第1回講義 春曉 唐 孟浩然 (ブラウザの設定にもよりますが音声を聞くには 「ブロックされているコンテンツを許可」し、 スタートボタンをクリックしてください。) |
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字句解釈 |
(漢)は漢詩の場合の意味、(和)は日本語としての意味です。 同じ漢字でも違った意味、あるいは異なったニュアンスで使われることことに注意しましょう。 暁 (漢)(和)1.よあけ、あかつき (参考)曙 1.あけぼの 暁と曙は同意ですが用例は暁のほうが多いようです。 覚 (漢)1.きづく、さとる 覚 (用例)尋胡隠君 2.さめる 効 (和)1.おぼえる 「おぼえず」と読みますが、ここでは「気づかない」の意です。 処々 (漢)1.いたるところ あちらもこちらも (和)1.ところどころ あちらこちら 夜来 (漢)1.ゆうべ (来は助辞で、意なし。) (和)1.ゆうべから 花 (漢)1.うめ、もも (和)1.さくら 知 (漢)1.しる 2.知+疑問詞 しらない I don't know how much. (用例)題盧五旧居 多少 (漢)1.おおい(用例)江南春 2.おおいかすくないか(疑問詞) (和)1.すこし 「多少」は(和)では、「すくない」、(漢)では「おおい」の意です。 「知多少」は「おおいことをしる」と「おおいかすくないかしらない」の二様の解釈がある。 |
作者紹介 |
孟 浩然 (689-740) 盛唐 襄陽の人 生年689、12年後、李白、さらに、10年後、杜甫が生まれ、絶句、律詩等の形式が整備され唐詩の最盛期を迎えた。 その先駆をなした詩人である。 唐代には2回天下泰平を謳歌する豊かで平和な時期があった。第1回は2代皇帝太宗の御代(626-649)で、第2回は 6代玄宗皇帝の御代である。それぞれ 貞観の治、 開元の治と呼ばれるが作者は開元の治に生きた人である。 作者の没年740年は楊貴妃が玄宗皇帝の後宮に入った年であり、翌年改元されて天宝となったが、この時から唐王朝の 混乱が始まることになる。 襄陽は、揚子江第1の支流、漢水(漢江)の中流に位置する。漢水の上流には、漢の発生の地、漢中があり中国歴史上 重要な地である。しかし、漢の遷都により、襄陽を含む漢水流域、荊州の地は後世長く 天荒の地となった。 20代、科挙のために長安に上った。このとき、荊州に滞在した李白と、武昌の 黄鶴楼で会合し、李白は送別の1詩 《黄鶴樓送孟浩然之廣陵》を賦した。 行路は、長江を下り揚州、大運河を経て長安にいたる迂回路であった。襄陽から漢水を上流に上れば長安に近いがわざわざ迂回路を採った のは科挙に応ずるにあたり見分を広めるためであった。しかし、科挙には成功せず襄陽で過すこととなった。 40代再度長安に至って出仕の機会をうかがった。長安での猟官運動は王維の援助もあり、玄宗皇帝に 拝謁して自作の1詩 《歳暮歸南山》 を奉る機会もあったが皇帝の意に添わず仕官は叶わず、46歳再び襄陽に戻り隠棲した。 この詩は襄陽で隠棲していたころの作である。51歳、襄陽に没す。 |
詩の鑑賞 |
この詩は、清代の 唐汝詢、 簡野道明 説にあるように、古来、転句、結句に重きを置き、夜来の風雨に沢山の花の散るのを想い春を惜しむ、所謂「 惜春の詩 」とみる見方がなされている。唐汝詢は「非妙悟者不能道」(妙悟の者にあらざれば道(ゆく)あたわざる)境地といっている。 また、この詩は起句の「春眠不覚暁」から、世俗の巷を低くみて春眠を貪る、所謂、陶淵明 白居易に連なる「 高士の詩」とする 見方もなされている。 講者は後者を採取りたい。さらに一歩進めて、結句の「知多少」を重く見て、花の散るのが、多かろうが少なかろうがわれ関せず というくらい、この世を超越して、わが道を誇る境地を示す詩と見てはどうだろうか。 |