621年、死去。この時に家臣177名が殉死した。主立った家臣たちが数多く殉死したことにより、 秦の国力は大きく低下し、一時期、表舞台から遠ざかることとなる。 『詩経』・国風の秦風にある「黄鳥」の詩は子車奄息(えんそく)、子車仲行、子車鍼虎(かんこ) の三兄弟が穆公のため殉死させられたことを謡ったという。
春秋五覇の一人に数えられる事もある。
また、百里奚や由余、蹇叔、丕豹、公孫支等の異邦の異才を登用して国力を増強させた事は、 はるか後の商鞅や張儀、范雎等の異国の異才達による秦の天下統一への道筋の先鞭ともなった。


穆宗皇帝(ぼくそうこうてい)
唐朝の第15代皇帝。憲宗の三男。
初名は宥であったが、元和7年(812年)に立太子された際に恒と改名した。元和15年(820年)に父帝が宦官の王守澄によって 殺害されると、王守澄によって皇帝に擁立された。史書によれば主体性に欠け、享楽に耽る生活を送っていた。 このため穆宗の代に宦官による専横がさらに顕著化し、牛李の党争と呼ばれる官僚らの派閥闘争が激化した。 自らの長命のために道士が勧めた金丹による中毒により、30歳にして崩御した。



米芾(べいふつ)
(皇祐3年(1051年) - 大観元年(1107年)[注釈 1])は、中国の北宋末の文学者・書家・画家・収蔵家・鑑賞家であり、特に書画の専門家として 活躍した。
初名は黻(ふつ)[注釈 2]。字は元章(げんしょう)。官職によって南宮(なんぐう)、住拠によって海嶽(かいがく)と呼ばれ、
号は襄陽漫仕(じょうようまんし)・海嶽外史(かいがくがいし)・鹿門居士(ろくもんこじ)などがあり、室名を宝晋斎[注釈 3]といった。 子の米友仁に対して大米と呼ぶ。襄州襄陽県の人で、後に潤州(現在の江蘇省鎮江市)に居を定めた。
書においては蔡襄・蘇軾・黄庭堅とともに宋の四大家と称されるが、米芾は4人の中で最も書技に精通しているとの評がある。 他の3人はエリート政治家として活躍したが、米芾は書画の分野のみで活躍した専門家であった。彼の題跋は今日でも王羲之や唐人の 真跡を研究する上で最も重要な参考資料になっており、その鑑識眼は中国史上最高ともいうべきものである[4]。画においては米法山水の 創始者として知られ、多くの人に模倣された。また、従来、専門家が行っていた篆刻を作家自ら始めた人物とも目されている (篆刻#宋・元を参照)。
米家のルーツは昭武九姓の一国の米国(マーイムルグ)に住むソグド人で、中国に移り住んで「米」を姓とした。この西域の米国は 唐の高宗の時代に大食に滅ぼされ、住民はシルクロードから中国に亡命したといわれる[5][6]。
米芾は皇祐3年(1051年)、襄陽で生まれた。先祖は代々山西の太原に住み、後に襄陽に移った。母の閻(えん)氏が英宗皇后 (宣仁聖烈高皇后)の乳母として仕えていたことから、米芾は科挙を受験しないで官途につくことができた。宋代は科挙至上主義で あったので、これはかなりの特典だったといえる。しかし、彼の墓誌銘に、「科挙の学に従うを喜ばず、…」とあり、故意に受験しなかった とも考えられる[5]。
地方の割合低い官吏を転任するが南方が多く、米芾は江南の山水を愛した[5]。彼は非常に書画がうまかった上に鑑識にすぐれていたため、 崇寧3年(1104年)の書画学(宮廷美術学校)設立の際には書画学博士となった。そして、徽宗の側近に仕えて書画の鑑定にあたり、 のちに礼部員外郎[注釈 4]に抜擢された[注釈 5]。徽宗の厖大な書画コレクションを自由に利用できたことにより、 古典を徹底的に組織的に研究した。彼は名跡を臨模し、鑑定をし、収集をし、そして鑑賞した書画についての多くの記述を残した。 その著録はきわめて科学的であり、今日でも正確で信頼のおけるものである。
このように彼の書は古法の探求を土台にしているため、品位と規模において南朝や初唐の大家に匹敵し、この後、彼以上の書家はついに あらわれなかった[4]。その書は初め唐の顔真卿・?遂良を学び、のち東晋の王羲之、魏・晋の諸名家に遡って研究をすすめた。 古来、彼ほど臨模のうまい者はいないといわれ、その精密さは古人の真跡と区別がつかなかったと伝えられる。よって、今日に伝わる 唐以前の作品の中には、彼の臨模が混じっている可能性もある[7]。
彼の書について『宣和書譜』には、「おおかた王羲之に学んでいる。」[8]と記されている。また、「米芾に正書なし。」といわれるように、 行書・草書に多くの名品を遺した。しかし、董其昌は『画禅室随筆』に、「米芾自身、最も自信をもっているのは小楷であり、 彼はそれを大事にしたので多く書かなかったのだ。」[9][10]と述べている。
蘇軾や黄庭堅と交友関係にあり、米芾が一番若かったので彼らは米芾を可愛がっていた。米芾は傍若無人で、徽宗の前でも 「黄庭堅は字を描くだけで、蘇軾は字を画くだけである。」などと貶しているが、彼らが腹を立てた形跡はない[5]。また、米芾は奇矯な 性格で、古書・名画を貪欲に蒐集するばかりではなく、奇石怪石の蒐集も趣味とし、名石に出会うと手を合わせて拝み、石に向かって 「兄」よばわりするほどであったと伝えられる[11]。よって、しばしば狂人扱いされて「米顛」(べいてん、米芾の変わり者)とか 「米痴」(べいち)などと呼ばれ、さまざまな逸話が生まれた。服装も唐代のファッションをかたくなに守ったという[12]。
崇寧5年(1106年)に知淮陽軍(ちわいようぐん)となり、翌年、淮陽軍の役所で没した(57歳[注釈 1])。『宋史』 (巻444)に伝が立てられている。
書作品
自著の『海嶽名言』に、「壮年にはまだ一家を成し得ず、あらゆる古典から学んだ寄せ集めで、人々から集古字[注釈 6]といわれた。 しかし晩年になって一家を成すと、人は私の書が誰の書風に基づくか分からなくなった。」と述べているように、 米芾は多くの古典を臨模して書を学んだ。作品として多くの真跡が残り、また多くの集帖(『群玉堂帖』・『余清斎帖』・ 『戯鴻堂帖』など)、専帖(『宝晋斎帖』・『英光堂帖』[注釈 7]など)、単帖(『龍井山方円庵記』)に刻されている。



無著(むぢゃく)
インドの大乗仏教唯識派の学者。310 - 390年ころの人。
西北インドのガンダーラ国(現在のパキスタン、ペシャーワル地方)にバラモンの子として生まれた。 父はカウシカ(kauCika、去尸迦)、母はビリンチ(viriJci、比隣持)、兄弟3人のうちの長男であった。 実弟の内、次男の方は説一切有部から唯識派に転向して大成した世親(ヴァスバンドゥ)。 三男の方は説一切有部の比隣持跋婆(ヴィリンチヴァッサ)。兄弟全員が世親(ヴァスバンドゥ)と いう名前であるが、長男は無著、三男は比隣持跋婆という別名で呼ばれるため、 「世親」という名は専ら次男のことを指す。無著という別名は、後述するように、 大乗仏教の空思想を会得したことにちなむ(空(空性)とは執著の無いことを意味する)。
初め部派仏教の化地部において出家し、瞑想に基づく欲望からの離脱法を修得した。 「空」の教理が理解できないため自殺しようと悩んでいたとき、東方、ビデーハ国 (現在のビハール州北部)のピンドーラ(piNDola、賓頭羅)阿羅漢に出会い、 ようやく小乗の空観をも体得した。
しかし、これに満足できない無著は、インド中部のアヨーディヤー(現在のアウド)に赴き、 大乗仏教の修行の一つである瑜伽行に努め、大乗仏教徒となった。伝説によるとこの時彼は神通力で 兜率天に向かい、そこで弥勒(マイトレーヤ)から大乗仏教の空思想を学んだのだという[1]。 また、他の人々にも、弥勒が直接『瑜伽師地論』(『十七地経』)を説くように要請し、 無著がその解説をすることにした。これが唯識思想流布の端緒とされる。 彼は弥勒から日光三昧を教えられていたので、大乗の教義を容易に理解し、 記憶することができたという。晩年には、大乗を誹謗する世親をアヨーディヤーに呼び寄せ、 転向させた。世親は兄とともに偉大なる大乗仏教者として知られるようになった。




孟 浩然(もうこうねん)
(689年 - 740年)は中国唐代(盛唐)の代表的な詩人。 襄州襄陽(現在の湖北省襄陽市)出身。 字も浩然。一説には、名は浩だとも言われる。
若い頃から各地を放浪し、義侠の振る舞いで人々と交流した。また後漢の?徳公や後年の皮日休 ゆかりの鹿門山(襄陽市)に隠棲したこともあった。玄宗の世となってから長安に赴き 仕官しようとするが、科挙に及第していないのでかなわなかった。しかしながら、孟浩然を気に 入った韓朝宗との約束をすっぽかして朝廷への推薦をだめにしたり、いざ玄宗の前に出ても 不平不満を詩にして玄宗を怒らせるなど、立身出世には関心が薄かったようにもみえる。
孟浩然の詩は広く知れ渡り、王維・李白・張九齢らと親しく交際した(李白には 「黄鶴樓送孟浩然之廣陵」という作品がある)。740年、背中にできものがあって調子の 悪かった孟浩然は、訪ねてきた王昌齢を歓待するあまり容態を悪化させて亡くなった。
自然を題材にした詩が評価されており、詩のなかに人生の愁いと超俗とを行き来する心情を 詠みこんでいる。日本では五言絶句「春暁」が特に有名である。詩の特徴から王維と孟浩然は 「王孟」と並称された。『孟浩然集』がある。
  「春暁」作者   全唐詩「孟浩然」

毛沢東(もうたくとう)
1893年12月26日 - 1976年9月9日)は、中華人民共和国の政治家、軍事戦略家、思想家。字は詠芝、潤芝、潤之。 筆名は子任。中国共産党の創立党員の1人で、長征、日中戦争を経て党内の指導権を獲得し、 1945年より中国共産党中央委員会主席と中央軍事委員会主席を務めた。 日中戦争後の国共内戦では蒋介石率いる中華民国を台湾に追いやり、中華人民共和国を建国した。 以後、死去するまで同国の最高指導者の地位にあった。
現代世界史において大きな業績を遺した人物とみなされており[3]、 タイム誌の「20世紀の重要人物[4]」の1人に名を連ねている[5]。毛は、思想家、戦略家として評価されており、 詩人としても名高い[6]。
一方、毛の政策については現在でも議論の対象となっている。研究者は、毛の引き起こした大躍進政策と文化大革命のような、 文化、社会、経済、外交に重大な損害をもたらした問題について非難するとともに、 彼の政策による犠牲者を数千万と推定する[7]。そして、マルクス主義・ソ連型社会主義を中国社会に導入しようとした 毛の政策は、産業の面において、結局失敗に終わったと論じる[7]。
1936年秋には陝西省延安に根拠地を定め、以後自給自足のゲリラ戦を指示し、消耗を防ぎながら抵抗活動を続ける。 同年12月7日、朱徳に代わって中華ソビエト共和国中央革命軍事委員会(紅軍の指導機関)主席に就任して正式に軍権を掌握。 5日後の12月12日に西安で起きた張学良・楊虎城らによる蒋介石監禁事件(西安事件)で、 コミンテルンの仲介により宿敵である蒋介石と手を結び、第二次国共合作を構築。 翌年、中華ソビエト共和国は「中華民国陝甘寧辺区政府」に、紅軍は「国民革命軍第八路軍(八路軍)」に改組された。 中華ソビエト共和国中央革命軍事委員会も中国共産党中央革命軍事委員会(現在の中国共産党中央軍事委員会)に改組され、 毛沢東は改めてその主席に就任した。


孟 遲(もう ち)
唐(約公元八五九年前後在世)字遲之,(全唐詩云:一作升之;文獻通考作孟達。字叔之)平昌人。生卒年均不詳, 約唐宣宗大中末前後在世。有詩名,尤工?句。與顧非熊甚相得,於會昌五年(公元八四五年)同舉進士第。亦與杜牧友善, 遲至池州,牧作詩送之。遲著有詩集一卷,《新唐書藝文志》傳於世。。

文武天皇(もんむてんのう)
(天武天皇12年(683年) - 慶雲4年6月15日(707年7月18日))日本の第42代天皇(在位: 文武天皇元年8月1日(697年8月22日) - 慶雲4年6月15日(707年7月18日))。 諱は珂瑠(かる)、軽(かる)。和風諡号は2つあり、『続日本紀』の707年(慶雲4年11月12日)に 「倭根子豊祖父天皇」(やまと ねこ とよおほぢの すめらみこと、旧字体:?豐?父)と、 『続日本紀』797年(延暦16年)に諡された「天之真宗豊祖父天皇」 (あめの まむね とよおほぢの すめらみこと、旧字体:?眞宗豐?父)がある。
当時としては異例の14歳の若さで即位。祖母・持統太上天皇(史上初の太上天皇)のもとで 政務を行っていた。後の院政形式の始まりである[1]。
草壁皇子(天武天皇第二皇子、母は持統天皇)の長男。母は阿陪皇女(天智天皇皇女、 持統天皇の異母妹、のちの元明天皇)。父・草壁は皇太子のまま亡くなり即位していないため、 本来であれば「皇子」ではなく「王」の呼称が用いられるはずだが、祖母である持統天皇の後見も あってか、立太子以前から皇子の扱いを受けていたと考えられる。
父・草壁が持統天皇3年4月13日(689年5月7日)に亡くなり、同10年7月10日(696年8月13日)には 伯父にあたる高市皇子も薨じたため、同11年2月16日(697年3月13日)立太子[2]。 文武天皇元年8月1日(697年8月22日)、祖母・持統から譲位されて天皇の位に即き、 同月17日(9月7日)即位の詔を宣した。当時15歳という先例のない若さだったため、 持統が初めて太上天皇を称し後見役についた。
このような若さで即位した理由を説明するために皇太子になった経緯をたどると、 「懐風藻」によれば、持統天皇が皇位継承者である日嗣(ひつぎ)を決めようとしたときに、 群臣たちがそれぞれ自分の意見を言い立てたために決着がつかなかった。その際に葛野王が、 「わが国では、天位は子や孫がついできた。もし、兄弟に皇位をゆずると、 それが原因で乱がおこる。この点から考えると、皇位継承予定者はおのずから定まる」 という主旨の発言をしたとされ、ここで弓削皇子が何か発言をしようとしたが、 葛野王が叱り付けたため、そのまま口をつぐんでしまったとされる。
持統天皇は、この一言が国を決めたと大変喜んだとされる。これには、持統天皇が軽皇子を 皇太子にしようとしていた際に、王公諸臣の意見がまとまらなかったことがあるとされる。 このような論争が起こったことには、天武・持統両天皇がもともと自分たちの後継者を 草壁皇子と定め、皇太子に立てたにもかかわらず、即位目前の689年に没してしまったために、 持統天皇は草壁皇子の子である軽皇子に皇位を継承させようとした。そのために、 成長を待つ間は自ら皇位についた。
ただ、天武天皇には、草壁皇子以外にも母親の違う皇子がほかにいた。彼らは、 草壁皇子の死後皇位につくことを期待したものの、持統天皇の即位によって阻まれたが、 持統天皇の次の天皇位は新たなチャンスとなった。このことから考えると、 天武天皇の皇子である弓削皇子は、皇位継承権を主張しようとしたと考えられる。 これは、皇位継承が兄から弟へと行われるべきという考え方と、親から子・ 孫へと行われるべきという考え方があるためとされる。
大宝元年8月3日(701年9月9日)に大宝律令が完成し、翌年公布している。 大宝律令において初めて日本の国号が定められたとされる[3]。 遣唐使の粟田真人に初めて節刀を与えて唐との国交正常化を目指して日本の国号変更 (「倭」→「日本」、どちらも同じ国号「やまと」だが漢字表記を変更)を通告するも、 記録の不備あるいは政治的事情からか後の『旧唐書』に「日本伝」と「倭国伝」が並立する 遠因になったとみられている。それまで散発的にしか記録されていない元号制度の形が整うのも この大宝年間である。また混乱していた冠位制を改め、新たに官位制を設けた。
公式記録の『続日本紀』には妃や皇后を持った記録は無い。皇后及び妃は皇族出身であることが 条件であり、即位直後の文武天皇元年8月20日(697年9月10日)に夫人(ぶにん)とした 藤原不比等の娘・藤原宮子が妻の中で一番上位であった。他に、同日嬪となった石川刀子娘と 紀竈門娘がいる(ただし、宮子を当初から夫人であったとするのは『続日本紀』編者の脚色で、 当初は石川・紀と同じく嬪であり、慶雲4年以降に夫人に昇格したとする説もある[4])。 皇后は皇族出身であることが常識であった当時の社会通念上から考えれば、当初より後継者に 内定していた段階で、将来の皇后となるべき皇族出身の妃を持たないことは考えられず、 何らかの原因で持つことができなかったか、若しくは記録から漏れた(消された)と考えられる。
このことについて梅原猛はその著書『黄泉の王』で、文武の妃は紀皇女だったが、 弓削皇子と密通したことが原因で妃の身分を廃された、という仮説を『万葉集』の歌を 根拠に展開している。紀皇女についてはその記録すらがほとんど残っておらず、 将来の皇后の不倫という不埒な事件により公式記録から一切抹消されたというのが この説の核心となっている。


廋 信(ゆしん)
(513年(天監12年) - 581年(開皇元年))、中国南北朝時代の文学者。字は子山。南陽郡新野の人。廋肩吾の子。 南朝の梁に生まれ、前半生は皇太子蕭綱(後の簡文帝)配下の文人として活躍した。 侯景の乱後の後半生は、やむなく北朝の北周に身を置くことになり、代表作「哀江南賦」をはじめ、 江南を追慕する哀切な内容の作品を残した。
父の廋肩吾は、武帝の第3子晋安王蕭綱(後の簡文帝)の国常侍・参軍をつとめた。 廋信は15歳の時、当時の皇太子昭明太子蕭統に仕え、東宮講読に侍した。531年(中大通3年)4月、 蕭統が早世する。7月に蕭綱が皇太子となると、父廋肩吾は東宮通事舎人に任じられた。 同時に廋信も、徐?の子徐陵とともに抄撰学士となり、宮体詩の作者として梁の宮廷で活躍した。 徐・?親子の詩文は「徐?体」と称されて、当時の人士の間で大いに流行した。
545年(大同11年)、廋信は東魏への使節の副使となり、当地の文人たちにその文才を大いに 賞賛された。帰国後の翌546年(中大同元年)、東宮学士・建康令となる。ところが2年後の548年 (太清2年)に侯景の乱が起こり、それまで太平を謳歌していた梁朝は一転して混乱の極みに 陥ることになる。10月、廋信は建康に迫る侯景軍に対して朱雀航の守備を命じられたが、 北族で構成される敵軍が殺到すると恐れをなして戦う前に逃げ出した。翌549年(太清3年)2月、 侯景軍に包囲されていた台城が陥落、5月には武帝が餓死させられ、侯景の傀儡として簡文帝が 即位する。父の廋肩吾は簡文帝に従い、度支尚書に任じられた。この戦乱の最中、廋信は 幼い3子を全て失ってしまう。
台城陥落後、廋信は江陵に本拠を置く湘東王蕭繹(後の元帝)のもとに奔り、551年(大宝2年) に御史中丞となった。この年、侯景のもとから江陵に逃れてきた父の廋肩吾が65歳で死去し、 父の武康県侯を継いだ。11月、蕭繹が皇帝に即位し、翌552年(承聖元年)に廋信は散騎常侍・ 右衛将軍となった。
554年(承聖3年)7月、廋信は元帝の使者として、西魏の都長安を訪れたが、滞在中の11月、 西魏は襄陽の蕭?を擁して江陵に侵攻する。12月、江陵が西魏軍により陥落。元帝は弑され、 そのもとにいた王褒らの人士は長安に連行された。廋信は仕えていた朝廷を失い、 以後北朝に仕えることになる。西魏とその後を継いだ北周では、廋信は王褒と共に江南屈指の 文人として重んじられた。江陵平定後には使持節・撫軍将軍・右金紫光禄大夫・大都督の位を受け、 まもなく車騎大将軍・儀同三司に転じる。さらに北周が建国されると、 驃騎大将軍・開府儀同三司などの高官に任じられ、帝室の趙王宇文招や滕王宇文?らと親しく 交際したが、志を得られない不遇の時を過ごすことになる。
557年(永定元年)10月、陳霸先が建康で即位して陳朝を建てると、南北とも各王朝が改まり、 南北朝末の新たな三国鼎立の状態が始まる。575年(建徳4年)、北周と陳との間に和睦が成立し、 長安に抑留されていた江南の人々の帰国が実現したが、廋信と王褒の2人のみは、 その文才が惜しまれ、引き続き長安に留め置かれた。これに追い討ちをかけるように、 翌576年(建徳5年)、王褒が64歳で没する。さらに580年、外戚の楊堅(後の隋の文帝)が 北周の実権を握り、廋信の友人であった趙王や滕王が誅殺された。
翌581年(開皇元年)2月、隋朝が成立した後、その年に長安で病没。享年69。
子に?立、孫に?威士があった。
(西元513ー581)字子山,小字蘭成,南朝梁新野人。梁元帝即位,任為右衛將軍,後元帝使出使西魏,?西魏滅梁, 信留長安,並任官;北周代魏,信累遷驃騎大將軍、開府儀同三司,在北朝達二十七年,世稱「廋開府」。廋信前期作品, 文藻?麗,與徐陵齊名,時稱「徐?體」;後期作品,常有?關之思,風格一變為?鬱,語言清新。著有《廋開府集》。


楊貴妃(ようきひ)
719年(開元7年) - 756年7月15日(至徳元載(元年)6月16日))は、中国唐代の皇妃。姓は楊、名は玉環。 貴妃は皇妃としての順位を表す称号。玄宗皇帝の寵姫。玄宗皇帝が寵愛しすぎたために安史の乱を引き起こしたと伝えられたため、 傾国の美女と呼ばれる。古代中国四大美人(楊貴妃・西施・王昭君・貂蝉)の一人とされる。壁画等の類推から、 当時の美女の基準からして実際は豊満な女性であった。また、音楽や舞踊に多大な才能を有していたことでも知られる。
蜀出身。本籍は蒲州・永楽にあったという。蜀州司戸の楊玄?の四女。兄に楊銛、姉に後の韓国夫人、 ?国夫人、秦国夫人がいる。6月1日に生まれたと伝えられる。四川省には、「落妃池」という 楊貴妃が幼い頃に落ち込んだと伝えられる池がある。幼いころに両親を失い、叔父の楊玄?の家で 育てられた。
『定命録』によると、蜀に住んでいた時、張という姓の山野に住む隱士が彼女の人相を見て、 「この娘は、将来、大富大貴になるであろう。皇后と同等の尊貴にあるだろう」と予言し、さらに、 またいとこの楊国忠の人相を見て、「将来、何年も朝廷の大権を握るであろう」と告げたという 説話が残っている。
『開元天宝遺事』によると、楊玄?は若い頃に持っていた刀は、猛獣や盗賊が近づくと、 警告するように、刀が音を発したと伝えられる。また、楊貴妃が父母と別れる時、寒い日で あったので、涙が紅く凍ったという説話を伝えている。
生まれながら玉環を持っていたのでその名がつけられたというものや、また、広西省の庶民の出身 であり、生まれた時に室内に芳香が充満しあまりに美しかったので楊玄?に売られたという 後世の俗説もある[1][2]。
735年(開元23年)、玄宗と武恵妃の間の息子(寿王李瑁、第十八子)の妃となる[3]。 李瑁は武恵妃と宰相・李林甫の後押しにより皇太子に推されるが、737年(開元25年)、 武恵妃が死去し、翌年、宦官・高力士の薦めで李?が皇太子に冊立された。
740年(開元28年)、玄宗に見初められ、長安の東にある温泉宮にて、一時的に女冠となった (このときの道号を太真という)。これは息子から妻を奪う形になるのを避けるためであり、 実質は内縁関係にあったと言われる。その後、宮中の太真宮に移り住み、玄宗の後宮に入って 皇后と同じ扱いをうけた。
楊玉環は容貌が美しく、唐代で理想とされた豊満な姿態を持ち、音楽・楽曲、歌舞に優れて利発で あったため、玄宗の意にかない、後宮の人間からは「娘子」と呼ばれた。『長恨歌伝』によれば、 髪はつややか、肌はきめ細やかで、体型はほどよく、物腰が柔らかであったと伝えられる[4]。
745年(天宝4載)、貴妃に冊立される。『楊太真外伝』によると、初めての玄宗との謁見の際、 霓裳羽衣の曲が演奏され、玄宗は「得宝子」という新曲を作曲したと伝えられる。
父の楊玄?は、兵部尚書、母の李氏は、涼国夫人に追贈され、また、叔父の楊玄珪は、光禄卿、 兄の楊銛は殿中少監、従兄の楊錡は?馬都尉に封じられる。さらに、楊錡は玄宗の愛娘である 太華公主と婚姻を結ぶこととなった。楊銛、楊錡と3人の姉の五家は権勢を振るい、楊一族の 依頼への官庁の応対は、詔に対するもののようであり、四方から来る珍物を贈る使者は、 門を並ぶほどであったと伝えられる。




楊 国忠(よう こくちゅう)
 ? - 756年7月15日、唐代玄宗朝の権臣。名は釗(しょう)。楊貴妃と曾祖父(別の説では祖父)が同じで又従兄に当たる。 なお、武則天時代に佞臣と言われた張易之の姉妹の子とも言われる。
楊国忠はばくちを得意とすることから、玄宗にまみえ、金吾兵曹参軍に任命された。経理、計算などを間違ったことはなく、 玄宗は「好度支郎(すぐれた出納官)」として監察御史に任命した。その後は宰相の李林甫、御史中丞・王鉷と結託して、 ともに楊慎矜を謀殺し、李林甫の手先として旧来の貴族や太子の李亨に関係するものを排撃した。 ?国夫人を使って玄宗の機嫌をよく探知し、調子をうまく合わせたために有能と判断され、度支員外郎に任命され、 15以上の使職(唐代の財政などを扱う役職)を兼ねた。だが、この頃から李林甫との対立が始まったという。
天宝7載(748年)には、給事中・御史中丞に任命され、天宝8載(749年)には、財政が豊かとなり、 官倉が穀物や絹であふれんばかりであったことを上奏し、玄宗に賞される。 余った穀物を貨幣に変え、長安に送る税を布や絹にするように提案していた。天宝9載(750年)、 李林甫の腹心であった吉温が付き、李林甫の専権を牽制し、玄宗より「国忠」の名を下賜された。
天宝10載(751年)、彼が推薦し、剣南節度使となっていた鮮于仲通が南詔に大敗し、8万のうち6万の兵を失った。 楊国忠は敗北を隠し、さらに討伐軍を起こした。鮮于仲通に上奏させ、楊国忠自身で剣南節度使を兼ねた。 南詔も吐蕃に臣従し対抗した。天宝11載(752年)、政敵となった王鉷を陳希烈とともに謀反の罪で自殺に追い込む。 御史大夫に昇進し、陳希烈、哥舒翰とともに、李林甫に対する弾劾を始める。 李林甫は、楊国忠を南詔討伐のために赴かせようとしたが、病死し、楊国忠は中書令・文部尚書となった。
唐の政権を握り、四十を超える使職を兼ね、自分につかない官僚は地方に出し、年功序列で出世させることで衆望を得て、 人事を全て自分で決めた。天宝12載(753年)には、死去した李林甫を謀反の罪で誣告し、 李林甫の親類や党を組んだものは流罪となった。その後、自らの権力集中に努め、天下の特に優れた才能を集めた。
この頃から安禄山との対立を強め、哥舒翰と手を組み、叛意ありとして排撃を強めはじめた。 天宝13載(754年は、安禄山は楊国忠の意に反して上京し、玄宗に釈明をし、玄宗は安禄山を宰相に任命しようとしたが 楊国忠の反対により沙汰止みとなった。さらに、吉温が安禄山につき、対立は深まり、安禄山は長安を脱出するように范楊へと 帰った。
剣南留後・李?が南詔に大敗し、瘴癘(しょうれい)の地あったことも加わって、全滅し、李?も捕らえられた。 楊国忠は敗北を隠し、さらに討伐軍を出し、死者は鮮于仲通の時と合わせて、20万人近くに及んだ。
天宝14載(755年)楊国忠は、吉温を合蒲に流すなど、敵対行動を止めなかった。安禄山は楊国忠に対して不満と敵意を抱き、 ついに、謀反の意志を固め、安史の乱が勃発し、安禄山は楊国忠の排除を名目に武装蜂起した。 楊国忠は得意げに、「安禄山の首は十日以内に届けられるでしょう」と語ったという。
しかし、洛陽が陥落し、討伐軍の指揮官である高仙芝と封常清は潼関まで退却したために処刑され、 哥舒翰が潼関の唐軍を指揮することとなった。
至徳元載(756年)、哥舒翰は、戸部尚書で安禄山のいとこでもある安思順と楊国忠の腹心・杜乾運を謀殺した。 また、謀反の責任は楊国忠にあるという世論の高まりもあり、両者は対立し、楊国忠は玄宗をたきつけ哥舒翰に出撃を強いた。 哥舒翰は安禄山の軍に大敗し捕らえられ、潼関は陥落した。
楊国忠は剣南節度使を兼ねていたため、蜀地方への出奔を提言。この時、「安禄山の謀反の兆しを陛下が信じなかったからであり、 宰相の責任ではない」と広言したと言われる。玄宗も同意し、太子・李亨、楊貴妃、楊一族、宦官の李輔国、高力士、 韋見素、魏方進、陳玄礼らを連れ、密かに西方へと出発した。
馬嵬(ばかい)駅(陝西省興平市)に着いたところで、将士の疲労と飢餓は極限に達して前進を拒否。 楊国忠への誅殺を決意した、龍武大将軍の陳玄礼は、李輔国を通して太子・李亨に決断をうながしたが、まだ、下らなかった。 しかし、陳玄礼は「今天下崩離,萬乘震盪,豈不為楊國忠割??庶、朝野怨尤,以至此耶? 若不誅之以謝天下,何以塞四海之怨憤!」 (今日、天下は崩れ落ち、天子の地位は揺らいでいる。楊国忠のために亡民は苦しみ、朝野に怨嗟が渦巻いているのではないか。もしこれを誅せずに天下に謝すれば、どのように四海の恨みと憤りを抑えられようか!)と述べた。たまたま、楊国忠が吐蕃の使者と会話していたため、兵士が「楊国忠が蛮人と謀反を起こそうとしているぞ!」と叫び、襲いかかり、西門内に逃げ入った楊国忠は、殺され、首は槍先に刺された。 御史大夫の魏方進は「なぜ、宰相を殺したのだ」と兵士をとがめたために殺され、楊国忠の子・楊暄、韓国夫人 (?国夫人・楊貴妃の姉)も殺された。さらに兵士らは玄宗に迫って、楊貴妃の処刑も要求し、高力士の説得により、 玄宗は泣く泣く楊貴妃を縊死させたという。楊国忠の残りの子も全て、前後して殺されている。




煬帝(ようだい・ようてい[)
隋朝の第2代皇帝(在位:604年8月21日 - 618年4月11日)。中国史を代表する暴君といわれる[2]。 煬帝は唐王朝による追謚であり、本名は楊広である。
後に煬帝と呼ばれることになる楊広は、文帝楊堅の次子として生まれる。文帝により隋が建国されると 晋王となり北方の守りに就き、南朝の陳の討伐が行われた際には、討伐軍の総帥として活躍した。 この時、初めて華やかな南朝の文化に触れ、当地の仏教界の高僧達と出会ったことが後の煬帝の 政治に大きな影響を与えたようである。591年には、天台智顗より菩薩戒と「總持」の法名(居士号) を授かり、智顗に対しては「智者」の号を下賜している。
煬帝の生母の独孤伽羅は一夫一妻意識が強い匈奴独孤部の末裔出身であったため、 「自分以外の女とは関係しない」と文帝に誓わせている。また文帝自身は質素倹約を是としていた。 ところが、煬帝の兄で皇太子の楊勇は派手好みで愛妾を求め、正妃を疎かにしたため、 特に皇后に嫌われた。この状況を煬帝が利用して自らの質素を宣伝すると共に、 腹心の楊素と張衡らによる文帝への讒言を行って楊勇を廃させ、皇太子の地位をいとめた。
604年に文帝の崩御に伴い即位したが、崩御直前の文帝が煬帝を廃嫡しようとして逆に暗殺された、 とする話が根強く流布した(『隋書』「后妃伝[注釈 3]」でも言及している)。
即位した煬帝はそれまでの倹約生活から豹変し奢侈を好む生活を送った。また廃止されていた残酷な 刑を復活させ、謀反を企てた楊玄感は九族に至るまで処刑されている。
洛陽を東都に定めた他、文帝が着手していた国都大興城(長安)の建設を推進し、また100万人の 民衆を動員し大運河を建設、華北と江南を連結させ、これを使い江南からの物資の輸送を行うことが 出来るようになった。対外的には煬帝は国外遠征を積極的に実施し、高昌に朝貢を求め、吐谷渾、 林邑、流求(現在の台湾、一説に沖縄)などに出兵し版図を拡大した。
さらに612年には煬帝は高句麗遠征を実施する。高句麗遠征は3度実施されたが失敗に終わり、 煬帝に離反して亡命した高句麗から送還された斛斯政を射殺に処して、その遺体を釜茹でにするなど、 これにより隋の権威は失墜した。また国庫に負担を与える遠征は民衆の反発を買い、 第2次遠征途中の楊玄感の反乱など各地で反乱が発生、隋国内は大いに乱れた。615年8月、 雁門において突厥に包囲された。煬帝は多大な賞賜を約束して援軍を募ったが、突厥が撤退すると 恩賞を払わず、多くの将士から恨みを買った。各地で李密、李淵ら群雄が割拠する中、 煬帝は難を避けて江都に逃れた。
煬帝は反乱の鎮圧に努める中で次第に現実から逃避して酒色にふける生活を送り、 皇帝としての統治能力は失われた[3]。ある日、煬帝は眠れなかったので天を仰ぐと、 帝星が勢いを失い傍らにあった大星が妖しげな光を放っているのを見て、不吉なものを感じて 天文官に聞いてみると、「近頃、賊星が帝星の座をおかしています。また日光は四散してあたかも 流血のごとき模様を描いております。このまま時が過ぎますと、恐らくは近々に不測の禍が 起こりましょうから、陛下には直ちに徳をおさめられてこの凶兆を払う事が肝要と存じます」 と述べた[3]。この日から煬帝は国事の奏上を受け付けなくなり、奏上する者は斬罪に処すという 命令を出した[4]。
618年、江都で煬帝は故郷への帰還を望む近衛兵を率いた宇文化及・宇文智及兄弟や 裴虔通らによって、末子の趙王楊杲(13歳)と共に50歳にして殺害された[5]。
煬帝は暴君として描写され、その業績は否定的に評価される傾向にある。
大運河に関しては女性までも動員した急工事でこれを開鑿し、開通のデモンストレーションとして 自ら龍船に乗って行幸したために、「自らの奢侈のために多数の人民を徴発した」などと後世に 評されることになる。しかし大運河の建設は、長期間分裂していた中国を統一するための大事業でも あった。
また、共に兄を殺した次子でありクーデターによって帝位に就くなど、環境や行動に類似点の 多い唐太宗の正統性を主張するため、煬帝(ようだい)という貶字を謚号に用い、『隋書』にも 暴君であるように編纂したとする意見もある[6]。
煬帝個人に関する研究は多いとは言えないが、その中で宮崎市定・布目潮?・アーサー・F・ライトが 挙げられ、いずれも煬帝の暴君像は後世に(その程度がどれほどであったかは別として) 誇張されたとする点では共通している。
2013年3月、中国江蘇省揚州市の工事現場で古代遺跡が発見された。2013年11月16日、 この遺跡が煬帝の墓であることが発表された[7]。
煬帝は統治者としては結果として国を滅ぼした失格者であったが、一面では隋代を代表する 文人・詩人でもあった。治世中各地に巡幸した際などしばしば詩作を行なったといわれる。 治世後半には自らの没落を予見したのか、寂寥感を湛える抒情詩を数多く残した 。煬帝の作品は文学史上からも高い評価を受けている。


吉川幸次郎(よしかわこうじろう)
1904年3月18日 - 1980年4月8日)は、日本の中国文学者、芸術院会員、文化功労者。
兵庫県神戸市の貿易商の次男に生まれる[1]。中宮小学校を経て諏訪山小学校を卒業した。1916年(大正6年)に神戸第一中学校 (現在の兵庫県立神戸高等学校)[2]入学後は、「史記」「水滸伝」「西遊記」「三国志」などの訳書に親しんだ。
1920年(大正9年)、第三高等学校文科甲類へ進み、雑誌『支那学』の同人だった青木正児の知遇を得、また現代中国語を学び、 1923年(同12年)、大学進学の休みに中国江南を旅した。中国へ傾いたのには、芥川龍之介や佐藤春夫の影響もあった。
大学は京都帝国大学文学部文学科、狩野直喜・鈴木虎雄に考証学・中国語学・古典中国文学を学んだ。 1926年(大正15年)卒業論文『倚声通論』を漢文で書き、大学院に進み唐詩を研究した。
1928年(昭和3年)から1931年(同6年)まで、先輩格の倉石武四郎と北京に留学し、帰国後東方文化学院京都研究所 (後の東方文化研究所、現在の京都大学人文科学研究所)所員となり、京大文学部の講師を兼ねた。 この頃『中国』に徹するため、倉石とともに、当時のシナ服で暮らし中国語で会話し中国語で論文を書いた。
孔子を尊敬し、儒者として処世した。字(あざな)として『善之』を生涯用いた。1932年(昭和7年)中村ノブと結婚し 左京区に終生在住した。愛煙家で酒徒でもあった。
1935年(昭和10年)から1941年まで倉石・小川環樹らと、孔穎達著『尚書正義』(尚書の注釈書) の定本を作るための会読を続け、1939年から1945年にかけて東方文化研究所から発行された『尚書正義定本』や、 1940年から1948年にかけて岩波書店より発行された『尚書正義』の日本語訳などに実った。1939年から1947年まで、 最初は青木正児が指導して『元曲辞典』編纂のため、明の臧懋循(そうぼじゅん)の『元曲選』を会読し、その成果の一部は、 1951年・1976年・1977年に京大人文科学研究所より発行された『元曲選釈』に実った。この頃から、日本語の論文を発表し、 一般向けの啓蒙書も出版していった。
1947年『元雑劇研究』により文学博士号を得、同年京都大学に移って文学部教授となった。先任に倉石武四郎がいた。
1949年母校旧制神戸一中の後身、兵庫県立神戸高等学校の校歌『わこうどは まなびやをたかきにぞおけ』を作詞。 初の日本語の詩であった[3]。
1951年日本学術会議会員になった(1963年まで)。NHKラジオの文化講座で、『中国の文学』を講義した。 1952年国語審議会委員に就いた(1956年まで)。
サンフランシスコ平和条約締結後の1954年国務省に招かれ、アメリカに遊んだ。
1956年-1958年は、京都大学文学部長。1958年NHK番組の教養大学で、『中国文学入門 - 詩を中心として』を講義。 1959年日本中国学会理事長(1963年まで)。1960年モスクワの『国際東洋学者会議』に参加し、ヨーロッパを回った。 1962年コロンビア大学の客員教授として約4ヶ月ニューヨークに滞在した。
1964年日本芸術院会員、1966年東方学会理事長(1975年からは没時まで会長)。1966年NHKラジオで『論語』を講義した[4]。
1967年『杜甫の詩論と詩』を最終講義として京大を停年退官、名誉教授。杜甫に取り組み、 杜詩を読む『読杜会』と学生相手の『小読杜会』とを始めた(ともに1979年まで)。前者には足利惇氏、 大山定一、野間光辰らが集った。
1968年から1970年に、『吉川幸次郎全集』を自ら編み刊行。1969年文化功労者、フランス学士院から スラニスラス・ジュリアン(Stanislas Julien)賞を贈られ、1970年NHK放送文化賞。1971年朝日賞。
この頃から江戸期の儒学者、伊藤仁斎、伊藤東涯、荻生徂徠、新井白石らの研究著述も進めていった。 特に本居宣長は、「漢文は中国の発音で読み下すべき」とする信条の先覚として、戦前から私淑していた。
1974年勲二等旭日重光章。1975年外務省の学術文化訪中使節団団長として40年ぶりに訪中。
1977年より杜甫全詩の訳注を目指し、『杜甫詩注』を刊行開始。翌年NHK教育テレビで『杜甫詩抄』を26回講義した。
1979年に、再度中国文学研究者訪華団団長として3週間中国を巡った。その4ヶ月余り後に、胃を一部切除の手術。 1980年2月に『杜甫私記』を刊行、4月8日、癌性腹膜炎により没す。法名「文徳院釈幸善」。 大谷本廟での葬儀・同墓地に埋葬された。没後従三位・勲一等瑞宝章が授与。コロンビア大学でも追悼会を催した。
弟子たちには、竹之内静雄[5]、黒川洋一、竹内実、清水茂、入谷仙介、高橋和巳、一海知義、筧久美子、筧文生 、興膳宏[6]、村上哲見、井波律子ら多数がいる。実子吉川忠夫は、中世中国史(魏晋南北朝・六朝期)学者で、 東方学会会長を務めた(第10代、2009年秋から2011年秋まで)。
蔵書の一部は、生まれ故郷の神戸市立中央図書館に寄贈され「吉川文庫」として所蔵されている[7]。










頼山陽(らいさんよう)
安永9年12月27日(1781年1月21日) - 天保3年9月23日(1832年10月16日))は、大坂生れの江戸時代後期の歴史家、思想家、漢詩人、文人。 幼名は久太郎ひさたろう、名は襄のぼる、字は子成。山陽、三十六峯外史と号した。主著に『日本外史』があり、これは幕末の尊皇攘夷運動に 影響を与え、日本史上のベストセラーとなった。1891年(明治24年)贈正四位[1]、1931年(昭和6年)贈従三位[2]。
父の頼春水は若くして詩文や書に秀で、大坂へ遊学し尾藤二洲や古賀精里らとともに朱子学の研究を進め、江戸堀北 (現大阪市西区江戸堀の金光教玉水教会付近)に私塾「青山社」を開いた。青山社の近隣には篠崎三島、篠崎小竹、後藤松陰、並河寒泉ら 多くの文人や学者が居住していた。山陽はこの頃の安永9年12月27日(グレゴリオ暦1781年1月21日)、同地で誕生。 母は飯岡義斎の長女で歌人の頼梅?、その妹は尾藤二洲に嫁いでいる。
天明元年(1781年)12月、父が広島藩の学問所創設にあたり儒学者に登用されたため転居し、城下の袋町(現広島市中区袋町)で育った。 父と同じく幼少時より詩文の才があり、また歴史に深い興味を示した。天明8年(1788年)、広島藩学問所(現修道中学校・修道高等学校) に入学[3]。その後春水が江戸在勤となったため学問所教官を務めていた叔父の頼杏坪に学び、寛政9年(1797年)には江戸に遊学し、 父の学友尾藤二洲に師事した。帰国後の寛政12年(1800年)9月、突如脱藩を企て上洛するも、追跡してきた杏坪によって京都で発見され、 広島へ連れ戻され廃嫡の上、自宅へ幽閉される。これがかえって山陽を学問に専念させることとなり、3年間は著述に明け暮れた。 なお『日本外史』の初稿が完成したのもこの時といわれる。謹慎を解かれたのち、文化2年(1809年)に広島藩学問所の助教に就任[4][5]。 文化6年(1809年)に父の友人であった儒学者の菅茶山より招聘を受け廉塾の都講(塾頭)に就任した。
ところが、その境遇にも満足できず学者としての名声を天下に轟かせたいとの思いから、文化8年(1811年)に京都へ出奔し、 洛中に居を構え開塾する。文化13年(1816年)、父が死去するとその遺稿をまとめ『春水遺稿』として上梓。翌々年(1818年)には 九州旅行へ出向き、広瀬淡窓らの知遇を得ている。文政5年(1822年)上京区三本木に東山を眺望できる屋敷を構え「水西荘」と名付けた。 この居宅にて営々と著述を続け、文政9年(1826年)には代表作となる『日本外史』が完成し、文政10年(1827年)には江戸幕府老中松平定信に 献上された。文政11年(1828年)には文房を造営し以前の屋敷の名前をとって「山紫水明処」とした。
山陽の結成した「笑社」(後の真社)[6] には、京坂の文人が集まり、一種のサロンを形成した。その主要メンバーは、父とも関係があった 木村蒹葭堂と交友した人々の子であることが多く、大阪の儒者篠崎三島の養子小竹、京都の蘭医小石元俊の子の元瑞、大阪の南画家岡田米山人の 子半江、京都の浦上玉堂の子春琴、岡山の武元登々庵が挙げられる。さらに僧雲華、仙台出身で長崎帰りの文人画家菅井梅関、 尾張出身の南画家中林竹洞、やや年長の先輩格として陶工の青木木米、幕末の三筆として名高い貫名菘翁、そして遠く九州から 文人画家田能村竹田も加わり、彼らは盛んに詩文書画を制作した。
また、その後も文筆業にたずさわり『日本政記』『通議』などの完成を急いだが、天保年間に入った51歳ごろから健康を害し喀血を見るなどした。 容態が悪化する中でも著作に専念したが、天保3年(1832年)に死去。享年53。山田風太郎著『人間臨終図巻』によれば山陽は最後まで 仕事場を離れず、手から筆を離したのは実に息を引き取る数分前であり死顔には眼鏡がかかったままであったという[7]。 また、遺稿とされる「南北朝正閏論」(『日本政記』所収)の自序にはこれを書く決意をしたのは9月12日の夜であったことを記している。 京都円山公園・長楽寺に葬られた。
最初の妻との子である長男が頼聿庵、京都で生まれた2人の子である次男が頼支峰と三男が頼三樹三郎。子孫の1人に中国文学者の頼惟勤がいる。

司馬遷の『史記』は「十二本紀・十表・八書・三十世家・七十列伝」の全百三十巻から成るが、頼山陽はこれを模倣して 「三紀・五書・九議・十三世家・二十三策」の著述構想を立てている。『史記』にあっては真骨頂というべき「列伝」に該当するものがないが 前記の十三世家にあたる『日本外史』(全二十二巻)が列伝体で叙せられ『史記』の「列伝」を兼ねたものと見ることもできる。
『日本外史』は武家の時代史であるが、簡明な叙述であり、情熱的な文章であった為に広く愛読されたが、参考史料として軍記物語なども 用いているため、歴史的事実に忠実であるとは言いがたい記事も散見する。言い換えれば、史伝小説の源流の一つとも言い得る。 ただし簡明であるがゆえに巷間で広く読まれ、幕末、明治維新から、昭和戦前期まで、広く影響を与えた。
詩吟、剣舞でも馴染み深い「鞭声粛粛夜河を過る」で始まる川中島の戦いを描いた漢詩『題不識庵撃機山図』の作者としても有名で、 死後刊行された『山陽詩鈔』(全8巻)に収められている。古代から織豊時代までの歴史事件を歌謡風に詠じた『日本楽府』(全1巻)がある。 同書の第一は下記引用の詩に始まるが、易姓革命による秦(贏氏、西楚の覇王に滅ぼされる)、漢(劉氏、新の摂皇帝に滅ぼされる) に代表される中華王朝の傾きに対比して、本朝の「皇統の一貫」に基づく国体の精華を強調している。







李廷年(りえんねん)
(?―前37) 前漢の武帝の寵巨、音楽家。中山国(河北省定県)の人。武帝の寵姫李夫人の兄。 歌を歌う芸人で、法に触れて官刑に処せられた。のち妹が武帝の寵愛を得るにともなって重んじられ、 弟(李広利)とともに官中で勢力を得たが、李夫人の死後、武帝により、兄弟とも殺された。 多くの新曲を創り、『漢の郊祀歌』を作出している。
【挽歌】より
起源については諸説があるが,現存最古の作品は,ふつう漢初斉の田横が漢の高祖に仕えるのを 恥じて自殺したとき(前202),門人たちが悲しんで作った葬送歌だという。 もと1首だったのを,漢の武帝のとき音楽庁長官李延年が薤露(かいろ)と蒿里(こうり)の 2曲に分け,前者を王侯貴人の,後者を士大夫庶民の挽歌としたといわれる(晋の崔豹《古今注》)。 〈薤(おおにら)の上の露,何ぞ晞(かわ)き易(やす)き,露は晞くも明朝更に復(ま)た落つ, 人死して一たび去らば何れの時か帰らん〉(〈薤露〉)とうたうように, 2曲はいずれも人の命のはかなさを恨む


李 亀年(り きねん)
唐代玄宗朝の音楽家。玄宗の朝廷において宮廷音楽の代表的な楽人となった。安史の乱において、地方に流浪した。他の同時代の楽人とともに、 「隋唐演義」や「長生殿」などのこの時代を舞台にした文芸作品に度々、登場している。
開元年間、長安において、弟の李彭年、李鶴年とともに音楽の才学によって盛名があった。音律に通暁し、馬仙期、賀懐智と並び称され、 歌界に第一の名声があった。「渭川」という曲を作曲したことにより、玄宗から特別の恩寵を受けた。洛陽に大きな邸宅を持ち、 その奢侈なること王公大臣さえも超え、邸宅の規模は、長安の貴顕にも匹敵していた。洛陽からはるばる長安まで通って、宮中に勤務したと伝わる。 彼がいた梨園の楽曲はあたかも仙境のもののようであったと伝えられる。この頃、岐王・李範や殿中監・崔滌(崔九)の邸宅に赴き、 若い頃の杜甫に会っている。
玄宗が「紫雲廻」と「凌波曲」を作曲した時に演奏会を、玄宗、楊貴妃、寧王・李憲、馬仙期、張野狐、賀懐智とともに行い、この時、 李亀年は篳篥を担当している。
当時、宮廷となっていた興慶宮の沈香亭に牡丹が移植され、花を咲かせた時に、玄宗と楊貴妃の前で、李白の「清平調」を歌詞にした歌を披露している。 この時、玄宗が玉笛で曲にあわせ、楊貴妃は葡萄酒を飲みながら、聞き入り、その歌は当代比類無いものであったと伝えられる。
天宝年間に梨園が設置された時、都における著名な楽士であったため、馬仙期、賀懐智とともに、梨園で職を任せられている。また、 李亀年は羯鼓の達人であり、玄宗に鼓を打つ杖(桴)を何本折ったと問われた時、「50本は折りました」と答えている。玄宗はこの時、 「まだまだ、修行が足りない。自分は3箱分、すでに折っている」と語ったと伝えられる。
安史の乱の後、長安から江南地方に流落し、人から乞われて歌を歌うことで生計を立てていた。この歌を聴いて、酒を飲むのを止め、 面を覆って泣かないものはいなかったと伝えられる。潭州で、杜甫と再会し、杜甫は「江南逢李亀年」という詩を作成している。


陸游(りくゆう)
(1125年11月13日(宣和7年10月17日) - 1210年1月26日(嘉定2年12月29日))は、南宋の政治家・ 詩人。字は務観。号は放翁。通常は「陸放翁」の名で呼ばれる。越州山陰(現在の浙江省紹興市)出身。 南宋の代表的詩人で、范成大・尤袤・楊万里とともに南宋四大家のひとり。とくに范成大とは 「范陸」と並称された。現存する詩は約9200首を数える。その詩風には、愛国的な詩と閑適の日々を 詠じた詩の二つの側面がある。強硬な対金主戦論者であり、それを直言するので官界では不遇で あったが、そのことが独特の詩風を生んだ。
祖父は陸佃。父の陸宰が家族と共に転勤のため淮河を移動している途中、舟の中で生まれた。 その後、父が京西路転運副使に赴任するが、翌年金の侵攻をうける直前に免官されたおかげで難を逃れ、 故郷に無事たどり着いた。このような境遇の中、父がその友人達とともに論じた主戦論を聞いて育ち、 強い愛国心と対金強硬論をもつに至った。
20歳になり、母方の従姉妹である唐婉と結婚し、仲睦まじく暮らしたが、陸游の母は2人が結婚してから 不幸が続くことから占い師に相談した。占い師は、陸游と唐婉がこのままいたら不幸が続くとして、 離婚を勧めた。母も、唐婉が子供を生まないこともあって占い師の意見に従い、2人を離婚させた。 のちにそれぞれ互いに他の相手と再婚し、沈園という庭園を散歩中に偶然再会する。 そこで交わした詞「釵頭鳳」は有名である。陸游の唐婉への思いは、 後年折に触れ彼女のことを追憶する詩を作るほど深いものがあった。
29歳のとき、科挙の第1段階の解試(両浙路漕試)に首席で合格したが、 これが運悪く権力者秦檜の孫である秦?を差し置いたことになり、中央試験である省試において 横やりで不合格にされるという妨害を受けた。これにより科挙に及第するための資格を奪われ、 エリートとしての出世の道を閉ざされた。しかし陸游は秦?には遺恨はなく、 後年陸游が四川に赴任する道中、建康に隠棲していた秦?の邸宅を訪れている。 秦?も滞在中の陸游一行を厚くもてなしたらしく、陸游の家族に病人が出たとき、 医師を呼んだり薬を届けたりしている。
1158年に秦檜が亡くなると、34歳のとき福州寧徳県(福建省寧徳市)の主簿として、初めて出仕する。 2年後、中央に呼ばれて文書を扱う役職(勅令所刪定官)に就き、孝宗が即位すると直々に進士の 資格を賜った。金領内の民衆に決起を促す機密文書などの起草を担当したが、 張浚の北伐が失敗して講和派が力を盛り返すと、普段の積極的な発言が仇となって地方に 転出させられた。隆興府(江西省)の通判(準知事)となった後、張浚の強硬論を支持していたために 免官となり、故郷の近くく三山に居を構え、4年近く田舎で暮らすことになった。
1170年、?州(重慶市)の通判に任命されたので、任地に赴くため5ヶ月かけて長江を遡った。 そのときの紀行文が『入蜀記』である。虞允文が宰相になり、政府中央で主戦論が高まると、 四川宣撫使となった王炎に招かれて配下(四川宣撫使司)となる。 陸游は張りきって偵察などの任務を精力的に行うが、中央でまた講和論が強まったため王炎は 中央に呼び戻され、陸游は蜀地方各地の知事代理を転々とすることになった。 四川制置使の范成大の部下となり、身分の差を越えて親しく詩を交わすなど交流したが、 そのことを含め、普段の態度が周囲から放埒にすぎると非難され辞職する。 このとき号を放翁とし、成都の地で寓居した。
1178年、陸游は孝宗に召還されるが、中央で重用されることはなく、 結局地方勤務の提挙常平茶塩公事(専売品である茶・塩の監督官)に任命されて建寧に赴任する。 翌年、撫州(江西省)に同じ職で転任すると、大規模な洪水が起こった。 陸游は自分の一存によって官有米を使い、住民の救済に充てたが、その責任を追及されて免職となり、 郷里に帰った。それ以後は2回の任官期間を除いて、20年近くを本格的に隠棲して生活することになった。 現存している陸游の詩は、この期間のものがほとんどを占める。
1186年、厳州(浙江省)の知事として赴任した。この期間中に『剣南詩稿』20巻を刊行した。 任期を終えると中央での職に任じられた。孝宗としてはゆくゆくは陸游を重要なポストに 就けるつもりであったらしいが、孝宗が光宗に譲位すると、 やはり平生からの主戦論の直言などが災いして、「風月を嘲詠した」というよくわからない 理由で罷免された。このとき書屋を「風月軒」と名付けた。 のち、寧宗の代に韓?冑の推薦によって出仕し、実録院同修撰同修国史となり、 「孝宗実録」「光宗実録」を編纂した。韓?冑の人気取り的な主戦論に利用されたとはいえ、 推挙されていたことは批判の元となった。
故郷では、晴耕雨読の日々を送った。酒屋で大勢と酒を酌み交わしたり、 豊富な知識を生かして薬を作って与えるなど、近隣の庶民と分け隔て無くつきあい、慕われていた。 念願の中原回復はかなわぬながらも、素朴で安逸な生活を送り、86歳で世を去った。
息子は7人いた。 陸游は詩作について、江西詩派に属する曾幾に師事していたので、若い頃の詩風は典故を多用し、 修辞を凝らしたものであった。蜀地方での赴任時代には、自然の中で暮らすようになり、 また一向に進展しない対金国情勢もあって、単なる修辞主義を離れた気宇壮大かつ憂憤の 情を込めた饒舌な詩風となった。そして本格的に故郷で生活するようになると、 愛国・憂国の志を詠じることを忘れることはなかったが、繊細な感覚によって生活の中の機微を 題材にした詩を作り、多くの詩を残した。


李賢(り けん)
調露元年(679年) - 開元29年(741年))は、唐の第5代皇帝睿宗の長男で最初の皇太子。 母は皇后劉氏、異母の庶弟に李隆基(玄宗)がいる。死後に譲皇帝という謚号が贈られて 皇帝に准じた格式での葬礼を受けた。 初めは李成器(り せいき)と名乗って永平郡王に封じられていたが、 文明元年(684年)に父が即位(1回目)すると、皇太子に立てられた。ところが載初元年(690年)に 睿宗の実母である武則天が自ら帝位を簒奪すると、睿宗は皇嗣(皇太子)に、 成器ら兄弟は皇孫に格下げとなり、長寿2年(693年)に寿春郡王とされた。
神龍元年(705年)に伯父に当たる中宗が政変を起こして復位に成功すると、 蔡王に封じられるがこの際は辞退している。唐隆元年(710年)に改めて宋王に封じられる。 ところがこの年に中宗が変死してその皇后である韋后が帝位を簒奪しようとしたために、 成器の弟である隆基がクーデターを起こして韋后・安楽公主らを殺害し、 事後父である睿宗に報告して復位させた。当然、元の皇太子であった成器が皇太子になるものと 思われ睿宗もその心つもりであったが、成器は自らが父の復位に何の功績も挙げていないことを 理由に皇太子の地位を隆基に譲った。
そこで太子太師・領雍州牧・揚州大都督、次いで左僕射・司徒に任命され、 翌年には太子賓客としての待遇が与えられて、弟である隆基に臣下の礼を取ることのないように 配慮された。唐隆4年(開元元年(713年))隆基が第6代皇帝・玄宗として即位すると、 司空・太尉となり開府儀同三司として遇せられた。開元4年(717年)に成器は継母皇后の尊称 「昭成」を避けて憲と改名する。以後、寧王となり2州の刺史を務めた。開元9年に太常卿、 21年に再度太尉となる。
李憲は音楽に詳しく笛の達人であった。また、いつも慎ましやかな態度を取って自らは政務に 関わることを避けていた。このため、彼と玄宗の間を裂こうとする讒言がなされることがあっても 玄宗は全く信じようとはせず、李憲が臣下の礼を取ろうとするとこれを止めさせて、 弟としての立場を終始崩すことが無かったという。
開元29年(741年)11月、李憲が63歳で病死すると、玄宗は深く悲しみ、諸臣の反対にもかかわらず、 李憲に譲皇帝という謚を贈って皇帝の衣装を着せ、皇帝に准じた葬儀を行わせた。 また、先に亡くなっていた妃の元氏にも恭皇后という謚を贈った。 墓は「恵陵」と称されて皇帝に准じた扱いを受け、現在も陝西省蒲城の北西に残っている。 養子の寿王李瑁(玄宗の子)は喪に服した。
李憲の長男は、杜甫の『飲中八仙歌』に名を挙げられた、おなじく音芸諸般に通じた汝陽郡王李? (小字花奴)である。



李商隠(り しょういん)
(812年(元和7年) - 858年(大中12年)。ただし、生年は813年の説あり)は、晩唐の官僚政治家で、 時代を代表する漢詩人。字は義山、号は玉谿生。また獺祭魚と呼ばれる。原籍は懐州河内 (現・河南省沁陽市)だが、?陽(現・河南省?陽市)で生まれた[1]。官僚としては不遇だったが、 その妖艶で唯美的な詩風は高く評価されて多くの追随者を生み、北宋初期に一大流行を見る 西崑体の祖となった。似たような婉約な詩風を特徴とする同時代の温庭?と共に温李と呼ばれ、 また杜牧と共に小李杜とも称される。
李嗣の長男として生まれる。その祖は唐の宗室につながるというが、このころは没落し、 父の李嗣は県令や監察史、節度使・州刺史の幕僚を務める地方官僚だった。その父は李商隠が10歳の ころ病没している。他に2人の弟と6人の姉妹がいた。
当時、唐宮廷の官僚は、牛僧孺・李宗閔らを領袖とする科挙及第者の派閥と、李徳裕に率いられる 門閥貴族出身者の派閥に分かれ、政争に明け暮れていた。いわゆる牛李の党争である。 若き李商隠は、牛僧孺派の重鎮であった興元尹・山南西道節度使 令狐楚の庇護を受け、837年、 26歳にして進士科に及第する。しかしながら同年に令狐楚が没し、翌年には上級試験にも落第すると、 今度は李徳裕の派に属する太原公王茂元の招きに応じてその庇護下に入り、娘を娶った。翌839年、 王茂元の働きかけにより文人官僚のスタートとして最も理想的といわれる秘書省の校書郎に 任官されるも、牛僧孺派からは忘恩の徒として激しい謗りを受けることになった。以後も李商隠は、 処世のために牛李両党間を渡り歩いたので変節奸と見なされ、厳しい批判を受けて官僚としては 一生不遇で終わることとなる。
任官同年、早くも中央にいたたまれず、弘農県(河南省霊宝県南)の尉となって地方に出る。 以後の経歴は、忠武軍節度使となった王茂元の掌書記、秘書省の正字、桂管防禦観察掌書記、 観察判官検校水部員外郎、京兆尹留後参軍事奏署掾曹、武寧軍節度判官(もしくは掌書記)、 太学博士、東川節度書記、検校工部郎中、塩鉄推官など、ほとんどが地方官の連続であり、 中央にあるときも実職はなかった。端的に言えば干されたのである。また、さらにそれすらまっと うできずにたびたび辞職したり、免職の憂き目に遭っている。なおこの間、842年に母を亡くし、 851年には妻王氏も喪っている。
そして858年、またも失職して郷里へ帰る途中、または帰り着いてまもなく病没した。享年47。 李商隠の詩の面目は艶情詩にある。その定型詩、特に『無題』とされる幾つかの、あるいは単に 詩句から借りただけの題を付けられた律詩は、晩唐詩の傾向である唯美主義をいっそう追求し、 暗示的・象徴的な手法を駆使して、朦朧とした幻想的かつ官能的な独特の世界を構築している。 そのテーマは破局に終わった道ならぬ恋愛の回想であり、甘美な夢のごとき青春の記憶の叙述である。 当然、内容ははなはだ哀愁を帯びるが、典雅な詩句や対句、典故で飾られ、耽美の域に達している。 美しく悲しいごく私的な記憶や感慨を詩によって昇華させる、それが李商隠の詩風であった。
古来、詩は気高き志を詠うものであった。李商隠が師と仰いだ杜甫にもその傾向は顕著である。 しかし晩唐という時代はそれを許さない。宮廷内にあっては牛李の党争による政変が相次いで、 朝に宰相にあったものが夕に免職されて辺境に流されるがごとく。しかし実権は皇帝の廃立まで意の ままにした宦官たちに握られる始末。宮廷外は軍・政両権を握る節度使が国土を分断してさながら 戦国時代の状態であり、大唐帝国は実質的に一地方政権に堕していた。もはや志を詠ってもどうする ことも出来ない。まして自身の行状ゆえに迫害を受ける身であっては。閉塞した時代にあって 周囲の白眼視を受けながら、伝統的な詩のあり方に背を向け、ひたすら個人的な美の完成を追求した 李商隠の姿勢は、ある意味硬骨であり、芸術家としての骨の太さをうかがわせるものである。
ほかに『隋宮』『馬嵬』など、歴史を題材とした詠史詩や、詠事詩にも定評がある。また、 長安東南の高台で詠った五言絶句『楽遊原』は、李商隠の代表作に数えられる。
もう一つ李商隠の詩の技巧的な特徴として、僻典の多用が挙げられる。限られた字数で表現する 漢詩は、誰もが知っているエピソードなどに登場する印象的な言葉を使うことで、 もとのエピソードの内容を鑑賞者に連想させ、詩の内容を膨らませるという技巧を往々にして 使用するが、これを典故という。ゆえに典故は、知識人階級なら誰でも知っているエピソードに 由来するものでなくてはならない。たとえば経書・荘子・史記・漢書・三国志などである。が、 李商隠はそれらのみならず、稗史や小説など、むしろ知識人階級が手を触れるべきでないとされた 雑書の類からも典故を引いた。このことが詩に深みを与えると同時に、その難解さの一因にもなって いる。ちなみに李商隠のあだ名、獺祭魚は、李商隠が詩作するさいに参考にするため、数々の書物を 机の上に並べて置いたのが、川獺(カワウソ)が捕らえた魚を並べるという習性(獺祭魚)に似ている ことから付けられたものであるという。
李商隠の詩は、その官僚としての待遇にかかわらず、生前からすでに高い評価を得ていた。最晩年の 白居易はその詩を酷愛し、「もし死んでも君の子に生まれ変わることが出来れば満足だ」と言ったと いう[2]が、真偽のほどはわからない。同じ晩唐の詩人 温庭?や、唐滅亡期の韓?がその影響を色濃く 受けていたことは間違いない。五代に入っても、たとえば蜀の韋?によるアンソロジー『才調集』 などを見れば、その収録数の多さから李商隠の文学が愛され続けたことがわかる。
しかし、李商隠の詩風が大きな流行を見るのは北宋初期、3代皇帝真宗の時期以降である。 楊億・銭惟演・劉?ら朝廷の文官が中心となり、唱和しあった詩を集めて編んだ『西崑酬唱集』が、 いわゆる西崑体流行の端緒となる。この西崑体こそが李商隠に範を求めたもので、彫琢を凝らした 修辞と暗示的・象徴的な手法を特徴とする、外見上はいかにも李商隠風なものであった。 しかしそれは単に李商隠の稚拙な模倣に過ぎず、北宋中期に入ると欧陽脩や梅尭臣らの鋭い批判を 受けて排斥されることになる。むしろその直後、王安石によって李商隠の正当な評価が下される。 すなわちその詩には、李商隠が師事した杜甫と同レベルの深い人間洞察が含まれ、華麗な表現の 裏にその誠実な人格が窺えることが指摘されたのである。以後の李商隠評は王安石の説に従い、 こんにちに至っている。
中国文学者で作家高橋和巳は、『李商隠』(初版「中国詩人選集15」 岩波書店、のち河出文庫)と、 未完の評伝『詩人の運命』(高橋和巳作品集 別巻、河出書房新社)を遺している。40歳に満たない 生涯で終生、研究探求し続けた唐代詩人であった。のち『全集 第16巻 中国文学編2』 (河出書房新社、1980年)に収録されている。
新しい訳注は、川合康三訳『李商隠詩選』(岩波文庫、2008年)、研究に詹滿江『李商隠研究』 (汲古書院、2005年)、加固理一郎『李商隠詩文論』(研文出版、2011年)がある。
余談だが古典から離れて人間性を強く詠った、明治の俳人歌人正岡子規が獺祭書屋主人と号した。



李 璡(りしん)
李璡は讓皇帝李憲の長子。汝陽郡の王に封ぜられる。太僕卿に至り釀王と号した。 弓と鞨鼓に優れて叔父の玄宗はなはだしくこれを愛したと伝える。性謹直であったが無類の酒好きで、 毎朝出仕の前に三斗の酒をあおり、途上、麹車に出会えば涎を流し、いっそ酒泉の王に封ぜられたかったと言ったと歌う。



李世民



太宗。


李適之(りせきし)
李適之。一名昌。恆山王、承乾の孫。開元中。累官、通州刺史たり。擢んでて秦州都督たり。轉じて陜州刺史。入りて河南尹と爲る。御史大夫を拝す。
刑部尚書を歴る。天寶元年。牛先客に代り、左相と爲る。李林甫、之れと搆う。政事を知るを罷め。守太子少保たり。尋いで宜春太守に貶せらる。詩二首あり。
左丞相の地位にあった。毎日、一万銭を費やし、大鯨が百の川の水を吸い込むがごとき飲みっぷりであって、 清酒は飲むが濁酒は飲まない言うと歌う。


李 徳裕(りとくゆう)
(787年 - 849年)は、中国・唐代の政治家である。趙郡(河北省寧晋県)を本貫とする、当代屈指の名門・李氏の出身。 字は文饒。憲宗朝の宰相であった李吉甫の子である。
徳裕は、幼くして学を修めたが、科挙に応ずることを良しとせず、恩蔭によって校書郎となった。
820年、穆宗が即位すると、翰林学士となった。次いで、822年には、中書舎人となった。その頃より、 牛僧孺や李宗閔らと対立し始め、「牛李の党争」として知られる唐代でも最も激烈な朋党の禍を惹起した。 また、後世の仏教徒からは、道士の趙帰真と共に「会昌の廃仏」を惹起した張本人である、として非難されている。
敬宗の代に浙西観察使となって、任地に善政を敷き、帝を諌める等の功績があった。829年、文宗代では、兵部侍郎となった。 時の宰相、裴度は、徳裕を宰相の列に加えるよう推薦した。しかし、李宗閔が、宦官と結託して先に宰相の位に就いた。 逆に、徳裕は、鄭滑節度使として地方に出された。839年には日本からの留学僧円仁から天台山留学への便宜を要請されているが、 節度使の自立が進んだ現状では勅許は出ないだろうとする見通しを示している[1]。実際、勅許は下りず円仁は「不法滞在」 の形で天台山を目指すことになる[2]。
840年、武宗が即位すると、徳裕が宰相となり、地方の藩鎮の禍を除いた。その功績により、太尉衛国公となった。 しかし、宣宗が即位すると、再び、潮州司馬、さらに崖州司戸参軍に左遷され、そこで没した。


李 白(りはく)
(701年(長安元年) - 762年10月22日(宝応元年9月30日))は、中国の盛唐の時代の詩人である。字は太白(たいはく)。 号は青蓮居士[1]。唐代のみならず中国詩歌史上において、同時代の杜甫とともに最高の存在とされる。 奔放で変幻自在な詩風から、後世『詩仙』と称される。


李 範(りはん)
(686年-726年5月25日),唐朝皇子,本名李隆範,唐睿宗第四子,唐玄宗李隆基之弟。
唐朝皇子,本名李隆范,唐睿宗第四子。其父第一次当皇帝?,封?王,改封?王,唐睿宗?位?母?武?天, ?寿二年(693年),改封?巴陵郡王。?安初年,官居尚食奉御。神?元年(705年) ,唐中宗?位,?太府?外少卿,加??封二百?,通前五百?。景?二年(708年),兼?州??。?青光禄大夫。 710年,唐睿宗?位,?封岐王,加?封五百?,拜太常卿,兼左羽林大将?。唐玄宗???至忠、???等, 李范因功,加?封?五千?。?元初年,任太子少?、?本官,??、?、岐三州刺史。八年(720年), ?太子太傅。李?与?朝?、?庭琦、??、??等人??唱和,?元十四年(726年)四月十九日(5月25日), 李范薨逝,册?惠文太子,陪葬?陵。有一子李瑾暴卒。以薛王李?之子李珍嗣岐王。


劉 安(りゅう あん)
(紀元前179年 - 紀元前122年)は、中国前漢時代の皇族(淮南王)、学者である。 『淮南子』の主著者。後世、劉安に関する多くの伝説が生まれた。
漢の高祖(劉邦)の七男・淮南厲王劉長の子。劉不害(劉建の父)、劉遷の父。
紀元前174年、父・劉長は柴奇の謀反に加わったとして流罪となりその地で絶食死したが、 劉長の4人の子は伯父文帝によってすべて列侯に封ぜられた。劉安も紀元前172年に阜陵侯となり、 ついで紀元前164年には淮南王に転じた。
景帝の即位後、紀元前154年に呉楚七国の乱が発生するとこれに同調しようとしたが、 景帝が派遣した丞相の張釈之に「私が王の軍勢を率いて、指揮を執りとうございます」と述べて、 自身が淮南王の軍勢を指揮して反乱軍に加担しないように手配をしたため、 劉安は呉楚七国の乱に巻き込まれずに未遂に終わった。
しかし、劉安は以後も数千の兵を雇い、武備をかため、しばしば反乱を企図する。 劉安は景帝を継いだ武帝の匈奴討伐に反対で、武帝の徴兵策に消極的にしか応じていなかった[1]。 これが武帝の政策に逆らうものとして2県の所領を削減されたことで、 劉安は臣下の伍被らと計らい反乱の計画を練ったが、伍被の密告により露顕し、劉安は自害し、 一族はことごとく処刑された。
劉安の著書『淮南子』の「泰族訓」には「桀紂を王とはしない。湯武を放伐したとはしない」 という記述がある[2]。これは殷周革命を肯定する孟子の説と同様である。 続く文章でも君主の無道を武力で諫めることの正統性を主張していた[3]。
劉安は学問を愛し、書や琴を好んだ。多くの食客を抱え、方術の士を招いたという。 彼らとともに道家・儒家・法家・陰陽家のなどの諸説・思想を収集して編纂し、内書21篇、 中書8篇、外書23篇を著して「鴻烈」と命名した。そのうちの内書が今日『淮南子』として知られる。
伝説一人得道、鶏犬昇天
劉安は、中国のことわざ「一人が道を得れば、鶏や犬も天に昇る」の出典としても知られる。 王充の『論衡』道虚篇によると、劉安は神仙の術を求め、霊薬を自ら調合し、それを服用すると、 身体が空に浮き上がった。それどころか、家で飼っていた鶏や犬までもが天に昇ったという (自害した劉安は鶏と犬を伴って仙人となって昇天したと伝えられていた)。 なお、合理主義者の王充はもちろんこれを虚言として否定している。
現在では「一族のうち一人でも出世すれば、能力もない親戚や側近まで地位が上がる」 という意味で用いられる。
八公仙
劉安は仙人を招いて宴を催すのを好んでいた。ある日八人の老人が現れて劉安に会いたいと言ったが、 劉安はその見た目から「不老長寿の術すら身につけていないようだ」と判断し断ってしまう。 すると八人の老人は瞬く間に14~15歳の黒髪に桃色の頬をした子供に姿を変えて見せたため、 劉安はあわてて8人を招き入れ、料理と自ら琴を手に取り歌いもてなしたと捜神記にある。
現在劉安の墓とされている六安遺跡は八公山麓にある。
豆腐
劉安はしばしば豆腐の発明者とされるが、豆腐が宋以前に存在した形跡はなく、単なる伝説にすぎない。
朱子の豆腐詩に淮南王が豆腐を作ったことをうたっており、すでに宋代にこの伝説が存在したことが わかる[4]。明の李時珍『本草綱目』でも豆腐を劉安の発明としている[5]。


劉禹錫(りゅううしゃく)
(772年 - 842年)は中国の唐代(中唐)期の詩人、政治家。字は夢得(ぼうとく)。 自身は中山(河北省定州市)出身と称したが、彭城(江蘇省徐州市)出身とも伝えられる。詩豪と呼ばれた。
代々儒学者として名があった家に生まれた。793年(貞元9年)進士に及第した。淮南節度使であった杜佑の配下で書記を務めた。 その後、中央政界で同じ年に進士となった柳宗元とともに王叔文の党派に連なり、 徳宗末期の貞元年間から順宗期を経て政治改革を推進した(永貞の革新)。 なかでも劉禹錫は財政面を担当し、王叔文・王?・柳宗元らとともに「二王劉柳」と並称されるほど重要な役割を果たした。 急激な改革だったため彼らは武元衡のような政敵を多くつくってしまう。 宦官の圧力のために在位8ヶ月にして順宗が退位させられ憲宗が即位すると武元衡ら守旧派が力を盛り返し、 王叔文は失脚、劉禹錫も連州(広東省連州市)刺史に左遷を命じられ、その途次で朗州(湖南省常徳市)司馬に降格となった。 このとき他の主立った同志も同じように各地の司馬に左遷された(八司馬事件)。 朗州での約9年間、劉禹錫は文学に没頭するようになり、古来楚であった当地の風俗に取材した詩をつくったり、 民衆のために祭祀用の歌詞をつくった。
815年(元和10年)、ようやく都長安に召還されたが、玄都観(道教の施設)で詠んだ詩が政府の主流派を揶揄する内容 だったためその怒りにふれ、連州刺史に逆戻りとなった。 それから数ヶ所の刺史を経たあと、828年(大和2年)に長安に戻り主客郎中を拝命した。 そこで劉禹錫はまたも玄都観で、前回の続編となる詩を詠んだ。 このときは宰相裴度のおかげでどうにか左遷を免れていたが、その裴度が引退すると洛陽にやられた後、 832年(大和6年)蘇州刺史にされた。このように劉禹錫は、狭量な性格ゆえにその地位が安定しなかった。 その後も太子賓客となったり刺史となったりを繰り返した。
晩年は白居易と親交が深まり、元稹亡き後も詩を唱和し、その神妙さを讃えられた。 最終的には検校礼部尚書・太子賓客で生涯を終えた。

劉 希夷(りゅう きい)
(651年(永徽2年) - 679年(調露元年))は中国唐代の詩人。字は庭芝、廷芝。一説に名が庭芝で 字が希夷ともいわれる。
汝州(河南省汝州市)の出身。幼くして父を失い、母と共に外祖父のもとに身を寄せ20歳頃まで 過ごした。容姿はすぐれており、物事にこだわらない性格なので素行が悪かった。 酒と音楽を好み、琵琶の名手であった。675年(上元2年)進士となるが仕官せずに各地を遊覧した。
“年年歳歳花相似 歳歳年年人不同”で有名な詩「代悲白頭翁」が代表作。この詩を発表前に聞いた 母方の親戚である宋之問は、非常に気にいって詩を譲るよう頼んだが、劉希夷はこれを断った。 怒った宋之問は下僕に彼を殺させたという説がある。詩集4巻がある。

劉仁軌(りゅうじんき)
(602年 - 685年3月2日)は、中国唐代の武将である。字は正則。楽城文献公。?州尉氏出身。
隋の仁寿2年(602年)に生まれる。若い頃は貧しく、学問好きであったという。唐の建国後、武徳年間に息州参軍となり、 のち陳倉尉に転ずる。折衝都尉の魯寧なる者が横暴であったため、これを鞭打って殺害した。 太宗に詰問されると、「臣(私)が辱められたために殺しました」と臆せずに答えたことから、かえって太宗に気に入られ、 咸陽の丞に任ぜられた。給事中にまで昇るが、ために権臣の李義府に憎まれるようになり、青州刺史に左遷される。
さらに顕慶5年(660年)の遼東征伐において漕運に失敗した罪を着せられ、59歳にして一兵卒に落とされた。 この年、蘇定方率いる唐軍が百済の都泗?城を攻め、配下の劉仁願[1]が義慈王を捕らえる功績を挙げ、百済を滅亡させる。 しかし、翌龍朔元(661年)百済の遺臣鬼室福信らが泗?城の奪還を試み、守将の劉仁願を包囲した。 この際、劉仁軌は自ら志願して検校帯方州刺史を拝して援軍に赴く。
龍朔3年(663年)9月、百済残党を支援する倭(日本)の水軍を白村江で迎撃し、400余隻の軍船を焼き払って大勝する (白村江の戦い)。さらに百済故地の諸城を平定し、屯田を営み庶民を安心させたという。
麟徳2年(665年)高宗が泰山で封禅を行った際には、新羅・百済・耽羅・倭4国の首領を率いて参加し、大司憲を拝し、 右相兼検校太子左中護に進み、楽城県男に封ぜられた。
総章元年(668年)には熊津道安撫大使兼?江道総管となり、李勣(李世勣)に従って高句麗を平定。 金紫光禄大夫を拝し、太子左庶子同中書門下三品に進んだ。咸亨5年(674年、上元元年)には鶏林道大総管に任ぜられ、 新羅の文武王を討って(唐・新羅戦争)大勝し、翌年には左僕射となって朝政に参画した。 嗣聖2年1月22日(685年3月2日)文昌左相同固閣鸞台三品として在職中に没した。享年84。 死後、開府儀同三司并州大都督を贈られ、高宗の陵墓である乾陵に陪葬された。

柳 宗元(りゅう そうげん)
大暦8年(773年) - 元和14年11月8日(819年11月28日)、唐代中期の詩人。字は文房。
中唐の文学者・政治家。字は子厚(しこう)。本籍地の河東(山西省)から、「柳河東」「河東先生」と呼ばれる。 また、その最後の任地にちなみ「柳柳州」と呼ばれることもある。王維や孟浩然らとともに自然詩人として名を馳せた。 散文の分野では、韓愈とともに宋代に連なる古文復興運動を実践し、唐宋八大家の1人に数えられる。
同時代の著名な文人、白居易・劉禹錫に1年遅れて長安で出生。徳宗の貞元9年(793年)に進士に挙げられ、 貞元14年には難関の官吏登用試験(科挙)の博学宏詞科に合格、集賢殿正字(政府の書籍編纂部員)を拝命した。 新進気鋭の官僚として藍田(陝西省の県名)の警察官僚から監察御史(行政監督官)を歴任した。
徳宗治世の8世紀末の唐は、宦官勢力を中心とする保守派に対決姿勢を強める若手官僚グループの台頭が急であった。 王叔文を頭目に戴くこの改革派へ、政界の刷新を標榜する柳宗元は盟友劉禹錫とともに参加するが、 既得権益の剥奪を恐れる保守派の猛反発に遭い、加えて徳宗の歿後(805年)担ぎ上げた頼みの順宗も病弱で、 その退位と同時に改革政策はわずか7ヶ月であえなく頓挫。礼部侍郎に就任し、これからという時に柳宗元の政治生命は尽きた。
政争に敗れた改革派一党は政治犯の汚名を着せられ、柳宗元は死罪こそ免れたものの、 都長安(西安市)を遠く離れた邵州(湖南省)へ、刺史(州の長官職)として左遷された。 ところが保守派が掌握した宮廷では処分の見直しが行われて改革派一党に更なる厳罰が科されることになり、 柳宗元の邵州到着前に刺史を免ぜられて更に格下の永州(湖南省)へ、司馬(州の属僚。唐代では貶謫の官で政務には従事しない) として再度左遷された(八司馬事件)。時に柳宗元33歳。
以後、永州に居を構えること10年、元和10年(815年)にはいったん長安に召還されるものの、再び柳州(広西壮族自治区) 刺史の辞令を受け、ついに中央復帰の夢はかなわぬまま、元和14年、47歳で歿した。政治家としてはたしかに不遇であったが、 そのほとんどが左遷以後にものされることとなった彼の作品を見ると、 政治上の挫折がかえって文学者としての大成を促したのではないかとは、韓愈の「柳子厚墓誌銘」などにあるように、 しばしば指摘されるところである。
詩は陶淵明の遺風を承け、簡潔な表現の中に枯れた味わいを醸し出す自然詩を得意とした。唐代の同じ傾向持つ詩人、 王維・孟浩然・韋応物らとともに「王孟韋柳」と並称された。ただ、その文学には政治上の不満ないし悲哀が色濃くにじみ、 都を遠く離れた僻地の自然美をうたいながらも、どこか山水への感動に徹しきれない独自の傾向を持つ。

劉長卿(りゅう ちょうけい)
(生没年不詳)中国・唐代中期の詩人。字は文房。 河間(河北省)の出身。玄宗皇帝の天宝年間(742年 - 756年)の前後に生存したと思われる。733年に進士となる。 756年に監察御史となり、ついで転運使判官になった。この後、讒言する者があり姑蘇の獄につながれたが、許されて睦州 (浙江省)の司馬として左遷され、随州(河北省)の刺史で終わった。性剛直で権勢家に逆らうことが多かったという。 詩文に長じ、権徳輿に「五言の長城」と称せられた。龍門八詠は古詩の傑作とされ、『唐詩選』には平蕃曲などを収める。 劉長卿集10巻がある。

劉 備(りゅう び)
(延熹4年(161年) - 章武3年4月24日(223年6月10日))は、後漢末期から三国時代の武将、蜀漢の初代皇帝。字は玄徳。
黄巾の乱の鎮圧で功績を挙げ、その後は各地を転戦した。諸葛亮の天下三分の計に基づいて益州の地を得て勢力を築き、 後漢の滅亡を受けて皇帝に即位して、蜀漢を建国した。その後の、魏・呉・蜀漢による三国鼎立の時代を生じさせた。 明代の小説『三国志演義』では中心人物として登場する 。

劉 濞(りゅう び)
(紀元前215年 - 紀元前154年)は、前漢前期の皇族。呉楚七国の乱の首謀者。 劉喜(高祖・劉邦の兄)の長子。弟に劉広(徳哀侯)がいる。代王に封じられた父・劉喜が代を 攻めた匈奴から逃亡し、?陽侯に格下げされた後、劉?は沛侯に封じられた。
紀元前196年に淮南王英布が反乱を起こした際に、20歳になる劉?は叔父の高祖の親征軍に将軍として 従軍して、騎兵を率いて活躍した。その功績によって、戦死した従父の荊王劉賈の後釜として、 呉王に封じられた。王になった直後、その挨拶のため高祖の元に参内したときの話として、 次のようなものが伝えられている。
すでに王に封じられたものの、劉?の人相が謀反人のそれであることに不安を感じた高祖は次のように言った。 「予言によれば、これから50年後に(帝都・長安から見て)東南の地(呉の領域)で反乱が起こるというが、わしもお前も同じ血を引いた一族同士である。まかり間違えても反乱などと馬鹿げたことをするなよ」 劉?はこう答えた。
「ゆめゆめそのような真似はいたしません」
かくして、呉王として任地に赴いた劉?であったが、中央政界に於ける呂雉を筆頭とする呂氏一族の 専横とこれに対抗する元勲たちの政争に巻き込まれることもなく、国内整備に邁進することとなる。 その結果として呉国は、その領域内から産出される銅と塩の生産と、それの他国への販売によって もたらされる巨万の富を背景に、国民に税をかけること必要もなく、労役に国民を駆り出した際には かえって手間賃を払うというような、一種の別天地の様相を呈するようになる。 さらに、税役を負担しきれず他国から逃亡してきた者を国内に迎え入れ、彼らに銭を盗鋳させるなど 、朝廷でも統制できないくらいの勢力を誇るまでになった。

しかし、呂氏一族が滅び、従弟の文帝(劉恒)が即位すると、状況は徐々に変わっていった。 文帝の側近たちの中で、とくに新参者の?錯は積極的に諸侯王の勢力を弱めていくことを文帝に 進言した。しかし、中郎将の袁?は「諸侯王の勢力を弱めていくことは、劉一門が分裂して 匈奴に利するだけです」と猛反対したため、自身もかつては諸侯王のひとりであった文帝は袁?の 進言を容れて、呂氏一族の滅亡後に帝位を争った斉王家のみを対象として、 その政策は保留されたのである。
ある年に、長安に劉?の世子・劉賢が父の名代として、長安に参内し、劉賢をねぎらう宴会が 催されたが、宴会の余興(「博」と呼ばれる、今で言うボードゲームの一種)をめぐって、 又従兄弟である皇太子・劉啓(後の景帝)と口論となり、皇太子が劉賢に向けて「博」 の盤を投げ殺してしまった。この劉賢が殺害された事件と、その後の中央政府の対応に不満を 抱いた劉?は、諸侯王の義務である長安への入朝を、病と称して取りやめた。劉?は諸侯王として、 朝廷を軽視し、礼法を無視する態度で臨むようになった。朝廷の調査によって、劉?が息子のことで、 参内せず病と称したことが明らかになった。そのため呉の使者が都に派遣されると、 朝廷から尋問を受けて抑留された。
劉?は、ますます恐れてその対策を練った。秋恒例の諸侯王謁見の儀式があり、劉?は再び都に使者を 派遣した。文帝はその使者を詰問した。呉の使者は「王は実は病ではありません。 朝廷がわが呉の使者を派遣されるたびに抑留されますから、そのために病と称して、 参内ができない状態となったのです。それに「深い水の底にいる魚を覗き込むのはよくない」 と申します。王は、はじめは仮病を使っただけですが、それが口実と判明して、陛下が激しく 尋問なされたため奥に閉じこもって、人とも会われません。陛下が王に厳罰を下すと驚愕し 、些細なことでよからぬ企てを考えるかもしれません。いまこそ、陛下のご寛大な対応で水に 流されることをお願い申し上げます」と嘆願した。これを憐れんだ文帝は抑留した呉の使者を 釈放して、帰還することを許した。同時に、文帝は従兄の劉?の行為を不問にして、 劉?が老齢であることを理由に参勤を免除し、杖と脇息を与えた。
劉?は、朝廷から許されると企みを考えることを取りやめにした。呉の国内では、銅と 塩の利益で呉の領民は税が免除され、兵役の代わりに資金を出す場合も兵卒を養う必要な金額を 捻出するだけでよかった。劉?は季節ごとに優れた人材を労い、村里ごとに褒美を与えてこれを 表彰した。その一方、他国の犯罪者が呉に亡命するとこれを受け入れて、他国の軍勢に引き渡すこと を拒んだ。このような劉?の統治は既に40余年にもおよび、呉の民衆の支持を得ていた。
呉楚七国の乱
朝廷と諸侯王国の呉との関係は、文帝の存在もあって一応の安定を得たものの、紀元前157年に 文帝が崩御すると、事態は急変する。文帝の後を継いだ景帝はかつて世子劉賢を殺害した相手であり、 さらに景帝の側近である前述の?錯は文帝時代から積極的な諸侯王削減策を唱えていた。 銅と塩の利益を独占して、犯罪者を庇護する制度を保った劉?は、これに危機感を覚え、 中大夫の応高を派遣して、朝廷の政策に反感を持っている同族の膠西王劉?や楚王劉戊や趙王劉遂ら と手を組み、紀元前154年、「私は62歳で軍を率い、私の末子は14歳で従軍している。 これより62歳以下、14歳以上の男子には兵役に就く義務を課す」と号令して、二十余万の軍勢を 率いて挙兵した。これが呉楚七国の乱である。
中央集権に反感を覚えいてた諸王はおろか、南越の兵まで加わったことで、反乱軍の総数は 七十万を越えたという。また、呉の豊富な経済力もあって、当初の情勢は反乱軍が優勢であり、 長安では討伐軍への従軍を命じられた諸侯がその費用を金貸しに借りようと申し込んだ際に、 長安中の金貸しから断られたという逸話が残るほどであった。また、劉?の亡弟・劉広 (徳哀侯)の子である劉通(徳頃侯)と、かつて諸侯王の勢力を弱めることを反対した以前の呉の 宰相を務めていた袁?が勅使として、呉王劉?の陣営に向かったが、劉?自身は自ら漢の東帝を 自称して、甥のみ謁見に応じて、袁?には会わずにそのまま抑留を命じた。
しかし、劉?は有利な情勢に気をよくし、数を頼む以外、殆ど無策であった。これ対して、 朝廷は対策を打ち始めていた。朝廷は諸王の反感を買っていた?錯を処刑し、 反乱軍の政治的結束にほころびを生じさせた。さらに、新たに先帝の信頼の厚い周亜夫を 大尉に任じた。周亜夫は正面の防衛を他の官軍に任せ、反乱軍の糧道を破壊する作戦を取った。
正面の梁を守る景帝の実弟の梁王劉武により足止めを余儀なくされ、兵質を数と勢いで補っていた 反乱軍は、補給と結束に問題を抱え始め、勢いは次第に失われつつあった。上下問わず逃亡が 相次いだ事に危機を覚えた劉?はようやく正面攻撃を中止し、周亜夫の拠点に直接攻撃をかける 策に出たが、手の内を読まれ大敗北を被り、呉軍は壊滅した。劉?はわずかな側近たちを引き連れて、 かねてから親交のあった東甌王の下へ逃走した。しかし、ここで東甌王の裏切りに遭い 、刺客に殺害された。また、首謀者の劉?の死を知り、反乱を共謀した各国の王やその 太子らも自害し、もしくは朝廷軍に討ち取られ、呉楚七国の乱は3ヶ月で鎮圧された 。強大な呉の富と、広大な地域を占める諸王の国力を連合してすら、 成長した中央政府の人材と制度の高い力量の前には、あっけなく敗れ去る事が明らかになった。 これ以降、漢王朝は諸侯王の勢力削減策をさらに強化し、中央集権制への移行を進めることになった。

劉邦(りゅう ほう)
前漢の初代皇帝。沛県の亭長(亭とは当時一定距離ごとに置かれていた宿舎のこと)であったが、 反秦連合に参加した後に秦の都咸陽を陥落させ、一時は関中を支配下に入れた。 その後項羽によって西方の漢中へ左遷され漢王となるも、東進して垓下に項羽を討ち、前漢を興した。 正式には廟号が太祖、諡号が高皇帝であるが、通常は高祖と呼ばれることが多い。
沛県豊邑中陽里(現在の江蘇省徐州市豊県)で、父・劉太公と母・劉媼の三男として誕生した。 長兄に劉伯、次兄に劉喜が、異母弟に劉交がいる。生年については2説ある。
劉媼が劉邦を出産する前、沢の側でうたた寝をしていると、夢の中で神に逢い、劉太公は劉媼の上に 龍が乗っている姿を見た。その夢の後に劉邦が生まれたという。また、諱の「邦」は『史記』では 記されておらず、現在に残る文献で一番古いものでは後漢の荀悦『漢紀』に記され、『史記』 『漢書』の注釈でそれを引用している[3]。出土史料から諱が「邦」であったことはおそらく 正しいと思われる。また、字の「季」は「末っ子」のことである[4]。
劉邦は鼻が高く、立派な髭をしており、いわゆる龍顔、顔が長くて鼻が突き出ている顔をしていたと いう。また、太股に72の黒子があった。72とは1年360日を五行思想の5で割った数で、当時ではかなり の吉数である。
その頃の幼馴染に盧綰と樊?がおり、共に後の反秦活動に参加している。特に盧綰は、盧綰の父親と 劉太公が親友付き合いをしており、また盧綰が劉邦と同じ日に生まれたことから、2人も幼少時から 親しくして育った。
反秦戦争に参加する前の劉邦はいわゆる親分肌の侠客であり、家業を厭い、酒色を好んだ生活をして いた。縁あって沛東に位置する泗水の亭長(警察分署長)に就いたが、任務に忠実な官人ではなかった。 沛の役人の中に後に劉邦の覇業を助けることになる蕭何と曹参もいたが、彼らもこの時期には劉邦を 高くは評価していなかったようである。しかしなぜか人望のある性質であり、仕事で失敗しても周囲が 擁護し、劉邦が飲み屋に入れば自然と人が集まり、店が満席になったと伝えられる。また、 この任侠時代に張耳の食客になっていたともいう。
ある時、劉邦は夫役で咸陽に行ったが、そこで始皇帝の行列を見て「ああ、大丈夫たる者、 あのように成らなくてはいかんなあ」と言った。この言葉は項羽が同じく始皇帝の行列を見たときに 発した「奴に取って代わってやるわ!」という言葉とよく対比され、劉邦と項羽の性格の違いを表す ものとして使われる。
あるとき、単父(山東省)の人・呂公が仇討ちを避けて沛へとやって来た。名士である呂公を 歓迎する宴が開かれ、蕭何がこの宴を取り仕切った。沛の人々はそれぞれ進物に金銭を持参して 集まったが、あまりに多くの人が集まったので、蕭何は進物が千銭以下の人は地面に座ってもらおうと 提案した。そこへ劉邦がやってきて、進物を「銭一万銭」と呂公に伝えた。あまりの金額に驚いた 呂公は、慌てて門まで劉邦を迎え、上席に着かせた。蕭何は劉邦が銭など持っていないのを知って いたので、「劉邦は前から大風呂敷だが、実際に成し遂げたことは少ない(だからこのことも本気に しないでくれ)」と言ったが、呂公は劉邦を歓待し、その人相を見込んで自らの娘を娶わせた。 これが呂雉である。
妻を娶ったものの劉邦は相変わらずの侠客であり、呂雉は実家の手伝いをし、2人の子供を育てながら 生活していた。ある時、呂雉が田の草取りをしていたところ、通りかかった老人が呂雉の人相がとても 貴いと驚き、息子と娘(後の恵帝と魯元公主)の顔を見てこれも貴いと驚き、帰ってきた劉邦が この老人に人相を見てもらうと「奥さんと子供たちの人相が貴いのは貴方がいるためである。 あなたの貴さは言葉にすることができない」と言い、劉邦は大いに喜んだという。 『史記』には他にもいくつかの「劉邦が天下を取ることが約束されていた」との話を載せている。 ただ、それらの逸話の中で劉邦は赤龍の子であるとする逸話は、漢が火徳の帝朝と称することに 繋がっている。
ある時、劉邦は亭長の役目を任ぜられ、人夫を引き連れて咸陽へ向かっていたが、秦の過酷な労働と 刑罰を知っていた人夫たちは次々と逃亡した。やけになった劉邦は浴びるように酒を飲んだ上、 酔っ払って残った全ての人夫を逃がし、自らも一緒に行くあてのない人夫らと共に沼沢へ隠れた。
紀元前209年、陳勝・呉広の乱が発生し、反乱軍の勢力が強大になると、沛の県令は反乱軍に 協力するべきか否かで動揺、そこに蕭何と曹参が「県令では誰も従わない、人気のある劉邦を 押し立てて反乱に参加するべきだ」と吹き込んだ。一旦はこれを受け入れた県令であったが、 劉邦に使者が行った後に考えを翻し、沛の門を閉じて劉邦を締め出そうとした。劉邦は一計を案じて、 絹に書いた手紙を城の中に投げ込んだ(当時の中国の都市は基本的に城塞都市である)。 その手紙には「今、この城を必死に守ったところで、諸侯(反乱軍)がいずれこの沛を攻め落とす だろう。そうなれば沛の人々にも災いが及ぶことになる。今のうちに県令を殺して頼りになる人物を 長に立てるべきだ」と書いてあり、それに応えた城内の者は県令を殺して劉邦を迎え入れた。 劉邦は最初は「天下は乱れ、群雄が争っている。自分などを選べば、一敗地に塗れることになる。 他の人を選ぶべきだ」と辞退した。しかし、蕭何と曹参までもが劉邦を県令に推薦したので、 劉邦はこれを受けて県令となった。以後、劉邦は沛公と呼ばれるようになる。
この時、劉邦が集めた兵力は2、3千というところで、配下には蕭何・曹参の他に犬肉業者をやっていた 義弟の樊?、幼馴染の盧綰、県の厩舎係をやっていた夏侯嬰、機織業者の周勃などがいた。
この軍団で周辺の県を攻めに行き、故郷である豊の留守を雍歯という者に任せたが、 雍歯は旧魏の地に割拠していた魏咎の武将の周?に誘いをかけられて寝返ってしまった。 怒った劉邦は豊を攻めるが落とすことができず、仕方なく沛に帰った。当時、陳勝は秦の章邯の 軍に敗れて逃れたところを殺されており、その傘下に属した旧楚の公族系の景駒が甯君と秦嘉 (中国語版)という者に代わりの王に擁立されていた。劉邦は豊を落とすためにもっと兵力が 必要だと考えて、景駒に兵を借りに行った。
紀元前208年、劉邦は甯君と共に秦軍と戦うが、敗れて引き上げ、新たに?(トウ、現在の安徽省?山。 ?は石偏に昜)を攻めてこれを落とし、ここにいた5、6千の兵を合わせ、さらに下邑(河南省鹿邑) を落とし、この兵力を持って再び豊を攻めて、やっとの思いで豊を陥落させた。雍歯は趙の武臣を 頼って逃れた.。
豊を取り返した劉邦であったが、この間に豊などとは比べ物にならないほどに重要なものを手に 入れていた。張良である。張良は始皇帝暗殺に失敗した後に、旧韓の地で兵士を集めて秦と 戦おうとしていたが、それに失敗して留(沛の東南)の景駒の所へ従属しようと思っていた。 張良自身も自らの指導者としての資質の不足を自覚しており、自らの兵法をさまざまな人物に 説いていたが、誰もそれを聞こうとはしなかった。ところが劉邦は、出会うなり熱心に張良に 言葉を聞き入り、張良はこれに感激して「沛公はほとんど天性の英傑だ」と劉邦のことを褒め称えた。 これ以降、張良は劉邦の作戦のほとんどを立案し、張良の言葉を劉邦はほとんど無条件に聞き入れ、 ついには天下をつかむことになる。劉邦と張良の関係は、君臣関係の理想として後世の人に仰ぎ 見られることになる。
その頃、景駒は項梁によって殺され、項梁が新たな反秦軍の頭領となって、旧楚の懐王の孫を連れて きて楚王の位に即け、祖父と同じく懐王と呼ばせた(後に項羽より義帝の称号を送られる)。 劉邦は項梁の勢力下に入り、項梁の甥である項羽と共に秦軍と戦う。
項梁は何度となく秦軍を破ったが、それと共に傲慢に傾いて秦軍を侮るようになり、 章邯軍の前に戦死した。劉邦たちは遠征先から軍を戻し、新たに反秦軍の根拠地に定められた彭城 (現在の江蘇省徐州市)へと集結した。項梁を殺した章邯は軍を北へ転じて趙を攻め、趙王の 居城鉅鹿を包囲したため、趙は楚へ救援を求めてきていた。そこで懐王は宋義・項羽・范増を 将軍として主力軍を派遣し、趙にいる秦軍を破った後、咸陽へと攻め込ませようとし、その一方で 劉邦を別働隊として西回りに咸陽を衝かせようとした。そして懐王は「一番先に関中(咸陽を中心 とした一帯)に入った者をその地の王とするだろう」と約束した。
趙へ向かった項羽は、途中で行軍を意図的に遅らせていた宋義を殺して自ら総指揮官となり、 渡河した後に船を全て沈めて3日分の兵糧を配ると残りの物資を破棄し、退路を断って兵士たちを 死に物狂いで戦わせるという凄まじい戦術で秦軍を撃破、一気にその勇名を高めた。 しかしその後、咸陽へ進軍する途中で秦の捕虜20万を生き埋めにするという、これも凄まじい 虐殺を行う。このことは後の楚漢戦争でも項羽の悪評として人々の心に残り、多大な影響をもたらす ことになる。
劉邦は西に別働隊を率いて行ったが、その軍勢は項羽軍に比べて質・量ともに劣っており、 道々苦戦しながら高陽(河南省杞県)まで来た。ここで劉邦は儒者の?食其の訪問を受ける。 劉邦は大の儒者嫌いで、?食其に対しても、足を投げ出してその足を女たちに洗わせながら 面会するという態度であった。しかしこれを?食其が一喝すると、劉邦は無礼を詫びて?食其の進言を 聞いた。?食其は「近くの陳留は、交通の要所であり秦軍の食料も蓄えられているのでこれを得るべき である。城主は反秦軍を脅威に思っているが、民衆からの復讐を恐れているので、降るに降れない。 降っても身分を保証すると約束して頂ければ、帰順させるよう説得する」と言った。劉邦はこれを 採用し、陳留の県令は説得に応じて降り、交通の要所と大量の兵糧を無血で手に入れた。 さらに劉邦はその兵力を合わせて進軍し、開封を攻め落とした。次いで韓に寄り、寡兵で苦戦していた 韓王成と張良を救援して、楊熊率いる秦軍を駆逐し、韓を再建した。そしてその恩義をもって、 張良を客将として借り受ける。
さらに南陽郡を攻略し、郡守の呂?を撃破して、呂?が宛(河南省南陽市)に逃げ込んだために張良の 助言でこれを包囲した。呂?の舎人である陳恢の説得に応じて、これを降伏させると、 秦の領域へ近づいていった。この侵攻の際、劉邦は陳留のように降伏を認め、降伏した場合は 城主をそのままの地位に任命したため無駄な戦闘はしておらず、その進軍は項羽よりも速かった。 そしていよいよ、関中の南の関門である武関に迫った。
この頃、趙で項羽が秦軍の主力を撃破し、秦の内部では動揺が走った。始皇帝の死後、二世皇帝を 傀儡として宦官趙高が専権をふるっていたが、この敗戦がばれれば自分が責任を取らされると考え、 二世皇帝を殺し、紀元前207年になってから劉邦に対して関中を二分して王になろうという密書を 送ってきた。劉邦はこれを偽者だと思い、自らの軍をもって武関の守将を張良の策によってだまし 討ちにし、これを突破した。この後、趙高は王に建てようとしていた子嬰におびき出されて逆に 殺された。
続く嶢関は、秦の最後の砦のため決死の兵が守っていたが、守将が商人出身であり計算高いことを 利用した張良の策により、大量の旗を重ねて大軍のように見せかけておいて、降るように誘った。 この策は成功し、守将は降ることを約束したが、張良は兵達は決死なので降ることはないと 察しており、あくまで油断させるためのものだった。劉邦の軍は砦に入るや否や、守備隊の 不意をついて攻めかかって制圧し、嶢関を突破した。こうして劉邦軍は関中に入る。 もはや阻むものはなく、秦都・咸陽は目前となった。
秦王子嬰は、覇上にまで迫っていた劉邦のところへ白装束で首に紐をかけた姿で現れ、 皇帝の証である玉璽などを差し出して降伏した。部下の間には子嬰を殺してしまうべきだという 声が高かったが、劉邦はこれを許した。
咸陽に入城した劉邦は宮殿の中の女と財宝に目がくらみ、ここに留まって楽しみたいと思ったが、 樊?と張良に諫められ、覇上へ引き上げた。田舎の遊び人だった劉邦にとって、咸陽の財宝と 後宮の女達は極楽にさえ思われただろうが、部下に諌められると一切手を出さなかった。 こうした諌言を聞き入れる劉邦の度量と配下への信頼は、項羽と対照的であり、 その後の天下統一にも非常に大きな作用をもたらすことになる。ちなみにこの時、蕭何は秦の文書殿 に入って法令などの書物を全て持ち帰っている。これがその後の漢王朝の法の制定などに役立った と言われている。
覇上に引き上げた劉邦は、この地に関中の父老(村落のまとめ役)を集めて“法三章”を宣言する。 これは秦の万般仔細に及ぶ上に苛烈な法律(故に役人が気分次第で罰を与えたりもでき、 特に政道批判の罪による処罰はいいがかりとしても多用された)を「人を殺せば死刑。 人を傷つければ処罰。物を盗めば処罰」の3条のみに改めたものである。この施策によって関中に おける劉邦の人気は一気に高まり、劉邦が王にならなかったらどうしようと話し合うほどになった。 後世、「法三章」は簡便な法律を表す法諺となっている。
その頃、東から項羽が関中に向かって進撃してきていた。劉邦はある人の「あなたが先に関中に 入ったにもかかわらず、項羽が関中に入ればその功績を横取りする。関を閉じて入れさせなければ あなたが関中の王のままだ」というを進言を聞いて、関中を守ろうとして関中の東の関門である 函谷関に兵士を派遣して守らせていた。劉邦が関中入りできた最大の要因は秦の主力軍の相手を 項羽が引き受けたことにあり、それなのに劉邦は既に関中王になったつもりで函谷関を閉ざしている ことに激怒した項羽は、英布に命じてこれを破らせた。項羽は関中に入り、先の激怒と軍師范増の 進言もあって、40万の軍で攻めて劉邦を滅ぼしてしまおうとした。劉邦の部下である曹無傷は、 これに乗じて項羽に取り入ろうと「沛公は関中の王位を狙い、秦王子嬰を宰相として関中の宝を 独り占めにしようとしております」と讒言したので、項羽はますます激怒した。
項羽軍は劉邦軍より兵力も勇猛さも圧倒的に上であり、劉邦はこの危機を打開しようと焦っていたが、 ちょうどその時、項羽の叔父である項伯が劉邦軍の陣中に来ていた。項伯はかつて張良に恩を受けて おり、その恩を返すべく危機的状況にある劉邦軍から張良を救い出そうとしたのである。 しかし張良は劉邦を見捨てて一人で生き延びることを断り、項伯を劉邦に引き合わせて何とか 項羽に弁明させて欲しいと頼み込んだ。項伯の仲介が功を奏し、劉邦と項羽は弁明のための会合 を持つ。この会合で劉邦は何度となく命の危険があったが、張良や樊?の働きにより虎口を脱した。 項羽は劉邦を討つ気が失せ、また弁明を受け入れたことで討つ名目も失った。これが鴻門の会である。 陣中に戻った劉邦は、まず裏切者の曹無傷を処刑してその首を陣門に晒した。
その後、項羽は咸陽に入り、降伏した子嬰ら秦王一族や官吏4千人を皆殺しにし、宝物を持ち帰り、 華麗な宮殿を焼き払い、さらに始皇帝の墓を暴いて宝物を持ち出している。劉邦の寛大さと 対照的なこれらの行いは、特に関中の人民から嫌悪され、人心が項羽から離れて劉邦に集まる 一因となっている。
項羽は彭城に戻って“西楚の覇王”を名乗り、名目上の王である懐王を義帝と祭り上げて辺境に流し、 その途上でこれを殺した。紀元前206年、項羽は諸侯に対して封建(領地分配)を行う。 しかしこの封建は非常に不公平なもので、その基準は功績ではなく、項羽との関係が良いか 悪いかに拠っていたため多くの不満を買い、すぐ後に次々と反乱が起きるようになる。 劉邦にも約束の関中の地とはいえ、咸陽周辺ではなくその西側の一地方であり奥地・辺境である 漢中および巴蜀が与えられた(当時「関中」には統一以前の秦の領土を指す意味もあった)。 このとき劉邦を「左に遷す」と言ったことから、これが左遷の語源になったと言われている。 さらに劉邦の東進を阻止するために、関中は章邯ら旧秦軍の将軍3人に分割して与えられた。
当時の漢中は、流刑地とされるほどの非常な辺境であった。そこへ行くには「蜀道の険」と呼ばれる、 人一人がやっと通れるような桟道があるだけで、劉邦が連れていた3万の兵士は途中で多くが 逃げ出し、残った兵士も東に帰りたいと望んでいた。
この時期に劉邦陣営に新たに加わったのが韓信である。韓信は元は項羽軍にいたが、 その才能がまったく用いられず、劉邦軍へと鞍替えしてきたのである。最初は単なる兵卒や 下級将校であったが、やがて韓信の才能を見抜いた蕭何の推挙により、大将軍となった。 その際に韓信は、「項羽は強いがその強さは脆いものであり、特に処遇の不満が蔓延しているため 東進の機会は必ず来る。劉邦は項羽の逆を行えば人心を掌握できる」と説いた。また、 「関中の三王は20万の兵士を犠牲にした秦の元将軍であり、人心は付いておらず関中は簡単に落ちる。 劉邦の兵士たちは東に帰りたがっており、この帰郷の気持ちをうまく使えば強大な力になる」 と説いた。劉邦はこの進言を全面的に用いた。
そして韓信の予言通り、項羽に対する反乱が続発し、項羽はその鎮圧のため常勝ながら東奔西走 せざるを得なくなる。項羽は劉邦にも疑いの目を向けたが、劉邦は張良の策によって桟道を焼き 払って漢中を出る意志がないと示し、更に項羽に対して従順な文面の手紙を出して反抗する 気がないように見せかけていた。これで項羽は安心し、反乱を起こしていた斉の田栄を討伐に 向かった。
それを見た劉邦は、桟道以前に使われていた旧道を通って関中に出撃し、一気に章邯らを破って 関中を手に入れ、ここに社稷を建てた。
一方、遠征先の斉でも、項羽は相変わらず城を落とすたびにその住民を皆殺しにする蛮行を繰り 返したため、斉の人々は頑強に抵抗した。このため項羽は斉攻略にかかりきりになり、 その隙に乗じた劉邦はさらに東へと軍を進め、途中の王たちを恭順・征服しながら項羽の 本拠地・彭城を目指した。
紀元前205年、劉邦は味方する諸侯との56万と号する連合軍を引き連れて彭城へ入城した。 入城した漢軍は勝利に浮かれてしまい、日夜城内で宴会を開き、女を追いかけ回すという有様と なった。一方、彭城の陥落を聞いた項羽は自軍から3万の精鋭を選んで急いで引き返し、 油断しきっていた漢軍を散々に打ち破った。この時の漢軍の死者は10万に上るとされ、 川が死体のためにせき止められたという(彭城の戦い)。劉邦は慌てて脱出したが、 劉太公と呂雉が楚軍の捕虜となってしまった。この大敗で、それまで劉邦に味方していた 諸侯は一斉に楚になびいた。
劉邦は息子の劉盈(恵帝)と娘(魯元公主)と一緒に馬車に乗り、夏侯嬰が御者となって 楚軍から必死に逃げていた。途中で追いつかれそうになったので、劉邦は車を軽くするために 2人の子供を突き落とした。あわてて夏侯嬰が2人を拾ってきたが劉邦はその後も落とし続け、 そのたびに夏侯嬰が拾ってきた。
劉邦は?で兵を集めて一息ついたものの、ここで項羽に攻められれば防ぎきれないことは明らか だったので、随何に命じて英布を味方に引き込もうと画策し、これに成功した。 しかし英布は楚の武将・龍且と戦って破れ、劉邦の元へと落ち延びてきた。劉邦は道々兵を 集めながら軍を?陽(河南省?陽)に集め、周囲に甬道(壁に囲まれた道)を築いて食料を 運び込ませ、篭城の用意を整えた。この時期、劉邦の幕僚に謀略家・陳平が加わっている。
その一方、別働隊に韓信を派遣し、魏・趙を攻めさせて項羽を背後から牽制しようとした。 また元盗賊の彭越を使い、項羽軍の背後を襲わせた。
紀元前204年、楚軍の攻撃は激しく、甬道も破壊されて漢軍の食料は日に日に窮乏してきた。 ここで陳平は項羽軍に離間の計を仕掛け、項羽とその部下の范増・鍾離?との間を裂くことに成功する。 范増は軍を引退して故郷に帰る途中、怒りの余り、背中にできものを生じて死亡した。
離間の計は成功したものの、漢の食糧不足は明らかであり、将軍の紀信を劉邦の影武者に仕立てて 項羽に降伏させ、その隙を狙って劉邦本人は西へ脱出した。その後、?陽は御史大夫の周苛が守り、 しばらく持ちこたえたものの、項羽によって落とされた。
西へ逃れた劉邦は関中にいる蕭何の元へ戻り、蕭何が用意した兵士を連れて?陽を救援しようとした。 しかし袁生が、真正面から戦ってもこれまでと同じことになる、南の武関から出陣して 項羽をおびき寄せる方がいいと進言した。劉邦はこれに従って南の宛に入り、思惑通り項羽は そちらへ向かった。そこで項羽の後ろで彭越を策動させると、こらえ性のない項羽は再び軍を引き 返して彭越を攻め、その間に、劉邦も引き返してくる項羽とまともに戦いたくないので、 北に移動して成皋(河南省汜水)へと入った。項羽は戻ってきてこの城を囲み、劉邦は支えきれずに 退却した。
夏侯嬰のみを供として敗走していた劉邦は、韓信軍が駐屯していた修武(河南省獲嘉)へ行って、 韓信が陣中で寝ているところに入り込み、韓信の軍隊を取り上げた。さらに劉邦は韓信に対して斉を 攻めることを命じ、曹参と灌嬰を韓信の指揮下とした。また盧綰と従兄弟の劉賈を項羽の本拠地で ある楚へ派遣し、後方撹乱を行わせた。
韓信はその軍事的才能を遺憾なく発揮し、斉をあっさりと下し、楚から来た20万の軍勢と龍且をも 討ち破った。ただ斉を攻める際に手違いがあり、斉に漢との同盟を説きに行った?食其が 殺されるということが起きている。
紀元前203年、劉邦は項羽と対陣して堅く守る作戦をとっていたが、一方で項羽の後ろで彭越を 活動させ、楚軍の兵站を攻撃させていた。項羽は部下の曹咎に「15日で帰るから手出しをしないで 守れ」と言い残して出陣し、彭越を追い散らしたが、曹咎は漢軍の挑発に耐えかねて出陣し、 大敗していた。漢軍は項羽が帰ってくると再び防御に徹し、項羽が戦おうと挑んでもこれに応じな かった。
その頃、韓信は斉を完全に制圧し、劉邦に対して鎮撫のため仮の斉王になりたいとの使者を送って きた。これを聞いた劉邦は怒って声を荒らげそうになったが、それを察知した張良と陳平に足を踏ん で諫められ、もし韓信が離反してしまえば取り返しがつかないことを悟り、韓信を正式な斉王に封じた。
漢楚両軍は長い間対峙を続け、しびれを切らした項羽は捕虜になっていた劉太公を引き出して 大きな釜に湯を沸かし「父親を煮殺されたくなければ降伏しろ」と迫ったが、劉邦はかつて項羽と 義兄弟の契りを結んでいたことを持ち出して「お前にとっても父親になるはずだから殺したら 煮汁をくれ」とやり返した。次に項羽は「二人で一騎討ちをして決着をつけよう」と言ったが、 劉邦は笑ってこれを受けなかった。そこで項羽は弩の上手い者を伏兵にして劉邦を狙撃させ、 矢の1本が胸に命中した劉邦は大怪我をした。これを味方が知れば全軍が崩壊する危険があると考え、 劉邦はとっさに足をさすり、「奴め、俺の指に当ておった」と言った。その後劉邦は重傷のため床に 伏せたが、張良は劉邦を無理に立たせて軍中を回らせ、兵士の動揺を収めた。
一方、彭越の後方攪乱によって楚軍の食料は少なくなっていた。もはや漢も楚も疲れ果て、 天下を半分に分けることを決めて講和した。この時、劉太公と呂雉は劉邦の下に戻ってきている。
項羽は東へ引き上げ、劉邦も西へ引き上げようとしていたが、張良と陳平は退却する項羽の軍を 攻めるよう進言した。もしここで両軍が引き上げれば楚軍は再び勢いを取り戻し、 漢軍はもはやこれに対抗できないだろうというのである。劉邦はこれを容れて、 項羽軍の後方を襲った。
劉邦は同時に、韓信と彭越に対しても兵士を連れて項羽攻撃に参加するように要請したが、 どちらも来なかった。劉邦が恩賞の約束をしなかったからである。張良にそれを指摘された劉邦は 思い切って韓信と彭越に大きな領地の約束をし、韓信軍と彭越軍を加えた劉邦軍は一気に膨張した。 項羽に対して有利な立場に立ったことで、その他の諸侯の軍も雪崩をうって劉邦に味方し、 ついに項羽を垓下に追い詰めた。
追い詰めはしたものの、やはり項羽と楚兵は勇猛であり、漢軍は連日大きな犠牲を出した。 このため張良と韓信は無理に攻めず包囲しての兵糧攻めを行い、楚軍を崩壊させた。項羽は 残った少数の兵を伴い包囲網を突破したが、楚へ逃亡することを潔しとせず、途中で漢の大軍と 戦って自害した(垓下の戦い)。遂に項羽を倒した劉邦は、いまだ抵抗していた魯を下し、 残党たちの心を静めるために項羽を厚く弔った。
紀元前202年、劉邦は群臣の薦めを受けて、ついに皇帝に即位した。
論功行賞をした際、戦場の功のある曹参を第一に推す声が多かったが、劉邦はそれを退けて 蕭何を第一とした。常に敗れ続けた劉邦は、蕭何が常に用意してくれた兵員と物資がなければ とっくの昔に滅び去っていたことを知っていたのである。また韓信を楚王に、彭越を梁王に封じた。 張良にも3万戸の領地を与えようとしたが、張良はこれを断った。また、劉邦を裏切って 魏咎に就くなど、挙兵時から邪魔をし続けながら、最後はまたぬけぬけと漢中陣営に加わり、 功こそあれど劉邦が殺したいほど憎んでいた雍歯を速やかに什方侯にした。 これは、論功行賞で不平を招いて反乱が起きないための張良の策で、他の諸侯に 「あの雍歯が賞せられたのだから、自分にもちゃんとした恩賞が下るだろう」と安心させる 効果があった。
劉邦は最初洛陽を首都にしようと考えたが、劉敬が長安を首都にする利点を説き、 張良もその意見に賛同すると、すぐさま長安に行幸し首都に定めた。
劉邦が家臣たちと酒宴を行っていた時、劉邦は「皆、わしが天下を勝ち取り、項羽が敗れた理由を 言ってみよ」と言った。これに答えて高起と王陵が「陛下は傲慢で人を侮ります。これに対して 項羽は仁慈で人を慈しみます。しかし陛下は功績があった者には惜しみなく領地を与え、 天下の人々と利益を分かち合います。これに対して項羽は賢者を妬み、功績のある者に恩賞を 与えようとしませんでした。これが天下を失った理由と存じます」と答えた。
劉邦は「貴公らは一を知って二を知らない。わしは張良のように策を帷幕の中に巡らし、 勝ちを千里の外に決することは出来ない。わしは蕭何のように民を慰撫して補給を途絶えさせず、 民を安心させることは出来ない。わしは韓信のように軍を率いて戦いに勝つことは出来ない。 だが、わしはこの張良、蕭何、韓信という3人の英傑を見事に使いこなすことが出来た。 反対に項羽は范増1人すら使いこなすことが出来なかった。これが、わしが天下を勝ち取った理由だ」 と答え、その答えに群臣は敬服した。
その年の7月、燕王臧荼が反乱を起こし、劉邦は親征してこれを下し、幼馴染の盧綰を燕王とした。 その中で劉邦は次第に部下や諸侯に猜疑の目を向けるようになった。特に韓信・彭越・英布の3人は 領地も広く、百戦錬磨の武将であり、最も危険な存在であった。
ある時「韓信が反乱を企んでいる」と讒言する者があった。群臣たちは韓信に対する妬みもあり、 これを討伐するべきだと言ったが、陳平は軍事の天才・韓信とまともに戦うのは危険であると説き、 だまして捕らえることを提案した。劉邦はこれを受け入れて、巡幸に出るから韓信も来るようにと 言いつけ、匿っていた鍾離?の首を持参した韓信がやって来たところを虜にし、楚王から格下げして 淮陰侯にした。
翌年、匈奴に攻められて降った韓王信がそのまま反乱を起こした。劉邦はまた親征してこれを下した。 翌紀元前200年、匈奴の冒頓単于を討つため、さらに北へ軍を動かした。しかし、 冒頓単于は弱兵を前方に置いて、負けたふりをして後退を繰り返したので、追撃を急いだ 劉邦軍の戦線が伸び、劉邦は少数の兵とともに白登山で冒頓単于に包囲された。この時、 劉邦は7日間食べ物がなく窮地に陥ったが、陳平の策略により冒頓単于の妃に賄賂を贈り、 脱出に成功した(白登山の戦い)。その後、劉邦と冒頓単于は匈奴を兄・漢を弟として毎年貢物を 送る条約を結び、以後は匈奴に対しては手出しをしないことにした。
紀元前196年、韓信は反乱を起こそうと目論んだが、蕭何の策で捕らえられ、誅殺された。 この時、劉邦は遠征に出ていたが、帰って韓信が誅殺されたことを聞かされるとこれを悲しんだ。
同年、彭越は捕らえられて蜀に流されるところを呂雉の策謀により誅殺され、一人残った英布は 反乱を起こした。劉邦はこの時体調が優れず、太子(恵帝)を代理の将にしようかと考えていたが、 呂雉らにこれを諫められ、親征して英布を下した。この遠征から帰る途中で故郷の沛に立ち寄って 宴会を行い、この地の子供120人を集めて「大風の歌」を歌わせた。
大風起こりて雲飛揚す(大風起兮雲飛揚)
威海内に加わりて故郷に帰る(威加海内兮歸故鄕)
いずくむぞ猛士を得て四方を守らしめん(安得猛士兮守四方)
そして沛に永代免租の特典を与え、沛の人たちから請われて故郷の豊にも同じ特典を与えた。
しかし英布戦で受けた矢傷が元で、さらに病状が悪化し、翌紀元前195年に呂雉に対して、 今後誰を丞相とするべきかの人事策を言い残して死去した。この際、自らの死期を悟った劉邦は、 「死後どうすればよいのか」と問う呂雉に対し、「(丞相・相国の)蕭何に任せておけばよい。 その次は曹参が良かろう」と言い、さらに何度も「その次は?」と聞く呂雉へ 「その次は王陵が良いだろうが、愚直すぎるので陳平を補佐とするとよい。 だが陳平は頭が切れすぎるから、全てを任せるのは危ない。社稷を安んじるものは必ずや 周勃であろう」と言った。そして、なおも「その次は?」と聞く呂雉に 「お前はいつまで生きるつもりだ。その後はお前にはもう関係ない」と言っている。
死後、太子の劉盈が即位したが(恵帝)、実権は全て呂雉に握られ、強大な諸侯は全て劉邦に 粛清されており対抗できる者もなく、呂氏の時代がやって来た。呂雉の死後、周勃と陳平により 呂氏は粛清され、恵帝の異母弟の代王劉恒文帝が迎えられ、文景の治の繁栄となる。
中国史上最初の皇帝・始皇帝は以後の中国にとって悪例として残り、その後の混乱を収めた 劉邦は好例として「皇帝(英雄)とはかくあるべき」という理想を、後世の多くの人々の心に 形作ることになる。例えば明の朱元璋は李善長より「高祖のごとくすれば、天下はあなたの ものになる」と進言され、これを受け入れている。
特に劉邦と張良の関係に代表される、有能な部下を全面的に信頼してその才を遺憾なく発揮させる 点は、後の世にもたびたび引き合いに出された。
劉邦に関する典籍は、司馬遷の『史記』「高祖本紀」、班固の『漢書』「高帝紀」などがある。 「高祖本紀」は『史記』の第8巻で、劉邦の出自から秦末の動乱、楚漢戦争、前漢の初期の動き、 劉邦の死までを描いている。
通俗本も多く、中国の古典小説『西漢演義伝』を元にした『通俗漢楚軍談』が江戸時代によく 読まれた。


劉 封(りゅう ほう)
(? - 220年)は、中国後漢末期の武将。字は不明。父は寇氏。母は不明。劉備の養子。副軍将軍。荊州長沙郡羅県の人。
『三国志』蜀志劉封伝によると、元々は長沙郡の1県である羅侯の寇氏の子で、長沙の劉氏の甥であった。 劉備に実子劉禅が生まれる207年以前、当時荊州に滞在し、未だ世継ぎの無かった劉備から養子に迎えられた。
212年、劉備が益州攻略戦に乗り出した。劉封は当時20余歳だったが武芸・気力ともに人より優れていたことから、 諸葛亮・張飛・趙雲らに従って共にこの戦いに参加。行く先々で武功を挙げて、益州平定後、副軍中郎将に任じられた。
建安24年(219年)、劉備は孟達に房陵攻撃を命じ、孟達は西進し上庸太守の申耽を攻撃した。 劉封は孟達1人では心許ないと思った劉備に命じられ、その援軍として漢中を発して上庸に進軍。申耽を降伏させた。 この功によって、劉封は副軍将軍に昇進した。
同年に樊城で曹仁を包囲した関羽から何度も援軍を要請されたが、占領したばかりでまだ動揺が収まっていないという理由で、 これを拒否した。その結果、曹仁に援軍を要請された曹操が派遣した徐晃と趙儼と、 孫権が派遣した呂蒙の挟撃を受けて関羽は大敗し、後に潘璋配下の馬忠に捕らわれて処刑された。 劉封・孟達はこの事で劉備の深い恨みを買った。また、劉封は孟達とも対立しており、後に彼の軍楽隊を接収した。 220年7月、劉封に対する憤りと関羽を敗死させた罪への恐れから、孟達は魏に出奔。 魏は孟達を建武将軍・新城太守に任じ、徐晃・夏侯尚と共に劉封を攻めさせた。 その際、孟達は劉封に魏へ付くよう手紙を送ったが劉封は従わなかった。しかし、申耽の弟の申儀などが反乱を起こし、 劉封を襲ったため上庸は陥落し、成都への敗走を余儀なくされた。
劉備は関羽の援軍を拒んだ事と、上庸を失った事などを激しく咎めた。 諸葛亮は劉封の剛勇さは次代の劉禅では制御し難くなるという理由から、劉封を除くように進言した。 かくして劉封は死を賜る事になった。自決の際、劉封は「孟達の言葉に従わなかったことが残念だ」と嘆いた。 これを聞いた劉備は彼のために涙を流した。
子の劉林は誅殺されず牙門将に任命され、蜀漢滅亡後の264年、河東郡に移住した。
『三国志』の撰者陳寿の評では、「先主(劉備)に嫌疑をかけられる立場に追い詰められているにも拘らず、 その対策を全く立てようとしなかった。その身の破滅は当然である」と大変手厳しいものとなっている。

李膺(りよう)
( - 169年)は、中国の後漢時代の官僚。字は元礼。潁川郡襄城県(河南省襄城県)の人。 祖父の李脩(り しゅう)は、安帝の治世、太尉。父の李益(り えき)は趙国の相であった。子は李?。 生まれつき礼法にこだわらず、亢然としていて人と交際しなかったという。ただ同郡の荀淑、陳寔らを師友とした。

劉 禅(りゅう ぜん)
三国時代の蜀漢の第2代皇帝。魏に降伏したため、皇帝としての諡は本来無いが、漢の後継を称する劉淵によって諡を贈られた。
223年、父帝の死に伴い17歳で皇帝に即位した。以降は諸葛亮らに政務を任せて国を守った。 234年に諸葛亮が死去した際には、劉禅は白い喪服を着て3日間哀悼の意を表している 。

梁鴻(りょうこう )
梁鴻字伯鸞,扶風平陵人也。父讓,王莽時為城門校尉,封脩遠伯,使奉少昊後,寓於北地而卒。 鴻時尚幼,以遭亂世,因卷席而葬。
勢家慕其高節,多欲女之,鴻並絶不娶。同縣孟氏有女,状肥醜而黑,力舉石臼,擇對不嫁,至年三十。父母問其故。 女曰:「欲得賢如梁伯鸞者。」鴻聞而娉之。女求作布衣、麻履,織作筐緝績之具。及嫁,始以裝飾入門。七日而鴻不荅。 妻乃跪床下請曰:「竊聞夫子高義,簡斥數婦,妾亦偃蹇數夫矣。今而見擇,敢不請罪。」 鴻曰:「吾欲裘褐之人,可與倶隱深山者爾。今乃衣綺縞,傅粉墨,豈鴻所願哉?」妻曰:「以觀夫子之志耳。 妾自有隱居之服。」乃更為椎髻,著布衣,操作而前。鴻大喜曰:「此真梁鴻妻也。能奉我矣!」字之曰德曜,孟光。
《後漢書》《逸民列傳》

梁 武帝(りょうのぶてい)
南朝梁の初代皇帝。名は蕭衍。字は叔達。南蘭陵の人。 斉王室の一族であるが、伝統的な貴族社会の中では、それほど高い家格ではなかった。 しかし、蕭衍個人としては、若い頃から竟陵王蕭子良のサロンに集まる「八友」の一人であり、優れた文化人であった。 即位した武帝は、当時、あらゆる面で破綻が生じていた貴族主義社会の立て直しを図ろうとする。 まずは、国立大学を作って、試験により一般からも人材を求め、有能な実務官僚を盛んに登用した。 また、魏晋以来の九品官制は、同一官品であっても、清官と濁官といった思想により、 官制における上下と通念上の官位の上下との矛盾が大きくなっていたため、思いきって手を加えて、 通念上の官位の上下が出来る限り官制の上に反映されるよう改良した。 これらは一面では、貴族らしい貴族主義の再編と取ることも出来る。 加えて、貨幣経済の進展する中で銅銭が不足がちになったため、鉄銭を鋳造して流通させる独特な経済政策を取った。 最も、この政策はしばらくすると、私鋳銭の増加により、物価騰貴を引き起こした。 ともかく、こうした一連の政策は「天監の改革」と呼ばれ、この時期は南朝史上最大の繁栄を迎えることになる。 武帝の政治的手腕が優れていた一方で、熱心な仏教信者であった彼は、何度も俗世を捨てて仏門に入り、 「三宝の奴」と称するといった行動を取るようになる。しかも、彼の身を買い戻すためと、 大規模な寺院の造営に費やす金銭が、徐々に梁の国庫を圧迫し始めた。 結局、東魏から離反した侯景を受け入れたことで、破局が訪れることになる。東魏と梁の関係修復で窮地に追い込まれた侯景が、 首都建康を攻撃、敗北した武帝は幽閉され、衰弱死してしまうのであった。
「玉臺新詠」卷九では梁武帝の作品は七首あり、 そのうち『江南弄』『龍笛曲』『 採菱曲』『朝雲曲』遊女曲』の五首は同一の形式。



緑珠(りょくしゅ)
数々の武勇伝が散りばめられた魏・呉・蜀の三国時代が終わった中国に成立したのが「西晋」である。 この時代に武勇伝は少ないが、戦乱の無い平和な時世らしく、商人に纏わる或る美女の逸話が伝えられている。 その美女とは、大富豪の石崇に愛された妓女・緑珠。 彼女は、石崇が抱える千人もの妓女の中で最も愛されていたと云う。 緑珠は、漢の武帝に滅ぼされた南越王国の出身で、そこが真珠の産地であることから、名前に「珠」の字が使われた。 彼女の美しさは、石崇が彼女を我が物にする為、南方交易で得た冨から三〇斗もの真珠を用意して交換した程だったと云う。 現在の家庭用灯油缶が一斗缶だから、その三〇杯分もの量と云うことになる。 彼女はただ美しいだけではなく、笛の演奏や舞が優れていた為に妓女としての価値が高かったのだ。 石崇は、そうして手にした緑珠を洛陽に近い広大な荘園に設けた妓楼に住まわせた。
ところが、西晋では王朝が樹立されたとは云え政権争いが絶えず、権力中枢近くにいた石崇は権力抗争に巻き込まれてしまう。 首謀者側近の孫秀と云う男が、大変な美女との評判だった緑珠を抗争に乗じて我が物にしようと画策したのだ。 だが、抗争の失敗を予測していた石崇は、緑珠を連れ去りに来た使者への引渡しを拒む。 そして、これに怒った孫秀は、彼を殺してでも緑珠を奪えと兵士を送った。
屋敷を兵士に囲まれると、緑珠は「あなた様の前で死にます」と泣きながら告げると、石崇の目前で楼から身投げし、 愛し慈しんでくれた石崇への義理を通した。当時の人々は、彼女が命を散らした楼を「緑珠楼」と呼んだと云う。



李隆范(りりゅうはん)
李隆范是唐睿宗李旦的儿子,唐玄宗李隆基的弟弟,被封爲岐王,本名李隆范,后?避李隆基的名?改? 李范。以好学?才著称,雅善音律。在?元十四年四月十九日去世。
李范(686-726年),唐朝皇子,本名李隆范,唐睿宗第四子。其父第一次当皇帝?,封?王,改封?王, 唐睿宗?位?母?武?天,?寿二年(693年),改封?巴陵郡王。?安初年,官居尚食奉御。 神?元年(705年),唐中宗?位,?太府?外少卿,加??封二百?,通前五百?。景?二年(708年), 兼?州??。?青光禄大夫。710年,唐睿宗?位,?封岐王,加?封五百?,拜太常卿,兼左羽林大将?。 唐玄宗???至忠、???等,李范因功,加?封?五千?。?元初年,任太子少?、?本官,??、?、岐三州刺史。 八年(720年),?太子太傅。李?与?朝?、?庭琦、??、??等人??唱和,?元十四年(726年)四月十九日 (5月25日),李范薨逝,册?惠文太子,陪葬?陵。有一子李瑾暴卒。以薛王李?之子李珍嗣岐王。 著名??《江南逢李?年》《从岐王??氏???教》里的的“岐王”均是指唐睿宗第四子岐王李范。



李 林甫(り りんぽ)
? - 天宝11載(752年))、唐代玄宗朝の政治家であり、唐朝の宗室。貴族派の代表として、張九齢など科挙出身者の派閥との 権力抗争に勝ち、その後も他の政治家たちを謀略の末に追い落とし、19年も宰相の地位にあった。
しかし、楊貴妃のいとこである外戚の楊国忠に権力争いに苦戦し、死後に庶民の地位に落とされた。 安史の乱の遠因をつくるなど、唐王朝を衰退に向かわせたとされる。
李淵(唐の高祖)の祖父である李虎の5世孫にあたり、李淵のいとこにあたる長平王・李叔良の孫。 絵画の名手として知られた李思訓の弟・李思誨の子にあたる。兄は李林宗、子に李岫、李?、李嶼、李?がいる。
「真綿に針を包むごとし」と人評され、奸臣の代表とされる。
音律と絵画に通じ、舅の姜皎に深く愛されたと伝えられる。『李林甫外伝』によると、20歳まで書を読まず、狩猟や蹴鞠を好み、 洛陽で休むことなく遊んでいた。しかし、ある日、庫部郎中であった堂叔(父の従弟)のところに赴いて、才能が認められ、 官職についたと伝えられる。
開元14年(726年)、御史中丞として、御史大夫・崔陰甫、同僚の宇文融とともに科挙派の首領・張説の弾劾に加わっている。 その後、刑部侍郎、吏部侍郎を歴任する。
李林甫は表面は柔和であるが、ずるがしこく計算高く、宦官や后妃の家と結んで玄宗の意を探ったために、 奏上することが全て旨にかなったという。そのため玄宗から信頼されたと伝わる。
さらに、玄宗に寵愛を受けていた武恵妃と組み、その子・李瑁の後ろ盾になることを誓ったため、 黄門侍郎に抜擢されたと言われる。開元22年(734年)には、礼部尚書に昇進し、宰相となる[1]。 この時、張説から科挙派の首領を継いでいた張九齢から反対があったため、張九齢と敵対することになった。 しかし、李林甫は張九齢に偽って、へりくだったと伝わる。
その後、戸部尚書、兵部尚書を歴任する。開元24年(736年)には、張九齢、裴耀卿の反対がある中で、玄宗の意を読み、 洛陽から長安への帰還を勧め、実行させる。
また、玄宗が朔方節度使の牛仙客を尚書に任じようとした時に、張九齢が猛烈に反対し、玄宗の怒りを買うことがあった。 李林甫は「張九齢は書生で大きなかたちに通じていません。才能があるなら、学問は必要ありません。 天子が用いてはいけない道理がないでしょう」と、玄宗に語ったといわれる。
その頃、太子・李瑛、鄂王・李瑤、光王・李?が母が武恵妃に玄宗の寵愛を奪われた件で集まって恨み言を言っていたことが露見し、 武恵妃が玄宗に訴えるという事件が起きた。玄宗は宰相を集め、李瑛の廃立を建議したが、張九齢は猛反対した。 李林甫は何もいわず、下がってから宦官に「これは主上の家事であるから、外人に語るところではない」と伝えた。 さらに、張九齢と仲がよかった厳挺之の離縁した妻の夫・王元?の贈賄事件にからめ、 朋党をなした名目で張九齢・裴耀卿の実権を奪うことに成功する。厳挺之は左遷。王元?は流刑となった。
李林甫は中書令を兼ね、牛仙客も宰相となった。これから、朝廷の臣は保身に入り、直言するものはなくなったという。 李林甫は堂々と諫官を集め、「多言する必要はない。杖の側に立つ馬は、一声鳴けば追い出されるであろう。 それから後悔しても手遅れなのだ」と語った。
開元25年(737年)、監察御史・周子諒が牛仙客を宰相の器ではないと、讖書を引き合いにだしたため、 玄宗が怒って周子諒を打ち殺す事件があった。李林甫は周子諒が張九齢の推薦した人物であることを理由に荊州長史に左遷させた。
玄宗は李林甫が口出ししないことを確認した上で、李瑛、李瑤、李?を庶人とし、さらに自殺を命じた。 晋国公に任じられた。この年に律令の改定を行い、「唐律」とその注釈書「疏議」を完成する。 この頃、租庸や防丁、和糴などの毎年の報告を50万枚以上もの書類が要していたものを州ごとに2枚で済むように改変している。
開元26年(738年)、河西節度使を兼ねる。しかし、前年12月に武恵妃が死んだため、玄宗の心は揺らいでいた。 李林甫は李瑁を太子に立てることを勧めたが、高力士が李?を太子にすることを勧めたため、李?が太子となる 。同年、官制に関する官選書「大唐六典」が完成し、注の編集者となっている。
開元27年(739年)、吏部尚書を兼ね文武官僚の人事権を握ることになる。その人事は格式を守った年功序列であり、 才能があっても特別の昇進をすることはなかった。しかし、ずるがしこく立ち回れるものは格別の昇進をしたといわれる。 また、牛仙客とはかり、近隣の税を上げて物資を関中に集め、数年で食糧は豊かとなった。 ために、玄宗が洛陽巡幸をしないですむようになったといわれる。
天宝元年(742年)には右相となり、その後、玄宗の気にいった人物を遠ざけることに腐心し、盧絢、厳挺之、斉澣を 洛陽に追いやり、裴寛を左遷させる。
天宝三載(744年)、玄宗は高力士に「長安を出ずに十年近く、何事も無かった。李林甫に政治の全てを委ねようと思うが」 と問い、反対した高力士が玄宗の怒りを買うほど、信頼を受けていた。
天宝四載(745年)、刑部尚書の裴敦復を左遷。楊貴妃のまたいとこの楊釗や王鉷、吉温、羅希?などを腹心として使い始める 。天宝五載(746年)には、陳希烈が柔和で扱いやすいので宰相にし、全て李林甫が自邸で国事を決することとなった。
同年から、翌、天宝六載(747年)にかけて、李林甫の謀略により、皇太子・李?の周辺の人物や李林甫が嫌っていた 人物を中心が数多く陥れられた。杜有隣らは処刑され、韋堅、皇甫惟明、李?、裴敦復らは左遷させられた上で殺され、 李適之、王?が自殺に追い込まれた。裴寛、李斉物、王忠嗣らは左遷させられている。李林甫のために働いた楊慎矜も 玄宗の意にかなってきたため、冤罪により自殺に追い込まれた。その後も皇太子の引きずりおろしに腐心し、 楊釗らに皇太子に関係する人物を弾劾させ、罪をかぶせられた家は数百家にものぼった。
この年に天下の年の貢ぎ物全てを李林甫に与えられ、玄宗が朝廷に出ない日は、官僚は全て李林甫の自邸に集まり、 役所には陳希烈ただ一人でいる状態となったといわれる。また、玄宗が人材を求めて、 一芸以上に通じるものを集めようとしたが、在野の士が反対勢力になるのを怖れ、厳しく試験するように建言した。 そのため、及第するものは一人もいなかった。李林甫は在野に遺賢がいないことを祝賀した。
李林甫は、節度使の軍功を建てた者が中央で宰相となるものを防ぐために、府兵制の破綻という背景も手伝って、 節度使に異民族出身者(蕃将)を抜擢するようにと、「文臣は将となれば臆病で役に立たない。
寒門や胡人を用いれば、よいでしょう。胡人が勇敢で戦いになれ、寒門のものは孤立して派閥がありません。 恩を与えれば、命を捨て朝廷のために働いてくれるでしょう」と奏上した。 玄宗は同意し、節度使に安禄山、安思順、哥舒翰、高仙芝ら蕃将を用いた。これがのちの安史の乱の遠因となったと言われる。
天宝八載(749年)、咸寧太守・趙奉璋が李林甫の罪を告発したが、告発が届く前に御史に命じて、趙奉璋を殺させた。 また、府兵制の崩壊により、折衝府の軍が形骸化していたため、その魚書を廃止した。折衝府は兵はいない状態となり、 官吏だけになった。
天宝九載(750年)、吉温が権勢が強くなっていた楊釗につき、李林甫にとって代わることが画策され始める。 腹心、刑部尚書・蕭炅、御史大夫・宋渾は左遷させられ、李林甫も救うことができなかった。 だが、この年は符瑞が続き、朝臣の邸宅を道観にして、玄宗の長寿を祝そうと請い、玄宗に喜ばれている。
天宝十載(751年)、朔方節度使を兼ねる。天宝十一載(752年)、朝廷は貴族や大商人らが江淮地方の悪銭5枚を良銭1枚と替え、 長安で使用して民間を困らせているという弊害対策に、国庫から銭を出し悪銭を回収していた。
李林甫はこのとき、悪銭使用を禁じようと、1ヶ月間の回収期間を取り、持ってこないものは罰した。 しかし、商人たちが反対し、楊国忠(楊釗)に訴えたために取りやめになった。結局、元の状態に戻ってしまったという。
さらに、朔方副節度使に任命した突厥の阿布思が安禄山と反目し、反乱を起こす事件が起きた。 また、腹心の王鉷が弟の関係した反乱事件に巻き込まれた。李林甫は王鉷を救おうとしたが、楊国忠・陳希烈の意見が通り、 王鉷は死刑を命じられた。この成り行きを恐れた李林甫は、自ら朔方節度使を辞退することになる。
楊国忠は李林甫が王鉷・阿布思の反乱に関わっていたと誣告し、陳希烈・哥舒翰も同様の証言をした。玄宗はこの時から、 李林甫を疎んじるようになった。李林甫は、楊国忠の主導した南詔討伐が何度も失敗し、楊国忠が剣南節度使を兼ねていたため、 任地に赴かせようとした。玄宗は楊国忠に赴くように促したが、李林甫の病は重くなっており、 玄宗を拝することすら出来なくなっていた。楊国忠は途中で呼び返され、李林甫に会った。 李林甫は涙を流し、楊国忠に後事を託し、死ぬ。太尉、揚州大都督に追封された。
しかし、天宝十二載(753年)、楊国忠は安禄山、陳希烈とともに「李林甫は阿布思と共謀していた」と誣告した。 李林甫の婿・楊斉宣が後難を恐れて証言し、李林甫は官職剥脱のうえ庶民の地位に落とされ、 子の李岫をはじめとする子孫は配流され、財産は没収となった。棺桶は庶民のものに代えられ、 李林甫の党と見做された者も左遷させられた。
「真綿に針を包むごとし」と人評され、奸臣の代表とされる。


林 逋(りん ぽ)
(967年 - 1028年)は、中国北宋の詩人。字は君復。没後に仁宗により和靖先生の諡を贈られたため、林和靖とも呼ばれる。
杭州銭塘県の出身。若くして父を失い、刻苦して独学する。恬淡な性格で衣食の不足もいっこうに気にとめず、 西湖の孤山に廬を結び杭州の街に足を踏み入れぬこと20年におよんだ。真宗はその名を聞いて粟帛を賜い、役人に時折見回るよう命じた。 薛映・李及が杭州にいたときは彼らと終日政談し、妻子をもたず、庭に梅を植え鶴を飼い、「梅が妻、鶴が子」といって笑っていた。 行書が巧みで画も描いたが、詩を最も得意とした。一生仕えず廬のそばに墓を造り、「司馬相如のように封禅書を遺稿として用意してはいない」 と詠み、国事に関心がないことを自認していた。その詩が都に伝わると仁宗は和靖先生と諡した。
林逋の詩には奇句が多く、「疎影横斜水清浅。 暗香浮動月黄昏。」の二句は梅を詠んだ名吟として広く知られている。 平生は詩ができてもそのたびに棄てていたので、残存の持は少ない。『文献通考』には『詩集』3巻と『西湖紀逸』1巻があるというが、 明の沈履徳の編になる『宋林和靖先生詩集』は4巻・附1巻・拾遺1巻から成る。通行本は『和靖詩集』と題され1巻・附1巻。 別に『省心録』1巻がある。日本でも林逋の詩は愛好され、貞享3年(1686年)の和刻本その他がある。
7代後の子孫のひとり、林浄因は元を訪れた日本の僧・竜山徳見の弟子となって日本に渡り、マントウの製法を基に饅頭を作って帝にも 絶賛されたという[1][2]。また、その後裔に戦国時代の碩学・林宗二がある[3]。




老 子(ろうし)
老子(ろうし)は、古代中国の哲学者であり、道教創案の中心人物。「老子」の呼び名は「偉大な人物」を意味する尊称と 考えられている。書物『老子』(またの名を『老子道徳経』)を書いたとされるがその履歴については不明な部分が多く、 実在が疑問視されたり、生きた時代について激しい議論が行われたりする[2]。道教のほとんどの宗派にて老子は神格(en) として崇拝され、三清の一人である太上老君の神名を持つ。
中国の言い伝えによると、老子は紀元前6世紀の人物とされる。歴史家の評は様々で、彼は神話上の人物とする意見、 複数の歴史上の人物を統合させたという説、在命時期を紀元前4世紀とし戦国時代の諸子百家と時期を同じくするという 考えなど多様にある[3]。
老子は中国文化の中心を為す人物のひとりで、貴族から平民まで彼の血筋を主張する者は多く李氏の多くが彼の末裔を称する[4]。
歴史上、彼は多くの反権威主義的な業績を残したと受け止められている[5][6]。


盧象(ろしょう)
字は緯卿,汶(ブン)川の人。開元中、前進士に由り,秘書郎に補せらる。右衛倉曹掾に転ず。 丞相張九齢,深く之を器とし,左補闕,河南府司録,司勲員外郎に擢んず。 名盛んに気高くして少しく卑下する所あり。為に飛語の中あたる所により斉,邠(ヒン), 鄭三郡司馬に左遷さる。入りて膳部員外郎と為る。禄山の乱,象,偽署を受け,永州司戸に貶めらる。 起たちて主客員外郎と為り,道にて病卒。集,十二巻。今,詩一巻を編す。

尚書郎盧公,諱は象,字は緯卿。始め章句を以て開元中に振ふ。王維,崔顥と比肩驤首,時に鼓行し, 妍詞一発,楽府貴を伝ふ。前進士に由りて秘書省校書郎に補せられ,右衛倉曹掾に転ず。 丞相曲江公,方に文衡を執り,後進を揣摩す。公,深く之を器とするを得,擢んでられて左補闕, 河南府司隷,司勲員外郎と為る。名盛気高,少しく卑下する所あり,飛語の中あたる所と為り, 斉,?ヒン,鄭三郡の司馬に左遷さる。入りて膳部員外郎と為る。時に大盗,幽陵に起ち,洛師に入る。東夏衣冠,克よく王所に帰せず,虜に劫執せられ,公,堕して伍中に脅従す。初め果州長史に謫せられ,又た永州司戸に貶せられ,吉州長史に移る。天下無事にして朝廷,思おぼしめして宿旧を用ふ。徴して主客員外郎を拝す。道に病み,武昌に留まる。終に起たず。〔略〕公の遠祖,元魏,北斉,後周に皆な帝師為り。公の叔父嵩山逸人諫議太夫顥然,真の隠者也。公,世に下るの後,七十三年,其の孫元符,遺草を捧げ来り,詞以て之を表せんことを乞ふ。嘗て乱離を経,多く散落する所,今の存する者,十有二巻,凡そ若干篇。




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Last modified 2014/10/12 First updated 2014/04/28